天の仙人様

海沼偲

第141話

 ルイス兄さんからどんよりとした重々しい空気が漂っている。俺たちは出来る限り触れないようにするべきなのかと、触らずにいるのである。とはいえ、今こうして俺たち三兄弟がそろって王城の一室にいる、むしろ、俺たちしか今この場にはいない。そのために、この部屋に流れている負の空気を誰も入れ替えることはしないのだった。いいや、誰が今の兄さんに触れようなんて思うのだろうか。少なくとも俺は思ったりはしないだろう。それだけの仕打ちなのだから、少しぐらい機嫌が悪くなっても誰も文句は言うまい。
 カイン兄さんはこの空気から逃げるようにして、剣を鞘から抜いて、手入れを始めた。毎日の日課ともいえるべきほどに、綺麗にしていく。少しでも汚れがついているとは思えない輝きを持っているだろう。剣は戦うたんびにボロボロになることが基本であり、その場で無理やり形を留めさせたり、新しく生み出したりはするが、兄さんみたいに一つの剣を長く使っていくというのは珍しい。磨き終わったのか、掲げて光の反射の下限を見ているが、納得したようで顔を緩ませながら鞘へと戻している。
 俺たちは、あの後もなんとなくうやむやな流れで、最後まで式を行っていたのだが、やはり、あの事態が起きてしまったということは非常に大きく響いているのであった。そのためか、俺たちの受勲が他の貴族たちに大きく印象付けられるということはなかったかもしれない。さらに、ルイス兄さんに至っては、被害者本人であり、その余韻が残っているという中で最初に始めたというのだからこのような態度を見せていても仕方がないことだろう。だからこそ、俺たちは何も励ましたりなどせずにそっとしているのである。
 今こうして俺たちがここに集められているのは、どうやら国王陛下からの話があるようなのだ。しかも、俺たち二人にまでである。それが非常に気になるところではあるが、連れてこられてしまったのだから、仕方がない。俺は、適当に窓を開けてほんのわずかに換気をしてみようと心がけてみる。風が部屋の中に吹き込んできて、そして、ふわりと消えてしまう。それが循環していき、新鮮な風が部屋の中を巡り、陰鬱とした空気を外へと掃き出していってくれる。上手くできているようで、安心した。そのおかげかはわからないが、ルイス兄さんもどよりと顔を下げたままではなく、少しばかり背筋がしゃんと伸びているように見えなくもないのだ。

「まさかね。あんなことになるとは思わなかったさ。いや、前から僕に対してちょっかいをかけてきたというか、嫌がらせのようなことをしてきていたのはわかっていたんだ。だけど、僕の方がすべての成績において勝っていた。だから、彼も僕の怒りを本当に買ってしまうことを恐れていたんだと思う。だからこそ、そこまで大きな嫌がらせはなかった。本当にくだらないことしかしてこなかったんだ。でも、今回は違う。今回の式が何の問題もなく進行していけば、当然僕は勲章をもらい、誰も僕とマリィの結婚に文句を言えなくなってしまう。それをより恐れたんだ。だから、僕の目の前に出てきた式をめちゃくちゃにしてみようと思ったのだろうね。はあ、そんな考えだから、彼はいつまでたっても、間抜けの烙印を押され続けるというのに。それがわかっていないみたいだね。僕は呆れたよ。ただただ、呆れた。……何だか知らないけれど、涙が出てきてしまったよ。こんなにも呆れるほどに、そして哀れな男が存在するのかとね。助けたいとは思ったことは一度としてなかったが、公爵家の人間にここまで惨めな男なのだと思うことはないだろうね。……今後永遠にさ」

 兄さんはぼそぼそと独り言のように話していた。力なく、それは語られているのである。兄さんもやはり、苦労をしているのだとわかる。元から、苦労人気質なところがあったが、そういう苦労は全て弟の俺たちがかけているものだと思っていた。だから、俺たち以外にも、苦労の種を持っていたとは。それは知らなかった。カイン兄さんも同じようで、その告白をただ真剣に聞いているのである。
 目の前のテーブルに置かれている皿からお菓子を一つ掴んで、包み紙をいじり始める。食べることはしないで、ただ、指先に何もしていないと寂しいと思ったのか、ほどいたり、結んだりと、いじっている。それだけである。それを見ていると、同じような気分になってしまうのか、俺もまたお菓子を一つ掴んだ。くしゃくしゃと音を鳴らしながら、開けたり閉じたりと、遊んでいる。
 どうやら、呼び出していた張本人がこちらへと向かっているようである。足音が複数、段々と近づいてきている。かつんかつんとよく響く足音を鳴らしている。王城では、どれだけ忍び足にたけていようとも、無音で歩くことは出来ないだろう。布の靴で歩いていても、それなりの大きさで足音が聞こえるのである。侵入者をすぐに発見するための仕組みであった。カイン兄さんたちも気づいたようだ。扉の方へと顔を向ける。中に入ってくるであろう人はわかっているのだから。だからこそ、それなりの態度でもって待っていなくてはならないだろう。
 扉が開いた。やはり、中に入ってきたのは国王陛下、そして公爵様、後は父さん。他にも、マリィ様とミーシャ様の二人も入ってきた。やはり、ルイス兄さんのことだから、その妻の二人にも来てもらったのだろうか。父さんは、疲れ果てた顔をしている。ストレスで死んでしまうのではないかと心配になってしまう。だが、心配させないとにこりと笑って見せるが、それも何故だか弱々しく感じる。その顔を見ると、俺たちは迷惑をかけているのだろう。それに気づいてしまう。だから、申し訳なさを感じてしまい、しゅんと肩をすくめてしまうのだ。
 公爵様は、部屋に入るとすぐに謝罪の言葉を述べる。彼は貴族社会の中でも一、二を争うほどの人格者だと評判だから、自分の息子の失態にたいして、頭を下げることが出来るのだろう。他の人であれば、そうそうできることではない。プライドが邪魔して仕方がないことだろう。だが、それ以上に、そんな簡単に貴族の頭を下げていいものではないだろうと思う。

「すまない。今回の件が、私個人に関するもの、そして私が間違っていないと確信しているのであれば、頭を下げることなどしないだろうし、むしろ、戦っていただろう。だが、今回は、息子を擁護してしまうほうが、より危険であった。だからこそ、息子の罪を認めて、親として謝罪をさせてもらったのだ。申し訳ない」

 さすがに、公爵様から、何度も頭を下げられることの畏れ多さに、耐え切れなかったようで、ルイス兄さんはこれ以上頭をこの件で下げないでほしいと願っていた。俺も同じ立場なら、同じようなことをしていただろう。それだけ心苦しさを感じてしまうほどなのだから。むしろ、彼に何の罪があるのか。どんな罪があればこの苦しみを背負う必要があるのか。あんな子供にしてしまった罪なのか。それをどうすれば償えるというのか。恐ろしいことである。発狂すらしてしまいそうだ。自分が侯爵様の立場になってしまう想像だけで、手が震えてきてもおかしくはない。

「ほら、ルイフィン。ルイス君もそう言っていることなのだし、顔を上げてもいいのではないだろうかね? むしろ、もう十分の謝罪をもらっていると思っているのに、それ以上頭を下げているようでは、逆に失礼に値することなのではないかと思うわけなのだよ。そこのところはどう思うかい?」
「そ、そうか。そうだよな……。すまなかった。君のような若き少年に見苦しくも何度も頭を下げてしまってな。どうか許してほしい」
「え、ええ。構いませんよ。なにせ、今回の件ではあなたは何も悪くはないと思っていますから。むしろ、彼のことを率先して怒っていたので、僕にはあなたに対する怒りという感情は生まれてはいないのです。だから、これ以上過つ必要はありませんよ」

 ルイス兄さんの言葉に公爵様はほっと息を吐いた。俺たちのために、こうして露骨に感情を表現しているのだろう。子供には、貴族特有の感情表現がわかりにくいところがあるからな。この行為に子ども扱いするなと怒る人もいるかもしれないが、俺としては、彼の気遣いが現れているようで、好ましく思っているのだが。
 しかし、よくよく考えてみると、結婚式では公爵様の息子が暴れているような光景は目にしていない。楽し気で幸せな雰囲気が終始続いていた。彼が乱入していれば、そんな空気にはなり得ようもないだろう。だが、彼が兄さんの結婚式におとなしくしているような人間には見えないのだ。だからこそ、それが不思議に思えて、頭の隅に残ってしまう。それを同じく疑問に思ったようで、カイン兄さんが質問をすると、どうやら、結婚式の日は暴れないように、部屋に閉じ込めていたらしい。鍵もしっかりとかけて、そう簡単に逃げ出せないようにしていたそうだ。だから、結婚式は問題なく進んでいたということらしい。今日はさすがに乱入してくるようなことはしないだろうと、乱入してしまえばどちらが大罪を受けるのかわかっているだろうと、思っていたそうで、自分の息子の顔を見た時に神に懺悔をしたほどだそうだ。ああ、哀れな人だ。なんで、このような人がこれほどまでに辛く苦しい目にあわなければならないのだろうか。
 ルイス兄さんも、彼のその言葉に悲しみと同情が混ざったような顔を見せているのである。それに、どうやら二人は、公爵様の息子相手にどうしたら自分たちの婚約、結婚から引いてくれるものかと相談していたこともあったらしい。その仲ならば、たしかに許すこともできるだろうか。

「さて、少しばかり場が和んだところで、本題に入ろう。本来ならば、クリィチ君にも同席してもらうのがよかったのだろうが、あのような態度ではさすがにここでも言い争いが起きて、話し合いになりそうにならないからな。だから、代役として、ルイフィンに来てもらっている。少なくとも、まっとうな話し合いが出来ることだろう」
「そういうことでしたか。それならば、ルイフィン様がこうしてこの場に来てもらっていることにも納得しました。さすがに、この場に僕への謝罪だけのために来るような時間を使える人ではありませんものね。それほど、暇な人ではないことはよく存じております」

 そうして、話し合いは始まった。とはいっても、貴族が行う余興として思いつくことが決闘である。そして、それについての話合いであった。勝ったほうの言い分を通すことが出来るのが決闘の強み。今回の相手の要求は今回の事件を不問とすることと、ルイス兄さんの勲章授与の取り消し。少なくとも相手が、というより公爵様の息子が納得するにはこのレベルでなくてはならないそうだ。納得できなければ、決闘の場まで持たずにどこぞで私闘が起きてしまう可能性だってあるだろう。そうなってしまってはならないのだ。だからこそ、この条件が必要である。
 で、こちら側の要求が、ルイス兄さんとその妻、マリィ様とミーシャ様の二人に対して接触しないこと。公爵家側に比べれば、明らかに、こちらの要求が小さなものに見えるだろうが、この決闘での要求を、守れなかった場合、破った場合は、問答無用で殺されても一切文句を言えない。要求を破るということはそれほどの重みがある。貴族の名誉をかけて戦い、その報酬というわけなのだからな。それを考えれば、たとえ公爵様ですら、かばうことは不可能だということになる。だからこそ、この要求がほかのどの要求よりも大きなものとして輝くことが出来るのであった。
 詳しい日程はまた後日。ということで、俺たちは解放された。俺はいる必要があったのだろうか、などと思わずにはいられないが、公爵様は俺たちにも謝罪をしてくれたし、あの契約書の内容に不正な箇所はないかと目を光らせていたので、そういう意味では俺たちはいる意味があっただろう。だが、話し合いには一切参加してはいないが。
 兄さんは、これからのことを考えて、少しばかり気怠そうにしている。わからないでもない。兄さんはそもそも争うことが好きではないのだ。だから、決闘にあまり乗り気ではない。だが、こうなるのもまた貴族の運命とでもいうのだろうか。諦めなくては、覚悟を決めなくてはいけないのもまた事実である。

「兄さん、もし相手がいないんだったら、特訓相手としてオレが立候補してもいいぜ。ああ、久しぶりに兄さんと戦うの楽しみだな。しばらく戦っていないから、きっと、兄さんもさらに強くなっているに違いない」
「いいや、いいよ。自信がなくなりそうだ。勝つビジョンが全く見えなくなってしまったら、本番に差し支えるかもしれない。それではいけないだろう。だから、体を動かして、ぎこちなさを取り除くことを重点的にしていこうと思っているよ。それに、僕の基本は敵の攻撃を食らわずに、魔法を放つことなんだよ」

 ルイス兄さんは、カイン兄さんへと何か恐ろしいものでも見るかのような目を向けていた。決闘をする前に、カイン兄さんに殺されてしまうかもしれない。そんな恐怖が兄さんの頭の中に浮かび上がっていたのだろうか。そんな顔つきを見せていたのである。だが、それとは逆に、カイン兄さんはただ残念そうに唇を尖らせているばかりであった。そして、こちらへと視線が向いた。ああ、俺となのだと理解する。仕方ないことだ。兄のストレス発散に付き合うとしよう。俺だって、体を動かすことは嫌いではないから。むしろ、俺もまた楽しみにしているのかもしれない。

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