天の仙人様

海沼偲

第206話

 だんだんと女性陣の中でムウがいつまで居座るのかという不信感が生まれてくるところであった。ピリピリとした空気が絶えず流れている。俺が助けたばかりにこんなにも剣呑とした雰囲気なわけである。空気が俺を責め立てているのであった。だが、俺は自分のしたことを否定してはいけない。俺は善行を働いたという確固たる自信を持たなくてはならない。そうでなければ、俺がしたことと彼女の生を無のものとしてしまうのだから。それを許してはならないのである。それだけは決してあってはならない結論なのである。
 確かに、そのせいで険悪なムードが漂っているのだとしても、俺がしたことを後悔することは許されないのだ。絶対に。
 彼女たちは一見すると、そうではないかのように振る舞っている。綺麗に隠しているのである。ただ、長い間を一緒に過ごしていれば、それが明らかに、彼女のことに対していい気持ちで接していないであろうということはわかるわけである。ムウに気づかれていないだろうということが唯一の救いであるかもしれない。いつ体調が良くなるのか、もしかしたら、もう完全に回復しているのかもしれないが、そのどちらであろうとも、彼女が出て行くまでは、この気まずい空気の中で生活をしなくてはならない。それは気分が悪いが、それが存在する中でも、平然と何でもないかのように過ごさなくてはならない。平穏であるかのようにいなくてはならない。見たうえでの行動でなくてはならない。見ぬふりであってはならない。難しい話だが、それを可能としなくてはならないのである。
 彼女は、毎日のように庭へと出ている。その様子から見ても、明らかに衰弱している、弱っているであろうという兆候は見て取れないのだが、俺はその指摘をぐっとこらえるのだ。遠回しに追い出そうとしているように捉えられてしまうのだから。それに、隣にはルクトルが常におり、楽し気に会話をしている。彼にとってみれば、真に友人といえるような関係を構築しているようなのだから、そのまま家に置いていてもいいのではないかという思いもわずかにだがある。彼一人の幸福を願えばそれが最善の案のように見えてくるだろう。ただ、それ以上の圧力でもって、追い出したいと思っている人間が多すぎるというだけの話だ。
 自分一人だけが、何もせずに、ただご飯を食べさせてもらっているというのは申し訳ないということで、手伝いを始めるようになった。それは、彼女たちの圧力を感じ取ってしまって、このままでは追い出されると思ったからであろうか。しかし、そうは見えない。常に笑顔を絶やすことはない。一見してしまえばただ、手伝いたいと思っているだけにしか見えないのだ。彼女の奥底までのぞき込むことが出来るのであれば、今すぐにでもしてみたいのだが、それは出来ない。残念で仕方がない。それほどまでに、彼女の笑みは仮面であるかのように張り付いているだけで、感情というものを表しているのではなかった。心の奥底を隠すようにしているのである。彼女がそこまでしてここに残ろうとするのはどういう意図があるのか。それがわからないということがひと際不気味に思えてしまうのであった。
 そんな彼女が俺の隣に座っているわけであった。今は手伝うこともないからと、本を読んでいる俺の隣に座るのだ。明らかに、この部屋に感じる空気の重さが一段階上がっているのだが、それを気にするそぶりを見せたりはしない。ここまでのことなどあるだろうか。アキですら、少しは慄くわけだが。それが一切ないというのは、相当に肝が据わっているか、この場にいる人間を危険だと思っていないか。自分の命が脅かされる可能性は、殺意を持っていようとないと確信しているわけだ。そうでなければ、ここまで堂々とは出来ない。
 それがわかってしまうからこそ、彼女たちは余計に腹が立つ。一番先に動くのはいつだってハルだ。彼女がムウの胸ぐらを掴んで睨み付けているのである。ここまで来て、へらへらと笑うことは出来まい。同じようで、彼女も口を真一文字に閉じているのである。先ほどまでの笑顔が嘘だと思えるほどに、すんと表情が消えてしまうのだ。かろうじてあった人間味を完全に消している。逆転していると言えるほどに変わってしまっている。
 冷え切った空気が漂っているのである。誰がこの状況に首を突っ込めようものか。ただ、彼女たちもここで引いてはならないとわかっているというか、そうでなければ、プライドが許さないというようで、歯を食いしばるように耐えているようであったが。そうしなければ、この場にいられないというのは、どれほどのものなのだろうか。考えたくもない事であった。

「何か用でもあるのでしょうか? 一体何を目的としてわたしを睨んでいることなのか。全くもって理解が出来ませんね。拒絶しているわけではないのですよ。どれほどまで考えを深めようとも、バカバカしくて考えたくすらもなくなってしまうというだけなのです。それほどまでに無意味で無価値なことなのです。それを深く理解したうえでも、あなたはそれをするのでしょうか?」
「あんたねえ……そうやってアランに近づいておいて、なにが理解が出来ないよ。そういうことをしているから、私たちの怒りをかうのよ。わからないのかしらね。まあ、理解できるだけの知性がないから、そんなことをしているのだろうけれども」
「あらあら、何を言い出すかと思えば。わたしがアランさんの近くにいることで、どういう不利益があるというのでしょうか。もしかして、アランさんがわたしに惚れてしまって、わたしだけを見てしまうなんて思っているのでしょうか。まあ、そんなことになってしまえばとっても喜ばしいことではありますが、そんなことは万に一つでもあり得てしまうのでしょうか? あなたたち的にはあり得てしまうのでしょうか?」
「はあ? そんなことがあり得るなんて思っているのは、あんたぐらいよ。誰一人として、そんなことは想像もしていないわよ。断言できるわ。それほどまでに、あんたが今言ったことは、起こりえないことなのよ」
「でしたら、わたしが近くにいることによる不利益は存在しないじゃあないですか。問題ないこととして解決して、処理できてしまいますよね」
「それとこれとは話が別なのよ。それすらもわからないのかしらね。アランの近くに私たち以外の女が近寄ってきて尻尾を振っているのが許せるわけないって言っている話なのよ。それは当然でしょう?」

 今までであれば、ムウが勝っていただろうが、ハルはそう簡単に引っかかることはなくなっている。ルクトルの前例があったおかげであっただろう。とはいえ、そこで勝ちを拾えたからといって、ここから先に有利に働くのかといえばそうは思えないわけだが。そもそも、彼女たちの険悪な雰囲気の中でも無理やりに俺の隣に座っているのだから、そんじょそこいらの理論では意味がないということは明らかなわけである。
 俺が今すぐにでも立ち上がって、この場から離れればそれは全て解決するのだろうけれども、それを許さないとばかりに、ムウが太ももを掴んでいるのだ。立てないように押さえつけているのだ。人なのかと疑うほどの腕力である。下手したら椅子が壊れてしまうのではないかと不安に思ってしまうほどの力である。もし、これで俺が抵抗しようものならば、確実に椅子は壊れる。であれば、どこにも動くことは出来ない。おとなしく彼女の隣に座ることしかない。それはいうまでもなく明らかであるだろう。
 それからというもの、何度も言い争っているわけだが、それで決着がついたのかといえば、ついてはいない。どれだけの時間を使おうとも、解決の糸口が見えそうですらない。どちらかが諦める、ここはムウだろうが、彼女は意地になっているのか諦めるつもりがないというのが末恐ろしい。先日にはいつの間にか俺の部屋に入り込んでいたというのだから、何をするつもりなのかわからないというのも余計に恐ろしく見えてならないのである。女性としての美しさと、人間としての恐怖、恐ろしさというのは両立出来てしまうのだ。彼女が証明してくれている。
 俺の頭を悩ませる自体は増えていく。自分で蒔いた種で自分の首を絞めているのである。バカみたいだろう。だが、それを後悔することは出来ないのである。全てを愛してしまっていて、この苦悩ですらも、愛おしく感じてしまっている。これをどう後悔するのかという話であった。それほどなのである。むしろ、俺のために彼女たちが感情をむき出しにしてくれているのだと思ってしまえば、全てが愛らしく、素晴らしいものであるように見えてきてしまうのであった。
 ハルはそれを知っている。だから、呆れたように溜息を吐いているのであった。俺に体を預けるようにして、体重をかけてくるのだが、それと同時に、責めるような視線を向けているのだ。わずかな冗談を混じらせているような目でもって。俺はそれに対して頭をなでることでしか、返すことが出来ない。彼女の責める視線には何も言い訳はしないし、出来ないのだから。
 そんな恐ろしくも、素晴らしい日が続いていた。これからも、そんな流れで進んでいくのかと思っていたのである。俺は何気なく自室でくつろいでいたのだが、そんな中でガチャリと扉を開けて中に入ってきたのである。ムウがだ。彼女は何も言わずノックもせずに唐突に入り込んできたわけだ。俺は何もしていなかったからよかったものの、唐突に入ってくれば、驚くだろう。それだというのに彼女はそれを気にするそぶりがない。ただ、にこりと微笑んで俺のことを見ているばかりなのである。

「アランさん。前にお話ししましたよね。おのこと女、男の話を。今日はその続きをしたいと思いまして、来ました。あなたにはまだまだいろいろと知ってもらいたいことがあるのです。それを知ってもらうことによって、より深くわたしを知ることにもなります。自分自身の心と体をさらけ出して、素敵な殿方に見てもらう。恥ずかしくとも、とてもウルクしいことではないでしょうか」
「そ、そうかい……。たしかに、それは非常に素晴らしいことだろう。自分自身の全てをさらけ出すことが出来る相手というのはそうはいない。そういう相手とは運命すら感じるからね。だとしても、ノックぐらいはして欲しかったな。突然に入ってきてしまうと、さすがに驚いてしまうからさ」

 彼女は口元に手を当てておしとやかに笑うばかりである。話を聞いていない可能性すら出てきている。ただ、俺はそれを見ても何かを言い出す気にはなれなかった。圧倒されてしまったのかもしれない。気力というものに。彼女は何も言うなと言わんばかりに、こちらに圧力をかけてきているのである。恐ろしい程の圧だ。凡人であれば、呼吸することすら苦しいであろうほどの。
 そして、彼女はあまりにも唐突に服を脱ぎ始める。俺は思い切り驚愕してしまい、一瞬思考が固まってしまったのだ。その隙というのは非常に大きいであろう。寸前で食い止めようとも、その寸前をもう逃がしてしまったのだから。もう、どうしようもなく彼女は下着姿に変わってしまう。その姿を見て、俺はまた一つ大きな驚きを見つけてしまうのである。あり得るだろうかという問いと、今現実に起きているのだという二つが対立しているのである。
 彼女は男であった。ルクトルと同じ男であった。いや、確かに彼女は男だとほのめかしていたところはある。だが、それを簡単に信じていいものかと思う自分もいた。ルクトルという前例はいるが、その前例は大きな例外としても存在できてしまう。だから、そう簡単に信じるわけにはいかない。だが、今まさにそれは現実としてあるわけだ。
 思考が止まったまま動き出すことはしない。これほどまでに女性的で美しい男がいるかという問答が繰り広げられて、固まったのだ。ルクトルはまだまだ、彼女の領域には達していないのである。それを真に深くまで突きつけられているのかもしれない。妖艶なのである。艶がある。指先のほんのわずかな仕草にですら、性的な魅力を持ち、俺の獣欲をひたすらに刺激してくる。
 彼女は笑ったままに、俺に体を預けてくる。女性のようなしなやかで柔らかな感触でもって俺を包み込んでいるのだ。逃げられるわけなどない。今目の前にいるのは一人の女なのだから。女以上に女としての美しさを持った女なのである。これに対抗できる精神を持とうとも、それを絡めとり、ほだす力を持っているのだった。

「驚きましたか? 信じていなかったでしょう。わたしも、おのこだっていうことを。だから、こうして裸になって教えてあげたのですよ。どうですか、私の裸は? 気に入りましたか? ふふ、くぎ付けじゃあありませんか? まあ、仕方のないことかもしれませんけれど。もっと見てもいいんですよ。それだけじゃありません。触って、撫でて、舐めて、そのまま愛してくれてもいいんですよ? わたしは、あなたを受け入れる準備が出来ていて、受け入れたいと心の奥底の魂から望んでいるのですから」

 彼女の声に脳みその奥底まで溶かされていくような、そんな感覚を覚えてしまう。それだけの力を持っていると感じるわけであった。すうと、手が伸びていく。彼女の頬にゆっくりと触れるのである。

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