蛆神様

ノベルバユーザー79369

第56話《鯉ダンス》-弐-



私の名前は刑部マチコ。
魚頭の怪人からの襲撃に遭っている二六歳の探偵だ。
後部車体を持ち上げられている。
角度がついた車内では、後部座席の荷物が運転席に滑って落ちてきた。
やばい。
このまま車体ごとひっくり返されてしまう。


「お母さん! 今のうちに脱出してください!」


「で、できない」


ハツナの母親は、シートベルトを外そうと必死になっているが、何かに引っかかったみたいで外すことができない様子だった。
私は懐から折りたたみナイフを取り出し、シートベルトごと切り、助手席側のドアを蹴破った。


「早く!」


「ぎょ、刑部さんは!?」


「いいから!」


車がひっくり返った。


「ぎゃああす!」


コイ人が雄叫びを上げる。
濁ったコイ人の眼球から血が噴き出た。
クロスボウ。
万が一に備えて、先日私が購入しておいた武器だ。
車から脱出すると同時に撃ってみたが、見事に命中してくれたようだ。


「ぐえええ!」


コイ人は刺さったクロスボウの矢を引き抜き、顔を抑えて悶絶する。
状況を飲み込めていないハツナの母親は、咆哮するコイ人を見てその場で立ち尽くしていた。
私は、ハツナの母親の手を取り、その場から逃げた。


「え、え? え?」


「いいから! 逃げますよ!」


クラクションが鳴った。
車道はあっという間に渋滞となり、どこからか「さっさとどけ!」とドライバーの罵声が飛んできた。
周りにいた通行人たちは、こちらの異変に気にも止めずに歩を進めていた。
誰一人。
怪物が暴れていることを気に留めていない。


「け、警察! 警察に電話しないと!」


ハツナの母親が震える指でスマホを操作し、一一九を押した。


「な、なんで?」


スマホを耳に当てて、ハツナの母親は困惑している。
着信拒否アナウンス。
緊急通報したにも関わらず、警察に通報できない。


「だ、誰か! 誰か助けて! バケモノが襲ってくるんです!」


ハツナの母親。
小島ミツコは通行人に助けを求めた。
が。
通行人は無視するか、変な物を見るような目で一瞥するだけで、ミツコの必死の懇願に応えようとする気配は感じらられなかった。


「どうして?」


「ミツコさん。行きますよ」


「け、警察! 警察署に行けば助けてくれるかも!」


「無駄です。行きますよ」


たとえ自衛隊の駐屯地に転がり込んだとしても、おそらく誰も助けてくれない。
この世界。
この空間。
私とミツコを除く、ここにいる人間すべてが、 今起こっていることを『日常』だと受け入れている。
街中で、魚頭の巨漢が刃物を持って白昼堂々と暴れていたとしても、それは普通のことだと認識して騒ぐことは一切ない。
誰かが【蛆神様】に《お願い》をしたのだ。
コイ人と私たちに、他人が干渉しないように、誰かが仕組んでいる。
おそらく。
その誰かが黒幕だと推理できる。
ハツナの時間を122回ループさせた張本人。そいつが犯人だろう。
犯人が誰なのか、まだわからない。
見当もついていない状況だ。
しかし。
私はこのコイ人を止める手段は知っている。
今、重要なことは一つだけ。
『安全』を確保すること。
迫りくるコイ人の脅威から、ハツナの母親を守ること。それが最優先事項だ。


「タクシー!」


私は手を挙げてタクシーを呼ぶ。
タクシーは素通りした。
ちっ。
シカトしやがった。


「ミツコさん。走れますか?」


「む、無理……」


全力で走ったせいか、ミツコは息を切らして膝に手を置いている。


「ぎえええ!」


雄叫びを上げながら、コイ人が走ってきた。
距離にして五〇メートル。
自動車を追跡できる脚力を持ったバケモノだ。全力で走っても数秒で追いつかれる。
くそ。
的の動きが速すぎる。
クロスボウが間に合わない。


「がぁあ!」


コイ人が私の体に覆いかぶさった。


「く!」


ゴリラの手のようなごついコイ人の両手が私の首を絞める。
やばい。
息ができない。
このままだと首の骨が折れる。
ちくしょう。
けど。
これでやれるぞ。
的が止まった。


「が?」


コイ人の下顎。
私はそこにクロスボウを押し当てる。
脳天串刺し。
クロスボウの矢が、コイ人の頭を縦方向に貫いた。


「かはっかはっ」


覆いかぶさるコイ人から私は脱出する。
死んだか。
クロスボウの矢は頭蓋骨に深く刺さって回収不可能だ。矢は出し尽くした。


「刑部さん!」


ミツコが私の元に走り寄った。
とりあえず。
追跡するコイ人は死に、安全は確保できた。
一瞬だけ。
ほんの一瞬、安全が取れた。
これから逃げる準備をしないといけない。


「ミツコさん……車を近くで手に入る場所を知っていますか?」


「え?」


「まだですよ。そいつは一人じゃない……」


めきめきめき。


骨が砕け、肉が蠢く音が聞こえた。
近くの通行人。
スーツ姿のサラリーマン風の男が、頭を抱えて悶絶している。


「うわあああああ!」


サラリーマン風の男の顔面が、だんだん面長になってくる。
後頭部が伸び、皮膚が鱗になる。
パクパクと口が動き、ヒゲが一本左右に生えた。
コイ人。
サラリーマンがコイ人に変身した。


「ぎぇえええ!」


私はクロスボウを投げ捨てた。
ああ、ちくしょう。
ノートに書いてあった通りだった。
コイ人は『不死身』だ。
殺しても殺しても、何度も蘇って追跡してくる。


「しつこい男って本当に大嫌い!」


私はミツコの手を取り、その場から走った。


続く

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