TS娘が親友を世界一嫌いになる話。

闇緒恣恣

2話。

 人間、どうしようもない時は逃避する。

 たとえば勉強しても良い点が取れない時は部屋を片付けだし、今まで非協力的だった家事を手伝ったりする。「仕方ない、勉強ができなかったんだから」、そう逃げ道をつくって言い訳をするのだ。誰に習うわけでもなくそういう行動原理があるんだから、人間の根底には「逃げの精神」が備わっているように思う。

 ……知的生命体なら、命を大事にするためにそんなものは当たり前のような気もするけれど。そんなことは取り合えずどうでも良い。俺はそういうことを言いたいんじゃない。

 俺の今の生活は逃げばっかりだ、逃げのスタンスで現実に挑んでいると言うか。佐々木さんに宮崎さん、そして一木さんには申し訳ないが、俺はマリオネット。言動と本体は切り離され、心許ない意図だけで操っているダメな奴だ。

 皆は必死に面と向かって頑張っているというのに、俺だけ「演者」であることを享受して、楽に楽に事を済まそうとしている。それだから俺のストレス耐性は異様に低い。ほんの少し何かあっただけで、演技できず素に戻ってしまうほどに。

「宇季ー、まだその恰好してるの? いい加減落ち着きなって」

「良いの、それに解ってるから。今俺はスイッチを切ってるだけ。スイッチ切り替えたら私でも何でも出来るから」

 男の時の服を着て、下着を着て俺は惰眠を貪りゲームに没頭する。背が縮み体にフィットしないからこそ、寝間着のような感じになってこれはこれで乙のもの。ここにポテチがあれば最高だった。流石に布団に上にこぼしたくないから食べないけど。

 姉に注意されるのは、俺がだらしないとかそういうんじゃない。多分俺が今不貞腐れているのが悪いんだ、男の時の服を捨てずいじける度に着て、今みたいに怠惰に過ごす。それが家族として、同居人として、見逃せない。

「ホラ、今朝はそんなにしんどそうじゃなかったじゃん。何があった、苛められたとか? 或いは調子悪くなった?」

 じゃあそれで良い。そう言いそうになって、つい息を飲む。自分がイヤになる。

 はあ、俺は一体どうしてしまったんだろう。友人が出来て数日、一木さんとも宮崎さんとも佐々木さんともそれなりに仲良くやれていた。今日だって、殆どと言って良い……代わり映えのない一日だった。一人の男子生徒に呼び出されるまでは。

 これは喜んで良いんだろう。鏡に写る虚像が俺の虚構に彩られ、偶像的な可憐さを生み出しているんじゃなく、普遍的な可愛さがあるという証拠になる。確かに俺は浮かれていた、友達にも若干こわばりながらも説明し、そして「振る」という結論までそこでは簡単には見いだせていた。

『好きです、一目惚れでした、付き合ってください!』

 その言葉を聞いた一瞬、俺は自分の性別が何なのか解らなくなった。

 俺はごろんと寝返りをうち、ゲーム機を上に掲げ仰向けでピコピコと動かす。画面右側にいる俺の操作する女の子キャラが左側の敵男キャラにアッパーで決着をつけ、画面には「WIN」という文字が浮かび上がった。……現実は、こうも簡単に決着はつかない。少し緩んだ手からゲーム機が滑り落ちた。

「いった。姉ちゃん、……告白ってされたことある?」

 仕方なく聞いてみることにした。姉ちゃんはだらしなくも、外ではきっちりと出来ているし、こうした不思議な生活を始めるまではずっと女子をやって来ていたんだ。こういうことはあるだろう、おっぱいでかいし。

 だけれども、そうは問屋が卸さないらしい。

「……はぁ!? 何、されたの! うっわぁ、マジかぁ。しかもその年で、姉ちゃんなんか大学ン時に一回だけ……」

 何だか姉は持てていたとかそう言うわけではないらしい。まあ確かに、溢れ出る出来る人オーラが人を引き付けなかったのかもしれない。家はナンと言うかそう言う家系だ。

「どうした、振った? オーケーした、それともずっと引き延ばし?」

「イヤ、最後のは流石にいかんでしょ。でも振った、好きじゃなかったし、知らなかったし。第一そのときは誰とも付き合う気なかったし」

 誰とも付き合う気がなかった。俺だってそうだ、だったのに……俺は「考えさせて」と言ってしまった。だからこそ自分がイヤになる。マリオネットの糸が切れて、てんやわんやだ。

「付き合ってみるのも良いし、あくまでも断るかってところ。宇季の好きにしたら良い……とは現状を見て、間違っても言えないか」

「……何かさ、必死に告白してきて。男だと思ってた自分が、粘土みたいに崩れてった」

 俺はそう言いつつも、昼間のことを考える。父親の海外出張の土産で買ってきた、州そのままの名前が綴られている服を脱ぎ、ジーンズパンツを脱いで、目を瞑りながら下着を脱いで考える。まさにこんな感じだったのだ、あの言葉を聞いた瞬間が。

 俺がいくら偽物の女子を演じようとしても、端からは「可笑しな」という形容詞はつくけど女子として認識されてしまう。俺は多分、そんなことにさえ気づいてなかったんだろう。

「うぇあっ」

「自分の体くらいさっさと慣れンさい」

 つい目を開けた先に二つの膨らみがあって変な声が漏れた。姉の手前で着替えていた以上何か言われるのは確実だったけど、俺はあえてこう言いたい。

「そんなこと言われましても」

 顔を真っ赤に染めながら、そっぽを向いて答える。その辺からため息が聞こえた。


 ●


 待たせるのだけはダメだ。そう言うことだけは理解していた。そうして迎えた告白されたその翌日。

「なあ、一誠。好きなタイプっているか、女子ので」

「一緒にいてて楽しい奴」

「即答かよ。そう、か……一緒にいてて」

 俺は気分転換に一誠に話しかけた。姉と話して決心自体はもうついている、俺は男であり、男子と付き合う気は毛頭ない。だからこそ今は離れつつある男の感性を噛み締めたかった。

 電車に揺られ車内にいる人間たちはは倒れそうになって直ぐに戻って倒れない、不思議な揺れの中でじっと俺達も立ちっぱなし。一誠にそう聞いたのも暇潰しとも言って良い、「今の俺が聞いたらどういう反応をするのか」。一誠は何か表情を変えるかと思ったけれど相変わらず表情に大きな変化はなかった。何かそれがまた可笑しい。

 相変わらずな一誠に俺は苦笑いを浮かべながらも、一緒にトーテムポールのように立ち尽くし、ぼーっと車窓の流れていく風景を眺めていた。頭の中をお留守にしている方が、今の時間が長く感じられる。何か別のことをやっているよりも、十分有意義だ。

 登校して親友と廊下で別れ、教室に入った俺は佐々木さんと一木さんに迎えられる。一木さんは一応クラスの便利屋、クラス代表のようなことをしているけれどクラス代表自体は別にいるし、学級委員も別の人が務めている。実質の無職の一木さんは大抵の場合教室にいる。

「やーやー宇季っち、お熱いねーアツアツだねー。あー温まるー」

 そんな俺に抱き着いてくる佐々木さん。出来るだけ押し付けられる胸とか、水も滴る良い女であることとかを無視すると自然と顔が強張って顔が熱くなるのは致し方ない、俺は男である。ともあれ、水泳部の早朝練習も始まる季節、そして教室にクーラーが効き始める季節。確かに水滴の付く髪を揺らす佐々木さんには寒いらしく、頬に触れる肌が物凄くひんやりとしていた。

 ……別に変な声を出してしまった事は気にしていない。ツンツンと佐々木さんが脇腹ついてくるのは、追い打ちだと思う事にして、取り敢えず荷物を席に置いてから抗議をした。その頬は熱かったけれど、また佐々木さんが引っ付いてくることは無かったので無駄な放熱だったのかも知れない。

 授業内容を頭の中に叩き込んで、放課後のことを磨り潰していく。文系の方が俺には合うのか、数式や化学式、毛の薄い先生を見ているよりも、文章や漢文、眼鏡の先生を見ている方が眠気がやってこない。頭皮の心配をしなくて良いということなのかも知れないけれど、もしそうだとしても今の俺には関係ないなあ、と。そして苦笑う。

 そうこうしている内にやって来る昼休み。

 一時間目の遅刻ギリギリにやって来た宮崎さんや佐々木さんは別のグループに所属していて、いわば勢力が違う。三大勢力くらいにクラス内が分かれているので、中立の俺たちは言葉通りクラスの隅っこで昼食を食べるわけだ。別に寂しいとか言うのではないし、そもそも話しかけてくれる人がそんなにいないので特に気にする事じゃない。宮崎さんも佐々木さんも話下手で入院続きだったという俺の為にボディランゲージに切り替えてきたくらいだ。

「優しさが目に染みる」

「うんそうだねー。宇季ちゃんももう少し慣れてきたら、もっと話題も豊富なんだろうけど」

「それはそうです」

 俺が弁当を食べながらも、ちらちらと内容を眺める一木さんを見ていた。はたして俺が手作りだと知っていて目を寄越しているのか、それとも何か好きなおかずでもあったのか、どっちか解らないので取り敢えずパクパクと口の中へと放り込んでいった。特に何も言わなかったから後者では無かったんだろう。

 弁当を食べ終わった頃、それは未だ昼休憩が半分くらい残されている頃。職員室かどこか別の準備室で昼飯を食べている筈だった佐伯サエキ先生が教室にやって来た。そしてまっすぐに俺へと近づいてきて、机をノックした。なんだか崩れた表情が悪役みたいで若干ビクついてしまったけれど、一木さんにも一言礼を言って俺を人気のない教室へ誘い出した。まあ、ここで一木さんにも断りを入れなかったら間違いなく悪役だ。

「でだ、最近……どうだ」

「いきなりオヤジ面ですか、特に問題ありません。あるとすれば……明日の体育くらい。更衣室に目隠し持って行って良いですか?」

「どんなプレイだそれは。まず現代文の先生に全く関係のない授業じゃないか」

 佐伯先生に引かれた椅子に座り、その横にだらしなく腰を落とした佐伯先生。結構な勢いだったけれども、それなりに大きな地面を擦る椅子の音が鳴っただけでぎっくり腰になってはいないみたい、それは安心。年寄みたく見ているけれど壮年後期のオジサンが無茶をしている所を見るとヒヤッとするのは、多分学生の皆が思う事だ。俺が特別心配性だとか、気にしているとかではない。

 先生は気を遣うように言葉を整えながらも、順を追って「流石、国語の先生!」と思わず合いの手を入れたくなってしまうほどに綺麗な説明をしていった。話し上手とは多分、こういう先生みたいな人の事を言うんだろう。

 どうやら話を聞く限り、勝手知ったる佐伯先生に遠からず縋りついてくると思っていたらしい。どうせなら抱き着いても良かったらしい……誰がするか。ともあれ、校長教頭のお偉い先生に加えて、保健の先生、担任の先生には俺の詳細な状況が事細かに説明されている。割と大きな病院の関わっている事なので絵空事でもないとちゃんと理解はしてくれている。そんな事もあって、頼れる大人に助けを求めると思っていたそうだ。

 そう考えてみるとこの数日間、先生たちの想像以上に振る舞っていたらしい。俺は先生に頼らず、頑張っている……という事でも無いかも知れないけれど、ちゃんと自分の足で直立していた。

 溜息をつきながら、強張っていた頬を歪める。何だか乾いた笑みが漏れる、可笑しい。どう言ったものか、自分が張り詰めていたとしても調律師が如き周りの人達が適度に糸を緩めてくれるんだということを改めて知って。

「ありがとうございます先生、ちょっと気が楽になりました」

 俺が何か大きな感情を吐き出したとか、情動を先生に向けたとかは一切ない。ただそう言いたかった。

「気が楽になったら幸い。保険のいー……じゃなかった、押村オシムラ先生にもまた顔を出してやってくれな」

「あ、はい……そうですね。先生も張り切ってたから、行かないと申し訳ないかもしれない。また顔を出しておきます」

 これが心もちってやつなんだろう、胸の中にこぶし一個分くらいの何もない余裕が生まれていた。……別に心臓が消失したとかそういうんじゃない、もしそうならとっくに死んでる。俺は愉快愉快と肩を揺らせるほどではないけど、何だか可笑しくて小さく笑ってしまう。

 またいつか、もう少し危うくなったら助けを求めることにしよう。俺はちゃんとそう心に留めておくことにする。もう少し、まだ大丈夫だ。心持どころか目力も若干変わったような気もする。

 それを見た先生は本題はもう十分だろうと思ったらしい。唐突に話題を変えてきた。蛇に足が生えてきた。

「おう、それが良い。話は変わるが……授業中ずっとオレの顔見てた気がするんだけどさ、何かついてたか?」

 四時間目の授業の事、あれを覚えていたのか。ニヤニヤでは無く何と言うか可愛いものを見るような、ニコニコとした表情の佐伯先生はそう聞いてきたけれど、別に何かがついていたとかそういうんじゃない。……しいて言うのならば。

「眼鏡、ついてますよ」

「いつもだよ」

 その真顔の返しに俺は噴出してしまった。遅れて先生が笑い出す。

 ……やっぱりそうだ。俺は話下手なんかじゃない、多分女子と話すのが苦手なんだ。女子と「女子として」会話することが苦手なんだ、先生と話すのはわけないし、親友と話すのも楽しい。クラスメイトの男子に二、三の言葉を交わすのも変に感情が乗り切ってしまうと言う事も無い。告白してきた男子にだって、仮面が溶けては仕舞ったけれど受け答えはしっかり出来ていた。と言う事ならば、別に俺は「話下手」じゃない。

 俺は「一誠に勝った」と小さくガッツポーズをしていた。それを見ていた先生は不思議そうな目で俺の半ばで持ち上がった腕を眺め、「よっこいせ」と椅子から腰を持ち上げる。俺もその教室の黒板の上に掛けられた時計の針を見て「よっこらしょ」と立ち上がった。

 時間はあと十分くらい。教室に戻れば、何を話したかを聞かれて、それを答えるくらいの時間はあるだろう。今度こそ失敗しないようにしよう。

 ちゃんと説明できたのに、俺を知る佐々木さんや宮崎さん、そして一木さんは何だか可哀想なものを見る目で俺を見ていたような気がする。……何故だ。

 昼休みもそれなりに堪能し、一誠のところにも顔を出せた。と言うか、普通すれ違うはずのない俺の教室の前ですれ違ったから、五時間目は移動教室なんだろう。まるで渋い男達のやり取りのような小さな会話だったけれど、元気出た。午後からもこれを励みにすることにしよう。

 英語の授業に歴史の授業、どちらもワールドワイドなお話で勉強にてんで実感が湧かない。それでも何かの役に立つだろうと、読み上げられる英文や国名、条令や英単語をララバイにしないよう精一杯頑張る。

 第一ただでさえ色々と目立ってしまっているのに、転校してきて一ヶ月もしない内に勝手にクラスに馴染んで、授業中居眠りするような悪目立ちするような生徒になりたくない。ノートによだれが落ちてしまったのも、すぐに拭き取ったしバレていない筈。

 ……なのに一木さん、どうして授業が終わると振り向いて、俺のことを微笑ましいようすで眺めるんだい?

「よーし、ショートホームルームだ。プリント配るから目ぇ通しとけよー」

 SHRの時間になり、昼ぶりの佐伯先生を見る。いつも通りの内容、いつも通りのざわつく教室、いつも通りの先生の注意。この「いつも」の中に、今の俺は入っていないんだと考えてしまうと、少し感慨深い。

 一ヶ月以上もクラスメイトと会わなければ、これほどまでに顔を忘れてしまうんだろうか。俺が別人になってしまうだけで、これほどまでに教室が異質に感じるものなんだろうか。何だかそう思ってみると、佐々木さんも宮崎さんも一木さんも、他のみんなもずいぶんと優しいなあ、と。

「じゃあ、日も長くなってるからって青春しすぎるなよ、以上!」

 SHRという名の終礼も終わり、いざ戦地へ至らんという気持ちでいると宮崎さんに肩を叩かれた。振り向けば、むにっと頬を突かれた。

「……何ですか」

「引っ掛かった。でさ、返事するんだよね今日の放課後。頑張って、私達も暴走しないよう応援してるよ!」

「それは応援してるって言えるのかな……」

 やって来る時間、やって来る男子、降りてくる太陽。条件的には先生の言葉を借りるのならば「青春している」んだろうけれど、俺はただ緊張し内容にだけ深呼吸だけを繰り返していた。


 ●


 俺は呼吸を整えた。

 目の前の少年、服に付いた色を見れば同級生と言うことがわかる男子生徒は、落ち着いた様子で構えた。果たしてそれは、案山子かかしに対してずっと練習を重ねてきたからなのか、俺が案山子同然にカチコチだったのかは分からない。

 向こうが主導権を握る。俺は後に続く。

「その、やっぱり駄目です。ご免なさい」

 俺はきっぱりと断った。佐々木さんにも言われたことを意識しながら、俺も納得した道理だからと反芻して自分のものにした。

『返答に余地作っちゃ駄目だかんな。考えさせてくれ、ってのもこの手のじゃホントは不味いんだから』

 恋愛の先輩、といおうと思ったけれど佐々木さんも佐々木さんで苦労しているみたいだ。女子の先輩として少なくとも習うべきところはある。……スカートの折り方とかは別に要らなかったけどね。

 ともあれ、俺は断るき満々だった。そして引き伸ばしたけれど、断った。

「そう、か。ありがとう、多分……断りかた考えてくれたんだよね」

「それもないことも、ないですけど……」

 良かった、いい人で助かった。食って掛かる人もいると聞いた。粘着してくる人もいると聞いた。ストーカーになる人もいると聞いた。だから少し怖かった。

 だから、断り方を考えたというのもぶっちゃければ嘘でもなかった。ただそんな感情のせいで、余計なことまでこの口がいってしまった。ほんとポツリと、聞こえそうな大きな独り言を。

「俺の本性なんか誰にも見せたくねえし……」

 俺は口調だけは直せなかった。そこに個性が宿っているから、言霊とあるように言葉に魂がこもっているから、こう喋るのが俺だから、色々と理由があったのかもしれない。だから俺はもとの口調は隠して過ごしてきた。

 だけれども、目の前の男子を見る限り、その声は風のいたずらにより届いてしまった。

「……白露さん」

「なっ、何ですか」

「無理して口調変えるとかそんな嘘つかなくても、俺の気持ちは」

 その瞬間、風が舞った。つむじ風のようにぶわりと地面から沸いて、俺のスカートや髪の毛や、目尻を持ち上げていた。俺はかっとなって言ってしまった。

「嘘じゃない!」

 それだけは言われたくなかった。言ってはならないことを言ってしまったのだ、目の前の男は。目の前の一見の少女を見る男子生徒は、俺の逆鱗に触れてしまった。

「嘘じゃねえよ、事実だよ! 何で何も知らないアンタに今までのこと全部『嘘』だって否定されなくちゃならないんだ!?」

「ご、ごめん。俺、そんなつもりじゃ」

「俺だって嘘みたいだって思ってるよ、それでも今までのことは捨てちゃ駄目なんだよ……! それを、それをぉ……嘘とか、嘘とか、そんなこと言われたくなかっ」

 嗚咽が漏れた、最後まで言えなかった。

 目の奥が熱くなって、涙が止める間も拭う間もなく溢れ出て、喉がきゅうとしまって。パクパクしても息のような嗚咽のような、喘ぐ声しか聞こえてこない。

 目の前の男に言ってやりたかったのに、それができなかったことが何よりも恨めしい。遅れて涙を拭うけれど、それは止まることはないし、自分の号泣が煩すぎて自分で自分が嫌になってくる。これじゃただの卑怯な女だ。

 泣いて済むことじゃない、だけど悲しい。女は泣いて済むとかそう言うことを言いたいんじゃない、「男は泣いたら負け」なんだ。俺はもうこの時点で負けているし、地面に這いつくばって泣いている自分の姿を想像するだけでも恥ずかしい。

「もう……さい、あく……だっ。ひぐっ……え」

「……ゴメン」

 俺はいくら拭っても拭っても乾かない、魔法の石のような目を擦りながらふらふらと立ち上がり、荷物を取りに校舎の玄関口へと向かう。今度は男子生徒の謝罪の声は聞こえていた、だけど返事をすることはない。

 全身からひどく力が抜ける感覚がする、こんなにも泣いたのは初めてだ。泣くと体力が減ると言う話は本当だったんだろう、と少し落ち着いた俺はむせび泣きながら上手く働かない頭で一つ納得した。だけれども納得したからと言って体力が回復する訳でも無い。しゃっくりのように出てくる声が鬱陶しい、俺は片方の手を首元にやり何度か引っかいた。

 ……あぁ、しまった。ぼーっとしているせいでダブーまで犯してしまうらしい、だけど今の俺にとってはそんな事直ぐ涙と一緒に流れ去ってしまう。早く現実に戻ってきたいのにこうして逃げ出すことが心地よくて、そのまま甘受してしまいそうだ。

「う、宇季っち……どうしたの、そんなに泣いて。しかも……凄い血が出てるし!」

「お、オシムー先生とこ早く連れていこう!」

「佐々、木……さん。宮崎さん……」

 少し息が楽になった。もうクラブが入っている時間帯である放課後の三時半、一誠も帰っているだろう時間、佐々木さんたちが俺の目の前にいる筈が無い。そんな事も気が付かず俺は心底ほっとして体を預けるようにしてしまう。

 この体は号泣するのも、少し駄目なみたいだ。大分涙が収まって来て、首を触っていた手を眺めてみれば涙を拭っていたわけでもないのにしっとりと濡れていて、それで真っ赤に染まっていた。

「ごめ、これ……俺がやっただけ、だから」

 俺の意識が途切れる前に、そんな言葉が零れ落ちた。

 次に目が覚めた時、俺は保健室に居た。一度か二度だけ顔を合わせた事のある押村弥生オシムラヤヨイ先生が俺の顔を覗き見ていて、俺の目が開いたことに表情を明るくさせた。視界の隅に映る時計を見る限り、気絶していたのはほんの十数分らしい。体を持ち上げると、頭がずきりと傷んだ。

「あまり動かさないで、今は止血してあるけど未だ貧血気味だから。話は聞いたよー二人から、まあその二人はクラブの方に引っ張られていったけどね」

「アハハ……やっぱり聞いてたのかな、あの二人」

 貧血特有のガンガンとする痛みが頭全体に覆い被さってくるのを堪えながら、俺はゆっくりと体を起こしてベッドの縁に座り直す。少し離れていた押村先生との距離が近くなって、その分声が小さくなった。

「それに、君が男の子から告白されるなんてね。それにきちんとした子にさ、謝りに来てたよその子」

 失礼なことを言ってしまった、と。

 一瞬、あの名前も知らない同級生の顔が思い浮かんで顔をしかめてしまったけれど、全てを知る先生によるとあの人も災難だったらしい。……主に俺のせいで。

 二人に俺を泣かせたと詰め寄られ、首の傷までつけたんじゃないかと疑われて。更にその……一目惚れだった俺に振られた挙げ句に逆鱗に触れて泣かれて怒鳴られて。……どう考えても泣きっ面に蜂、踏んだり蹴ったり。むしろそれでも謝ってくれたのが凄い。

 頭を押さえて、それで泣きすぎたせいかチクチクとする目頭を押さえる。この体は少し不自由だ、女になってしまったことを抜きにしても、それは変わることはない。

 俺が溜め息をつきながら時計を見ると大体四時に差し迫り、四時を過ぎる頃には頭痛や頭にかかった曇り模様はいつしか晴れ渡っていた。首に張り付いたガーゼだけが鬱陶しい。触る限り、まだ外せなさそうだ。俺が苦笑いしていると、押村先生は肩に手を置いた。

「大丈夫、帰れそう? 何なら家族に連絡して来てもらう?」

「いや、良いです。帰れるし、後今は一人になりたいので」

「そう……大変ね、とっても。何かあったらいつでも言って、女性の先輩として色々と教えられると思うから! 何てったって保険の先生だし!」

 あの……最後のそれはちょっと、思考がピンク色に染まってしまうので止めて欲しかった。俺が顔を赤くしていると、満面の笑みを浮かべていた先生までが顔を赤くさせていた。

 ……恐るべし、これは俺の超能力といってしまって良いかもしれない。

 佐々木さんか宮崎さんか、或いはあの男子生徒か。教科書のつまったリュックがベッドの傍に置いてあり、保健室のある一階から教室のある三階に上がらなくても良かったのは幸いだ。後でお礼を言わなくては。

 おほん、と咳払いをして顔面のファンを回したのか押村先生は今度はちゃんとした表情で忠告してくれる。

「体、大事にね。もしかしたら今回の傷も、ずっと残ったままかもしれないし。さようなら」

「……ですね、気を付けます。ありがとうございます、失礼しましたー」

 そう言いながら俺は保健室を出て、貧血のせいか少しふらふらとする頭を揺らしながら帰路に付いた。


 ●


 一人になるとやっぱり心細い、いつの間にか潮の満ち引きのように再び涙ぐんでいた。むせび泣かないと周りに迷惑、そんなことを考えながら、必死に目から涙が零れ落ちるを我慢する。

 「俺」と皆の前で言ってしまっていた。果たして、どうしてとか明日になったら聞いてきたりするんだろうか?

 俺だって嘘をつくのは好きじゃない、でなければアイツのあの言葉にあそこまで激昂するはずがない。だけれども現状は皆を騙しているばかり、これほどまでに矛盾という言葉の似合う実例は、あまりないだろう。

 電車に揺られながら考える。もしここで別の駅に降りて、ふっと皆の前から消えたとき皆は悲しむんだろうか? 同一性の問題と言うか、果たして今の俺は何なのか。

 ぼーっとしながら車窓を眺めていると、駅の支柱に書かれている駅名が最寄り駅の一つ向こうだったことに気づく。急いで降りて反対車線に乗り換えるのは無駄な時間だったかもしれない。

 そうして最寄り駅で降りた俺に待ち構えていたのは、慣れ親しんだ商店街、それに住宅地の光景と臭いだ。そして何故か、目の前には親友がいた。

 途端に恥ずかしくなる、泣き顔を親友に、特に男友達に見られるというのは物凄くキツいものだ。俺も今初めて知った。保健室の鏡で確認したときは、目を擦っていたせいか目元が真っ赤で、正に「泣いていますよ」という顔だったんだから、なおのこと酷い。

 俺は涙ぐんでいるから、余計泣きすぎて目を腫らした顔というよりも今もなお泣いているという顔に近い。そんな顔をまじまじと親友の一誠に見られてしまった。

「大丈夫か、首の傷」

「大丈夫だよ。それに何で私服のお前が駅降りたところにいるんだよ。とっくに帰っていたはずじゃないのか?」

 俺は顔を隠しながらも、親友の顔を見ていたたまれなくなって返事をする。今の俺の方が一誠より無愛想だ。トゲトゲとした言葉を返しても飄々としている一誠で、少し助かった。ただでさえ今、罪悪感でつぶれそう……。

 特に気にした様子もない一誠は黙って俺のリュックを奪い去り、自分の肩にかけて一息を付いた。俺が無理をしているのまで、お見通しだったわけか。ついつい乾いた笑いが零れた。

「何で、知ってるんだよ。誰かに聞いたのか」

「まあな。あと、告白されたってのも聞いた。佐々木さんて人から、一木さんの携帯で」

「そうかい。このハーレムめ」

 告白、その言葉を聞いて喉が思わずつまったけれど平然を装う。上手く隠せただろう、顔も隠せているし。

 一誠のことを茶化しながらも雑談のようなそれを繰り返し、一誠と一緒にいるときのいつもの調子に戻っていく。それが良かったのか悪かったのか、確かに俺の心は落ち着いていった。親友も深くは聞かずいつも通りの問答で、それがとても嬉しくて。

 ……俺は思わず、前から親友に抱きついてしまった。

「お、おいっ」

 一誠の顔は見えない、ただ凄く慌てているということが体の動きや声から感じ取れる。それが何だか可笑しくて、涙で濡れた、じめじめとした笑いが起こってしまう。今日の俺は何処か壊れてしまったようだ。

 今の俺にとっては巨体の一誠の胸なんて比喩でも何でもなく大きくて、心細い今は凄く頼りになる。そして何よりも暖かい、一誠の優しさがそこにはある。俺が濡らして良い道理は一切ない。

「ごめ、ん……。しばらく、こうさせてくれ……」

「あいよ」

 呂律が回っていなかったので通じるか怪しかったけれど、二つ返事で一誠が許してくれたことに心底安堵する。気持ち悪いはずなのに、何も言わないでいてくれる。そこが一誠の良いところ……かもしれない。

「何か、いつもと違うな」

「あたっり、まえ……だ」

 ついかっとなってしまって怒鳴って、つい首を引っ掻いて怪我して貧血になって、そして色々と嫌になって。そんな放課後だったのにいつも通りでいられるはずもない。

 今はこうして、少しの間だけ親友の傍で泣いていたかった。涙を見せても何も言わないでいてくれる、という謎の信頼を寄せている一誠の傍でなら俺は気にせず泣くことができた。

「……ありがと、来てくれて」

「気にすんな、俺が勝手に来ただけだし」

 それに何よりも、駅を降りたときに見た親友の顔。

 いつもの仏頂面が何処へやら、俺の姿を見た途端のあの表情の崩れっぷり。安堵や心配や、そんな感じの表情で。いつも仏頂面なのに俺みたいな奴のことで、これほどまでに狼狽してくれるなんて。

「……なあ、気持ち悪いだろ」

「いや、ここまでお前が追い詰められてたんだ。俺は何も言えねえよ」

 それがどうにも、俺には物凄く嬉しいらしい。 泣いているのに頬に熱が籠っていってしまって、もしデカイ一誠の体にしがみついていなければ、変な表情が周囲に丸見えとなっていただろう。

 やっぱり、一誠は最高の親友だ。

「TS娘が親友を世界一嫌いになる話。」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「現代ドラマ」の人気作品

コメント

コメントを書く