天の仙人様

海沼偲

第161話

 アキは門の中に入ったことがないから、一歩足を踏み入れるのに相当な勇気が必要なのかもしれない。初めて人が過ごしている町の中へと入るのだから仕方のないことではあるのだろうが。だからか、慎重に門をくぐったわけではあるが、それが過ぎ去れば今まで想像の中でしか存在しなかった町の風景というものを実際に目の当たりにしているわけである。言葉を発することはなく、口をぼんやりと開いたまま佇んでいる。少しばかり人の往来の邪魔になりそうだから、手を引いて脇に寄せる。今まで、外からしか見ることの出来ない風景を見ているのだから、こうなっても仕方あるまい。俺は彼女の意識が戻るまで、付き合ってあげるのである。
 ゆっくりと顔がこちらに向いてくる。感動しているのだろうか、目の奥で輝いているように見える。今まで見たことのないものを見れるようになるということは、やはり誰であろうとも嬉しいのだろう。顔が自然と緩んでしまっているのだ。かろうじてこらえているのかもしれない。ぎゅっと手を握る強さが強まった。

「アラン。わたしはこうして今を生きていることをこれほどまでに喜んだことはないかもしれません。いえ、もう一つありました。それは置いておくとして、これほどまでに、ただ外からしか見ることの出来ない、ただの灰色で覆われていた町の姿を今こうして、自分自身の目で見ることが出来ているのですから。鳥の姿では入ることは決して敵わないであろう世界に、どれほどまでに小鳥を呪ったか忘れたほどの先の光景を見ているのです」
「そんなに喜んでもらえると、この町の設計者でなくても嬉しいよ。でも、今まで自然そのものの中で生きていても、この町の美しさを理解してくれるというのは、すごいものだね。人間の美的感覚とは普通は違うものだろう」
「根源的な美しさがありますでしょう。それを感じているのです」

 確かに、それであれば、どの生物もが感じ取ることが出来るだろう。生物の軸となる美的感覚は変わらない。神に近づく存在であればこそそれに美しさは内包される。そして、この町もまたわずかな神々しさでもって作られているおかげなのか、他の生き物でも同じように感じることが出来るのであった。
 俺たちはゆっくりと手をつなぎながら街を歩いている。今日はどこか宿で泊まるのだろう。一緒に探してあげている。お金を持っていなかったので、一か月程度泊まれるようにお金を渡しておく。彼女は、初めてお金を使うのだそうで、わくわくした顔を見せている。今までのような大人びた女性という印象を大きく崩すかのように一人の少女であるかのように、パッと顔を明るくさせて、輝いているかのように見せているのである。それがまた、愛おしく思えてならない。しかし、アキがそんな表情をしてしまうのも仕方のない事であろうというのはわかる。なにせ、修行をしていたのは山奥であったりしたそうなので、人間の文化に触れるのは今日からが初めてなのだそうだ。一応の知識は教えられたが、それだけだ。それを聞いてしまうと、俺は彼女が町で過ごすことが出来るのだろうかと少し心配になるが、自身をもって大丈夫だといっているので、それを信じることにする。
 どんと何かがぶつかったような衝撃が俺にかかってくる。そちらへと顔を向ければユウリが抱きついているのだ。最近は顔を合わせていなかったのだから、どうしているのだろうかなどと思うことはあったが、久しぶりの再会である。いつぶりであろうか。俺は彼女が元気そうだとわかるだけで十分であり、ふと笑顔がこぼれてしまう。彼女も同じようでニコニコと笑顔を見せながら頬ずりをしているのだ。だが、それをするたんびに、アキからの怒気というものが噴き上がっている。先ほどまでの穏やかな空気感というものがすべて消え失せてしまい、重く苦しく、呼吸しづらさが現れ始めているのである。
 それに気づいたようで、ユウリも彼女の方へと顔を向ける。目が合う。睨まれていることを知ったせいか体がこわばっている。そのせいで、余計に体が密着しているように感じるのである。先ほどまでの温かい体から熱が奪われていくかのように、冷たくなっている。自分を守るためにか、段々と半透明に変わりつつある。すうと消えていくようである。そのまま完全に人の目から見えなくなってしまいそうなほどだ。このまま逃げるつもりなのかもしれない。だが、そうはさせないという意思を表しているかのように、アキはがっちりと腕を掴んで離すことはない。怒りが抑えられていないようである。俺は彼女の頭をなでることで、少しだけでも冷静になってくれるように願う。
 何とか冷静になることが出来たのか、ユウリの腕を掴んでいる力を緩めることが出来たようである。それでも、目つきだけは緩むことはなくしっかりと睨んだままではあるが。しかし、その圧力も先ほどまでよりも弱まっている。おかげでか、ユウリも体の緊張をほぐすことが出来ているようなのだ。おかげで、少しばかり絞まっていた首元が解放されている。俺は首元をさするのである。
 そうして、重圧がかからなくなってしまってからは、先ほどまでと同じように睨み付けるようにして、警戒するかのような対応を見せている。怒りに体が奪われていれば、何をされるかわからないが、逆に冷静であれば、隙をつけるのだと彼女は思っているのであろう。そこまで、アキは甘くはないが、それなりの考えを持てる程度には、彼女もまた強いということなはずである。

「アラン、この汚らしい雌はなんなのでしょうか。どうやら、半霊であるようですが、アランに近づいてきて、自分の体を密着させているというのは汚らわしい存在ですね。誰の許可を得て、アランに近づいているのでしょうか。今すぐにでも成仏させてあげたほうがよろしいのではないでしょうか」
「あんたこそ何者なのかな? 少なくとも、アランくんの婚約者を名乗っている人たちの誰でもないのだからさ。僕はあんたの顔を見たことはないね。美人だからってお高くとまっているみたいだけどさ、そんな見ず知らずの女に対して、そう簡単に食い下がるような人間じゃあないよ」

 その言葉には、聞く人が聞けば、あまりにも弱々しく、力のないものでしかないのだが、アキにはそれが伝わることはない。言葉をただ意味もなく、刃物の代わりとして投げ合っているかのようでしかない。そのために、言葉の意味をとらえるということはしない。捕えてしまえば傷ついてしまう可能性が存在するのだから。そのために、耳から流すように聞きながら相手に投げていっているのである。
 だが、それのおかげでお互いがなにも傷つくことはなく、ただ武器を振り回すだけで終わっているともいえる。どちらもダメージはないのである。自分たちの口調が汚くなるだけである。しかし、そうして口汚くなろうとも、俺が嫌うことはないという絶対的な自負があるからこそ、そうしているのだともいえるわけだが。

「あなたのような女に知ってもらいたいとは思っておりませんからね。私のことを知っているのはアランだけで十分なのですから。それ以外はどうでもいいのです。ですから、今すぐにアランから離れるというのであれば、これは不問にしましょう」
「ぽっと出の女が一丁前にアランくんの女を名乗っていいわけがないよね。そんなことが許されるわけがないでしょう。しかも、獣臭い臭いをまき散らしているし。自分の体の手入れもままならないようなずぼらな女がアランくんにふさわしいだなんてたとえ逆立ちしたってありえないことなんだよ」

 とはいえ、今この瞬間にも明らかな険悪な空気が流れているように感じる。たとえ、相手の言葉を聞いていないといっても、どんなニュアンスを込められているであろうことは簡単に想像できてしまうのだから。なにせ、自分も同じことをしているのだから。もし、俺が間にいなければすぐにでも殺し合いが始まってしまうかもしれないという緊張感が漂っているわけだ。カンムリダチョウに元地縛霊なのだ。そりゃ、それなりに好戦的な存在なのは間違いない。俺は、この空気からさらに先へと進まないようにここに居続ける必要があるわけであった。そうでもしないと、二人が何を仕出かすのかがわからないからである。少なくとも、暴れただけで周囲の人間が死んでしまったとしてもおかしくはない。その程度には危険なのだから。
 どうしたものかと頭を悩ませているのだが、思いつく限りではとりあえず被害の出ないような場所で戦わせればいいのだろうが、そうしてしまうと、どちらかが死ぬまで戦いそうだ。どちらも死ぬとは思えないために、却下である。永遠に終わることない戦いは好ましくない。だから、どうにかして喧嘩ではない方向にもっていかなくてはならないのだが、それに納得するようには思えないのである。それに、時間がたつごとにだんだんと怒りがこみあげてきているのか再び空気が凍っているかのような冷たさを纏ってしまっている。周囲とは完全に空気の質からして隔絶されているようであるのだ。だが、その周囲とも、だんだんと空気の質が同調しているかのようであった。周りでも、一触即発の出来事が起きているのだろうか。
 助け舟が出るように俺に声をかける人がいる。もしかしたらと思ってみてみれば、そこにはハルの姿がある。助かったかもしれないと思ったが、ハルの性格を思い直して、より危険な領域へと突入しているのだと理解した。彼女の声は一切の怒気をはらませてはいないが、顔つきに青筋が浮かんでいるように見えてならないのである。笑顔を作ってはいるが、今にも二人相手に喧嘩を売ってもおかしくはない。そんな状態でこつんこつんと、一歩ずつ近づいてくるのだ。途中から二人もその様子に気づいてしまったようで、ハルのいる方へと顔を向ける。その瞬間にユウリは顔を強張らせて、石になってしまったかのように固まってしまった。それに対して、アキは元からの鋭い目つきをさらに尖らせて睨み付けているのであった。

「そこの幽霊女は自分の立場がわかっているみたいだから、これ以上は何も言わないけれども、その知らない女は何様のつもりなのかしらね。アランの婚約者である私に対して、そんな目つきを向けているというのはどういう了見なのかしら? 少なくとも、あなたは、地に跪いて、私に対する謝罪の言葉を述べるというのが最も正しい行為なのよ。それがわからないということは相当な常識知らずな女みたいね」
「あなたみたいな女では、アランを幸せにすることは出来ないでしょう。逆に、私のような女性であれば、アランはより一層の幸せに包まれることが可能です。私はそう伝えに来ました。アランの実力、力強さについていくことが出来るのは私だけなのです。あなたは確かに、仙人ではあるみたいですが、大したことはない。私は、お師匠様から厳しい修行をつけてもらい、そして天龍様から名前をいただいたのです。とっても素晴らしく美しい名前を。私の名前はアキ。あなたとは一線を画す存在なのです」

 アキの名前は、どうやらハルと同じで天龍様から頂いていたらしい。天龍様は名づけの時にどこから現れる存在か何かなのだろうか。そんなはずではないのだが。あの方は、自然全ての調和に携わる、偉大なお方なはずなのだが。実際、俺はあの時以来再開したことはない。出会うことそのものが奇跡のような存在なのだから。

「へえ、あんたも天龍様から名前をいただいていたのね。私もよ。ふふ、どうかしら? その時点であんたと私とでは実力に違いは生まれない。そしたら、あなたの言う論理は一切正しいことではない。だから、あんたが、アランと幸せを誓い合うことは許されることではないの。残念だけど、そういうことだから、さっさと諦めて頂戴ね。あと、そこの幽霊女もね。最近はアランに近づいてこないからようやく諦めたのだと思っていたのだけれど、どうやらそうではないらしいわね。アランに対して嫌いだなんて言っておきながら、のこのこと近づいてくるなんて、卑しい奴ね」
「ぼ、僕は……」
「あ、そうだわ。あんたのような頭の出来が悪い女を相手にわざわざ口で言うのも面倒だから、戦いで決着をつけましょう。あなたの理論的には、どうやら私よりも強いなんてことを言いたいみたいだし。その言葉が事実なのかどうかをしっかりと証明しておかなくてはならないじゃない。そういうことだから……せいぜい、震えて待っていなさい」

 ハルは、二人の間に挟まれていた俺の手を掴んで無理やり引っ張ると、寮へと足を向ける。引く力は強く、俺はされるがままになっているのだ。背後から飛んでくる、視線がこの上なく刺さっているのを感じているのであった。

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