夜勤明けの夫婦の日常

山本正純

夜勤明けの夫婦の日常

どこにでもある三階建てのマンションを、一人の黒いスーツを着た男が見上げていた。少々耳障りな蝉の鳴き声と共に男の額から汗が垂れる。
この男、アキオは車内で聞いたラジオを思い出す。ニュースによると今日は今年一番の猛暑日になるらしい。
本来なら涼しいはずの朝の時間帯なのに、ここまで暑いとは、今日は如何ほど暑くなるのだろうとアキオは憂鬱な気分になる。
彼は汗を掻きながらマンションの階段を昇り、二階の角部屋のドアノブを握る。すると、それに反応したのか、部屋の中から慌ただしい足音が聞こえて来た。
アキオは気にすることなくドアを開ける。それから数秒後、黒髪ショートボブで二十代後半くらいに見える低身長の女性が顔を出す。
「おかえりなさい。初めての夜勤お疲れ様でした。頑張ったご褒美として何かしようか?」

アキオの妻のミカは、ニッコリと微笑み、首を傾ける。
この突然の妻の問いにアキオは即答する。
「じゃあ、手早く食べられる物を用意して」
予想外な答えにミカは頬を膨らませる。
「マッサージするとかそういうことを期待していたんだけど、まあいいわ。久しぶりにあなたの腕の筋肉触りたかったのに」
本音が漏れている妻の言葉をアキオは笑う。ミカは分かったという顔付きで台所に向かった。
合コンで一目惚れして、交際を申し込んだら障り甲斐のある筋肉だからという意味不明な理由でカップル成立した日のことを思い出し、アキオは苦笑いした。
数秒後、緊張の糸が切れたアキオは、強い疲労感から足が重たくなった。初めての夜勤の後で妻の顔を見て安心したというのが一番の理由なのだろうとアキオは思う。
そして、彼は重たくなった足をゆっくりと動かし、台所の手前にあるリビングまで進んだ。
白色のソファーに座り、紺色のネクタイを緩めたアキオは、テーブルについた。その間ミカは台所で何かの調理を行っている。
リズミカルに野菜を切る音が聞こえ、アキオの気持ちは楽になった。
「お待たせ」
一分程が経過した後、ミカはお盆を持ってリビングに戻ってきた。お盆の上にはご飯が盛られた青色の茶碗と冷たいミネラルウォーターの入ったペットボトル、ふりかけのような袋と氷で冷やされたウーロン茶が注がれたガラスコップが置いてある。
謎のお盆をミカはアキオの前に置いた。よく見ると白飯の上に細かく切られたネギが乗っている。ふりかけのような袋にはハッキリとお茶漬けという文字。だが、ミネラルウォーターは何に使うのか、アキオにはサッパリ分からなかった。
アキオが唸っている間、ミカはお茶漬けの袋を開け、ネギが乗ったご飯の上にかけた。
「ミカ。その水は何に使うんだ?」
当然な疑問にミカは首を縦に動かす。
「昨日のワイドナショーの料理コーナーでやってた奴ね。こうやって冷たい水でお茶漬けを作ったらおいしいって言っていたからやってみようかと」
すぐに影響を受けたがる妻は、ミネラルウォーターをご飯の上に注ぐ。すると、白飯は水によりパラパラと崩れ始めた。
こうして出来上がった物とお茶漬けと呼んで良いのかと疑問に思いながら、アキオは一口食べた。
「何だ。この暑い時期に食べやすい奴」
予想以上に美味しく、アキオは笑顔になった。その喜ぶ顔を見て、ミカは微笑む。
二口ほど食べた後、アキオは改めて茶碗を見つめてみた。冷えた茶碗の中で白飯とお茶漬けの具とネギが浮かんでいる。ネギは涼しい気分になるアクセントではないかとアキオは思った。
目で愉しんでから、アキオは再び妻の手料理を食べ始めた。その様子をミカはアキオの向かいに座って見ていた。
幸せな空気が、二人を包んでいた。

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