TRICOLORE総務部ヒロインズ!〜もしも明日、会社が消滅するとしたら?!~
3-Fin 過去への別離とまだまだの鈴子
翌日――。
鈴子はいつになく重い足取りで会社のエントランスに差し掛かった。入社以来、こんなに足が重くなった覚えはなかった。
原因は色々あると思う。昨日引き受けた仕事が出来ていない、シャンプーを買い足すのを母が忘れて、帰宅して自転車でショップまで走って疲れた、枕が引っ繰り返っていて、良く眠れなかった。
課長を好きなことを、安藤に知られていた事実も、安藤が「壁ドン」なんかしてきて、面倒くさくなった事実も。営業部がどうして尾城林を「苛め」のような異様な目で見ていたのかも、全部全部心の重石となっていた。
鈴子は社会人経験一年目。と、すると、社会では赤子のようなものだろう。雪乃さんを笑える立場ではない。
――でも、強がらなきゃ、やってられないじゃないか。
「おはようございます」
「あら、今日はおは~ じゃないね」とはいつも大和撫子風味の副主任だ。鈴子は吐息をつくと、鞄をロッカーに置きにフロアを出た。
大好きなミルクコーヒーを買う気も起きない。朝ご飯も、さほど入らず。
何に悩んでいるのかも判らなくて悩んでいる事実だけは有り有りと心を揺らす。なんて厄介。社会人赤子が太刀打ちできると思ってる?
「あら、おはよ」バッタモンのブランドバッグを提げた主任に早速かち合った。
「あ、そうだ。鈴子、後で」
話掛けられたところで、尾城林がやってきて、鈴子は早足で逃げた。主任が何かを言おうとしているのに、聞く耳ももてやしない。
コツ、と頭を小突いた。これ以上不幸な気分でいては駄目。
――しかし、この日は地獄の窯の蓋が開きっぱなしの日だったらしい。
***
朝礼を終えて、デスクに戻ると、いきなり外線コールが鳴り響いた。
「珍しいわね。取って」
「鈴子」先輩二人は仕事を押しつける術に長けている。昨日の海空からの仕事を打ち始めていたところで、鈴子は手を止めて受話器を取った。
「おはようございます。羽山カンパニー・ソサエティのファシリティ部門ですが」
朝っぱら、ハアハアの吐息に嫌な予感がする。
『あ、えっと、ふへ……ハァ、お、おパンツ何色ですか? お、おセックスは好きですか』
ガチャリ。鈴子は叩きつけるように受話器を置いた。総務部やCCは女性が多いので、こういう嫌がらせコールが確かにあるが、なんで朝から!
「おい、鈴子。みっともないから」とは尾城林。
「変態でした」聞いていた雪乃が珈琲を噴きそうになり、慌てて取り繕った。海空は「暇なの?」とぼやき、雪乃はもう無視。誰も「大変だったね」とは言ってくれないのか。
また電話が鳴った。あいつだ。
「あたし出て良いですか?!」苛々任せに受話器を取って、「もしもし!」と強い口調ででたが、相手は大切な取引先で、「おまえの電話の出方はなんだ」とコンコンと説教を喰らった。謝り倒してともかく一秒でも早くと会話を切った。
まだ地獄の蓋は開いていた。今度は経理に呼ばれて、鈴子の計算書にミスがあると、コンコンと説教を喰らった。帰りに秘書課の寿山に逢い、敵視されてエレベーターは乗れる1歩前に最上階へ向かって行った。とぼとぼと非常階段で下りている間に、主任たちの声のでかさを思い出して苛立った。寄ったトイレは清掃中。
へとへとになって総務部に戻ると、海空が冷ややかに鈴子を呼んだ。
「――こっちへ来なさい」
見れば尾城林が電話テクニックを駆使して、必死で対応していた。
「アレ、あんたが無理やり切り上げた相手。いい? 無理して話を聞かずに「すみません」で押し通しても絶対掛かってくるの。調子が悪いなら、自分で自己管理しなさいよ」
むかっと海空を睨み、鈴子は「元気ですけど~」とそっぽを向いた。
(巧く行かない! 巧く行かない!)
俯くと涙が零れ落ちるに違いない。1つ落ちたら終わり。涙なんか流すものか。
「鈴子。あたし、国際郵便の差し出し票を貰いに行くからついてきな」
「いえ、主任に頼まれたデータが出来てない」
「もうやったからいい」海空はぴらっとWord文書を見せつけた。実際は見せつけたわけではないが、鈴子にはそう見える。
――糸が切れた。怒りではなく、違う糸。必死でつなぎ止めていたのに。頑張っても頑張っても追いつかないジレンマを吊ってた糸が。
ぎゅっと目を瞑って糸が切れる衝撃に耐えようとする。瞬間、「あたし、ストロベリー・フラペチーノ」雪乃がぼそっと鈴子に告げた。
「買って来てよ。鈴子」五百円を握らせて、「留守番してますから」と笑顔を向ける。
――糸、切れない……? 顔を上げると、海空が「バカねえ」と困り笑顔になった。噛み締めた唇はもう、震えたがっていて、目は涙を出したがっていた。でも抑える。まるで蜘蛛の糸。切れたら地獄の窯の中。
今日は蓋が開いているんだから。
「あんたみたいな年で我慢なんて覚えなくていい。今ならまだ、無茶してもいい。それはとても必要なことだけど?」
――PMSの作業は、思った以上に大変で、課長に近づきたいだけの動機では抱えるに重かったし、安藤に後ろめたいまま、作業をするも限界だった。
課長には「幻想だよ」と言われて困惑して、何でも巧く出来る先輩二人に嫉妬する。
――嫉妬なんかしたって、無駄じゃん。だからだよ。だから、がむしゃらになるんだよ。あんたたちと同じキャリアだって振りしてやるしかないじゃん。
「出来ないなんて思いたくないっ! だってそうでしょ?」
「りょ」海空の口から鈴子の口癖が飛び出した。
「あんたのその「りょ!」っての聞くと、元気出るのに、どうして言わないの? やれないかも知れないけど、「りょ!」て言ったなら、最後までついてくるのがスジってもんよ」
海空は「郵便局いってきまーす」とポーチを片手に、席を立ち上がった。
***
外は雨が降っていた。(カサ……)と思っていると、海空が大きな番傘を傾けて来た。「天気予報は熟知してんの」田町の郵便局の本局は高輪郵便局。歩いている間に雨が強くなった。
――なんだかな……空まで地獄。
「ここで待ってて」と海空は郵便局の窓口に駆け込み、しばらくして伝票を受け取って戻って来た。
海空のような社会人が数名。あとはおばさんにおじさん。子連れのお母さん。海外のスーツケースを引いた換金待ちに、学生の郵貯の列。
「雪乃のドリンク買いに行こう。あ、お昼も買っていいけど、財布持って来なかったの?」
「仕事中だから」「あたしと一緒ならいいのに……ねえ、鈴子」二人で郵便局から繋がるカフェに入って、海空は「何がいいの?」とクッキーが並んでいる棚の前で足を止めた。
「クッキーは要りません。声をちっちゃくして」
「え?」
「あたしの噂話してたでしょ! 別にいいけど! 課長好きなのは……」
〝本当だし〟が出て来ない。幻想じゃないって言い返したい。親父がいるとかいないとか、そんなの関係なく。苦労するなら課長がいいって。それが恋なんじゃないんですか?
「鈴子が総務に来てくれて助かったんだよ」海空が突然微笑んだ。
「総務ってさぁ、全然人員補充しないくせに、仕事だけは回される。定時で上がってるから人員は不要だろうなんて高級パンが言うのよ? そんなん定時に上がるのが当たり前だろ? 「俺は会社のためにとことん残業頑張ります」そういうヤツがブラック企業を作るんだって」
海空はサンドイッチを選び出すと、トレイを向けた。気になっていたサンドイッチを載せると、「よし!」とレジに向かって行く。
「主任」「んー?」海空のトレイに大判のクッキーを載せると、海空は「ケーキは買わないでよ」と口添えし、チケットで払って「あんたの分」とサンドイッチとドリンクがセットになった紙袋を突きだした。
「受け取れないです」
「ほれ」
無理矢理鈴子の手に、紙袋を握らせて、海空はさらりと告げる。
「あんたはさ、もうちょっと「駄目な日もある」って自分に言ってやりな」
「駄目な日……」
「今日は駄目でも、明日は駄目とは限らない。今日は駄目な日だって認めるも大切だよ」
――認めちゃったら。
だめじゃん。なぁんにも出来ないのに。
「いいの……? 駄目でも」
「勿論」海空は頷くと、にこりと笑ってくれた。
紙袋に顔を押しつけて、じんわりとした染みを作る。顔を遮った向こうで、「誰だ
って駄目な日はあるよ。そういうときは、壁の染み見てぼけっとしてりゃいい」
「でも、仕事は失敗します」
「じゃあ、やっちゃったね、って言ってあげよか?」海空はふふっと告げると、カサ立てからカサを引き抜いた。
「やっちゃったねえ、鈴子」
「はい」
海空は「生意気め」と厭味を軽く言い、「もう止んでる。都内の予報は極端だよね」と手を空に翳した。
「あ、鈴子。PMSの書類ありがとね。尾城林のヤツ、あたしが営業と揉めるのが嫌だったらしくて、あいつ給与の人事考課のためにあんたに頼んだんだよ」
(違う)とは言えなかった。花見の時、尾城林は酔っていたし、「きっかけになる」言葉に浮かれた鈴子が悪い。
「佐東主任! あたし、営業部が恐い。尾城林課長見るみんなの目が白かったんです」
「あー……」海空は「あんた本当にあいつが好きねぇ」と懲りず大きな声で呟いた。
「尾城林は営業から左遷」
「同じく左遷された管理の藤山係長はみんなの人気者でしょ。左遷で地方の支店長になった後藤副主任も元気です」
「……詳しいわね。正直良くは知らないの。尾城林がどうして総務部を希望したかもあたしは聞いてないし、興味がない」
(希望した?)
「だって、営業のほうが……東峰の担当だったのに?!」
「だから知らない。尾城林が抜けたあとの前年比と計画比はスーパーダウン。銀行株も下落したのよね……そう考えると今回道を作った佐々木は」
――どうでもいい。鈴子はモヤモヤがようやく形になったを実感した。
誰だって、好きな相手の辛い顔なんか見たくない。課長はオトナで男だ。ハナタレの新入社員がどうにかできるわけじゃないけど……あたしは嫌だ。
「それよりあんた、安藤にはちゃんと答えたんでしょうね」
また、モレている。鈴子はうんざりしつつも、首を振った。
海空はふう、と吐息をつくと、水たまりの水はけが悪そうな大通りを直進して、足を止める。
「あんたはもう成人しているけど、あたしや課長はあんたと雪乃を預かっているつもり。社会人赤ちゃんと、好き勝手始める3歳児。どっちも大切なんだよ」
海空は蒼空に向かって腕を振り上げた。
「あたしが許すわ。滞りは、ここでばーっと吐き出せ! ここねえ、結構うるさいでしょ? 叫んでも大丈夫。じゃ、あたしは先に行ってるから。雪乃に「溶けちゃってます」なんて言われたくねーわ」
ぽつねんと残されて、鈴子は蒼空を見上げた。どんより雲がのさばっている。雲を吹き飛ばす勢いで叫んだ。
「あたしの個人情報も、保護しろお――っ! バカ主任! 安藤、ごめんっ!!!」
ハア、と腹づもりを吐き出すと、視界が拓けてきた。
――まだまだだめだなって。思うことは悪いことじゃない。まだまだ、を知って、もっと高く登れる気がするから。
そうでしょ? 主任。だから、泣いてもいいんだよね? 雪乃さんを笑えないや。
「バカ課長! 幻想なんかじゃなーいっ!」
蒼空が霽れてきて、鈴子の頬に陽が当たり始めた。
――今日も、明日も、「了解!」なんてまどろっこしい。だから「りょ!」で鈴子らしく。
安藤とのことは、考えよう。なんで佐東主任は知っていたのだろう?
「りょ! だよね、お日さまっ! 今日が駄目な日なんて認めない!」
この日の蒼空は、手を翳せば届きそうな気がした。気がしただけだけど。
******
鈴子はたっと駆け出して。エントランスを横切った。「おかえり」の雪乃の声と、「PMS書類確認するよ」の海空の声。
課長と目が合ったが、いまに覚えていなさい。
「幻想なんかじゃないんだから!」
「おい、内線。鈴子、おまえの席」
時刻は午前も終わろうとしている。郵便か宅急便……宅急便らしく、また玄関に引き返した。
『フルーツ』と書かれた箱だ。果物を送ってきたらしく、重い。何か音がする? と耳を澄ませようとしたら、中央エレベーターからおじさんの大群が降りて来て、揉まれた。
「わっはっは。いいかんじでしたねえ、さすがは部長」見るからに外部の人間。商談が成功してご満悦だ。
(果物なんか送ってきたの誰だよ)
――宛名、滲んでいて読めない。こういう場合は課長に指示を仰ぐ。
「課長、果物が届きました」
「ハァ? 季節柄じゃねーなー。お局、果物が届いたって」
海空は電話を終えたところで、受話器を片手に、片手にはペン、目はPCの有能ぶりをひけらかした。
「果物? 誰よ。そんな猶予期間のない迷惑送ってきたの。……ねえ、カチカチうるさいんだけど」
「あたしじゃないです」
海空は鼻の頭にシワを寄せた。三人で同じく視線を注ぐ。
「カチカチ、あのフルーツから聞こえてますけど……まさかね」
「まさかですよ」「ははは、そんなドラマみたいな……ねえ……」雑談が掠れていった。
チッチッチッチッチ……。
チッチッチッチッチ……。
規則正しいタイムを刻む音。確かに鈴子が運んだダンボールから聞こえている。
PMS騒動のど真ん中に贈られたこの箱から、一気に過去が紐解かれるのだった――。
《鈴子編 了》
鈴子はいつになく重い足取りで会社のエントランスに差し掛かった。入社以来、こんなに足が重くなった覚えはなかった。
原因は色々あると思う。昨日引き受けた仕事が出来ていない、シャンプーを買い足すのを母が忘れて、帰宅して自転車でショップまで走って疲れた、枕が引っ繰り返っていて、良く眠れなかった。
課長を好きなことを、安藤に知られていた事実も、安藤が「壁ドン」なんかしてきて、面倒くさくなった事実も。営業部がどうして尾城林を「苛め」のような異様な目で見ていたのかも、全部全部心の重石となっていた。
鈴子は社会人経験一年目。と、すると、社会では赤子のようなものだろう。雪乃さんを笑える立場ではない。
――でも、強がらなきゃ、やってられないじゃないか。
「おはようございます」
「あら、今日はおは~ じゃないね」とはいつも大和撫子風味の副主任だ。鈴子は吐息をつくと、鞄をロッカーに置きにフロアを出た。
大好きなミルクコーヒーを買う気も起きない。朝ご飯も、さほど入らず。
何に悩んでいるのかも判らなくて悩んでいる事実だけは有り有りと心を揺らす。なんて厄介。社会人赤子が太刀打ちできると思ってる?
「あら、おはよ」バッタモンのブランドバッグを提げた主任に早速かち合った。
「あ、そうだ。鈴子、後で」
話掛けられたところで、尾城林がやってきて、鈴子は早足で逃げた。主任が何かを言おうとしているのに、聞く耳ももてやしない。
コツ、と頭を小突いた。これ以上不幸な気分でいては駄目。
――しかし、この日は地獄の窯の蓋が開きっぱなしの日だったらしい。
***
朝礼を終えて、デスクに戻ると、いきなり外線コールが鳴り響いた。
「珍しいわね。取って」
「鈴子」先輩二人は仕事を押しつける術に長けている。昨日の海空からの仕事を打ち始めていたところで、鈴子は手を止めて受話器を取った。
「おはようございます。羽山カンパニー・ソサエティのファシリティ部門ですが」
朝っぱら、ハアハアの吐息に嫌な予感がする。
『あ、えっと、ふへ……ハァ、お、おパンツ何色ですか? お、おセックスは好きですか』
ガチャリ。鈴子は叩きつけるように受話器を置いた。総務部やCCは女性が多いので、こういう嫌がらせコールが確かにあるが、なんで朝から!
「おい、鈴子。みっともないから」とは尾城林。
「変態でした」聞いていた雪乃が珈琲を噴きそうになり、慌てて取り繕った。海空は「暇なの?」とぼやき、雪乃はもう無視。誰も「大変だったね」とは言ってくれないのか。
また電話が鳴った。あいつだ。
「あたし出て良いですか?!」苛々任せに受話器を取って、「もしもし!」と強い口調ででたが、相手は大切な取引先で、「おまえの電話の出方はなんだ」とコンコンと説教を喰らった。謝り倒してともかく一秒でも早くと会話を切った。
まだ地獄の蓋は開いていた。今度は経理に呼ばれて、鈴子の計算書にミスがあると、コンコンと説教を喰らった。帰りに秘書課の寿山に逢い、敵視されてエレベーターは乗れる1歩前に最上階へ向かって行った。とぼとぼと非常階段で下りている間に、主任たちの声のでかさを思い出して苛立った。寄ったトイレは清掃中。
へとへとになって総務部に戻ると、海空が冷ややかに鈴子を呼んだ。
「――こっちへ来なさい」
見れば尾城林が電話テクニックを駆使して、必死で対応していた。
「アレ、あんたが無理やり切り上げた相手。いい? 無理して話を聞かずに「すみません」で押し通しても絶対掛かってくるの。調子が悪いなら、自分で自己管理しなさいよ」
むかっと海空を睨み、鈴子は「元気ですけど~」とそっぽを向いた。
(巧く行かない! 巧く行かない!)
俯くと涙が零れ落ちるに違いない。1つ落ちたら終わり。涙なんか流すものか。
「鈴子。あたし、国際郵便の差し出し票を貰いに行くからついてきな」
「いえ、主任に頼まれたデータが出来てない」
「もうやったからいい」海空はぴらっとWord文書を見せつけた。実際は見せつけたわけではないが、鈴子にはそう見える。
――糸が切れた。怒りではなく、違う糸。必死でつなぎ止めていたのに。頑張っても頑張っても追いつかないジレンマを吊ってた糸が。
ぎゅっと目を瞑って糸が切れる衝撃に耐えようとする。瞬間、「あたし、ストロベリー・フラペチーノ」雪乃がぼそっと鈴子に告げた。
「買って来てよ。鈴子」五百円を握らせて、「留守番してますから」と笑顔を向ける。
――糸、切れない……? 顔を上げると、海空が「バカねえ」と困り笑顔になった。噛み締めた唇はもう、震えたがっていて、目は涙を出したがっていた。でも抑える。まるで蜘蛛の糸。切れたら地獄の窯の中。
今日は蓋が開いているんだから。
「あんたみたいな年で我慢なんて覚えなくていい。今ならまだ、無茶してもいい。それはとても必要なことだけど?」
――PMSの作業は、思った以上に大変で、課長に近づきたいだけの動機では抱えるに重かったし、安藤に後ろめたいまま、作業をするも限界だった。
課長には「幻想だよ」と言われて困惑して、何でも巧く出来る先輩二人に嫉妬する。
――嫉妬なんかしたって、無駄じゃん。だからだよ。だから、がむしゃらになるんだよ。あんたたちと同じキャリアだって振りしてやるしかないじゃん。
「出来ないなんて思いたくないっ! だってそうでしょ?」
「りょ」海空の口から鈴子の口癖が飛び出した。
「あんたのその「りょ!」っての聞くと、元気出るのに、どうして言わないの? やれないかも知れないけど、「りょ!」て言ったなら、最後までついてくるのがスジってもんよ」
海空は「郵便局いってきまーす」とポーチを片手に、席を立ち上がった。
***
外は雨が降っていた。(カサ……)と思っていると、海空が大きな番傘を傾けて来た。「天気予報は熟知してんの」田町の郵便局の本局は高輪郵便局。歩いている間に雨が強くなった。
――なんだかな……空まで地獄。
「ここで待ってて」と海空は郵便局の窓口に駆け込み、しばらくして伝票を受け取って戻って来た。
海空のような社会人が数名。あとはおばさんにおじさん。子連れのお母さん。海外のスーツケースを引いた換金待ちに、学生の郵貯の列。
「雪乃のドリンク買いに行こう。あ、お昼も買っていいけど、財布持って来なかったの?」
「仕事中だから」「あたしと一緒ならいいのに……ねえ、鈴子」二人で郵便局から繋がるカフェに入って、海空は「何がいいの?」とクッキーが並んでいる棚の前で足を止めた。
「クッキーは要りません。声をちっちゃくして」
「え?」
「あたしの噂話してたでしょ! 別にいいけど! 課長好きなのは……」
〝本当だし〟が出て来ない。幻想じゃないって言い返したい。親父がいるとかいないとか、そんなの関係なく。苦労するなら課長がいいって。それが恋なんじゃないんですか?
「鈴子が総務に来てくれて助かったんだよ」海空が突然微笑んだ。
「総務ってさぁ、全然人員補充しないくせに、仕事だけは回される。定時で上がってるから人員は不要だろうなんて高級パンが言うのよ? そんなん定時に上がるのが当たり前だろ? 「俺は会社のためにとことん残業頑張ります」そういうヤツがブラック企業を作るんだって」
海空はサンドイッチを選び出すと、トレイを向けた。気になっていたサンドイッチを載せると、「よし!」とレジに向かって行く。
「主任」「んー?」海空のトレイに大判のクッキーを載せると、海空は「ケーキは買わないでよ」と口添えし、チケットで払って「あんたの分」とサンドイッチとドリンクがセットになった紙袋を突きだした。
「受け取れないです」
「ほれ」
無理矢理鈴子の手に、紙袋を握らせて、海空はさらりと告げる。
「あんたはさ、もうちょっと「駄目な日もある」って自分に言ってやりな」
「駄目な日……」
「今日は駄目でも、明日は駄目とは限らない。今日は駄目な日だって認めるも大切だよ」
――認めちゃったら。
だめじゃん。なぁんにも出来ないのに。
「いいの……? 駄目でも」
「勿論」海空は頷くと、にこりと笑ってくれた。
紙袋に顔を押しつけて、じんわりとした染みを作る。顔を遮った向こうで、「誰だ
って駄目な日はあるよ。そういうときは、壁の染み見てぼけっとしてりゃいい」
「でも、仕事は失敗します」
「じゃあ、やっちゃったね、って言ってあげよか?」海空はふふっと告げると、カサ立てからカサを引き抜いた。
「やっちゃったねえ、鈴子」
「はい」
海空は「生意気め」と厭味を軽く言い、「もう止んでる。都内の予報は極端だよね」と手を空に翳した。
「あ、鈴子。PMSの書類ありがとね。尾城林のヤツ、あたしが営業と揉めるのが嫌だったらしくて、あいつ給与の人事考課のためにあんたに頼んだんだよ」
(違う)とは言えなかった。花見の時、尾城林は酔っていたし、「きっかけになる」言葉に浮かれた鈴子が悪い。
「佐東主任! あたし、営業部が恐い。尾城林課長見るみんなの目が白かったんです」
「あー……」海空は「あんた本当にあいつが好きねぇ」と懲りず大きな声で呟いた。
「尾城林は営業から左遷」
「同じく左遷された管理の藤山係長はみんなの人気者でしょ。左遷で地方の支店長になった後藤副主任も元気です」
「……詳しいわね。正直良くは知らないの。尾城林がどうして総務部を希望したかもあたしは聞いてないし、興味がない」
(希望した?)
「だって、営業のほうが……東峰の担当だったのに?!」
「だから知らない。尾城林が抜けたあとの前年比と計画比はスーパーダウン。銀行株も下落したのよね……そう考えると今回道を作った佐々木は」
――どうでもいい。鈴子はモヤモヤがようやく形になったを実感した。
誰だって、好きな相手の辛い顔なんか見たくない。課長はオトナで男だ。ハナタレの新入社員がどうにかできるわけじゃないけど……あたしは嫌だ。
「それよりあんた、安藤にはちゃんと答えたんでしょうね」
また、モレている。鈴子はうんざりしつつも、首を振った。
海空はふう、と吐息をつくと、水たまりの水はけが悪そうな大通りを直進して、足を止める。
「あんたはもう成人しているけど、あたしや課長はあんたと雪乃を預かっているつもり。社会人赤ちゃんと、好き勝手始める3歳児。どっちも大切なんだよ」
海空は蒼空に向かって腕を振り上げた。
「あたしが許すわ。滞りは、ここでばーっと吐き出せ! ここねえ、結構うるさいでしょ? 叫んでも大丈夫。じゃ、あたしは先に行ってるから。雪乃に「溶けちゃってます」なんて言われたくねーわ」
ぽつねんと残されて、鈴子は蒼空を見上げた。どんより雲がのさばっている。雲を吹き飛ばす勢いで叫んだ。
「あたしの個人情報も、保護しろお――っ! バカ主任! 安藤、ごめんっ!!!」
ハア、と腹づもりを吐き出すと、視界が拓けてきた。
――まだまだだめだなって。思うことは悪いことじゃない。まだまだ、を知って、もっと高く登れる気がするから。
そうでしょ? 主任。だから、泣いてもいいんだよね? 雪乃さんを笑えないや。
「バカ課長! 幻想なんかじゃなーいっ!」
蒼空が霽れてきて、鈴子の頬に陽が当たり始めた。
――今日も、明日も、「了解!」なんてまどろっこしい。だから「りょ!」で鈴子らしく。
安藤とのことは、考えよう。なんで佐東主任は知っていたのだろう?
「りょ! だよね、お日さまっ! 今日が駄目な日なんて認めない!」
この日の蒼空は、手を翳せば届きそうな気がした。気がしただけだけど。
******
鈴子はたっと駆け出して。エントランスを横切った。「おかえり」の雪乃の声と、「PMS書類確認するよ」の海空の声。
課長と目が合ったが、いまに覚えていなさい。
「幻想なんかじゃないんだから!」
「おい、内線。鈴子、おまえの席」
時刻は午前も終わろうとしている。郵便か宅急便……宅急便らしく、また玄関に引き返した。
『フルーツ』と書かれた箱だ。果物を送ってきたらしく、重い。何か音がする? と耳を澄ませようとしたら、中央エレベーターからおじさんの大群が降りて来て、揉まれた。
「わっはっは。いいかんじでしたねえ、さすがは部長」見るからに外部の人間。商談が成功してご満悦だ。
(果物なんか送ってきたの誰だよ)
――宛名、滲んでいて読めない。こういう場合は課長に指示を仰ぐ。
「課長、果物が届きました」
「ハァ? 季節柄じゃねーなー。お局、果物が届いたって」
海空は電話を終えたところで、受話器を片手に、片手にはペン、目はPCの有能ぶりをひけらかした。
「果物? 誰よ。そんな猶予期間のない迷惑送ってきたの。……ねえ、カチカチうるさいんだけど」
「あたしじゃないです」
海空は鼻の頭にシワを寄せた。三人で同じく視線を注ぐ。
「カチカチ、あのフルーツから聞こえてますけど……まさかね」
「まさかですよ」「ははは、そんなドラマみたいな……ねえ……」雑談が掠れていった。
チッチッチッチッチ……。
チッチッチッチッチ……。
規則正しいタイムを刻む音。確かに鈴子が運んだダンボールから聞こえている。
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