天の仙人様

海沼偲

第186話

 手紙から、リリ義姉さんたちは無事に出産を終えることが出来たということがわかった。何の前触れもなく、兄さんからの手紙が届いたものだから、何が起きたのかと心配してしまったのだが、そうではなかったと知ってほっとする。それに、もうそんな時期かという時の流れの速さを感じている。そして、その隣には、ルイス兄さんの息子が二人もいるわけであった。一人はクルーであるが、もう一人はつい最近生まれてきた赤ん坊である。俺に預けられるようにして、親はどこかへと行ってしまったので、俺が今抱きしめている。次男の方は、アブルイというらしい。こちらは、特に何か変わったところはないそうで、普通の赤ん坊である。夜泣きがうるさくて大変だと嘆いていた。ただ、そう言ってくるルイス兄さんの表情は緩み切っているので、全く嘆いているようには見えなかったわけだが。なにせ、本来の姿であろう子育てをようやくできているという実感の方が大きいのかもしれない。それだけ、クルーが手のかからない子ということでもあるが。
 俺の腕の中にいる彼は、じっと俺の顔をのぞき込むようにしている。赤ん坊というのは、全てが新鮮だから、一つのものをじっと見続けているのが当然なわけだが、その瞳をのぞき込むようにしていると、そこに吸い込まれてしまうのではないのかと思ってしまうほどに、深い深い黒い瞳であった。なんとなくで、指を近づけると、唇が吸い付いてくる。どれだけ吸っても、お乳は出ないのだが、それが愛おしく見えるので、何も言うことはない。
 俺はとうとう、四人の甥を持つ、叔父というわけだ。しかも、どうやら全員男であるらしい。ここまで、女がいないというのは珍しいだろう。そのしわ寄せがこちらに来るのではないかと思わないではない。さぞうるさくなるだろうな。一堂に顔を合わせた時にこれから先どうなってしまうのか、楽しみであり恐ろしくもある。まあ、最年長であるクルーがおとなしいので、大丈夫だと思うけれども。その彼は、俺が座っている椅子につかまってリズムに乗っている。その気になれば、部屋の端から端まで歩くことが出来るそうだ。それでも、うろうろしないのは、彼自身の本質が、あまりにも大人びているというところだろう。まあ、悪いことではないと思うが。
 そう思えば思うほどに、アブルイのあまりにも赤ん坊であるという様子が珍しく見えてならないわけであった。こうまでも、普通であるということは、とてつもなく珍しいのではないだろうかと思えてならないのだ。だが、才能にあふれている人が周りにいる場合において、普通であるということはとてつもなく苦痛でしかない。普通であるというだけなのに圧倒的に劣っているのかと勘違いしてしまうこと必至なのだから。その時に、支えてくれる人がいることを祈る。その人がいれば、自分を否定することがなくなるのだから。それは非常に大事だろう。親でもいいが、親以外に一人でもいると、その安心感は計り知れるものではなくなるわけなのだから。それが、将来妻となることがあれば、それはより良い事であろう。真に信頼できる人と結ばれるということは。
 がちゃりと扉が開いて、義姉さんたちが入ってくる。しばらく俺が預かっていただけなので、彼女たちは引き取りに来たというわけだ。義姉さんたちもいろいろと忙しいのだろうから、こうして暇人である義弟に預けるというのも、おかしな話ではないだろう。俺に、礼を言うと、抱き上げて、部屋の外へと出て行ってしまう。俺はそれを見ていて、閉じた後も、動くことなく、その先を見透かすかのように、じっとしていた。先ほどまでいた、二人の子供の余韻を感じているわけであった。
 余韻に浸り終わると、再び手紙に目を落とす。そこに書かれていることには特別なことはない。普通に子供が産まれて、普通に喜んでいるということだけが伝わる。クルーのように、何か特殊な現象が起きているということはないそうだ。カイン兄さんは、御子様に目をつけられているのだから、その子供にも何かがあるかもしれないと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。もし、そうであった場合は、いくつもの問題を同時に対応しなければならなくなると、頭を抱えていたことは間違いないのだから、むしろ、普通でいてくれてありがたく思っているのだが。
 それを読み終わると、次にもう一つの手紙……というよりは招待状というにふさわしいものを手に取る。これは、アリスとキースとの結婚式の招待状であった。結局、二人は結婚することが出来たらしい。しかも、他には誰もいない。キースは最後まで意思を曲げることはせずに、アリスとだけを望んでいて、それが叶ったのであった。カイン兄さんのように後からもう一度結婚式を開く可能性もなくはないが、王国女は基本的に、二回目の結婚を極端に嫌う傾向があるから、それをするぐらいなら、他の男を探すというわけだ。だから、何かがあって他国に出かけない限り、キースに新たな妻が出来ることはない。
 そして、その招待状が来ているというわけである。幸せであるという雰囲気を、その中に封じ込めているかのようであった。とはいえ、春ごろまではまだまだ時間があるのだから、それまでに準備をしておけばいいだろう。妹の結婚式にしっかりと出てあげるというのも兄の役目であるだろうからな。

「義理の妹でしかないけど、一緒に長い間暮らしていたということもあるし、そんな彼女が結婚するなんて感慨深いわね。まだまだ、ちんちくりんな女の子でしか、私の中ではないというのにね」
「そうだね。時間が流れるのは早いよね。あたしたちだって、あっという間に大人になって、こうしてアランと結婚しているんだものね。アランと出会ったことだって、昨日のように思い出せるのに、もうこんなに大きくなっちゃったかって、思っちゃうよね」
「本当よ。私だって初めてアランと出会った時も、惚れた瞬間も、お互いの愛を確かめ合った瞬間も、全部覚えているもの。昨日のことかのように、正確にはっきりとね」

 二人の妻は、まるで老婆のような枯れた会話をしていた。確かに、自分より年下の人間が、結婚するとなると、何か思うところがあるのだろう。俺だって、いろいろと感慨深いものを感じているのだから、彼女たちが感じないわけがないという話であろう。それだけ、彼女たちはアリスの幸せを祝福してくれているということでもあった。そうでなければ、何も思わないということが普通だろうから。
 そうして、結婚式当日になる。アリスも学年主席で卒業し、それとほぼ同時期に、キースも王都へやってきていた。そして、すぐに結婚式場の準備を始めたわけである。俺がもし、学校側からの温情によって、主席を取っていなければ、唯一俺だけが主席卒業ではないということになっていた。そう思うと、彼らには感謝してもしきれない。バルドラン家兄弟の中で唯一主席卒業ではないという肩書を背負って生きていかなくてはならなく常呂であったろう。そういう細かいことを一々気にするわけではないのだが、やはり、心のどこか奥深くでチクリと刺さったままで抜けないような小さなとげとして残り続けてしまいそうな感じはあった。どれだけ、見ないふりをしようとも、現実としてそれは残るわけだし、逃げられないのだから。
 結婚式は厳かに進んでいき、それが終われば、外でパーティが開かれる。いつもの流れである。幸せのみがこの場を支配しており、その美しさに、誰もが心を奪われているようである。幸福というのは、他人に分け与えられ、そして、それが増幅していくのである。その光景が今ここで起きているということも、それに根拠を持たせてくれている。今この瞬間を切り取って、永遠に残しておきたいと思えてならない。それが出来ないことをただ残念に思う。写真として残しても、絵として残しても、その臨場感は味わうことが出来ない。一つの大きな壁が唐突に現れて俺たちの感傷を妨げるのだから。
 そんな世界の中に浸っていれば、より外れた存在は敏感に感じ取ることが出来るというものである。鋭敏なまでに鋭くとがらせた神経が、ちりちりと後頭部のあたりから、気味の悪い、そして気分の悪い空気が伝わってくる。後ろを振り向くと、間違いであったかのように静まり返っている。ただの、パーティという光景のみである。であれば、今感じ取ったものは俺の気のせいであったということなのだろうか。それにしては妙にはっきりと感じ取れたのだが。そんなことがある物だろうかという疑問が浮かんで消えることはない。
 それからというもの、それが気になって純粋に楽しむことが出来ない様な気がしてならない。皆が、大いに盛り上がっている中で、俺だけがその輪の中に入ることの出来ない様な、そんな悔しさと、それ以上に今これをどうにかして解決しておきたいという焦燥に近い感情が蠢いていた。ぐるぐると体を巡っているのである。
 このなかで、俺だけが警戒心をむき出しにして、周囲を見ているのだ。明らかにおかしい人でしかない。だが、俺は気配を完全なまでに消している。彼らの幸福を俺によって邪魔するわけにはいかないのだから。お酒であったり、その場の雰囲気のおかげで、俺の気配を感じ取ることは誰も出来ていないだろう。出来ているとすれば、ハルたちくらいだろう。それほどまでに薄めている。
 きりきりと何かが引っ張られている音が聞こえ。そちらへと視線を向ける。その瞬間、恐ろしい程の速度で矢が放たれたのだ。魔術的な補助が行われて、矢でありながら音速の壁をギリギリで超えないかというほどである。その軌道上には、アリスがいる。彼女は談笑していて、気づいている様子は見られない。あのまま不意を突かれてしまえば、心臓近くに突き刺さることは間違いないわけだ。
 俺はすぐさま駆け出して、人の隙間を縫うように動き、遅れることなく、アリスの近くへとたどり着くことが出来た。まだ、矢はわずかに遠い。とはいえ、一秒もかかることはない。瞬間で到着するのだ。どれほどの距離であろうとも、その矢を俺は掴んで、止める。ピタリと止まって、誰も怪我をすることはなくなった。衝撃で手は痛みを訴えかけてくるが、それも秒も経つことはなく治まるわけであるが。それと同時に、俺の気配が周りの人間にも感じられるようになり、俺が今何を手に持っているのかということを理解していくほどに、周囲から悲鳴が上がっている。ただ、アリスは驚くばかりで、言葉を発することは出来ていない。
 俺の視線の先には、矢が放たれたであろう場所があるわけだが、そこに人の気配はしない。もう逃げたのだろうか。さすがに失敗してしまったからといってその場に残り続けるような間抜けではないらしい。だが、すぐにでも追いつくことは出来るだろう。この世界に存在している限り。俺から逃げるためには、次元を超えねばならないのだ。そうでない限り俺は確実につかまえられる。それだけの自信がある。
 俺は、キースにアリスを守ってもらうことを約束させると、すぐに飛び出して、矢を放ったであろう場所まで一瞬で移動する。そこには、まだ気の流れが感じ取れる。人の存在の証明である。自然はそれを覚え、俺に教えてくれるのであった。自然に監視されている人間が、逃げられる道理はないだろう。そして、それはすうと線を引いて続いているのだ。そちらへ向かえば、つかまえることが出来るだろう。俺はすぐさま駆け出した。そして、建物の上を飛び越えるようにしながら、気の巡りをとらえていく。だんだんと濃くなってくる。時間がまだ多く経過していないという証拠である。一分も経たずに滞りなどなく、消えてしまうのだ。だから、それほどの距離はないというのに、さらに近づいているということがわかるわけである。
 跡を追えば追うほどに、それは濃くなり、そしてようやく見つけることが出来た。彼が認識できる限界を大きく越えて接近し、そのまま押し倒す。ついでに手足の骨を折っておき、逃げることが出来ない様にしておく。彼は痛みで絶叫しているが、妹を殺そうとしたのだから、これぐらいされる覚悟はあったであろう。次は、彼がどういう目的でもって、アリスを襲ったのかということである。それを聞こうとするが、彼はかたくなに口を閉ざして、開きそうではない。今まさに手足の骨がおれていて、絶体絶命であるというのに、口が堅いということは、それなりの、信頼関係があるのか、人質に取られているのか、いろいろと考えられそうだ。

「とりあえず、貴様には二度と自由はないだろう。貴族の娘を殺そうとしたのだからな。今見ている日の光が今生において、最後のものになると思っておけよ。来世に生まれ変わることすらも、望めないような時間を送ることになるだろうからな」
「…………」

 俺の脅しは効いていないようだ。たしかに、この世界で生きている限り、日の光が拝めないだろうというのは、当然のものとしてあるわけで、それを知らないわけではないだろう。それだけ貴族の人間を殺そうとするのは重い罪である。ただ、彼は俺が地獄の人間と通じているということは知らなかった。たったそれだけの事実が何を意味するかは、言うまでもないことであろう。
 とりあえずは、衛兵たちに連絡を取るため、風に声を乗せて、衛兵の詰め所へと送る。しばらくすればやってくるだろう。その間は、彼が自殺を図らないように、注意を払っておくことであろう。それをしておけばとりあえずは大丈夫だろう。どれだけ頑張ろうとも、今の状況では彼から情報を取ることが出来ないのであれば、それしかすることがないのだから。彼を金縛りで動かないようにさせて、衛兵が来るのを待つわけであった。

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