天の仙人様

海沼偲

第168話

 三人もいて、誰も何も言わずにただ立ち尽くしている。全てのものの時間が止まってしまったかのように、静かにして何もない。ルイが人形であるかのように凍り付いてしまっているのだ。俺たちの中において響いてくる靴音はハルが鳴らしている。ゆっくりと一歩一歩を近づいてくる。足並みの遅さが、締め付けられるような恐怖に浸されているかのような錯覚を覚えさせようという意思が見えてしまう。
 縛り付けられたのかと思わずにはいられない。ただ何もなく、彼女が近づいてくるという事実のみ。それだけが目の前に存在し、それ以外の情報が全て排除されてしまっている。この世の全ての空気が変わってしまったかのようで、重く、そして苦しく、変質してしまっているわけであるのだ。そう簡単には動けない。ぎちぎちと錆びついてしまったかのように、何もさせられないのだから。
 彼女たちの手が触れ合う距離にまで近づいていると、にこりと笑みを浮かべている。理解が出来ないというように、震えていることしか出来ていない。ただ、ハルはルイのその様子をまったく気にしてはいないようであった。理解することを放棄したかのように、それでもただ、近寄ってくる。彼女の拒絶するかのようなわずかな腕の動きが見えた。しかし、それを振り払うかのようにして、さらに一歩踏み込んでいる。張り付けたような笑みがただただ、恐ろしく見えたことであろう。だが、その感情を抱かせることすら許さないというかのようなそんな空気を纏っているわけであった。恐怖という感情は、本来であれば抱くことはないだろうと、あり得ないだろうと、そう問いかけているかのように思えたわけである。

「どうだった? こうして、アランと楽しい日々を過ごせて。私が気づいていないと思った? そんなわけはないでしょ。全部知っていたわ。あなたが、友人という立ち位置を何度も何度も繰り返し言うことで、自分自身の罪悪感を消そうとしていたのかもしれないわね。なにせ、今の今まで、アランに対する好意を完全に封じてきていたのだから。たぶん、好きなのかもしれないって思っていたのだけれども、確実といえる証拠がなかったから、どうにかして引っ張り出してみたかったわ。こうして、アランの近くにいない期間をあえて設けてみたら、出てきたわね。でも、こうして腕を組んで歩いているということは、もう、自分に嘘をつくことを辞めてしまったのかしら? アランと自分はただの友人なんだって、言い聞かせることは面倒くさくなってしまったのかしらね。もしそうなのだとしたら、それは残念ね。もう少し頑張ってもらいたいところではあったけれども」
「え、えと……そういうわけでは……」
「そういうわけではないのなら、どういうつもりなのかしら。毎日考えていたのでしょう? アランに愛されている自分の姿を。愛し合っている姿を想像していたのでしょう? きっと、幸せにあふれていたことなのでしょうね。だって、漏れていたもの。簡単に気づいてしまうほどにね。そうだというのに、それのどこが違うというのかしらね? どう弁明をすれば違うと言い切れるのかしらね?」

 何も言えなくなってしまったのか、うつむいて口を閉じてしまう。ただ、それでも俺を求めているかのようで、腕を掴んだままで入るのだが。そこを見ているハルの視線が鋭く、恐ろしく見えるようだった。恐怖でもって今は優勢に立っているわけであるだろう。そうでなくても強い立場にいられるだろうが、それをより強固にして頑丈にしているのである。今は何を考えているのかがわからないが、そのわからないところが今はただ、不気味に思えるのかもしれない。
 彼女は俺たち二人について来いと言っているかのような視線をぶつけてくる。ルイは戸惑ったかのような目を見せているが、だからといってそれに逆らえばどうなるかはわからない。ならば、それに従うまでであろう。彼女の後ろをついて歩いているのである。どこまで歩くのかはわからないが、その足取りに迷いはない。真っ直ぐにどこかへと進んでいるのだろうということがわかるのである。それはどこだろうか。一つの店の前である。中に入る。俺たちも続いた。そして、一つの席へと案内される。そこにはルーシィとルクトルの二人も座っていた。そして、真っ直ぐにルイのことを見つめている。やっぱりかと納得しているようである。ハルが彼女を連れてくることを知っていたのだろう。だからこその反応なのかもしれない。

「やっと来ましたね。予定より少し遅いものですから、見失ってしまったのではないかと思ってしまいましたよ」
「私がそんな失態を犯すわけないでしょ。ちゃんと頭を使って考えなさいよね。それに、あんたが呼ばれたことに関しては、お情けなところがあるのだから、節度をわきまえてほしいところではあるわ」
「あら? わたしとアラン様の婚約を許可してくれたのはどこの誰でしたっけ?」
「はあ……本当むかつくわね。なんでこいつに許可なんて出してしまったのかしら。本当にあの頃の私を八つ裂きにしてやりたい気分だわ」

 何故二人は険悪な雰囲気にわざわざしていくのか。俺が関わらなければ、二人ともそれなりの中であるはずなのだが、俺が入ってしまうと直後にこうなる。だが、今回はそうではないというのにこうなるのだから、相当に待っていたのか、それとも、他に何か理由でもあるのか。どちらにせよ、今この状況で自分から空気をよりピリピリとしたものへと変えていくのは辞めてほしいと思ってしまったところである。
 俺にそんなことを言う権利はあるのだろうかという思いはあるが、ただ今は、ただでさえ息苦しさをわずかに漂わせているのだから、わざとそうする必要はないのではないかと思わないでもない。彼女たちがそれを目的として喧嘩しているのであればどうしようもないが。

「くく……ああ、ごめんね。ルイちゃん。さんざんだったのかな? それとも、そうではない? まあ、どちらにせよ、その反応から見ると、すごく後悔しているか、反省しているのか。どちらだろうね。どちらでもいいんだけど、今のルイちゃんは、とってもか弱くて、可愛らしくはあるよね。守ってあげたくなるかのような感じ。男の人に好かれそうな空気を出しているよ。これも作戦かな?」
「そんなことは……」

 そこまで言って、自分の言葉に説得力を持たせられないと思ったのか口を閉ざしてしまう。その反応を見て、ルーシィはさぞ楽しそうな目をしている。人が弱っている姿を見るのが好きというわけではないはずなのだが、であれば、今の反応にはどういう意味があるのだろうか。彼女の真意はつかめずにいる。であればこそ、この集まりがあまりにも恐ろしいものであるかのように見えるだろう。俺ですらも、この恐怖に飲み込まれてしまいそうであった。
 彼女は、皆に促されて席におとなしく座る。適当に料理を注文したら、全ての会話なんてものが生まれることはなく、静かに三人の視線が一人の女性に集まっているのだ。ルイの方へとじっと見つめ続けているのである。あまりにもいたたまれない雰囲気ではあるが、これに口出しをしていいような状況でもないのだと理解できた。彼女たちなりの意図があるからこその、この行動なのだろうということである。
 この空気の中で座り続けることは不可能だと彼女自身も思ってしまったのか口を開こうとすると、隣に座っているルーシィにふさがれてしまう。首を横に振っている。絶対に発現をさせるつもりはないという意思の表れである。一切がわからないままに彼女は座らなくてはならない。俺もまた同じであった。これから何が起きるかわからない。ただ、その全てに俺も責任を持つべきではあるだろう。彼女たちの全ての責任が俺にのしかかるわけなのだと思わなくてはならない。それが俺の役目であるような気がするわけだ。
 カラカラと、氷を鳴らしている。配られた水をかき混ぜるようにしている。それだけである。今この空気は一体何のためのものであるか。彼女たちにしかわからない独特のルールの中で、運営されているのだ。変な動きを見せてはならないのだろうということだけが確かにわかることであった。
 料理が出てきた。食べ始める。静かな食事である。カチャカチャと食器を鳴らす音だけがこのテーブルの中で響いているのだ。他の音はすべて消えてしまっているかのように耳に届くことはない。隣の席に座っている人たちの会話も、何もかもが、ここには届くことなんてない。隔離されてしまっているかのようである。ただ、なぜだかこの空気が心地よく思えてしまう。五人がただ、食事を味わっているだけというそれだけが、たまらなく愛おしいと思えて仕方がないのであった。
 ルイは緊張で指先が震えているようである。ただ恐ろしさにのまれないようにとこらえているだけが精いっぱいなのだろう。まともに食事が出来そうではなかった。俺が彼女のナイフとフォークを受け取り、一口サイズに切ってあげる。これで十分だろうか。まだダメなようだ。食べさせてあげる。彼女はそうすることで、一時的にこの空間から逃避することが出来たのだ。だから、幸せそうに料理を噛みしめている。にこりと笑みを浮かべて、俺に体を預けるように倒れてくる。軽くではあったが。ただ、それに伴う殺気が充満する為に、再び彼女は震えるわけではあるが。
 食事が終わったので、俺が全員の分の代金を払って、店から出た。外は涼しげな風が吹いている。少し薄着であったなら、寒いと思える程度の気温だ。外の方が中にいるよりも騒がしくすら感じる。ただ、その人の温かさを何となしに感じてしまわけだ。ハルがようやくルイの方へと顔を向けた。今まで行動は一体何だったのかという疑問が解決される時が来たのだろう。俺たちは静かにその時を待っていた。

「私は……いろいろとあるだろうけれど、ルイ……あなたのことを友人だと思っているわ。親友だと思っているといってもいいかもしれないわ。それぐらい、あなたのことは好きよ。それ以上にアランのことを愛してはいるけれど。それでも、あなたのことはなんだかんだと友人だと思っていて、そういう関係であったと思っていたわ。そしてそれは今も思っている。で、あなたは……私のことを友人だと思ってくれているのかしら?」
「わたくしは……ハルしゃんのことを友達だと思っています。だ、だから……友達が愛している人に好意を抱いていても、絶対に伝えないようにしようって……我慢しようって……そう思っていたのですが。なにせ、ハルしゃんはそういうのが嫌いみたいですから。でも、アランしゃんが一人でいて、手が届きそうに思えてしまって、そうしたら……我慢なんてできません。好きなんですから。アランしゃんのことが世界で誰よりも好きなんです。小さな挙動一つ一つですら、目で追いかけてしまうほどに大好きなんです。そんな気持ちを我慢できるわけがありません。友達失格……ですね。自分で作った決まりを守れないなんて」

 しゅんとして、力のない言葉であった。俺はその告白を一つも聞き逃すことなく聞いていた。当然である。絶対に背けてはいけないところなのだから。彼女の告白はしっかりと、誰よりも俺自身が聞いていなくてはならないことなのである。ただ、俺の言葉は一つしかない。言うまでもない。だから、俺の言葉は最後でいい。その前に言うべきであろう人の言葉がある。俺はそれを待つ。彼女へと視線を投げかける。彼女もわかっているようで、呆れたようで、そして優し気な笑みを浮かべているのだから。
 彼女はゆっくりとルイの頭をなでる。それは、あまりにも突然のことであり、彼女は驚きのあまりに目を見開いている。ハルがこのような行動に出るとは思わなかったのだろう。確かに、普段のハルの姿からは考えにくいかもしれない。だが、彼女はとっても心優しい女性なのだ。それを知っていれば、そのことに疑問も驚きもない。

「私は……ルイのことが好きよ。友達として好き。で、友達には幸せになってもらいたいわ。友達の幸せを願うなんて、アランに汚染されてしまったみたいね。私の親の教育方針から反することなんだけれどね。私の親の方針としては、女は全員的。未婚であれば、絶対に油断するななんて言う教えだったんだから。既婚であって初めて心を許せなんてね。で、あなたが、アランと愛し合うことで幸せになれる、そうでなくちゃ幸せになれないっていうのであれば、私はあなたとアランが結婚することを反対はしないわ。これは、あなたと私が友人だと思っているからこそのやさしさだと思いなさいよ。そうではない、ルクトルはいまだに婚約者でいることに納得はいってないのだからね」
「え、ほ、本当……?」
「本当よ。そうでなければこんなことは嘘でも言わないわ。まあ、それでも、アランから一番の愛をもらうために争うことはあるでしょうけどね。一番じゃないと許せないから」
「あ、ありがとう……ありがとう……ハルしゃん……」

 もうこれ以上は何も言えないだろう。ただ、涙をこらえるようで、そしてこらえきれずに流しているのだから。ぐしゃぐしゃに歪んでしまっているようである。その姿をルーシィは呆れたように笑っている。とても愛らしく、魅力的な顔が見る影もない程に、歪んでいるせいなのだろうか。ただ、俺にはあまり関係ない話である。ただ、彼女を愛しているというそれだけの事実で十分なのだから。そこにあらゆる要素は介入されないのである。
 俺は、彼女を抱きしめる。そして、何度も耳元でささやいてあげるのだ。愛していると。それだけの言葉を、何度も繰り返すように、俺と彼女の心の奥底に打ち込んでいくようにであった。

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