TRICOLORE総務部ヒロインズ!〜もしも明日、会社が消滅するとしたら?!~
4-0 CSIRT《シーサート》と西郷の面影
――チッチッチッチ……。響く音と同じリズムで冷や汗が流れ出す。
「フルーツ」と書かれた箱を総務部全員で見詰めているうちに、時間は過ぎる。
海空は1歩踏み出した。
こんなときに、「佐東、歩く時は腰から足を出すようにしな」などと西郷の言葉を思い浮かべる。
相変わらず箱はカウントのような時間の刻みを響かせている――。
――――――――
――――――………………
――――最終章 羽山カンパニー消滅?! ソサエティが導く言葉――――
「お局」
海空は静かにドアを閉めた。何かの映画でこんなシーンを観た気がする。
「総務部だけが犠牲になるなら……ね」
「えっ……」
「爆弾かも知れないから。下がって、鈴子、雪乃も。尾城林、ここはあたしに格好つけさせてよ」
聞いていた尾城林がまた1歩海空の前に進み出た。また海空が追い抜いた。
「いや、俺が。おまえの仕事ぶり、好きだったよ」
「ちょ、マジですか? やだ、あたしまだ爆発なんかで死にたくない!」
海空は鈴子を抱き締めた。
「大丈夫。あんたは逃げな。まだ若いんだから」
「海空、おねえさま……」
――と、雪乃が「もういいですか」と我慢出来ないように席を立ち、大判のカッターを手に近づき始める。「雪乃!」雪乃はじろりと最高潮に盛り上がっているB型の集団を一瞥すると、カッターを箱に突き立てた。
「おい! 鷺原に逢えなくなるぞ!」
雪乃は造二重のばっちりした目を尾城林と海空と、鈴子に向け、一言。
「ここは乗れないどうせカタブツのA型山羊座のあたしの出番です」とバキバキバキ、とダンボールを開けて、上半身を突っ込んだ。
「時計です、ただの」
掲げられた時計は、今も元気に時を刻んでいた。尾城林が何事も無かったかのように席に座り、海空も無言でPCを開け、「海空おねえさま」とノリに乗った鈴子はどうしようもないらしく、ウロウロと歩き出した。
「盛り上がるのは構わないんですけどね」
「雪乃、勤怠システムの見直しの資料出来たの?」耳まで赤くした海空が告げた時だった。
ジリリリリリリリリ!
「うっきゃあ!」
飛び上がった雪乃は、涙目で壁際まで後退した。
「おいおい、めざまし時計だよ、雪乃」
「あーあー、あんな端っこ行っちゃった。雪乃さん、もう止めましたよ」
一度キモが据わるとB型は強い。しかしA型は繊細なのである。涙を浮かべたまま躙り寄ったところで、海空が「やっぱり! 西郷主任のデスク荷物だ!」と叫んだ。
***
――え?
雪乃は尾城林を見やった。尾城林はいつかと同じ、青ざめた顔をして首を振っているが、海空は気付いていない。
そう、海空が敬愛する西郷美佳子は亡くなっている。事実を海空はまだ知らない。
「え? お知り合いの?」と鈴子が早速海空に寄り添った。
「そう。戻ってくるのかしらね。そのままそっくり。このストールもそう。会社に戻りたいって言ってたから、そっくり取っておいたのかしら。フフ、らしいなあ」
海空が明るく西郷の話をすればするほど、雪乃と尾城林の顔は曇っていく。
有り得ない事象が眼の前で起こっている事実はひしひしと心を締めつける。
「ほら、雪乃も手伝ってよ。この空いているデスクに同じように並べるから」
「あ、は、はい」
これでは返事が不自然だ。海空は何も知らないのだから、しっかりしないと。
手伝おうとしたところで、尾城林が雪乃を呼んだ――。
*2*
「尾城林課長」「一服させろよ。落ち着かねえよ」と尾城林は電子煙草を咥え、呼吸を繰り返した。廊下の一服スペースで、雪乃は簡易打合せ場所の椅子を引き寄せた。
「手紙の時と似ています。……でも、贈られるはずのない……」
〝贈られるはずのない〟
言葉が脳裏に引っかかった。誰か、どこかで同じ言葉を使っていなかったか?
思慮を深めると、見えた風景はあの日の夜桜だ。
東京タワーが煌々と夜に君臨していて、櫻は重そうに枝を揺らしていた。その枝を鷺原が掴んで――……また高く櫻の枝は戻らなかった。
櫻の花弁は、早くも散って――……。
――あ。眞守さん。そうだ、あのヒトは櫻を散らせて……。
答えが見えるところで、尾城林が壁を殴った。
「まただ。手紙といい、何なんだか。俺への嫌がらせか」
「嫌がらせ?」尾城林は口を噤み、しんみりと「俺が殺したわけじゃないけどな」と訂正を弾く。
「でも、俺が殺したようなものかも知れない。総務がこんなに大変だなんて知らなかったからな……反省はしてるよ。遅いけどな」
その口調は「総務部課長、尾城林省吾」ではなく、「営業のホープ、尾城林省吾」だったと思う。尾城林は「お局は俺を赦さねえだろうな」と苦笑して見せた。
「俺はなんだと思ってたんだろうな。銀行の担当になって、どこかネジが抜けたのかも知れない。毎日のように提案していった。最終的には巧く行った。しかし、その提案書は、全部お局と西郷が作ったものだ。――あいつら、本当、仕事できんだよ。でも、判った。総務はな、誰より強く、誰より会社を大切にして、誰よりも仕事をこなせる人間だから出来るんだって。――貴重な人材が消えて行ったから……」
「だから、総務部に来たんですか?」
雪乃は冷静に聞いた。
「お局に悪くて……俺が今まで築いたモノを全部投げることで、贖罪にした。汚いところは変わんねーな……なあ、佐東海空」
はっと気付くと、海空が硬直して二人の話を聞いていた。しかし、海空はひくっと片眉を上げただけ。
「今の話、本当? ――誰が、死んだって……?」
「西郷美佳子。――佐東、おまえが西郷と仕事ができる日は二度と来ないんだ」
「どういうこと?」
いつになく穏やかな口調に、雪乃は気付いた。
穏やかな振りをしているだけだ。佐東海空の何を観て来たのだろう。きついのは、外界から身を守るため。なんでも引き受けるのは、それが自分の生き様だと信じているからじゃない。海空は誇りだと言ったけれど、違う。
そうしないと、やってられないほど辛かったからかも知れない。
「佐東主任」
「どういうことかって聞いてんのよ! どうして総務のあたしが知らないのに、クソ営業のあんたが知ってんの! 怒るよ! あんたは、どこまで……っ!」
海空は雪乃の前で尾城林を締め上げた。涙は流さない。オトナの女性は泣かないわけじゃない。泣けないのだ。――泣く余裕などないとばかりに。
突然聞いた覚えのない音が、尾城林の携帯から響いた。「げ」と尾城林は「CSIRTコールだ」と呟いたが、海空はありったけの怒りで、尾城林を締め上げていた。
「お、おい、お局、落ち着け、首、締めて……っ。おい、ほら、俺のモバイル鳴ってるから。部内の電話……」
海空は「ふん」とばかりに手を離して、「本当なんだ」と唇を噛みしめた。
「あんたは、どこまで総務部をバカにすんのよ! あたしを笑ってたんだ」
(それは違う)雪乃は思ったし、知っている。尾城林は、人をあざ笑える人間じゃない。あざ笑えるのは――……人を嘲笑える自信満々の男がいる。
指のリングがいよいよ白々しく映った。
***
〝眞守さん〟
(夜桜の中、眞守さんが振り返った。国際部たちはいつしか離れ、一人で夜桜に立つ眞守さんは、社会で孤独に見えたの。もの悲しい雰囲気はきっと夜桜のせいだと思ってた)
〝あなたは、会社に恨みがあるんですか〟
〝――贈られるはずのない郵送物、届かなかった? それは――〟
***
雪乃は唇を噛みしめた。何度思い返しても、脳裏の幻想の鷺原は口パクをして、声を聞かせない。確かに聞いたのに。
その後の鷺原の言葉は、夜桜のざわめきで消えて行った。最後の言葉だけが残る。
「『櫻も金も散る。家族も、愛も、幸せも散る』……そう言ってた……」
「なんですって?」
「なんだって?!」海空と尾城林の叫びが同時に響き、雪乃が目を瞠る。
「あの……今の言葉について」
「――ハッキング被害に遭ったそうだ。CSIRTが動くと」
CSIRT――サイバー・セキュリティインシデントにおけるハッキング被害拡大防止・解決に向けた対応方針を策定し、速やかに実施する組織である。
「ハッキング……って」
「ただ事じゃ無いわね。顧客データは無事なの? この間からキナ臭すぎるわ」
「総務部に戻ろう。指示があるまで、業務は停止だ」尾城林は告げた。
「社内漏洩だとして、一番疑われるのは――、ウチ、総務だ。覚悟しておけ」
***
海空は総務部に戻って、西郷の席だったらしい空席に座った。雪乃は「あの……」と歩み寄ってみる。鷺原の言葉を伝えるべきだと思ったが、海空は気丈な笑みを浮かべて見せた。
「何も言わんでいいよ……あたしを育てた人だったから。尾城林は腹立つけど、嘘は言わないし、あいつ自分が飼ってたイヌが死んだときに会社休んだバカ営業だから……きっと、本当なんだって判るの」
PCには「リモート中」の文字が出ている。業務は無理だ。ハッキングなんて……。海空の傍に鈴子もやって来た。
「そのお話、聞きたいです」
「そーお?」と海空は寂しそうに笑って、並べたカレンダーを突いて見せた。
「厳しいけど、優しかったよ。本当厳しくてね。でも、言ってたなあ。人のために何かをすれば、きっと人が自分に返してくれる。だから一生懸命やればいいって。あたし、何度も辞めようと思ったけど、いつしか一生懸命が楽しくなってからは、そんな気なくなった」
「辞められては困ります」雪乃の言葉に、海空は「そりゃそうでしょ」とはにかんだ。
海空の笑顔を初めて可愛いと思う。
「かちょおはきっと、主任が大切なんです。羨ましい」おっさん好みの鈴子らしい。しかし、鈴子も父を追い求めている理由があって、地に足のついた恋心なのだと判った。
――あたしが、一番フワフワしている。
雪乃は社内監査室の一件を思い返した。
『――会社が判ってないな。お嬢さん。あんたが仮にうちの戦略を株主にばらしたとする。株主はその情報を利用して、株を狙い、含有率を上げていく。それが出来るがバイナリー・オプション。1人の手に数百人の社員の生活が委ねられる。それが会社だ。佐東主任、篠山の言動から察するに、これ以上の確認は不要ですね』
会社は夢を叶える場所より前提に、働く場所だ。仕事を貰えて、有り難い。おはようが有り難い。お疲れさまがありがたい。――それで良かったのに。
「あの……主任、あの……」
雪乃は薬指の指輪を外そうとした。海空の手が伸びて、そっと抑える。
「あいつが好きなら、貫きな。それが恋の覚悟ってモンでしょ」
「……でもっ」
海空は「あんたから恋奪ったら、使えないじゃん」と酷い言葉を吐き、「やっと捕まえたんじゃないの?」と微笑んで来る。
――どうして。
――どうして、佐東海空は強いのだろう。
「あのっ……西郷さんと、鷺原眞守の関係を疑ったほうがいいと思うんです! このままじゃ、陣取りゲームになっちゃう」
多分、鷺原が雪乃を好きなのは間違いない。誰が何と言おうとそこは信じたい。
しかし、鷺原が会社に抱いている感情もまた真実で不明瞭。
「あいつがやってんのは陣取りじゃない。ソリッド・シチュエーション・サバイバルだわよ」
海空は「大したもんだわ」と目を敵を見つけた鷲のように尖らせた。
「ソリッド・シチュエーション・サバイバル。斬新で刺激的な状況を切り拓くスリラー映画……と思ったんだけど。雪乃、何を隠してるの?」
海空には判っていたのだろう。証拠に海空は「やっと、話してくれるんだね。待ってた」とほっとしたように告げたのだから――。
「フルーツ」と書かれた箱を総務部全員で見詰めているうちに、時間は過ぎる。
海空は1歩踏み出した。
こんなときに、「佐東、歩く時は腰から足を出すようにしな」などと西郷の言葉を思い浮かべる。
相変わらず箱はカウントのような時間の刻みを響かせている――。
――――――――
――――――………………
――――最終章 羽山カンパニー消滅?! ソサエティが導く言葉――――
「お局」
海空は静かにドアを閉めた。何かの映画でこんなシーンを観た気がする。
「総務部だけが犠牲になるなら……ね」
「えっ……」
「爆弾かも知れないから。下がって、鈴子、雪乃も。尾城林、ここはあたしに格好つけさせてよ」
聞いていた尾城林がまた1歩海空の前に進み出た。また海空が追い抜いた。
「いや、俺が。おまえの仕事ぶり、好きだったよ」
「ちょ、マジですか? やだ、あたしまだ爆発なんかで死にたくない!」
海空は鈴子を抱き締めた。
「大丈夫。あんたは逃げな。まだ若いんだから」
「海空、おねえさま……」
――と、雪乃が「もういいですか」と我慢出来ないように席を立ち、大判のカッターを手に近づき始める。「雪乃!」雪乃はじろりと最高潮に盛り上がっているB型の集団を一瞥すると、カッターを箱に突き立てた。
「おい! 鷺原に逢えなくなるぞ!」
雪乃は造二重のばっちりした目を尾城林と海空と、鈴子に向け、一言。
「ここは乗れないどうせカタブツのA型山羊座のあたしの出番です」とバキバキバキ、とダンボールを開けて、上半身を突っ込んだ。
「時計です、ただの」
掲げられた時計は、今も元気に時を刻んでいた。尾城林が何事も無かったかのように席に座り、海空も無言でPCを開け、「海空おねえさま」とノリに乗った鈴子はどうしようもないらしく、ウロウロと歩き出した。
「盛り上がるのは構わないんですけどね」
「雪乃、勤怠システムの見直しの資料出来たの?」耳まで赤くした海空が告げた時だった。
ジリリリリリリリリ!
「うっきゃあ!」
飛び上がった雪乃は、涙目で壁際まで後退した。
「おいおい、めざまし時計だよ、雪乃」
「あーあー、あんな端っこ行っちゃった。雪乃さん、もう止めましたよ」
一度キモが据わるとB型は強い。しかしA型は繊細なのである。涙を浮かべたまま躙り寄ったところで、海空が「やっぱり! 西郷主任のデスク荷物だ!」と叫んだ。
***
――え?
雪乃は尾城林を見やった。尾城林はいつかと同じ、青ざめた顔をして首を振っているが、海空は気付いていない。
そう、海空が敬愛する西郷美佳子は亡くなっている。事実を海空はまだ知らない。
「え? お知り合いの?」と鈴子が早速海空に寄り添った。
「そう。戻ってくるのかしらね。そのままそっくり。このストールもそう。会社に戻りたいって言ってたから、そっくり取っておいたのかしら。フフ、らしいなあ」
海空が明るく西郷の話をすればするほど、雪乃と尾城林の顔は曇っていく。
有り得ない事象が眼の前で起こっている事実はひしひしと心を締めつける。
「ほら、雪乃も手伝ってよ。この空いているデスクに同じように並べるから」
「あ、は、はい」
これでは返事が不自然だ。海空は何も知らないのだから、しっかりしないと。
手伝おうとしたところで、尾城林が雪乃を呼んだ――。
*2*
「尾城林課長」「一服させろよ。落ち着かねえよ」と尾城林は電子煙草を咥え、呼吸を繰り返した。廊下の一服スペースで、雪乃は簡易打合せ場所の椅子を引き寄せた。
「手紙の時と似ています。……でも、贈られるはずのない……」
〝贈られるはずのない〟
言葉が脳裏に引っかかった。誰か、どこかで同じ言葉を使っていなかったか?
思慮を深めると、見えた風景はあの日の夜桜だ。
東京タワーが煌々と夜に君臨していて、櫻は重そうに枝を揺らしていた。その枝を鷺原が掴んで――……また高く櫻の枝は戻らなかった。
櫻の花弁は、早くも散って――……。
――あ。眞守さん。そうだ、あのヒトは櫻を散らせて……。
答えが見えるところで、尾城林が壁を殴った。
「まただ。手紙といい、何なんだか。俺への嫌がらせか」
「嫌がらせ?」尾城林は口を噤み、しんみりと「俺が殺したわけじゃないけどな」と訂正を弾く。
「でも、俺が殺したようなものかも知れない。総務がこんなに大変だなんて知らなかったからな……反省はしてるよ。遅いけどな」
その口調は「総務部課長、尾城林省吾」ではなく、「営業のホープ、尾城林省吾」だったと思う。尾城林は「お局は俺を赦さねえだろうな」と苦笑して見せた。
「俺はなんだと思ってたんだろうな。銀行の担当になって、どこかネジが抜けたのかも知れない。毎日のように提案していった。最終的には巧く行った。しかし、その提案書は、全部お局と西郷が作ったものだ。――あいつら、本当、仕事できんだよ。でも、判った。総務はな、誰より強く、誰より会社を大切にして、誰よりも仕事をこなせる人間だから出来るんだって。――貴重な人材が消えて行ったから……」
「だから、総務部に来たんですか?」
雪乃は冷静に聞いた。
「お局に悪くて……俺が今まで築いたモノを全部投げることで、贖罪にした。汚いところは変わんねーな……なあ、佐東海空」
はっと気付くと、海空が硬直して二人の話を聞いていた。しかし、海空はひくっと片眉を上げただけ。
「今の話、本当? ――誰が、死んだって……?」
「西郷美佳子。――佐東、おまえが西郷と仕事ができる日は二度と来ないんだ」
「どういうこと?」
いつになく穏やかな口調に、雪乃は気付いた。
穏やかな振りをしているだけだ。佐東海空の何を観て来たのだろう。きついのは、外界から身を守るため。なんでも引き受けるのは、それが自分の生き様だと信じているからじゃない。海空は誇りだと言ったけれど、違う。
そうしないと、やってられないほど辛かったからかも知れない。
「佐東主任」
「どういうことかって聞いてんのよ! どうして総務のあたしが知らないのに、クソ営業のあんたが知ってんの! 怒るよ! あんたは、どこまで……っ!」
海空は雪乃の前で尾城林を締め上げた。涙は流さない。オトナの女性は泣かないわけじゃない。泣けないのだ。――泣く余裕などないとばかりに。
突然聞いた覚えのない音が、尾城林の携帯から響いた。「げ」と尾城林は「CSIRTコールだ」と呟いたが、海空はありったけの怒りで、尾城林を締め上げていた。
「お、おい、お局、落ち着け、首、締めて……っ。おい、ほら、俺のモバイル鳴ってるから。部内の電話……」
海空は「ふん」とばかりに手を離して、「本当なんだ」と唇を噛みしめた。
「あんたは、どこまで総務部をバカにすんのよ! あたしを笑ってたんだ」
(それは違う)雪乃は思ったし、知っている。尾城林は、人をあざ笑える人間じゃない。あざ笑えるのは――……人を嘲笑える自信満々の男がいる。
指のリングがいよいよ白々しく映った。
***
〝眞守さん〟
(夜桜の中、眞守さんが振り返った。国際部たちはいつしか離れ、一人で夜桜に立つ眞守さんは、社会で孤独に見えたの。もの悲しい雰囲気はきっと夜桜のせいだと思ってた)
〝あなたは、会社に恨みがあるんですか〟
〝――贈られるはずのない郵送物、届かなかった? それは――〟
***
雪乃は唇を噛みしめた。何度思い返しても、脳裏の幻想の鷺原は口パクをして、声を聞かせない。確かに聞いたのに。
その後の鷺原の言葉は、夜桜のざわめきで消えて行った。最後の言葉だけが残る。
「『櫻も金も散る。家族も、愛も、幸せも散る』……そう言ってた……」
「なんですって?」
「なんだって?!」海空と尾城林の叫びが同時に響き、雪乃が目を瞠る。
「あの……今の言葉について」
「――ハッキング被害に遭ったそうだ。CSIRTが動くと」
CSIRT――サイバー・セキュリティインシデントにおけるハッキング被害拡大防止・解決に向けた対応方針を策定し、速やかに実施する組織である。
「ハッキング……って」
「ただ事じゃ無いわね。顧客データは無事なの? この間からキナ臭すぎるわ」
「総務部に戻ろう。指示があるまで、業務は停止だ」尾城林は告げた。
「社内漏洩だとして、一番疑われるのは――、ウチ、総務だ。覚悟しておけ」
***
海空は総務部に戻って、西郷の席だったらしい空席に座った。雪乃は「あの……」と歩み寄ってみる。鷺原の言葉を伝えるべきだと思ったが、海空は気丈な笑みを浮かべて見せた。
「何も言わんでいいよ……あたしを育てた人だったから。尾城林は腹立つけど、嘘は言わないし、あいつ自分が飼ってたイヌが死んだときに会社休んだバカ営業だから……きっと、本当なんだって判るの」
PCには「リモート中」の文字が出ている。業務は無理だ。ハッキングなんて……。海空の傍に鈴子もやって来た。
「そのお話、聞きたいです」
「そーお?」と海空は寂しそうに笑って、並べたカレンダーを突いて見せた。
「厳しいけど、優しかったよ。本当厳しくてね。でも、言ってたなあ。人のために何かをすれば、きっと人が自分に返してくれる。だから一生懸命やればいいって。あたし、何度も辞めようと思ったけど、いつしか一生懸命が楽しくなってからは、そんな気なくなった」
「辞められては困ります」雪乃の言葉に、海空は「そりゃそうでしょ」とはにかんだ。
海空の笑顔を初めて可愛いと思う。
「かちょおはきっと、主任が大切なんです。羨ましい」おっさん好みの鈴子らしい。しかし、鈴子も父を追い求めている理由があって、地に足のついた恋心なのだと判った。
――あたしが、一番フワフワしている。
雪乃は社内監査室の一件を思い返した。
『――会社が判ってないな。お嬢さん。あんたが仮にうちの戦略を株主にばらしたとする。株主はその情報を利用して、株を狙い、含有率を上げていく。それが出来るがバイナリー・オプション。1人の手に数百人の社員の生活が委ねられる。それが会社だ。佐東主任、篠山の言動から察するに、これ以上の確認は不要ですね』
会社は夢を叶える場所より前提に、働く場所だ。仕事を貰えて、有り難い。おはようが有り難い。お疲れさまがありがたい。――それで良かったのに。
「あの……主任、あの……」
雪乃は薬指の指輪を外そうとした。海空の手が伸びて、そっと抑える。
「あいつが好きなら、貫きな。それが恋の覚悟ってモンでしょ」
「……でもっ」
海空は「あんたから恋奪ったら、使えないじゃん」と酷い言葉を吐き、「やっと捕まえたんじゃないの?」と微笑んで来る。
――どうして。
――どうして、佐東海空は強いのだろう。
「あのっ……西郷さんと、鷺原眞守の関係を疑ったほうがいいと思うんです! このままじゃ、陣取りゲームになっちゃう」
多分、鷺原が雪乃を好きなのは間違いない。誰が何と言おうとそこは信じたい。
しかし、鷺原が会社に抱いている感情もまた真実で不明瞭。
「あいつがやってんのは陣取りじゃない。ソリッド・シチュエーション・サバイバルだわよ」
海空は「大したもんだわ」と目を敵を見つけた鷲のように尖らせた。
「ソリッド・シチュエーション・サバイバル。斬新で刺激的な状況を切り拓くスリラー映画……と思ったんだけど。雪乃、何を隠してるの?」
海空には判っていたのだろう。証拠に海空は「やっと、話してくれるんだね。待ってた」とほっとしたように告げたのだから――。
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