鳥カゴからのゼロ通知
chapter1-33 「いつか」
旅館から出ると、結衣が後ろで手を組んで待ってくれていた。
「あ、来てくれたんだね。ごめんね、こんな時間に……」
「いいんだよ、僕も寝付けなかったし。それに、種明さんと散歩したいからさ」
「え、あ、そ、そうなん……だ……」
我ながら恥ずかしいことを言ってしまったと思い、顔を赤らめる。結衣も同様、予想外の返答に赤面しながら俯いてしまう。傍から見れば付き合いたてのカップルに見えるだろう。ほんの数秒だけ沈黙が訪れた。
「と、取り敢えず歩こうか……!」
「そ、そうだね!」
沈黙を破ろうと無理して絞り出した言葉の意図を、結衣は気が利いて察してくれた。
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海岸沿いの夜道を街灯が等間隔で照らしてゆく。時折横切る車のライトが、二人を不定期にさらに眩く照らし出す。浜風が髪と浴衣を揺らし、夏でありながら涼しくて気持ちが良い。車の音と風の音がバランスよく駆け巡り、無言の空間を緩和させる。
横並びで歩く二人は腕と腕がぶつかるかぶつからないかの間隔。歩道の幅が狭い為、出来るだけ密着しなければいけない。
そのまま会話がない時間が続き、足を緩めることなく浜辺に着いた。
「ん~……はあ~。風が気持ちいいねー」
「ホントだね。暑くもなく寒くもなく、丁度いいくらいだね」
夜空に浮かぶ月が、波によって揺らめく海に光が差す。反射した光はキラキラと美しく輝いている。さざ波の音が心を落ち着かせる。
「創くん、座ろっか」
「うん」
砂浜に腰を下ろす二人。あれだけ熱くなってた砂浜は今はひんやりとしていた。
「……そういえば、さっき夕暮先生と何か話してたの?」
歩きながら会話の内容を考えていたのか、今思いついたのか、ふと思い出したように話を始める結衣。
あの時、二人ともなかなか部屋に帰ってこなかったとなれば、何か話してたのではと考えるのが自然だ。
「うん、まあ……少しだけね……」
「どんな話をしたの?」とは聞いてこなかった。「ふーん」と創の顔色を伺いように覗き込み、自分から話してくれるのを待っているようだった。結衣の顔を横目にチラ見しつつ、話すことを躊躇っていたが、やがてその重い口が開く。
「……実は……先生の過去の話をしてたんだ。悩んでいた僕を気遣うように、自分から話をし始めたんだ」
「へぇー、過去の話は聞いたことがないな~。どんな感じだったの?」
明日陽の過去を事細かく話すのは、やはり気が引けたのか、内容は話さずに聞いた感想だけを説明した。
「正直、あの先生は凄いと思ったよ。何であんなに強くいられるのか知りたいくらいだ」
普通だったらじれったくなり、詳細をせがんでくるだろう。しかし、結衣は黙って相槌を打ち、話を聞いていた。
「色々と考えさせられたよ。あんな悲劇を経験して、期待に胸を躍らせていた人生に裏切られて。理不尽に起こる出来事に――それでも自分を信じて、必死に正当化して、それでもなお同じ道を歩かされる」
一体どれだけ彼女は絶望しただろうか。希望を理不尽に踏みにじられ、見据えた未来の見方さえ変えられてしまったことに。
そんな過去を背負っておきながら、今までそんな気配を漂わせず、気丈に振舞って来た彼女の強さに創は心底憧れ始めていた。その裏で、自分に失望した。
「僕なんてちっぽけな人間だと思ったよ。そんな過去を持つ先生に対して、嫉妬してしまうなんて……」
そこで結衣が口を開いた。
「やっぱり、あの先生は凄い人なんだね!」
「……え?」
体育座りをし、体を前後に揺らしながら嬉しそうに話を続けた。
「具体的な過去はわからないけど、辛い経験をしたんでしょ? それでも、あの人の笑顔は本物に見えるんだもん。夕暮先生は、自分の感情に嘘はつけないんじゃないかな。本当に嫌な時は嫌な顔をするし、生徒と一緒にいる時はすごく楽しそうだよ」
まるで好きな人のことを話すかのように、目を輝かせ、楽しそうに話す。
目が合った時にはにかむ笑顔が、素直に可愛いと思ってしまう。その結衣の笑顔には、『嘘』なんて存在しないのだろう。
「私は担任の先生が夕暮先生で良かったと思ってるよ。だって、あんなに生徒の前で自分を出せる人なんて、そうそういないからね」
きっと結衣は、他人の心の中に土足で入ってこない人なんだろう。相手を信じて、話してくれるまでずっと待ってくれる。疑うことを知らない純粋な少女。そんな彼女だからこそ、一緒にいて居心地がいいと感じるのだろう。
ふと脳裏にティアラの顔が浮かんだ。あの少女も、こんな顔で笑っていたなと。そして相手を思いやり、泣いてくれることも。
結衣の朝露に光が差し込み、咲き誇る花のような笑顔が、ティアラの面影と重なって見えることも少なくない。
「――だからね、君もいつか……いつかでいいよ」
海を見つめていた創の頬を人差し指で突いた。柔らかい指の腹が左頬に沈む。
「私に、君の悩みを聞かせてよ。……待ってるから」
くしゃっと笑う顔を見て抱きしめたいと思った。力強く、自分の胸に引き寄せたい。そんな衝動を殺して、今自分にできる精一杯の笑顔を作った。
「……ありがとう」
結衣が言った「いつか」。それが訪れるのはもう少し先になるかもしれない。もしかしたら約束できないかもしれない。だから明確な答えは出さず、シンプルな感謝の言葉で言い表した。そんな創の言葉の意図を、結衣は察しているのかもしれない。ただ「うん!」とだけ、力強く頷いていた。
「それじゃあ、そろそろ戻ろっか。風邪引いちゃうかもしれないし」
「そうだね」
浴衣に付いた砂をパンパンと払って立ち上がると、二人は海辺を後にした。
来る時とは違い、帰り道では微かな笑い声が、静かな夜を渡り歩いた――。
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