天の仙人様

海沼偲

第109話

 だんだんと、時間が経過していくたびに、加速度的に瘴気は消えていく。清純な空気があたりに満ちていくのである。俺はそれを肌で感じ取っていた。しかし、急激に減っていた瘴気はある値で緩やかな現象へと変わっていった。不自然な量から、自然な量へと変化したのである。これ以上の減少には相当な時間がかかることが分かるのであった。
 大きく息を吸って、そして吐きだした。空気は綺麗なものへと戻っている。先ほどと比べれば天と地の差がある。俺が今まで吸ってきたような空気に戻りつつあるのであった。この森は、元の状態へと戻ることが出来たのである。表面上でしかないのだが。だが、だんだんとすべてが完全な状態へとなることだろう。それを待つ時間は気が遠くなるほどだが、待つだけの価値はあるだろう。これ以上は俺たちには何も手を出すことが出来ないのだから。

「へえ、私が放った獣が死んだような反応を示したから見に来てみれば、どうやらあなたたちに殺されてしまったようですね。いやあ、残念です。あれを殺せる、いや、攻撃の届くところまで近づける人などいるまいと思っていのですけれどもね。人生何が起こるかわからないものですねえ。だから面白いのですが」

 と、俺たちの背後から声が聞こえる。すぐさま後ろを振り返れば、恐ろしい程に真っ白な肌をしている人と思われる存在がたっている。今目の前にいる人物に血が巡っているのだろうか。それすらも疑問に思えるほどに白い。陶器のような白さと言われればそれだけで納得できる。ただ白いのである。白人であろうともこうは白くはならない。
 すぐに俺たちは距離をとって警戒の目を向けながら、彼のことを観察するのであった。一つ一つのわずかな動きすらも見逃してはならないとばかりに、じっと睨みつけているのである。
 俺は恐れた。今この瞬間まで自分の存在を気付かれることなく近づいてきているのである。お師匠様の警戒網すら避けて通れるとは、かなりの隠密能力を持っているということなのだ。警戒しなければ、何をするというのか。それほどまでに俺の頭の中は警鐘を鳴らしているのであった。一切の覇気というものもないながらに、ここまでの恐怖を植え付けることが出来るというのは一種の才能であるだろう。感じ取れない恐怖は、これまた別次元に恐ろしいのだから。
 俺は剣を構える。少なくとも、今目の前に現れている人物は俺に対して友好的であると見えるような仕草の一切を見せていない。雰囲気からして俺たちと敵対をするつもりであるかのようである。同じように武器を構えているのだから。刃先をこちらへとむけて、狙いを定めているのである。不気味なほどに切れ味がよさそうである。あれに斬られたら、骨だろうがすたんと吹き飛んでしまうことだろう。絶対的な確信をもって断言できるのであった。本能というべきか第六感というべきか。その部分で理解できてしまうほどなのだ。逆に言えば、彼の一切すべてがわからないという不気味さとまるであっていないように思えた。なにせ、恐ろしい程切れ味がいいだろうと第六感で理解できてしまうのだから。理解できないを武器にしたような相手が持つ得物が、理解できる危険とは。ミスマッチであることは確かなのだ。

「貴様が、ここいらの森をめちゃくちゃにしやがった元凶か。いつか会いに行ってボコボコにしてやろうかと思っていたのだが、どうやら自分から殴られに来てくれたらしいな。その態度は素晴らしいが、今会いに来ることにより、ひたすらに俺たちをいらいらとさせていることには気づいていないらしい。今回の案件とはまた別の案件でとりあえず、一発は殴らせてもらおうかね。まあ、貴様に了承を取るつもりはないが。未来永劫、今この瞬間まで生きていたことを後悔させてやる」

 お師匠様が一歩前に出て、その男に拳を向ける。まだ、拳であることから優しさが見えている。本気であるのならば、武器を手に取っていることであろう。そうではないということはまだまだ、心の余裕が存在しているということである。だがしかし、男はお師匠様のその心遣いに気づいていないようで、明らかに舐めているかのような態度を見せているのであった。
 俺の顔はわずかに青ざめる。この男は強いだろう。それはわかる。非常によくわかる。体の内からあふれてくるエネルギーが尋常ではないのだから。目に見えるのだとしたら、体を覆っていて、更に外に放出されている。体に抑えきれるほどの力を大きく越えてしまっているのである。それは、体を守る壁としての役割すらも与えられ、生半可な攻撃では威力を殺されてしまうのだ。だが、お師匠様はもっと上である。それ以上のエネルギーの一切を逃がすことなく体の中にとどめているのである。無駄がない力というものほど危険なものはないだろう。全力が全力で相手に届いてしまうのだから。
 彼は気づいていないのだろう。むしろ、体の中に圧縮されて溜まっているエネルギーを見ることが出来ないのだろう。鍛えなければ、エネルギーは体積でしか測れない。俺たちはその密度も図ることで、実力を測れるのだが、そもそも、エネルギーの圧縮を体内で行えるのは仙人以上の存在くらいである。だからこそ、他の人たちにはそれらが出来なくても仕方がないことではあるのだが。それは、当然彼も同じということなのだ。だから、実力を見誤ることだってある。いままさに。
 とはいえ、今この状況で実力差を見誤っているというのは非常に危険である。俺であれば、彼と戦っても勝てるかどうかはわからない。彼のエネルギー量と、俺のエネルギー量は互角、少し俺の方が少ないぐらいなのだから。だが、お師匠様であれば、彼を倒すことは造作もないことなのだ。それに気づかないようであれば、今目の前に立っている男には勝ち目がないのである。

「ふっ、まさか何をするかと思えば、拳で戦うつもりですか? それはさすがにバカが過ぎるというものでしょう。普通に刃物を持っている人間と、こぶしの人間が戦って拳が勝てる道理はありません。そんな間抜けな格好をして構えをとっていないで、すぐに拳をおろすことをお勧めしますよ。まあ、それがわかっているのでしたら、拳を構えてはいないでしょうけれど。残念ですね、なかなか強そうに思えたのですが。そうではなかったようです」

 彼の言葉からも、明らかに余裕を持っていることが分かった。彼はもう救いようがないのである。ここでは、絶対に余裕を持ってはいけないのである。緊張を巡らしていなくてはダメだったのだ。それを怠った者がどうなるかなど、言うまでもないことだろう。そういうものなのだから。
 お師匠様の拳は、瞬間の時間を通って男の顔面に到達するのだ。骨がきしむ音、肉が裂ける音をまき散らしながら、男は飛んでいく。が、その前にお師匠様は男の足の甲を踏みつけた。これで、すべての衝撃は彼の体の中にたまることになる。飛んで逃げることなど許されない。殺すつもりだろう。地獄で裁くつもりなのだ。
 男はこのときにようやく、自分が殺されるかもしれないということに気づいたのかもしれない。目をつむり、鼻血を吹き出しながら慌てているのである。奇声を発してもいる。堂々と出てきたら、圧倒的な実力を持つ存在に喧嘩を売っていたことに気づいたのであった。遅い。お師匠様は、災害と同義なのだから。そんな相手に勝てるかもしれないなどと、思っていることすら間違いですらあるのだから。だからこそ、彼は懺悔する暇もなく殺されることだろう。その未来が俺の目の奥に浮かんでくるのである。未来が見えるわけではない。だが、そうなるだろうことは予想するまでもない事実として俺の頭に浮かび上がってくるのだから。
 お師匠様の拳は何発も男の体にめり込んでいる。そのたんびに彼のからだ中から血が噴き出している。彼にも血は流れているのかと驚いたほどである。血行が悪そうというより、血行そのものがない、とさえいえるほどの顔色の悪さをしていたのだから、そんなものがあるとはつゆほども思っていなかったのである。だからこそ、彼の体から血が出ていることに驚いている。さすがに、生き物であったらしい。それすらも怪しかったのだから、生きているとわかってほっとしている。生き物であるならば、殺せない道理など存在しないのだから。
 その血は流れていき、もわもわと地面へと落ちる。どろりとして粘っこそうな血液を地面は吸っていくのであった。自然の流れである。ここに肉食獣が集まってくるかもしれない。そんなことを思ったものである。と、そこまで考えたところで、あることに気づいたのである。液体が、液体らしさを持っていないということに。ゼリーであると言った方がしっくりくる。液体の振りをして俺たちを騙しているように見えたのであった。

「《裁きの雷は風と水と土を流れ自然の中に、圧倒的な暴力となり降り注ぐ。そのままに、我が手に納まり意のままに害へと悪へと突き進む。内と外の違いをもって、悪の肉体を焼き尽くす》」

 俺の手のひらから生み出される電気の塊は、男が流している血液へと当たると、それらを焼き焦がし、それどころか蒸発すらさせてもおかしくない程のエネルギーを与えていくのである。それにより焼けた血の匂いが強烈な劇臭を発生させており、俺の鼻を壊しにかかってきているようだ。しかし、これに負けてしまってはいけない。だから、唇をかんでこらえるのだ。
 それを食らった男は大きく悲鳴を上げる。どうやら、予想は当たってしまっていたようである。できれば当たってほしくはなかったのだが、勘というものはそれほどまでに恐ろしいものであった。今の魔法には、一つの肉体にのみ作用させている。その肉体から排出されたものと、肉体そのものとでは大きく違ったものとして定義させているのである。だからこそ、血液に当たった、魔法が男の体すらもしびれさせているということが起きるのは本来はありえないのである。

「お師匠様! 彼はどうやら、液体に体を変質させて逃げるつもりだったようです! こいつは、どうも、自分の体の性質を変化させることが出来るようです! こいつが出す物質は全てをどこかにやってはいけません! 逃げられてしまいます!」

 お師匠様は男の顔をぎっと睨み付ける。その瞬間に、男の体がとまった。それと同時に流れ落ちていた血液がぴたりととまる。空中に流れ落ちている姿のままで固まっているのである。これで確実にわかる。彼がどのような能力を持っているかということを。さすがに、こんな力を持つ生物など俺は今まで出会ったことがないが。個体、液体を自由に変化させられる生物がいていいわけがあるまい。
 お師匠様の金縛りにかかったまま男を無理やりに殺そうとするが、彼は金縛りの周期ごとに来る少しばかりのゆるみをついて無理やりに雲のような霧のような姿へと変化する。白っぽい姿は空気に溶け込むようにだんだんと透明度を増していく。そうして、するすると空の向こうへと逃げていってしまったのであった。ああなってしまっては俺たちとしてはつかまえる手段がなかった。手で触ろうとしても、触れられない。肉体がなければ神通力の類も使えまい。
 おそらく、向こうも肉体がないために、視覚、聴覚といった五感が使えなくなっているだろうが、とりあえずどこか遠くへ逃げればいいのだから、それは関係ないのだろう。つまりは、俺たちは彼を逃がしてしまったということであった。

「……くくく、あんなのまでありか。俺が今まで見てきた生き物の定義から大きく外れる奴だ。気体になれるなんて、どんな分子構造をしてやがるのか。悪魔ですらもうすこし、まともな生き物だっていうのによお」

 お師匠様は悔しそうに地面を殴りつける。俺は、彼が逃げたであろう方向をただ見ている。それしか出来ない。俺は、今回何の役にも立てなかった。悔しい。とても悔しい。自分の力のなさに憤りを感じるのである。拳を握り締める力がいっそう強くなっていくのを感じているのであった。
 次あいつを見つけたら、必ず殺そう。絶対に殺してやろう。そう決意を固める。そのためには、今以上に強くならねばならない。それは絶対に必要なことなのである。

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