~大神殿で突然の婚約?!~オベリスクの元で真実の愛を誓います。
星堕しの夜。私たちはテネヴェを目指す
***
灰色のツンツン髪が見えた。イザークだ。
イザークは広場の高台に座って、同じように空を見上げていたが、ティティに気付くと、当たり前のように左側を空けてくれた。
〝二人でドロドロになっちゃえば、案外すっきりしたりして〟あんな言葉を聞かされて、意識しないはずがない。(あ、身支度)バタバタと服の皺を直し、涙目を擦って、ティティはつんと言った。
「す、座るわよ」断って腰を下ろした。こうしている間も、頭上では星が流れてゆく。
風は穏やかだ。ふと、地面に広げたままのイザークの手に気付いた。指は長く、強そうな手の甲。触りたくて、無意識に手を重ねようとじりじりと近づけてみる。
心臓が破裂して、星になりそうだ。
「星堕しなんて聞いたこともねぇけど、綺麗なもんだな~、ティ?」
喉が動いて、ティティはぱっと顔を上げた。重なる寸前だった手をぱっと引っ込めて、頬を軽く叩いた。
(……ふええ、ネフトさま、どうしたらいいの……)
「見てみろ、せっかくの〝大道芸〟だから。一緒に見ようぜ」
空気が触れるように、包まれた手を握り返す。指と指を絡めて、見つめ合った二人の頭上では、濃紺色の空が一瞬撓んで、無数の光の粒が落ち始めた。煌めいた光の粒はゆっくりと一点に集まって、落下する。ティティは忽ち光景に夢中になった。
虹彩を撒き散らせ、海の前で剣を構えたサアラに向かっていくつもの星が奔る。
サアラの剣には炎が宿っていた。黒炎に当たった光をサアラは手で子供達に翳して見せる。人間業とは思えない。やがてサアラの周辺は光でいっぱいになった。子供達はせっせと光を船に乗せて、海に流してゆく。小さな手をしっかりと合わせ、消える船を見送った。
(すごい、すごい。光の海だ――……)
星の光を受けるなんて、どんな呪術でも不可能な話だ。聞いた覚えもない。
「イザーク。ネフトさまが言っていたの。サアラは夜空に縁があるって。何だろう。お空に親戚でもいるのかって思ったけど、違うみたい。光がね、ちゃんと手の中に」
気付けばイザークはじっとティティを見詰めていた。目隠しを取ってしまったらしく、充血した紺色の眼が剥き出しになっている。ティティはそっと手を伸ばした。
「眼の色、やっぱり揃ってたほうがいいよね……一緒だからいいよ……ね。マアトなんかずうっと遠くにいればいいのよ」
さっとイザークは上半身を近づけ、体を硬くしたティティに顔を傾けてきた。口づけの予感。ティティは体を引き攣らせる。(ば、ばかっ)震えは激しくなる一方だ。
「嫌か? 俺と口づけは、嫌?」
聞かれて頭が真っ白になった。ぶんぶんと頭を振ると、イザークは小さく頷いた。どぎまぎして、ティティはそわそわと肩を揺らして見せる。イザークはガッとティティの肩を掴むと、素早く顔を傾けた。左腕をぐいとティティの腰に回し、力強く引き付けた。引き付けた弾みに唇と唇はより深くなった。胸の膨らみがイザークに届き、ふにゃと凹んだ。上唇と下唇に唇を隠されて、点火される。
(わ、ぅわ……っ。火花、炎、見える……)
探り合って互いの心に火を灯すような、お互いを味わう激しい口づけだった。
イザークの舌がティティの炎を優しく宥めてゆくと、ティティもおずおず受け止めようと同じく、舌で応える。遠慮会釈ない愛情がティティを包み込んだ。
「――もう、だめ……力、入らない……ぅにゃ……ん」
「ティ?」抱き留めたイザークが呼んでいる。
夜空が本当に美しいから、素っ裸で飛び出して、空を突き抜けたい気分。
ティティは突如、視界に飛び込んだイザークを見た。頬が熱くなった。どこかに遊びに行った魂もすぽんと平然と戻って来た。
「あ……あの」イザークは上唇を舐めた。「頭、冷やしてくる」と背中を向けた。ティティはまた慌ててイザークの服を掴んだ。距離を取られるは嫌だ。魂を夜空に飛ばして、遊んでいる場合ではない。
「違うの! き、気持ち良かったの!」
イザークの闇に染まった背中が怖々と動いた。ぐるんとティティに向き直って、ティティはビク! と肩を引き攣らせた。イザークはズイと歩いて来た。ガツっと両腕を捕まえられ、揺さぶられた。
「本当の話か? ティティ、それ以上、無理した説明は要らんぞ」
「無理なんかしてない! ほ、本当……その、入って来たあの感じが嬉しくて、魂がぽーん、て、飛んでっちゃったの! も、もう何が何だか……!」
最後はモゴモゴになって、指を折って唇を擦り擦り、必死で言葉を繋いだ。
「ティティ!」声と同時に両腕を強く掴まれ揺さぶられる。
焦ったような、慎重なようなどっちつかずの口調でイザークが聞き返してきた。
「それ、本当か? 俺とのキスで、気持ち良かったって? 本当にティティ、そう思ったのか? 俺とキスして、良かったと。貴女が言ったのか? それって俺を愛してるとか、そういう話か? 俺が入った感じが分かったと貴女が? 魂ぶっ飛んだ?」
「もうもうもう! 何度も繰り返さないで! 勝手に決めていい!」
「いーや。何度でも言うね。最高の気分だぜ! 聞いたか! 夜空!」
(ご勝手に!)とばかりにティティは立ち上がった。直ぐさま捕まえられた腕にじたばたして、モゴと告げた。
「ぜーんぶ、貴方のせい。こんなに大切にされたら、ずっと、そばにいてって思う。か、勘違いなんかじゃない! わたしはわたしの心に誇りがあるから嘘なんか」
「素敵だ」イザークの腕を振り払う。イザークは見た覚えのない笑顔を浮かべていた。
(ちょっともう。何、その蕩けそうな表情)
「こんな裁きの世界でも、愛する奴がいるって、心強いよな」
遠くから降り注ぐ光の雨を見ながら、イザークの口調は誇らしげになった。不思議だ。愛情を判った途端、今度はこっちも伝えたくなる。
(見ていなさい、ファラオの娘の覚悟。言ってみせる。好きって! 驚くがいいわ)
すー、はー……ティティは大きく息を吸った。ところで静止した。
(頭、まっしろ……全身が心臓になったみたい。ええと、ことば、ことば)
「口開けて、止まってどうした? ティ?」
固まったティティの頬をイザークが撫でた。今度は心臓が張り切って滅茶苦茶に動き出す。ぐるぐるする脳裏を叱って、ティティは何度も言葉を繰り返した。
「見てなさいよ、ファラオの娘の覚悟。見てなさいよ、ファラオの娘の覚悟。見て」
「ああ、分かったから。な、落ち着け」
また背中をぽん、ぽんとやられて、ティティは顔を上げた。イザークは照れ笑いを浮かべた。初めて見る、少年のような屈託のない手放し全開の笑顔だ。
「俺のことでは一つたりとも困らせたくない。言えないなら、言わなくていい」
(優しい。そう、困ってるの。なら、言わない。言葉を無理して押し出しても、誤解を生むだけだから。この同じ空気、大切にしよう――)
こくんと頷いた。イザークはまた嬉しそうに破顔して、「もう一度確かめる。男に火をつけて、収まりつくと思うなよ?」と躙り寄った。
「話が違うでしょうが!」
「それが男だ。火が点いたら止まるものか! 止めどない欲望を注ぎたくなる」
(よ、欲望……? 止めどないって!)
「何を言ってんのよ――っ! 舌なめずりなんかしないでよ! 獣みたい!」
焦ったところで、コン、と木を叩く音。
「じゃれるのもそこまでよ。お二人」
ネフトが寄り掛かって二人を見ていた。ティティは焦ってイザークをどーんと押し退かせた。
***
イザークは茂みに突っ込んだが、すっくと立ち上がると、ズカズカ歩いてきた。
「気を利かせらんないのか! ネフトのおネエちゃんは」
「普段ならね」とネフトは告げ、国境の方角を指した。イザークが額に皺を寄せた。
ネフトは髪を夜空にたなびかせた。
「ここからずっと南に進めばテネヴェ界隈よ。近道を教えるわ」
ネフトはティティの服一式とイザークの背負い袋を持っていた。それに、こっそり磨き始めたドドメ色の宝玉。驚くティティをネフトは姉のように一度だけ抱き締めた。
「お別れよ、ティティインカ。夫の星堕ろしが終わったら、すぐに出るのよ。――軍隊の気配が聞こえるでしょう。かなりの人数がこの入り江に向かって来ている」
イザークとティティは顔を見合わせた。ラムセスの追っ手に嗅ぎつけられた!
「ラムセスの野郎! どうしてこの入り江が分かったんだ!」
唇を噛むイザークの前にサアラが現れた。ぐいとイザークに光剣を突きつけた。
「持って行くがいい。無数の星が眠った剣だ。願いが汝らを助けるだろう。無事に呪いが解けたら返してくれたらいい。子供たちの親への願いは、残酷なマアト神に打ち勝てるやも知れない」
会話の合間も、ティティの耳はザッザと歩く兵の足音を捕らえた。イザークは剣を手に、まだサアラと向かい合っていた。
「胡散臭いんだよな。あんた」
(ちょっと! 因縁つけてる場合じゃないのに!)イザークはサアラに躙り寄った。
「俺は男にゃ頭は絶対下げたくねえが! 俺とティティの呪いは解けるのか……それだけ聞いておきたい。知っている情報を教えてくれ、頼む」
言ってぐいと頭を下げた。ティティはようやく知った。イザークは呪いに怯えているのではなく、情報を探っていた。ティティ、大丈夫だ。告げながら、未来への暗中模索を繰り返していたのだと。
(一人で、背負わないでよ……ううん、わたしもついていくの!)
ティティも一緒に膝をついた。サアラは跪いた二人に興味を示さず、空を見上げた。
「神に打ち勝てるやも、と言ったはずだ。聞こえなかったか」
「――大体逢えもしないのに、どうやって打ち勝つのか教えて欲しいね! 神だぞ! いるのかいないのか分からん存在!」
サアラはくくっと笑った。
「おや。汝たちはやるだろう? 神をみた覚えがない? よく言うよ、汝は見たはず」
イザークはバツが悪そうな顔をした。
「あんたは、すべて知ってて、黙ってるんだな。いけ好かねぇよ……! 殴りたい」
「本気で、人間は面白い。では、一つ、覚えておいて欲しいな」
サアラはくるりと背中を向けると、両腕を夜空に翳した。一気に空が明るくなる。サアラの腕に合わせて、星々が集まり始め、大きな光の環になった。
集めた光の環はラムセスの軍隊を照らし、光のヴェールで遮断した。両手を翳し、一瞥もくれず、サアラは嘲笑った。
「神の中にも、人間を案じる神もいるという事実をだ! 我が妻!」
「行きなさい。ここは、大丈夫よ。子供達はあたしたちが護るわ」
(神……いま、神の中にも、と言った……?)
「あんたら、まさか……」イザークが唾を呑んだ前で、どん! と大きな炎の壁が孤児院の洞窟を覆った。手を翳したネフトも振り向かずに声を上げた。炎の香煙に捲かれ、ネフトは炎を操っていた。ティティには判る。強力な呪術だ。
「氷の空洞。南に繋がっているから、抜けられる。ティティ、イザーク、あたしたちは世界を変えることは出来ない。そういう縛りだ。ただ、夫婦の絆はどんな阿保な神よりも高尚なもの。それは保証する」
「悪い。我が妻ネフトは感情が昂ぶると物言いが横柄になるのでね」
ネフトは振り返り、ふっと笑った。サアラも夜空に掲げた両手を堕ろした。
「互いを信じて、行きな。それが全てだ。イザーク、ティティインカ」
――互いを信じて……聞いたイザークが強くティティの手を掴んで、引いた。
「ここは任せた。でも、俺は神を信じていなかった。これも覚えておけ」
(カルナヴァル神殿の柱の神の名は何? アヌビス、ネフティス、アラーだ……!)
「ネフト……ネフティス神! サアラ……アラー神! か、神さまって本当……」
ネフトがくるりと振り向いた。
「貴女を何度も助けたでしょ? 諱を玩具にしたら呪わないといけないルールなの。何かあったら呼びなさい。相性が良いのよ、貴女とわたし。暇してたら力を貸す」
気付いて、腰が抜けそうになった。
(あたし、交渉した神さまたちと数日一緒に過ごしていたんだ! でもなんで、この世界で子供と旅なんかしてるんだろう……マアト神を知ってるのかな)
ティティはもう一度背後を振り返った。神に護られた孤児院の子供たちは、きっと幸せになれるだろう。
――わたしは、わたしの道を行きます。ネフト様。冥府の女神、ありがとう、と。
ネフトの告げた洞穴はすぐに分かった。大きな海樹の幹を切り抜いた、氷結した雫がきらきらと美しい。イザークは壁から垂れる雫を手で受け、頷いた。
「鍾乳洞か。行くぞ、ティ。テネヴェのオベリスクを見つければ状況は変わる」
「そんな安直な話じゃないでしょ」
いつになくイザークは神妙な声になった。
「知ってるんだよ。テネヴェ――……マアト神の一神教の国だ」
灰色のツンツン髪が見えた。イザークだ。
イザークは広場の高台に座って、同じように空を見上げていたが、ティティに気付くと、当たり前のように左側を空けてくれた。
〝二人でドロドロになっちゃえば、案外すっきりしたりして〟あんな言葉を聞かされて、意識しないはずがない。(あ、身支度)バタバタと服の皺を直し、涙目を擦って、ティティはつんと言った。
「す、座るわよ」断って腰を下ろした。こうしている間も、頭上では星が流れてゆく。
風は穏やかだ。ふと、地面に広げたままのイザークの手に気付いた。指は長く、強そうな手の甲。触りたくて、無意識に手を重ねようとじりじりと近づけてみる。
心臓が破裂して、星になりそうだ。
「星堕しなんて聞いたこともねぇけど、綺麗なもんだな~、ティ?」
喉が動いて、ティティはぱっと顔を上げた。重なる寸前だった手をぱっと引っ込めて、頬を軽く叩いた。
(……ふええ、ネフトさま、どうしたらいいの……)
「見てみろ、せっかくの〝大道芸〟だから。一緒に見ようぜ」
空気が触れるように、包まれた手を握り返す。指と指を絡めて、見つめ合った二人の頭上では、濃紺色の空が一瞬撓んで、無数の光の粒が落ち始めた。煌めいた光の粒はゆっくりと一点に集まって、落下する。ティティは忽ち光景に夢中になった。
虹彩を撒き散らせ、海の前で剣を構えたサアラに向かっていくつもの星が奔る。
サアラの剣には炎が宿っていた。黒炎に当たった光をサアラは手で子供達に翳して見せる。人間業とは思えない。やがてサアラの周辺は光でいっぱいになった。子供達はせっせと光を船に乗せて、海に流してゆく。小さな手をしっかりと合わせ、消える船を見送った。
(すごい、すごい。光の海だ――……)
星の光を受けるなんて、どんな呪術でも不可能な話だ。聞いた覚えもない。
「イザーク。ネフトさまが言っていたの。サアラは夜空に縁があるって。何だろう。お空に親戚でもいるのかって思ったけど、違うみたい。光がね、ちゃんと手の中に」
気付けばイザークはじっとティティを見詰めていた。目隠しを取ってしまったらしく、充血した紺色の眼が剥き出しになっている。ティティはそっと手を伸ばした。
「眼の色、やっぱり揃ってたほうがいいよね……一緒だからいいよ……ね。マアトなんかずうっと遠くにいればいいのよ」
さっとイザークは上半身を近づけ、体を硬くしたティティに顔を傾けてきた。口づけの予感。ティティは体を引き攣らせる。(ば、ばかっ)震えは激しくなる一方だ。
「嫌か? 俺と口づけは、嫌?」
聞かれて頭が真っ白になった。ぶんぶんと頭を振ると、イザークは小さく頷いた。どぎまぎして、ティティはそわそわと肩を揺らして見せる。イザークはガッとティティの肩を掴むと、素早く顔を傾けた。左腕をぐいとティティの腰に回し、力強く引き付けた。引き付けた弾みに唇と唇はより深くなった。胸の膨らみがイザークに届き、ふにゃと凹んだ。上唇と下唇に唇を隠されて、点火される。
(わ、ぅわ……っ。火花、炎、見える……)
探り合って互いの心に火を灯すような、お互いを味わう激しい口づけだった。
イザークの舌がティティの炎を優しく宥めてゆくと、ティティもおずおず受け止めようと同じく、舌で応える。遠慮会釈ない愛情がティティを包み込んだ。
「――もう、だめ……力、入らない……ぅにゃ……ん」
「ティ?」抱き留めたイザークが呼んでいる。
夜空が本当に美しいから、素っ裸で飛び出して、空を突き抜けたい気分。
ティティは突如、視界に飛び込んだイザークを見た。頬が熱くなった。どこかに遊びに行った魂もすぽんと平然と戻って来た。
「あ……あの」イザークは上唇を舐めた。「頭、冷やしてくる」と背中を向けた。ティティはまた慌ててイザークの服を掴んだ。距離を取られるは嫌だ。魂を夜空に飛ばして、遊んでいる場合ではない。
「違うの! き、気持ち良かったの!」
イザークの闇に染まった背中が怖々と動いた。ぐるんとティティに向き直って、ティティはビク! と肩を引き攣らせた。イザークはズイと歩いて来た。ガツっと両腕を捕まえられ、揺さぶられた。
「本当の話か? ティティ、それ以上、無理した説明は要らんぞ」
「無理なんかしてない! ほ、本当……その、入って来たあの感じが嬉しくて、魂がぽーん、て、飛んでっちゃったの! も、もう何が何だか……!」
最後はモゴモゴになって、指を折って唇を擦り擦り、必死で言葉を繋いだ。
「ティティ!」声と同時に両腕を強く掴まれ揺さぶられる。
焦ったような、慎重なようなどっちつかずの口調でイザークが聞き返してきた。
「それ、本当か? 俺とのキスで、気持ち良かったって? 本当にティティ、そう思ったのか? 俺とキスして、良かったと。貴女が言ったのか? それって俺を愛してるとか、そういう話か? 俺が入った感じが分かったと貴女が? 魂ぶっ飛んだ?」
「もうもうもう! 何度も繰り返さないで! 勝手に決めていい!」
「いーや。何度でも言うね。最高の気分だぜ! 聞いたか! 夜空!」
(ご勝手に!)とばかりにティティは立ち上がった。直ぐさま捕まえられた腕にじたばたして、モゴと告げた。
「ぜーんぶ、貴方のせい。こんなに大切にされたら、ずっと、そばにいてって思う。か、勘違いなんかじゃない! わたしはわたしの心に誇りがあるから嘘なんか」
「素敵だ」イザークの腕を振り払う。イザークは見た覚えのない笑顔を浮かべていた。
(ちょっともう。何、その蕩けそうな表情)
「こんな裁きの世界でも、愛する奴がいるって、心強いよな」
遠くから降り注ぐ光の雨を見ながら、イザークの口調は誇らしげになった。不思議だ。愛情を判った途端、今度はこっちも伝えたくなる。
(見ていなさい、ファラオの娘の覚悟。言ってみせる。好きって! 驚くがいいわ)
すー、はー……ティティは大きく息を吸った。ところで静止した。
(頭、まっしろ……全身が心臓になったみたい。ええと、ことば、ことば)
「口開けて、止まってどうした? ティ?」
固まったティティの頬をイザークが撫でた。今度は心臓が張り切って滅茶苦茶に動き出す。ぐるぐるする脳裏を叱って、ティティは何度も言葉を繰り返した。
「見てなさいよ、ファラオの娘の覚悟。見てなさいよ、ファラオの娘の覚悟。見て」
「ああ、分かったから。な、落ち着け」
また背中をぽん、ぽんとやられて、ティティは顔を上げた。イザークは照れ笑いを浮かべた。初めて見る、少年のような屈託のない手放し全開の笑顔だ。
「俺のことでは一つたりとも困らせたくない。言えないなら、言わなくていい」
(優しい。そう、困ってるの。なら、言わない。言葉を無理して押し出しても、誤解を生むだけだから。この同じ空気、大切にしよう――)
こくんと頷いた。イザークはまた嬉しそうに破顔して、「もう一度確かめる。男に火をつけて、収まりつくと思うなよ?」と躙り寄った。
「話が違うでしょうが!」
「それが男だ。火が点いたら止まるものか! 止めどない欲望を注ぎたくなる」
(よ、欲望……? 止めどないって!)
「何を言ってんのよ――っ! 舌なめずりなんかしないでよ! 獣みたい!」
焦ったところで、コン、と木を叩く音。
「じゃれるのもそこまでよ。お二人」
ネフトが寄り掛かって二人を見ていた。ティティは焦ってイザークをどーんと押し退かせた。
***
イザークは茂みに突っ込んだが、すっくと立ち上がると、ズカズカ歩いてきた。
「気を利かせらんないのか! ネフトのおネエちゃんは」
「普段ならね」とネフトは告げ、国境の方角を指した。イザークが額に皺を寄せた。
ネフトは髪を夜空にたなびかせた。
「ここからずっと南に進めばテネヴェ界隈よ。近道を教えるわ」
ネフトはティティの服一式とイザークの背負い袋を持っていた。それに、こっそり磨き始めたドドメ色の宝玉。驚くティティをネフトは姉のように一度だけ抱き締めた。
「お別れよ、ティティインカ。夫の星堕ろしが終わったら、すぐに出るのよ。――軍隊の気配が聞こえるでしょう。かなりの人数がこの入り江に向かって来ている」
イザークとティティは顔を見合わせた。ラムセスの追っ手に嗅ぎつけられた!
「ラムセスの野郎! どうしてこの入り江が分かったんだ!」
唇を噛むイザークの前にサアラが現れた。ぐいとイザークに光剣を突きつけた。
「持って行くがいい。無数の星が眠った剣だ。願いが汝らを助けるだろう。無事に呪いが解けたら返してくれたらいい。子供たちの親への願いは、残酷なマアト神に打ち勝てるやも知れない」
会話の合間も、ティティの耳はザッザと歩く兵の足音を捕らえた。イザークは剣を手に、まだサアラと向かい合っていた。
「胡散臭いんだよな。あんた」
(ちょっと! 因縁つけてる場合じゃないのに!)イザークはサアラに躙り寄った。
「俺は男にゃ頭は絶対下げたくねえが! 俺とティティの呪いは解けるのか……それだけ聞いておきたい。知っている情報を教えてくれ、頼む」
言ってぐいと頭を下げた。ティティはようやく知った。イザークは呪いに怯えているのではなく、情報を探っていた。ティティ、大丈夫だ。告げながら、未来への暗中模索を繰り返していたのだと。
(一人で、背負わないでよ……ううん、わたしもついていくの!)
ティティも一緒に膝をついた。サアラは跪いた二人に興味を示さず、空を見上げた。
「神に打ち勝てるやも、と言ったはずだ。聞こえなかったか」
「――大体逢えもしないのに、どうやって打ち勝つのか教えて欲しいね! 神だぞ! いるのかいないのか分からん存在!」
サアラはくくっと笑った。
「おや。汝たちはやるだろう? 神をみた覚えがない? よく言うよ、汝は見たはず」
イザークはバツが悪そうな顔をした。
「あんたは、すべて知ってて、黙ってるんだな。いけ好かねぇよ……! 殴りたい」
「本気で、人間は面白い。では、一つ、覚えておいて欲しいな」
サアラはくるりと背中を向けると、両腕を夜空に翳した。一気に空が明るくなる。サアラの腕に合わせて、星々が集まり始め、大きな光の環になった。
集めた光の環はラムセスの軍隊を照らし、光のヴェールで遮断した。両手を翳し、一瞥もくれず、サアラは嘲笑った。
「神の中にも、人間を案じる神もいるという事実をだ! 我が妻!」
「行きなさい。ここは、大丈夫よ。子供達はあたしたちが護るわ」
(神……いま、神の中にも、と言った……?)
「あんたら、まさか……」イザークが唾を呑んだ前で、どん! と大きな炎の壁が孤児院の洞窟を覆った。手を翳したネフトも振り向かずに声を上げた。炎の香煙に捲かれ、ネフトは炎を操っていた。ティティには判る。強力な呪術だ。
「氷の空洞。南に繋がっているから、抜けられる。ティティ、イザーク、あたしたちは世界を変えることは出来ない。そういう縛りだ。ただ、夫婦の絆はどんな阿保な神よりも高尚なもの。それは保証する」
「悪い。我が妻ネフトは感情が昂ぶると物言いが横柄になるのでね」
ネフトは振り返り、ふっと笑った。サアラも夜空に掲げた両手を堕ろした。
「互いを信じて、行きな。それが全てだ。イザーク、ティティインカ」
――互いを信じて……聞いたイザークが強くティティの手を掴んで、引いた。
「ここは任せた。でも、俺は神を信じていなかった。これも覚えておけ」
(カルナヴァル神殿の柱の神の名は何? アヌビス、ネフティス、アラーだ……!)
「ネフト……ネフティス神! サアラ……アラー神! か、神さまって本当……」
ネフトがくるりと振り向いた。
「貴女を何度も助けたでしょ? 諱を玩具にしたら呪わないといけないルールなの。何かあったら呼びなさい。相性が良いのよ、貴女とわたし。暇してたら力を貸す」
気付いて、腰が抜けそうになった。
(あたし、交渉した神さまたちと数日一緒に過ごしていたんだ! でもなんで、この世界で子供と旅なんかしてるんだろう……マアト神を知ってるのかな)
ティティはもう一度背後を振り返った。神に護られた孤児院の子供たちは、きっと幸せになれるだろう。
――わたしは、わたしの道を行きます。ネフト様。冥府の女神、ありがとう、と。
ネフトの告げた洞穴はすぐに分かった。大きな海樹の幹を切り抜いた、氷結した雫がきらきらと美しい。イザークは壁から垂れる雫を手で受け、頷いた。
「鍾乳洞か。行くぞ、ティ。テネヴェのオベリスクを見つければ状況は変わる」
「そんな安直な話じゃないでしょ」
いつになくイザークは神妙な声になった。
「知ってるんだよ。テネヴェ――……マアト神の一神教の国だ」
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