魔獣の森のお嫁さん
迫りくる足音
丘の上からの眺めは、見事なものだった。
深緑の木々が視界の下半分を埋め尽くし、残りの上半分は白い雲が垂れ込めている。
風は生暖かく湿っていて、不穏な空気をはらんでいる。何かがすぐ隣にまで近づいて来ているような、そんな気配が漂っていた。
それなのに、異常の証拠は特には見つからなかった。
獣の痕跡はそこらじゅうにあるのだが、だからといって何かが起こっているとは言いきれない。
この場にいないハンターたちを動かすためには、もっとはっきりとした証拠が必要だった。
木々が折れていることも、枯れていることもない。
魔獣が現れていたのなら、その兆はすぐに森に現れる。それがないとするなら、今森に起こっている異変は魔獣関連ではないのだろう。
ジルバーは注意深く丘を下る。
獣の足跡などから、やはり森の中央方向から逃げて来ているのがわかる。しかし、そちらを見ても深い木々に遮られ、見通すことはできなかった。
ジルバーが丘のふもとへ戻ると、アルノーたちは出発の準備をしているところだった。
「おや、ジルバーくん。もう調べ終わったのかね?」
「ああ、見える限りでは、目立った異常はなかった。もう少し中心部へ向かいたいのだが」
「そうか。まだ時間はあるし、少しだけなら大丈夫だろう。それよりも、キミは休憩しなくてもいいのか?」
「俺にとっては散歩程度だ。問題ない」
「ふむ、ハンターというのは大したものだな」
「……まあな」
細かく説明して自分が魔獣だとバレる危険を増やす必要はない。
だからジルバーは曖昧に笑うだけだった。
兵士たちの準備が終わるのを待っていると、エーミールが水筒を差し出してきた。
「ジルバーも喉乾いているだろ?いまのうちに飲んでおいた方がいいよ」
「ありがとう。助かる」
「うんうん。ところでさ、丘の上からの景色はどんなものだったんだい?」
水を一口飲んでから、ジルバーは口を開いた。
「なかなか見れない景色だな。森を見慣れている俺でも、木々の頭を見下ろすことは、ほとんどない。こういう時でないと見る機会はないかもな」
「へえ、ボクも登ってみたいなあ」
「今のうちに、行って来たらどうだ?」
「いやいや、ボクはキミのように速く登れないからね。そんなことしてたら集合に遅れて、隊長に怒られちゃうよ」
「そうか」
「そうそう。それに登って降りるのは体力使いそうだからね。実はボクはもうけっこうヤバいのさ。猟の開始が明日でよかったよ」
エーミールは心底そう思っているようだ。
ジルバーは村がある方向を見上げる。
村の方では、すでに木を切り出し始めているはずだ。
森の浅い方には獣はほとんど近づかないので、ハンターや兵士でなくても森に入ることは容易い。
だから兵士が見張る中、村人たちがこぞって森に入って、木を伐ったり森の恵みを集めたりしているだろう。
獣の狩りだけでなく、このような収穫物もまた、村の特産品として領都から来た商人に売られていくことになる。
大狩猟祭が平和に終われば、村はまた潤うだろう。
平和に終われば、だが。
◇◇
その後ジルバーたちは少しだけ森の奥へと入ったが、目立ったものは見つけられなかった。そして時間になったのでディールと約束した場所へと向けて歩いていた。
エーミールは額の汗を拭きながらも、ジルバーに続いていた。
「何事もなくてよかったね」
「よかったとは言えない。異常の証拠を見つけることもできなかった。このままだと、なにがいるか分からないまま、猟を始めることになってしまう」
「うーん、それってやっぱり危ないのかな?ボクらがいるんだし、どちらにしろ結界内の獣は全部狩る予定だろ?」
「それはそうなんだが……。エーミールは、この森にはどんな獣がいるのか聞いているか?」
「もちろんさ、狩りに必要だからね。でもそれがどうかしたのかい?」
「その聞いていた獣より大きく、見たこともない、強いのがいたらどうする?」
「……ああ、そういうことなんだね」
エーミールは顔をしかめて首筋をかいた。
「たしかに、誰も知らない怪物に襲われるのは勘弁してほしいかなあ」
「とりあえず、魔獣の気配はなかった。そこだけは安心していい」
「ええー、でも、魔獣じゃなくても危ないかもしれないんだろ?大丈夫かなあ」
「この森には、俺以外にもハンターがいる。なにかがあったら彼らを頼ればいいさ」
「うん、それは心強い」
そんな他愛のない話ができるほど、森は静かだった。
獣の気配は近くにはなく、葉を揺らす風の音もしない。
エーミールがあくびを噛み殺していたその時、ジルバーの耳は、不穏な音を聞き取った。
「静かに……。来る!」
「えっ?なにっ!」
茂みがガサガサと音を立てて揺れ、何かが調査隊の方に近づいてくる。
「戦闘隊形を組め!抜剣!」
アルノーの指示が飛ぶと、隊員たちはすぐに行動に移る。
エーミールもジルバーをかばうように立ち、腰の剣を抜いた。
「ジルバーはそこから動かないでね」
「待て、落ち着くんだ。全員、武器をしまえ!」
ジルバーとともに、隊員たちは隊長であるアルノーを見る。
「アルノーさん。俺を、信じてくれ」
「……わかった。剣をしまえ」
隊員たちは言われた通りに剣を鞘へしまう。
その間にも音はどんどん近づいて来て、ついに茂みの奥からいくつもの影が飛び出してきた。
それは大森ウサギ。大型犬ほどもあるウサギが、数匹の集団で走ってくる。
「全員、動くな!じっとしてろ!!」
「くっ。盾、構え!」
浮足立ったアルノーの指示に反射的に従った。
背負っていた小さな盾を持ち、体の前面に出して身構える。
その隊員たちの間を、あるいは頭上を、大森ウサギは風のようにすり抜けていった。
「ジルバーくん。今のウサギたちは、このままだと結界から出てしまうのではないか?」
「かもしれないが、気にしている暇はなさそうだ。もっと来るぞ」
そう、音はまだ鳴りやんでない。それどころか、さらに多くの足音が調査隊へ近づいて来ていた。
「いったい何が起こっているんだ!」
「異変の原因が、こっちへ近づいてるってことだろうな。俺たちも結界から出るぞ、ついて来い!」
「よし。全員、走れ!ジルバーくんに続け!」
ジルバーは後に続く調査隊を気にしながら結界へ向けて走り出す。
その後ろから更に色々な獣たちが、次々と迫ってきていた。
木をすり抜け段差を飛び越え、鹿や森猫などの獣が、調査隊員たちをどんどん追い抜いていく。
大半は結界の気配に気づいて方向を変えていくが、数匹はそのまま走っていった。
「よし、この道を真っ直ぐ進むんだ!遅れているヤツはいないな?」
「全員、ついて来ているか!?」
「た、隊長!エーミールのヤツが遅れてます!」
「なんだと!?」
驚き立ち止まろうとする隊長の肩をジルバーが叩き、一本の筒を手渡す。
「これは注意を示す黄色の狼煙だ。結界を超えたら点けてくれ。ディールが予定通りにキャンプ地に着いているなら、迎えに来てくれるはずだ」
「なっ、どういうつもりだ?」
「俺はこの森で生きるハンターだ。必ず戻る。だから追い込み猟は予定通りに始めてくれよ」
ジルバーは来た道を逆に走り出した。
「ジルバーくん!……くそっ、全員駆け足!結界を抜けるぞ!!……あいつめ、後で説教してやるからなっ」
アルノーは狼煙を握りしめながら、結界の外へ向けて走り出した。
深緑の木々が視界の下半分を埋め尽くし、残りの上半分は白い雲が垂れ込めている。
風は生暖かく湿っていて、不穏な空気をはらんでいる。何かがすぐ隣にまで近づいて来ているような、そんな気配が漂っていた。
それなのに、異常の証拠は特には見つからなかった。
獣の痕跡はそこらじゅうにあるのだが、だからといって何かが起こっているとは言いきれない。
この場にいないハンターたちを動かすためには、もっとはっきりとした証拠が必要だった。
木々が折れていることも、枯れていることもない。
魔獣が現れていたのなら、その兆はすぐに森に現れる。それがないとするなら、今森に起こっている異変は魔獣関連ではないのだろう。
ジルバーは注意深く丘を下る。
獣の足跡などから、やはり森の中央方向から逃げて来ているのがわかる。しかし、そちらを見ても深い木々に遮られ、見通すことはできなかった。
ジルバーが丘のふもとへ戻ると、アルノーたちは出発の準備をしているところだった。
「おや、ジルバーくん。もう調べ終わったのかね?」
「ああ、見える限りでは、目立った異常はなかった。もう少し中心部へ向かいたいのだが」
「そうか。まだ時間はあるし、少しだけなら大丈夫だろう。それよりも、キミは休憩しなくてもいいのか?」
「俺にとっては散歩程度だ。問題ない」
「ふむ、ハンターというのは大したものだな」
「……まあな」
細かく説明して自分が魔獣だとバレる危険を増やす必要はない。
だからジルバーは曖昧に笑うだけだった。
兵士たちの準備が終わるのを待っていると、エーミールが水筒を差し出してきた。
「ジルバーも喉乾いているだろ?いまのうちに飲んでおいた方がいいよ」
「ありがとう。助かる」
「うんうん。ところでさ、丘の上からの景色はどんなものだったんだい?」
水を一口飲んでから、ジルバーは口を開いた。
「なかなか見れない景色だな。森を見慣れている俺でも、木々の頭を見下ろすことは、ほとんどない。こういう時でないと見る機会はないかもな」
「へえ、ボクも登ってみたいなあ」
「今のうちに、行って来たらどうだ?」
「いやいや、ボクはキミのように速く登れないからね。そんなことしてたら集合に遅れて、隊長に怒られちゃうよ」
「そうか」
「そうそう。それに登って降りるのは体力使いそうだからね。実はボクはもうけっこうヤバいのさ。猟の開始が明日でよかったよ」
エーミールは心底そう思っているようだ。
ジルバーは村がある方向を見上げる。
村の方では、すでに木を切り出し始めているはずだ。
森の浅い方には獣はほとんど近づかないので、ハンターや兵士でなくても森に入ることは容易い。
だから兵士が見張る中、村人たちがこぞって森に入って、木を伐ったり森の恵みを集めたりしているだろう。
獣の狩りだけでなく、このような収穫物もまた、村の特産品として領都から来た商人に売られていくことになる。
大狩猟祭が平和に終われば、村はまた潤うだろう。
平和に終われば、だが。
◇◇
その後ジルバーたちは少しだけ森の奥へと入ったが、目立ったものは見つけられなかった。そして時間になったのでディールと約束した場所へと向けて歩いていた。
エーミールは額の汗を拭きながらも、ジルバーに続いていた。
「何事もなくてよかったね」
「よかったとは言えない。異常の証拠を見つけることもできなかった。このままだと、なにがいるか分からないまま、猟を始めることになってしまう」
「うーん、それってやっぱり危ないのかな?ボクらがいるんだし、どちらにしろ結界内の獣は全部狩る予定だろ?」
「それはそうなんだが……。エーミールは、この森にはどんな獣がいるのか聞いているか?」
「もちろんさ、狩りに必要だからね。でもそれがどうかしたのかい?」
「その聞いていた獣より大きく、見たこともない、強いのがいたらどうする?」
「……ああ、そういうことなんだね」
エーミールは顔をしかめて首筋をかいた。
「たしかに、誰も知らない怪物に襲われるのは勘弁してほしいかなあ」
「とりあえず、魔獣の気配はなかった。そこだけは安心していい」
「ええー、でも、魔獣じゃなくても危ないかもしれないんだろ?大丈夫かなあ」
「この森には、俺以外にもハンターがいる。なにかがあったら彼らを頼ればいいさ」
「うん、それは心強い」
そんな他愛のない話ができるほど、森は静かだった。
獣の気配は近くにはなく、葉を揺らす風の音もしない。
エーミールがあくびを噛み殺していたその時、ジルバーの耳は、不穏な音を聞き取った。
「静かに……。来る!」
「えっ?なにっ!」
茂みがガサガサと音を立てて揺れ、何かが調査隊の方に近づいてくる。
「戦闘隊形を組め!抜剣!」
アルノーの指示が飛ぶと、隊員たちはすぐに行動に移る。
エーミールもジルバーをかばうように立ち、腰の剣を抜いた。
「ジルバーはそこから動かないでね」
「待て、落ち着くんだ。全員、武器をしまえ!」
ジルバーとともに、隊員たちは隊長であるアルノーを見る。
「アルノーさん。俺を、信じてくれ」
「……わかった。剣をしまえ」
隊員たちは言われた通りに剣を鞘へしまう。
その間にも音はどんどん近づいて来て、ついに茂みの奥からいくつもの影が飛び出してきた。
それは大森ウサギ。大型犬ほどもあるウサギが、数匹の集団で走ってくる。
「全員、動くな!じっとしてろ!!」
「くっ。盾、構え!」
浮足立ったアルノーの指示に反射的に従った。
背負っていた小さな盾を持ち、体の前面に出して身構える。
その隊員たちの間を、あるいは頭上を、大森ウサギは風のようにすり抜けていった。
「ジルバーくん。今のウサギたちは、このままだと結界から出てしまうのではないか?」
「かもしれないが、気にしている暇はなさそうだ。もっと来るぞ」
そう、音はまだ鳴りやんでない。それどころか、さらに多くの足音が調査隊へ近づいて来ていた。
「いったい何が起こっているんだ!」
「異変の原因が、こっちへ近づいてるってことだろうな。俺たちも結界から出るぞ、ついて来い!」
「よし。全員、走れ!ジルバーくんに続け!」
ジルバーは後に続く調査隊を気にしながら結界へ向けて走り出す。
その後ろから更に色々な獣たちが、次々と迫ってきていた。
木をすり抜け段差を飛び越え、鹿や森猫などの獣が、調査隊員たちをどんどん追い抜いていく。
大半は結界の気配に気づいて方向を変えていくが、数匹はそのまま走っていった。
「よし、この道を真っ直ぐ進むんだ!遅れているヤツはいないな?」
「全員、ついて来ているか!?」
「た、隊長!エーミールのヤツが遅れてます!」
「なんだと!?」
驚き立ち止まろうとする隊長の肩をジルバーが叩き、一本の筒を手渡す。
「これは注意を示す黄色の狼煙だ。結界を超えたら点けてくれ。ディールが予定通りにキャンプ地に着いているなら、迎えに来てくれるはずだ」
「なっ、どういうつもりだ?」
「俺はこの森で生きるハンターだ。必ず戻る。だから追い込み猟は予定通りに始めてくれよ」
ジルバーは来た道を逆に走り出した。
「ジルバーくん!……くそっ、全員駆け足!結界を抜けるぞ!!……あいつめ、後で説教してやるからなっ」
アルノーは狼煙を握りしめながら、結界の外へ向けて走り出した。
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