天の仙人様

海沼偲

第181話

 今日は久しぶりに森の中へと入っていく。村にある森である。どれくらい前であっただろうか。めったに寄ることも出来ないのだから、その久しぶりの再会を全身でもって味わっているのである。姿は変わらないとしても、雰囲気というか、格というか、俺の感じる感覚が何か違うと伝えているようであった。それは一歩一歩と進んでいくたびに確かな感覚として俺に伝わってくるのである。しかも、まだ中に入っていないというのにである。入っていないうちからも、これだけの違いを漏らしているというのはどういうことであろうか。それだけ俺の感知能力が上がっているのか、聖域の認識疎外の力が弱まっているのか。この違いを、これを感じ取ったのは俺だけだろうかと、三人にも目を向けると、それがわかっているかのようで、こくりと頷いてくれた。
 ならば、これは悪い方向へと向かっているのか。そういうわけではない。どれだけ心配になろうとも、それはないだろうということはある。それは清らかな美しさでもって覆われているような気がしている。であれば、それは悪いということは決してないのである。ただ、あまりの変わりように、見てもいずにそれが伝わってきて、それに対する驚きがただ勝っているということであった。
 踏み込めば完全に違いがわかる。一つの壁を隔てて、全く別の世界へと変わってしまったのだ。今まで入ったことのないルイとアオの二人は、それに圧倒されているかのように唖然として、口を閉じることを忘れてしまっているわけである。ただ、俺たちはそれを指摘することはなく先に進んでいく。いたずらが成功したかのような気持ちがわずかに心に現れてはいるが、それを表に出さないようにして、あたかも冷静であるかのようにいる。しんと静まり返った森の中で、だんだんと声が聞こえてくる。音となって、曲となって俺たちを歓迎してくるかのように大きくなってくる。すっと、顔が見えた。妖精たちである。彼らは俺たちのことを忘れていないようで、にこやかな顔をしていながら俺の方へと向かってきてくれるのである。

「ここは……こんなところがあったのですね。とても綺麗です。心が洗われるような……いえ、消えていくかのようですらあります。自分が、自分として存在していることがより希薄になってしまいそうなほどに、とても……。それに、可愛らしい妖精しゃんがわたくしたちを見ていますね。笑っているような、悲しんでいるような、怒っているような、楽しんでいるような……そんな表情」
「ほら、手をつないで。しっかりと自分を持たなくちゃ。そうでもしないと、この世界に溶け込まれて消えてしまう。ここは、警戒心がどの場所よりも高いんだ。他であれば、許されようともここではない。特に初見の人にはね。だから、こうして、手をつないで俺の知り合いであることをしっかりと認識させなくてはならないのさ。ほら、アオも手をつないで。妖精たちに教えてあげなくちゃあならない。この二人は俺たちの家族だから危害を加えちゃだめですよってね」

 ルイとアオの二人は、俺の手を掴む。しっかりとした温もりが伝わってきて、彼女たちが存在していることを手のひらから伝えてくれる。それだけで十分であろう。それに、そうすることによって、幸福の中で消え去ってしまうことはなくなっただろう。すっと、彼女たちにかけられていた圧力が消失していくのが感じられるのであるから。
 妖精たちはそれを見ると、綺麗な音色を鳴らしながら、俺たちにより一層近づいてくる。知らない人間には警戒心をわずかに持たせて、顔を見せたりはするが、近づいたりしないのだが、そうするということは、彼らもまた、完全に警戒する必要がないのだと理解できたということであろう。この場所にも、俺たちが家族であると認められたようなものであった。
 彼らに群がられながらも、歩を進めていくと、しばらくの時間がかかって、ようやく目的の場所までたどり着いた。しばらく見ないうちに、聖域の範囲は相当に広がっているようだ。時空が歪んでいるせいで、聖域の中へと入るまでは同じ距離であったが、そこから中心へと歩くまでには相当に時間がかかる。不思議な空間である。土地の広さが外と内で大きく変わってしまうのである。いずれはこの世界と同じだけの広さを持つ空間にまで広がってしまうのだろうか。気が遠くなりそうだ。中心に来るまでにどれだけの時間を歩くことになるのか。考えたくはない。それに、その間にもいくつかの生き物に出会ったが、どれもが見たこともないような変化を遂げている。聖域の空気に当てられて変わっているのだろう。数年も浴びていればそうなることは間違いない。
 俺の隣を頬ずりするように歩いているオオカミは、半透明であるかのように透けている。半分精神生命体になりかけてしまっている。ただ、肉体をしっかりと持っているためにか、俺が触ろうと思えば触ることは出来る。仙人だからかと思ったが、ルイも触ることが出来たために、そうではないことは証明されている。いずれは、精霊と同じような存在へと変わってしまうのだろうか。元は生物だから、そうはならないか。ただ、独特の進化を遂げてしまっているというこの事実が広がっているわけであった。
 苔むした大岩の前には聖域の守りびとである、女性がにこりと笑みを浮かべて俺たちを歓迎してくれる。彼女は一人でこの地を守り続けているのだから、寂しくはならないのだろうかと思わずにはいられないが、妖精と会話が出来るそうなので、そうではないらしい。そして、大岩の近くにはそれなりの大きさの小屋が建っていた。どうやら、彼女の家であるらしい。

「どうやら、お父さまは新たな女性ともつながりを持った様子で。数十年後には何人に増えているのでしょうか。私は、心配でございます。これから先、お父さまのことを卑しい目でしか見ることの出来ない無様な女にまとわりつかれてしまうのではないかと心配してしまいます。出来ることならば、私が永遠に守り続けておきたいのですが、私はこの場から動くことは叶いませんので。あなた方に任せることしか出来ません。それが悔しい事この上ありません」
「ええ、そうでしょう。あなたもよくわかっているじゃない。見どころがあるわね。やはり、アランの娘というだけはあるわ。でもね、アランはどうしても、私たちに生活の全てを預けてくれないの。そうしたほうが絶対に安全で、そして幸せだって教えても、自分で外をみたいだなんて言っちゃうんだもの。呆れちゃうわ。この世で最も幸せなことは、何もしないで、家から出ないで、ただ私たちと愛してくれればいいというのにね。もちろん、私を世界で一番愛してくれれば、最高だわ」
「ああ、そうそう。これからは私自身のことをナツと名乗らせていただきますので。これからは、そうお呼びください」

 しれっと、彼女が言った言葉はあまりにも衝撃的である。俺はそのことについて聞いてみると、自分で考えた名前ではないらしい。自分の名前を自分で考えるということはしないのだそうだ。まあ、俺たちも、自分の名前を名付けたことはないのだから、当然なのだろうけれども。であれば、誰かによって名付けられた名前であるということである。しかも、ハルとアキから連想されるような名前である。天龍様に名付けられたということなのだろうか。ということは、この地にいつの間にか来訪していたということだ。いつの間にか。ならば、挨拶の一つでもしたかったのだが、いないのならばできないだろう。仕方なしと諦めるしかあるまい。
 俺はさっそくとばかりに岩の上に座って、気を巡らせていく。さわさわと木々が喜んでいるかのように騒ぎ出している。心地の良い風を送られている。彼らからの感謝の言葉なのであろうか。それであるならばうれしいことだ。ゆっくりと、丁寧に気の巡りを団Dなと広げていく。今はまだ自分と触れ合う自然の気と混ざり合わせることで、後は自然任せに流していたものを、自分の意思でもって、伝えるようにして今周囲に存在ししている、木々や草花へとつなげていく。一つ一つ丁寧に混ざり合わせつなげることで、より多くの気が巡りまわってくる。あふれ出すように、おさえきれないように俺の中を巡る気の力は強まっている。この美しい自然の中で、それぞれに修行を始めた面々も、俺の変化に気づいたようで手を止めて、見てくるのである。
 すうと、気の流れを止める。先ほどまで騒いでいた彼らもピタリとやんでおとなしくなった。再びにしんと静まり返ったのだ。いつもならば関係ないとばかりに声を鳴らしている妖精たちもこの時ばかりは何も言わずに黙っていた。だんだんと自然と一つになり、自然に愛され始めているような気がしないでもない。味方に付いてくれるようになったのだと思えてくる。
 ハルたち仙人は、俺が行ったことがどれだけ技術が必要なことかわかってくれているだろう。だから、食い入るように見ていた。参考にしてもらいたいが、これは、テクニックでどうにかなることではない。何年も時間をかけて慣らしていく必要がある。俺は、数年ほど先輩だからできるだけでしかない。であれば、いずれは彼女たちも出来ることなのだ。俺は変に驕ったりはしてはならない。

「なかなかに、優れた気を回し、自然と調和を取るようなものが突然に現れたのだから、何事かと思って来てみれば、そなたであったか。あれからも努力を重ねていったということがわかるものであるの。優れた仙人として上の位に今すぐにでも到達してしまいそうであるな」

 と、背後から声が聞こえる。そちらへ視線を向けると、柔らかな表情をしている老人がそこにはいた。ただ、俺はこの瞬間にただの老人ではないことはわかっている。ただでさえ、この地に踏み込めているというだけで尋常ではないし、そしてエルフらしき特徴も見られない。ということは、聖域に踏み込めるほんのわずかな可能性すらも存在しないのだが、それすらも突き破ってくるかのように、今こうして存在しているのである。
 しかもである。今こうして彼のことを見ているだけで圧倒されているかのような、押しつぶされてしまうかのような格の違いを感じている。ただの老人にしか見えないというのに、内に秘めたる力は、俺たち全員を軽くねじ伏せられるのだ。勝ち目がない。たとえ、何かしらの奇跡が起きて不意を付けたとしても、その小細工すらも無意味にされてしまうかのような圧倒的な暴力で壊されてしまうことであろう。
 ただ、ナツはそういった様子を見せていない。顔見知りに出会ったような対応である。ということならば、聖域に対して仇名す存在ではない。それだけは確実に理解できた。むしろ、その情報だけでも俺は救われたような気さえしてくる。なにせ、この地を破壊する為に来たのであれば、俺たちは守ることが出来ずにただ蹂躙されていく様を見せつけられることしか出来ないのだから。

「あ、お父さま。気づいてはおられないようですね。このお方は天龍様でございます。今はこうして人の姿を取っており、あそこにある小屋に住んでいるのでございます」
「うむ、久しいの。それと、おぬしが生み出したであろう、この地は非常に住み心地が良い。であるならば、わしもここに住まわせてもらうことになったのじゃ。別に、おぬしたちが住んでいるわけではなさそうだからの。別に構わないであろう。めったなことでは、このような心地のいい世界はそうそうないのじゃからの」

 まさかの存在であった。しかも、ここに住んでいるようで。避暑地的な意味で使われているのだろうか。夏は涼しく冬は暖かいこの森は非常に過ごしやすい事この上ないのだから。四季の影響を全くと言っていいほど受けることなく、存在していられる空間なわけであるのだから。
 そして、天龍様はニコニコと笑みを浮かべながら俺たちを見回していると、一人の前で止まった。じっと目を見開いて睨み付けているかのように見ている。それをされてしまえば、彼は何もできずに縮こまることしかできない。特にそれが、アオほどの小さな年齢であればというものである。しかも、天龍様はそれに気づいていないようで、じりじりと近づきながらも、決して目線を外すことはせずに、アオの元へと寄っていくのだ。俺が何とかして、無理やりに意識を取り戻させると、彼は恥ずかしそうに頭を掻いた。

「いやあ、すまんの。久しぶりに龍の子供を見ることが出来たのでな。少しばかり興奮してしまったわい。申し訳ないの」

 彼の口からは、唐突に爆弾が飛び出してきた。それが今この瞬間に爆発してしまうというのもまた、恐ろしいことである。俺たちは開いた口がふさがりそうになく、ただぽかんとしたままであったのである。

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