天の仙人様

海沼偲

第123話

 彼の周囲に存在するとされている瘴気の姿がだんだんと俺の目にも見えるようになってきた。だが、それはどうも仙人だからこそどうにか見えているようなものらしく、俺とあと二人、ハルとルーシィにのみ見えているだけらしい。これは、瘴気を体に纏っていながらも今まで通り何の問題もなく彼が生活できているからであった。普通の瘴気というものはそれこそ、そこら辺を歩いているような子供にすら視認できるようなものなのである。だからこそ、騒ぎにならないというだけで、他の瘴気とは大きく違うものなのだとわかるのである。とはいえ、瘴気を身に纏って普通に生活できる人間など初めて見れば、何かしらの危険性を秘めていると思われてしまうのは仕方のないことなので、彼女たちに襲われそうになるというハプニングはあったのだけれども。
 こうして、彼の瘴気が目に見えるようになったということは、何らかの進展があったということだろう。それはおそらく彼が恐怖の対象に話しかけているということになる。どれほどの勇気が必要かは俺にはあまりにも想像できない。だからこそ、こうして前に進めることが出来る行動力を俺は尊敬するのである。たとえ、俺の言葉に従っただけであろうとも、それをやろうと実際に決めたのは彼なのだから。
 それからも毎日のように顔を合わせて、彼の肉体や精神に何らかの異常をきたしていないかを常に観察する必要があると思っている。彼の体が瘴気に乗っ取られて暴走してしまうという事態は常に頭の中に置いておく必要があるのだ。きっと大丈夫だろうなどという甘い考えなど存在しないのである。
 とはいえ、彼の心が強くなったのだろうか。俺であれば目線を合わせて話せるようにはなってきている。それでも、ダメな時はあるが、六割ほどの時間でキースと目を合わせていると感じているのだから、それぐらいならすぐにでも克服できることだろう。どうも、影に対する恐怖心がだんだんと薄れてきているからだそうだが。それはとてもいいことである。やはり正解だったのだろうと俺は心の隅でほっと一息つくのであった。
 だが、突然に起こった。全く予想していなかったのである。彼の周囲を纏っていた瘴気がまたしても俺たちの目からは消えて、見えなくなってしまったのである。最初は仙人も見えなくなっただけなのかと思ったが、どうやら違うようなのであった。その現象はアリスにすらも起こっているらしく、誰も彼の瘴気を見れないのだ。本人は元から見ることが出来ていなかったので、俺たちの驚きと困惑にあまり大きな反応を見せてはいないわけであるが。
 ただ、彼が言うには確かにそこにあるのを感じることは出来るらしい。俺はその言葉通りに肌の近くに手を寄せてみると、確かにどろりとした何かの感触を感じることが出来るのであった。確かに存在しているだろう。だが、どうして消えてしまったのか。それが全くわからないのである。恐ろしさすら感じる。
 それから数日が経てば、今度は黒い光を放っている何らかの物体が彼の周囲をふらふらと浮かんでいた。俺はただ口を開けてそれを見ていることしかできなかった。アリスのような、そして、アリスとは全く違う何かが彼の周囲をふらふらと飛んでいるのだから。しかも、いまだに瘴気が見えるように戻ったわけではない。黒い光がふよふよと浮かんでいるということだけが見えるのである。
 精霊は白い光を放っている。それとは全く逆の黒い光を放っている何かがいるというのにも俺は驚きを隠すことは出来なかった。そもそも、黒い光がどういうことなのかすらもわからないのである。俺の頭はより深い混乱へと導かれているような気がしてならないのであった。
 俺は学校の図書館に所蔵されている英雄譚を片っ端から読み漁って、キースの身に起きている事態そっくりな英雄の話がないかと探していた。だが、どうも誰もがそれに当てはまるようなことは起きていないのである。たいていの先天性の異常性や障害というものは、網羅している英雄譚に存在しないということは、いままで存在しなかった特異存在の可能性が浮かび上がってきた。
 しかし、それは別のところで見つかった。『悪魔祓い』という本に書かれていたのである。
 その本は、悪魔にとりつかれてしまった人たちから悪魔を祓っていく内容を淡々とつづられている日記のようなものであった。著者がどうも、この本に登場する悪魔祓い師なのだから、おそらくは実話なのではないかと思っている。だが、確証はない。日記風につづられている小説だという説も確かなのだから。ある書籍がノンフィクションなのかフィクションなのかという論争が起きるのは日常茶飯事である。だからこそ、これがすべて事実なのだと、全幅の信頼をもって、頷くことは出来ないのだ。
 だが、この本に書かれていることは明らかに、ノンフィクションであると信じたくなる内容がつづられているのもまた、事実であった。その本に出てくる人物の中にキースと同じような症状を持っている少年少女が書かれているのであった。そして、悪魔祓いによって、その症状は完治するのである。それ以来、彼らを恐怖に陥れる影の存在は姿を見せなくなっていると書かれているのだ。
 悪魔祓いという儀式は当然今も生きている。あまり公に公表されるような儀式ではないが。文献があまりないのだ。これだって、貴重な文献の一つだが、悪魔祓いの儀式の内容が書かれていないため、フィクションだと言われている。話を戻すが、キースがそれをしなかったのは、彼自身がこのことを誰かに相談しようとはしなかったためである。だから、彼の両親も彼自身がこのような症状で悩まされているとは知らずに、悪魔祓いにまで思いつかなかったのだろう。だから、今もこうして残っているのだ。
 俺はそこまで読んだところで、どうも何か大変なことをしでかしてしまったのではないかと思っている。彼にまとわりついているのは悪魔なのだということである。そうなのだとしたら、彼はいづれ、悪魔に魂ごと乗っ取られてしまってもおかしくはない。この世に生まれるための依代になることもあるだろう。
 悪魔は別に悪いことをする者たちという意味ではない。ただ、この世に生を受けるには、あまりにも残虐的な方法でなくては生まれることが出来ないというだけである。そのせいで、悪魔と呼ばれる羽目になるということである。そもそも、好物が生き物の内臓なのだ。だから、内臓だけを綺麗に食べられているところを見たら、恐ろしいだろう。当然人間だって食事の対象になる。だから恐れ、悪魔と呼ぶようになったというだけだ。
 しかし、彼はなんてことないように一日を過ごしている。変わった様子は見られない。それに、たまに黒い光に向かって話しかけたりもしている。アリスと似たような行動をとっているだけである。しかも、その言葉は俺たちには笛の音に聞こえる。ボーという低い笛の音色なのである。
 俺は、今の情報を抱えたまま、キースには何も話してはいない。もしかしたら、自分の話し相手が悪魔なのかもしれないということを伝えてしまっていいものかという悩みがあるのだ。そして、この悩みを俺は誰にも話せないでいる。誰かに話してしまえば、それが口伝いにキースの元へと向かってしまうのを恐れているのである。だから、彼に伝わってもいいのだという結論が出ない限り、この話をすることは出来ないのであった。

「あの、大丈夫ですか? 顔色が悪く見えますけれど。何か辛いことがありましたら、気兼ねなくわたくしに相談してもらっても大丈夫ですよ? 婚約者しゃんには言いづらいことでも、そうではない、わたくしには伝えやすいことかもしれませんからね」

 ルイに心配されてしまうほどに、俺は変に悩んでしまっているらしい。俺は何でもないように笑顔を浮かべる。彼女たちに心配をかけてしまってはいけないだろう。まあ、少しぐらいは迷惑をかけてもいいかもしれないが、今この悩みは少なくとも、あえて俺の中にため込む必要があると自分自身で思っているのだ。だからこそ、気が抜けて垂れ流してはならないのであった。
 ここまでが俺の限界だろうか。俺は、この黒い光について一切のことを知らないのだから。これ以上はどれだけ頭を抱えようとも、答えが出てくることは決してないだろうということが確かにわかっているのであった。だからこそ、黒い光や、瘴気の正体についてどれだけ考えようとも意味がないことが分かっている。俺が勝手に出した答えで、周りの人間を混乱させてはならないだろう。そう思う。ならば、より詳しいであろう人に聞くしかないだろう。

「だから、こうして俺を呼んだというわけか。しかしなあ、俺がこの世の神羅万象を知っているというわけではない。俺にだって限界はある。弟子に頼られることを嫌がるわけではないが、何もかもがすべてお見通しというわけではないということを肝に銘じておかなくてはいけないぞ」
「はい、わかっております。お師匠様。しかしながら、これ以上は俺一人の力ではどうすることもできないのでございます。ですので、少しだけでもお力をお貸しいただけないでしょうか」

 だから、俺はお師匠様に頼ることしか出来ないのであった。普段通りの睨んでくるような目でこちらを見ている。怒っているようにみえるが、あれは怒ってはいないだろう。呆れてはいるかもしれないが。だが、呆れているだけならば、問題はない。俺とお師匠様との関係性はそういうものでもあるから。
 その隣には、九尾様が座っている。どうも、常に付きまとっているらしい。付きまとうようになったのも、つい最近からだそうだが。うんざりした顔で説明していた。それに、九尾様もまた腹を立てているように見えたが、二人はその関係性で今まで過ごしてきたのだろう。そればかりがわかるのである。
 俺たちは、静かにキースの姿が見えるところで、そしてなおかつキースには姿が見えないという条件の場所で彼のことを観察しているのであった。二人して、面白いものでも見るかのような顔つきをしているのであった。少なくとも、二人の表情からは危険なものを見るようなことではないということだけがわかる。俺はそれにただほっと息をつくことが出来るのであった。

「はあ……いるのかいないのかと、さんざん議論されていたのだが、どうやら本当に、あの精霊はいるみたいだな。世界中が驚愕の波にのまれることだろう。あれは、瘴気の中でしか生きることが出来ない精霊なものだから、普通は見れるもんじゃあないのだがなあ。しかも、それでありながら、あいつらは負の感情が大の苦手でな。瘴気の中で生きることしかできないくせに、瘴気の負の要素によって勝手に消滅してしまうという不思議な奴らなんだ」
「確かにのう。あやつらが現れる条件が一切の負の感情が存在しない澄んだ瘴気の中でなくてはならんわけじゃが、そんな瘴気を生み出すような場所なんぞどこにもないといっても過言ではあるまい。だから、この世界にいないじゃろうとまで言われておった。むしろ、本当に大昔の文献にかすかに存在をほのめかされているというだけで、いるのだと騒いでいるやつらをうっとうしく思っていた。じゃが、あの少年は、穢れなき瘴気を生み出せるようじゃのう。面白い少年じゃ。本人は、瘴気が見せる幻覚によって現れる影を悪魔だと勘違いしてしまうせいで、それを出せなくする治療を受けるのが普通なのじゃからなあ。それをかいくぐって、今まで残してきたとはのう」

 二人は、今もこうして瘴気を体から発することが出来ることに驚いているようであった。たしかに、『悪魔祓い』の本でもそのような症例の子供はすぐにでも、悪魔祓いによって、治療されていると書かれていた。だからここまで、残しておくことは興味深いことなのだろうとわかるのである。

「親に心配をかけたくないからと幻覚が見えることを黙っていたそうです。ですから、こうして今も瘴気を体から放つことが出来るのだと思います」
「ふうむ、やはりか。……まあ、皆が心配するような事態は起きまい。なにせ、あの精霊も、他の精霊と同じように悪さをするようなやつではないからな。文献にはそう書かれている。いづれは、あの少年の大きな助けとなることは間違いないだろう。もしかしたら、この世界の大きな発展に貢献することだってあるだろう」

 お師匠様は、にやりと口元をゆがませるようにして笑った。これからの未来を想像して、笑っているのだろう。そうすぐにわかってしまうほどに、読みやすい顔つきをしているのであるのだから。

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