天の仙人様

海沼偲

閑話8

 オレははっと目を覚ます。そこは、気を失う前に見た光景と同じであった。つまりは、紫の空と土色の地面だけが広がっているような不気味であり、幻想的なような、そんな空間なのである。だが、そこにはほんの少しだけ、気を失う前とは違うところがある。それは、オレ一人しかいないということなのだ。
 オレはこの状況に底知れない恐怖が沸き上がってきてしまう。クジラオオツバメと戦う時ですら、キメラと戦う時でさえ恐怖以上の高揚感が支配していたというのにも関わらず、今、この状況においては、ただ恐怖のみがオレのこの体も、心も支配しているのだ。

「みんな、どこにいるんだ! 返事をしてくれ! オレはここに居る! 誰でもいいから返事をしてくれ!」

 虚しく空気の中へと消えていってしまった。オレの叫びをバカにするかのようである。一切の努力を否定してしまうかのような不気味さの中で、ただ、オレの声が響いて、そして消えた。どこにもない。ただオレだけが存在する空間である。
 兄さんも、アランも、アランの友人もいない。獣の大神之御子様もいなくなっている。オレだけが一人ぼっちで、ここに取り残されてしまっているのだ。だが、あいつらが取り残すようなことをするとは思えない。ならば、取り残さなくてはならないようなそんな理由があるのかもしれない。例えば、オレだけが気を失ってしまったということとか。それならば、一人だけでこうしていることに納得はいく。だが、それと、今こうして一人でいることを静かに受け入れることとはまた別の話なのだ。今すぐにここから出たいと、その思いが爆発するようで、叫びながら、あたりを走り回ってみるが。ストレスを発散させるということ以外の価値はなかった。虚しさだけが、あたりに漂っているようにすら感じてしまう。
 と、足音が聞こえる。こちらに近づいてきているようだ。ばっと顔を上げてみれば、そこには獣の大神之御子様が、歩いて近づいてきているところなのである。びくっと、体が硬直する。偉大な御子様の一柱なのだ。そのお方とこうして顔を合わせていることに、畏れないなんて、ありえない。それは、この世界の人間ではないだろう。俺は、上げた顔を再び下げるのである。顔を見続けることですらも、体中が震えるほどなのだから。
 そして、彼が今この状況を生み出しているのだろうというほぼ確信に違い予想が頭の中によぎった。そうだろう。そうでなくては、今こうして目の前に現れることなんてしないはずなのだから。ならば、なぜ。オレの頭の中でいくつもの疑問がぐるぐると駆け巡っている。だが、それを質問できるだけの勇気というものが全くなかった。今まさに顔を上げて、オレの言いたいこと全てを言ってしまったら、死んでしまうのではないだろうかという、予想にしてはあまりにもはっきりした未来が見えてしまう。だから、ぐっとこらえて、生き残るために、耐えるのだ。そうするしかない。オレはあまり頭が良くないから、それしか思い浮かばない。
 視界の端の方に、御子様の足が見える。目の前にいるのだとわかる。だが、顔を上げる許可をもらってはいない。それなのに、ずけずけと上げることは出来ない。今にでも内臓が口から飛び出してしまいそうである。むしろ、そうしたほうが楽なのではないだろうかとさえ思う。だが、そんなことは出来ない。だから、楽になることは出来ないのだ。
 すっと軽くなる。今までの重苦しい圧力から解放されたかのようである。今もまだ御子様が目の前にいるというのに、それでも、緊張感というものがなくなっている。オレはとてつもない程の不敬を働いてしまっているのではないかと不安になってしまうが、それはどうやら、俺の考え過ぎなのだ。御子様は静かに顔をあげるように言ってくださったのだから。だから、俺はゆっくりと顔を上げる。顔を合わせることが出来る。やはり、凛々しい顔立ちをしている。オレでは、とても敵わないとわかる。実力とかそういうものを突き抜けて、そのさらに奥ですら、もう敵うことがないのだ。この差は永遠に縮まらないのだろうともわかる。

「どうして……オレだけがこうして取り残されてしまったのでしょうか。何か、大変なことを仕出かしてしまったのでしょうか。そうであったのならば、謝ります。申し訳ございません。ただ、不躾なお願いではありますが、命までは取らないでほしいのです。オレには愛する女性がいます。彼女を悲しませて、オレ一人であの世には行けません」

 ポロリと零れ落ちてしまうかのように、オレの口から言葉が出てくる。今まででは考えられないことだった。だが、これは俺が発言をする許可をもらったのだろうということを、確信していた。なにせ、大神之御子様は、ただ静かに俺の話を聞いていたのだから。そうでなければ、どんな顔つきをしていたことだろうか。怒りに触れて、オレの首が飛んでしまってもおかしくはない。御子様の価値観とオレたちの価値観は絶対に相容れることはないとわかるのだから。だからこそ、オレは今こうして、言いたいことを言わなくてはならない。彼に、心の奥底で思っていることを正確に伝えるために。
 目をつむって、何を考えているのだろうか。オレの気持ちを知ったことで、何かしらの譲歩案を探しているのだろうか。わからない。オレは緊張で心臓が張り裂けそうになりながらも、待ち続けていると、大神之御子様はぱちりと目を見開いた。

「……貴様はどうやら、わしの適正を持っていたらしい。しかも、今まで適性を持っていた生き物たちの中でも、上位に入るほどの適正である。千年に一人、いいや、もっとかもしれない。それほどの長い時間の中で一人か、運が良ければ二人にしか手に入れられない適性を貴様は持っているのだ。だから、これから貴様には試練を与えてみたいと思っている。尋常では考えられないほどの厳しくつらいものとなることだろう。だが、これを断ることは貴様には出来ない。御子の寵愛を受けるにふさわしい適性を持っているということは、そういうことなのだ。だが、それを乗り越えた暁には、常人には捕えられぬほどの驚異的な力を手に入れることとなるだろう。その試練を乗り越えるか、乗り越えないか、そのどちらかになるまで貴様の現実での肉体は眠りについたままとなる。その間はわしの力によって、成長と劣化を止めておいてやろう。だから、安心して試練に臨むといい。それでは、武運を祈っておる」

 御子様は、オレが理解できたのかどうか、すらも聞かずに自分の言いたいことだけをべらべらと話したら、すぐにでもいなくなってしまった。そして、今こうしてオレだけが取り残されているという状況に逆戻りをしたのである。だが、最後の方に大事なことを聞いた。どうやら、オレの体は、現実世界で眠ったままになっているらしい。それでは、きっとみんな心配することだろう。悲しい思いをさせている可能性だってあり得る。兄さんたちだって、毎日のように俺の体に縋り付いて泣いているかもしれない。すこし心配になるほどには弱い男なのだからな。だから、すぐにでも試練を終わらせて安心させてあげるとしよう。ただ、オレの心の底の言葉を聞いたうえでの話ではなかった。それだけは言葉に含まれている情でわかる。ただ、オレに真意を吐き出させるだけの機会をくれたという以上の意味はなかったのだ。虚しくはなる。だが、むしろ、彼らはそうであり、オレたちに必要以上に入れ込むことをしないからこそ、大神之御子として崇められているわけだ。そう納得するしかあるまい。
 気持ちを切り替えるようにして、俺は意気込む。だが、試練とはいったいどういうものかというのがわからない。今ここいらに広がっている景色。それらすべてを見渡していても、試練らしきものは見えない。むしろ、試練とは何かしらの物体がある物なのだろうか。もしかしたら、概念的な問題なのかもしれない。だが、何のヒントも問いも出されずに、試練をクリアしてみろと言われても、わかるわけがない。オレはそういうような頭を使うものが得意ではないのだ。頭を抱えるだけ抱えてみても、本当に、抱えただけで終わるのだ。その姿勢だけがオレの残したものとなって終わるのだ。だからこそ、オレは今まさに猛烈に焦っているのかもしれない。意気込んでみたはいいものの、その意気込みがから元気なものに見えて仕方がないからなのだ。そんなことがあってもいいのだろうか。
 どんと、石が降ってきた。いいや、岩といったほうが良いかもしれない大きさである。その大きさのものがあまりにも唐突に空から降ってきたのである。今まで平でしかなかった世界に出っ張りができたのである。これはきっとどこまで遠くからでも見つけることが出来るだろう。そして、それをよく見てみると、どうやら石板のようであるのだ。文字が書かれている。
 じっと目を凝らしてそこに書かれているものを読もうとする。だが、字がかすれていて読めたものではない。だが、かろうじて読める部分から意味を推測すると、これから、何かと戦うことになるのだろうということが分かった。そして、その推測が正解であることを証明するかのように、ゆっくりと地面が盛り上がり、それは人の形へと変わっていく。そうして、完全に輪郭をかたどられて、生み出されたのは獣人。それの戦士であるようだった。だが、手に持っている武器やらなにやらは、どうも少し前の時代の武器に見える。少なくとも、今の世界で青銅を使った武器防具を使用する国家集団は存在しない。とはいえ、オレは素手だ。明らかに、向こうの方が優れた武装をしているといってもいいだろう。原人と新人程度には差がある。
 もしかして、相手を倒すことが出来れば、試練は合格となるのだろうか。ならば、倒すのみだろう。一対一であるならば、負ける要素は限りなく少ない。たとえ、大人と子供の戦いであろうとも、オレが勝つ。その自信を持っている。弱気でいてはならないのだ。オレの実力をオレ自身が最も評価していなくはならない。ネガティブでいてはならない。
 相手の槍の突き出す速度は、予想以上に速くはあったが、避けられないことはない。それと同時に、懐へと潜り込んで。足を踏みつける。これでは、逃げることは出来ないだろう。そのままに、何度も拳で顔面を殴りつける。相手を倒すことが出来ればいい。その生死を問わないのであればもっと簡単になる。殺すことの難しさは、意思を保てるかどうかという違いでしかない。むしろ、殺すことに躊躇がいらなければ、それは、戦いの決着の仕方で最も楽なものになる。彼には申し訳ないだろうが、オレのために死んでくれ。そう思っているのである。
 力が抜けたように、崩れ落ちる。息をしてはいない。死んでしまったのだろう。殺すつもりで殴っていれば、そうなる。意外としぶとかったのだ。気絶したらやめようとは思っていたが、そうはならなかったのだから、殺すしかなかった。許してくれとは言わない。その時に、背後から殺気のようなものを感じ取る。すぐさまその場から離れると、オレがいた場所めがけて、槍が突き出される。その先には、獣人が立っている。どうやら、一人を倒せばいいというものではないらしい。だが、先ほどまでと同じような体格、装備をしているのだ。だから、倒せないことはないだろう。心の中に余裕すらある。
 十人くらいだろう。死体が転がっている。消えたりはしない。オレが殺したのだと思うと、罪悪感に押しつぶされそうになるが、そんなことに気を使っていれば、今目の前にいる敵の餌食になるだろう。そして、彼らは生み出されるたびにチラリと死んでいる仲間の姿を見るのだ。だが、それだけで終わる。必要以上の情を湧かないようになっているのか。ならばなぜ、彼らは死体を見るのか。俺の精神を削るかのような行動でしかない。オレは、耐えるように彼らを殺していくのである。
 いまだに終わることはない。むしろ、敵を何人倒せばいいのだと思えてくる。永遠に終わらない可能性すらも見えてくる。まだ十人とはいえ、それだけの数を立て続けに殺していれば、そう思うのも無理はないだろう。もしかしたら、根本的に何かが間違っているのではないのかと、考えが脱線していくのだ。だが、そんなことをのんきに考えてはいられない。次から次へと、敵がやってくるのだ。それを処理していかなくてはならない。精神が壊れないように、今では、しばらくは、攻撃を避け続けて、ようやく心が落ち着いたところで、敵を倒すようにしている。すぐにでも殺してしまえば、それだけ、精神的な負担が大きいと思うのだ。
 突きの速度は、恐ろしく速く、また鋭い。掠っただけで、相当な激痛が伴うに違いないだろう。だからこそ、オレは精一杯全力で避け続けているのだから。そのおかげで、まだ傷一つ負っていない。むしろ、けがをしたら、その時はほとんど負けているようなものだ。なにせ、敵が休む間もなくやってくるのだから。治療する時間をもらえるなんて甘い考えは捨てなくてはならない。
 オレはゆっくりと、呼吸を整えながら、敵を倒していくのである。顔は表情を生み出す。笑みを浮かべる。狂気に浸ったような三日月の笑みを。仮面をかぶるのだ。自分が正気に狂えるのだと、暗示をかけていなくては、殺し続けることは難しいのだから。

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