天の仙人様

海沼偲

第111話

 俺は逃げ切ることが出来たのだろうか。それはわからない。ただ、今俺の周囲を見渡しても少年の姿はないということだけはわかっている。それならば、逃げることに成功しただと思うのが普通だろう。いいや、そう思っていなくてはいけないのである。そうでなければ、俺はつねに彼に対して怯えていなくてはならなくなってしまうのである。そんな生活は嫌だろう。俺はそう思い込むために何度も何度も反芻していく。
 俺には、幽霊を……魂を彼岸へと送り届ける力はない。そこまでの力量に達していないのである。そうでなければ、死人に対して、祈りをささげることなどせずに、さっさと送っているだろう。お師匠様ほどの力があれば出来るのだから。それが出来ないからこそ、この世にとどまっていないようにしっかりと祈りを捧げているわけである。だから、俺は彼に対抗するためのあらゆる手段を持っていないということなのである。しかも、あの幽霊は百年もの間この世にとどまっているのだ。さすがに、祈り程度では綺麗に成仏してくれることはないだろう。よくわかる。何とも情けないことだが、これが事実であるということはどれだけあがこうとも変わらないのである。
 夜になって、ベッドに入り、目を閉じる。しっかりと、目を閉じたまま、開けることは一切しない。恐れている。しかも、今日に限ってルクトルは自分の部屋に戻っているのだ。今日ほど、彼のぬくもりを恋しく思うことはないだろう。確実にそう言えた。今すぐにでも、彼の部屋へ侵入してしまおうかと思っている。だが、彼は俺を部屋へ上がらせてくれないのである。残念である。だから、俺はこの恐怖に対して一人で耐えなくてはならないのである。気配などしないのだが、幽霊に気配というものがあるだろうか。いや、ない。あれは、生命の生きているエネルギーを感じ取る必要がある。ならば、死んでいる人間の気配など感じ取れるわけがあるまい。
 何かが、上に乗っかっている。気になる。気にはなるが、絶対に目を開けてはならない。開けてしまえば、今までの努力が水の泡へとなってしまうだろう。それがわかっているのだから。いいや、目を開けることなど出来るわけがない。ただ目を思いっきりつむり、この重みを気のせいであると念じるばかりなのだ。助けなど呼べるはずもない。読んでも来るわけがないのだから。俺は死んだかのようにその場でじっとしていることしか出来ないのであった。あまりにもみじめに感じられることである。だが、そうでなくてはならなかったのだ。
 いつの間にか眠りについてしまっていたらしい。俺の顔に日差しが当たっていることに気づいたのである。どうやら、夜を乗り切ることが出来たのである。一度眠りについてしまえばどうにかなるだろうとは思っていたが、実際にどうにか乗り切れたことは非常にうれしい。それだけ、ある意味では俺は図太い人間だったのかもしれない。今日ばかりはそれに感謝することが出来る。嬉しい限りだ。俺は目を開けて、今日の晴れやかな一日を始めるのである。

「おはよう。夜に遊んで欲しかったから、無理やり乗っかったのに、寝ちゃったから暇だったよ。まあでも、寝顔はそこそこ癒されたから特別に許してあげてもいいけどね。かっこいい男の子の寝顔なんてめったに見る機会なんてないんだし」

 声が聞こえた。そちらへ振り向けば、そこには少年の姿が。しかし、ルクトルではない。どこかで見たことはあるが。そうだ。昨日であった。夕方ごろの交差路で出会っている。肩を叩かれた。あの感触が今も確かに思い出せる。すっと俺の目の前から消えてしまった少年にそっくりだ。いいや、その少年そのものだろう。俺の記憶の限りに、覚えている顔を完全に一致してしまうのだから。
 俺は、声を出せなかった。俺のわずかばかりのプライドが何とか最後の一声を出させずに済んだのかもしれない。それとも、あまりのことに声を出すことを失念してしまったのかもしれない。だが、どちらでもいい。今この瞬間に俺は声を上げることが出来ずに固まってしまったのだから。
 目は大きく見開いて、すぐさまベッドから飛び降りようとするが、それよりもほんのわずか先に俺の腕はとられてしまう。握られて、離してくれる気配はない。力強く腕を掴まれてしまっているのである。俺はこのときに死を覚悟したことだろう。幽霊と戦う方法など一つもない。まだその域までは到達できていないのである。呪い殺されるのだろうか。それとも、体を乗っ取られてしまうのか。どちらとも恐ろしい。体が震えてきて仕方がないのである。
 俺は、彼に対してなに一つとして有効な手段を持っていない。たったその一つだけのことが俺と彼との力関係を明確に決定づけてしまっている。俺は、蛇に睨まれた蛙でしかないのである。いいや、蛙ですらたまになら反逆することはある。下剋上は起きる。俺の場合では、その可能性が一つとして存在しないのである。家畜同然であった。逃げることも立ち向かうことも出来ないのだ。

「そんなに恐れないでよ、お兄さん。僕はただ、お兄さんと遊びたいだけなんだ。僕はね、これまでずっと一人ぼっちだったから、僕のことが見えている人と遊びたくて仕方がないだけなんだよ。最近は、僕のことが見えるような人はいなくて寂しかったけど、お兄さんは僕のことが見えているもんね。それどころか、僕がしっかりと触ることが出来る。こんなにすごい人は初めて見たよ。だからね、一緒に遊ぼう?」

 少年は、俺の顔を覗き込むようにしてみている。彼は幽霊なのだが、どうも態度が一々人間臭い。まあ、人間の魂なのだから、そうなのは当然だろうが、そこまで怯える必要はないのではないかと、少しばかり心を落ち着かせることが出来ているのもまた事実である。友好的なのである。百年間この世に残り続けている幽霊にしては珍しい程に。彼の態度が俺を殺そうかというように見えるようであれば、俺は怯えるしかできないが、この様子であれば、そこまで不必要に怖がることはないのではないだろうかとすら思えてきている。
 とはいえ、彼が幽霊であるということに変わりはないが。彼に触れないというのは俺からしてみれば非常に恐ろしいことなのである。と、思いながら彼の肩に触れてみると柔らかな感触が俺の手のひらに伝わっている。俺は首をかしげてしまう。俺の手のひらは明らかに空中に浮かんでいるのだが、そこにどうも感触があるのだ。おかしく思いながら、その感触を辿っているのだが、それは彼の輪郭に沿って存在しているようである。

「どうしたの? 僕の体なんか触っちゃって。けっこうくすぐったいし、恥ずかしいから手を離してほしいな。あ、それとも僕の体を触ることが好きなのかな。けっこうエッチなんだね。まあ、僕は昔から女の子に間違えられちゃうことはたくさんあったからね。君が僕を女の子だと勘違いして変な気分になっちゃっても仕方ないかもね。」

 彼に言われるままに、俺は手を離した。しかし、今もまだ確かに感触が残っているのである。人の肉体に触れたという感触のみが俺の右手を支配しているのである。俺はそれがたまらなく不思議に思えてならなかった。
 俺は右手に触って、押したりつねったりといろいろやってみるが、特別変わっているというところはなかった。それに対して彼もまた不思議そうにその行動を見ているだけである。

「……触れている。いや、すまない。もう一回だけ触らせてもらえないだろうか。俺は今実際に起きていることをどうも信用出来ていないようなんだ。頭が混乱してしまって正しく機能できていない」

 彼は、顔を赤く染めているかのような表情を見せはするが、快く受け入れてくれたため、俺は再び彼の頭のあたりであろう部分に手を触れてみる。すると、確かに、何かがある感触があるのだ。しかも、それはどうも髪の毛みたいにさらさらとしていて、俺の手に合わせて髪の毛も動いている。
 ……もしかして、俺は幽霊に触れるようになったのだろうか。いや、どうして。今の力量では彼らに触れることは出来ないと記憶していたのだが。どうやって、俺の体は彼の体に触ることが可能なのだろうか。俺の頭は混乱している。
 当然だが、幽霊というのは肉体という器を持たない。そのために、普通は、この世に残ることは出来ないのだが、彼らは、魂のみでこの世に残れるようにより魂の格というものを向上させているのである。この力は、その地や、人に対する想い、その想いの強さによって大きく変わっていき、強い感情を持ったものは、誰にも手が付けられない災害となることもたまにある。だからこそ、幽霊が地上に残らないように成仏させることは最重要なのである。死者に弔いの祈りをささげることが基本的にはそうである。そうすることで、向こうに送り出しているのだ。
 そして、彼らに触れることが出来るのは、同程度の魂の格を持っている生物だけであり、普通ならば、幽霊たちの格へと達することが出来る生物など現れることはない。俺たち仙人のように修行をしなければ、そこへは行くことが出来ないのである。だが、俺は仙人だが、それでも、まだまだ未熟ものである。そのために、幽霊に触ることは出来ないと思っていたのだが、どうやら触れるようである。驚きだ。
 しかし、おそらくだが、彼のような小さな子供の幽霊だからこそ、こうして触ることが出来るのだろうと思う。百年経ってはいるが、元が子供というのが非常に大きいのだろう。当然だが、大人が死んだときに現れる感情の大きさはこどもの比ではない。そのために、幽霊となった時に大人の方がより手の付けられない存在となり安野である。例外となるのは赤ん坊くらいか。純粋過ぎるあまりに、幽霊となりこの世に縛られてしまうという事態が起きてしまうと強力な怪物へと変貌してしまう。あまりにも、感情の高ぶりが大きいと、災害とさえ言っても過言ではないとされるほどの力を持つものが現れてしまうこともままある。それだけはならないように細心の注意を払う必要があるのだ。
 だが、俺の心の中としては、彼に触れるということは非常に大きい。触ることが出来ない相手と相対するときは、ただ怯えるばかりしかできない。何もできない。相手に対して何もできないというのは非常に恐ろしいことなのだ。無抵抗というのは危険なのである。それに比べれば、彼に触れるということは、俺と彼との条件が同じということである。その事実は、俺の心の安寧を測るうえで非常に大切であり、彼を恐れる必要など一切ないのだと訴えかけているかのようにすら思えるのであった。

「ごめんよ。今まで怯えてしまって。でもどうやら、俺と君との間ではお互いに体に触れあえることが出来るそうだ。それはとても喜ばしいことだ。つまりは、俺たちは対等だということを証明してくれているのだからね。対等な相手に対して怯えた顔を見せていることは決してしないよ」
「ありがとう、僕は君を怖がらせるつもりは一切なかったのだけれども、これで、ようやくお互いが同じ位置に来れたということはとてもうれしいよ。僕は、ただ友達になって一緒に遊びたいだけなのだからね」

 俺はようやく彼に対して、笑顔を向けることが出来たのである。今までの恐怖に引きつったかのような醜い顔ではなく、晴れ渡るかのような柔らかな笑顔である。それをようやく彼に見せることが出来て、俺は嬉しく思う。彼も同じく俺に笑顔を見せてくる。たとえ、彼が幽霊であり、俺が彼に触ることが出来ないという前提があったとしても、やはり、怯えた顔、恐怖に引きつった顔を見せていたというのは非常に申し訳ないと思う。だからこそ、その罪を償うかのように俺は彼に対して笑顔を見せることを忘れないのであった。これは非常に大切なことだと思えてならない。

「たしかに、今日は学校が休みだ。だから、君と遊ぶことが出来るだろう。ならば、なにで遊ぶのだい? さすがに、百年ほど時代が変わってしまっているから、君が遊びたいと願うものを、俺が知らない可能性もある。それは許してくれよ」
「うん、かまわないよ。それに、僕だって、百年後の未来の遊びというものを体験してみたいと思っているしね。だから、いろいろなことをして遊ぼう。一から百までの、いろいろをね。まずは外に出ないと」

 俺たちは、二人して部屋を出る。どこへ向かうのかは彼に任せよう。俺は彼の後をついていくのである。

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