天の仙人様

海沼偲

第108話

 目の前には何がいる。たしかにいる。ゆうらりとした姿でこちらを見ているのである。恨んでいるのだろうか。わからない。死んでいるかのような濁った眼でこちらを見ているのである。それしかわからない。どんよりとした空気の中でただ生きているということを体現しているかのようであるのだ。かすかに死んでいないのだろうとだけわかる程度でしかなかった。むしろ、よく見なければ死んでいると勘違いしてもおかしくはない。それは、全てに対してのやる気が感じられないとも見えたのだ。ありとあらゆる気概が削げ落ちているとも取れた。
 俺は警戒したままにずっと観察しているのだが、彼は一切動こうというそぶりを見せないのである。筋肉の全てが死んでしまったかのとすら勘違いしてしまうほどに動くことはないのだ。あり得るのだろうか。彼は少なくとも生き物の形をとっており、そして、肉を持っている。それが、いまこうしてだらりと肉をたらして、大きな目でこちらを見ているだけなのである。口を閉じるという簡単なことすらも面倒なのか大きく開いてそこから下も垂れ下がっているのだから、その顔つきは何とも醜く見えてしまう。それはあまりにも恐ろしい。瞬きすらしようとしないのだから。目が乾燥したりしないのか。
 尻尾が揺れた。ようやく動きというものが現れたのである。今まさに俺の目に彼が動いているという証が見つけられたのだ。茶と黒の縞模様の尻尾はふらふらと揺れて再び、力をなくしてしまったかのように倒れてしまった。それからはまた動くことなく、石を彫って出来たものだと言われた方が納得できるほどに、生物らしさがなくなってしまう。

「どうしたのだ、タヌキ。今にも死にそうな……いいや、もう死んでいるかのようではないか。今まさにかろうじて生きていることを証明できたわけだが、今の貴様はそれすらもおっくうに感じるな。何か変なものでも食べたか。それにしちゃ、貴様の顔色はよさそうだがな。死んでいる振りにしちゃ、とても血の周りが良さそうだな。どうやってその姿で生きながらえているのかはわからないが、このままだと、もうあと数年は生きていても不思議ではなさそうだ。はっはっは…………。……それじゃあ困るな」

 お師匠様が、タヌキに話しかけるのである。小さな彼は、何も答えず動かずにじっとこちらを見ているばかりであるのだ。目線は動いていない。だが確かに、彼はこちらを見ているのだろうと感じ取ることが出来るのである。
 彼もまた被害者に見えることだ。だが、彼が今まさに不快な気を放っているということが俺たちには感じているのである。だから、この現象は彼が起こしているとわかっている。だが、その本人が何をしたいのかがわからないのである。高笑いでもして自分の計画でもいえばいいのだが、そういうことをせずにただただ、死ぬのを待っているかのように、じっとしているのだ。これがどれほど恐ろしいことか。一体何を目的としているのかがわからにということがどれほどに俺たちに恐怖を植え付けようとしてくるのか。俺の額に汗が流れている。

「いやあ……どうということはありゃしませんよ。ただただ、こうして死ぬことを待っているのでございます。いまのあたくしは、死ぬのが最も世のためになるってもんでございましょう。どうしてこうなったのかは知りませんが、いまのあたくしはただただ恨みをこの世に吐き出しているだけの害獣でございます。しかも、その対象が全生物というのだから質が悪い。あたくしが大好きな木の実たちすらも恨みに当てられてまずくなってしまっておりますは。とても悲しいことでございます。食ってみましたでしょうか? とても食えたものではありません。あれは、ただのゴミでさあ。ゴミがゴミをつけてたっているのですよ。あたくしにはそれが悲しくて仕方がありません。ですが、どうも何もする気力が起きないのでございます。死のうと自分でも努力はさんざんとしましたが、どうもできない。悲しくて……悲しくて仕方がありませんよ。涙がぽろぽろと出てきますよ。こんな体でなければね。涙もとおっくに枯れ果ててしまったんですかねえ。何にも出てきやしません。こうなって、一週間以上はたっているとは覚えているんですが、小便すらも出てきません。あたくしの体はもうあたくしのものではないのでございます。そのくせに、自然のものでもないのでございます」

 早口でまくし立てるように、今思っているすべてを吐き出したのである。そうしたら、すぐさまに口を閉じて何も言えなくなる。何も言わなくなる。もしかしたら、あの瞬間だけでしか何かをすることは出来ないのかもしれない。だからこそ、あれだけの短い時間にあれだけ多くの言葉を話したのだろう。今の彼は先ほどの生きたままの屍と表現するのが正しいものへとなり果てている。
 だが、俺たちはそれだけの彼の独白を聞いても、何の感情も抱いてはならないのである。彼に同情をして慰めの言葉をかけてやることも許されないのである。そんなことをしたら、俺たちも死んでしまう。死んだことと同じになってしまうのだ。だから、彼に対してただ無心になって、見ていなくてはならないのである。
 俺のこの湧き出てくるかのような悲しみや、同情は全て吐き捨てるようにどこかへと放り投げなくてはならないのであった。彼に対する一切の情を持たせてはもらえないし、彼もまた、一緒に悲しんでくれる人が現れることはないと宣告されているのであった。
 お師匠様は目を閉じる。静かに何も考えることはしないようである。今の彼を見ていたくはないのかもしれない。見ていてはいけないと思ったのかもしれない。それは正解だと思うのだ。彼に目を向けていたら感情が爆発してもおかしくはないだろう。それほどまでに彼の言葉は悲痛なのだ。痛みを持っているのである。力を持ったままに俺らにぶつけられたのである。それに、素面で耐えられるような強い心は持ってはいまい。だからこそ、お師匠様ですら、目をつむって逃げるのであった。逃げなくてはならないのであった。

「そうかそうか……貴様のその扱いきれないほどに膨れ上がってしまった力という奴は、どうも、いつの間にか与えられてしまったらしいな。だが、その与えられた方法という奴を教えてもらわねば、同じことはいずれ起きるだろう。今までの記憶を全て思い返して、その力をえてしまった経緯という奴を教えてもらうぞ。これは、俺たちだけではなく、これからの貴様らの子孫すべてのためにもなることだ。死ぬ気でしゃべってもらうからな」

 それからもしばらくの空白が続くのだ。いつ再び動けるようになるかわからない。だからこそ俺たちはこの時間を待ち続ける必要があったのである。時間がとまっているのかと錯覚するほどの静寂がここいら一体を包んでしまっているのだ。不気味であることは間違いない。音が存在しないということはこれほどまでに背筋を振るわせる力を持っているのだと感じさせてしまうのである。全方位に音の存在を見つけることが非常に難しいのだ。入る前であれば背後からの音によってわずかに救われたところはあったのだが。
 いつまで続くのかと思ってしまう。もしかしたら死んでしまったのではないかと思ってしまうほどに、彼の動きはない。だが、彼の瞳は死んでいるかのように見えて確かに生きているのだろうと感じさせる程度のほんのわずかな動きが見えるのである。小さな眼球の動きだけによって、彼の生死がわかっているだけなのである。

「いつごろでしょうかねえ……いつの間にかでございます。いうなれば夢の中といえばいいのでしょうか。あれは悪魔と表現するのがいいでしょうか。ああ、いいえ。魔王と表現するほうがよりしっくりきます。どちらにせよ、恐ろしい存在だということしか、あたくしには表現することは出来ません。それが、いきなりあたくしの前に現れたまして、ただただ体に触れたのでございます。あたくしは、その迫力に気圧されてしまって何も出来るわけなどありますまい。ただただ、そいつに体を触られていることを見ていることしかできなかったのでございます。それと共に、じわじわと気味の悪いものが体に入っていくような感じがしましてね、どうにか取り除こうともがいてみたりはしましたが、出来るわけなどありません。なすすべなどなく、あたくしはこうやって瘴気を吐き出す獣へとなってしまったのです。それが、夢の全貌でございます。しかも、それが夢で終わりならよかったのでございますが、それが夢で終わることはありません。あたくしの体は正夢となって現世にいるのでございます。ああ、いやですいやです。どうしてこうも、あたくしは惨めな目にあうのでしょうか。あたくしが何をしたというのでしょうか。ただ生きていただけでございましょう。それがどうしてこんな目にあわなくてはならないのでしょうか。どうして、それに悲しんで泣くことを許してはもらえないのでしょうか。あたくしは、何もすることを許されないのです。死ぬことすら許されないときは絶望しましたよ。ですから、今すぐにでも、あなたたちの手によって殺してもらいたいのでございます。お願いします、お願いします。この世の大罪人であります、あたくしからの最後の望みとして聞き届けてはいただけないでしょうか。お願いします。あたくしが最後にこの世界のために出来ることは死ぬことしかないのでございます」

 むすりと、彼は動かなくなった。静かに目を閉じて、これから起きることを待っているのである。お師匠様は静かに剣を構える。ゆっくりと近づいて、間合いに入っている。静かに呼吸を整えていくのだ。殺すときにはわずかに感情が揺れる。どれだけ熟練した剣士であろうとも、そのわずかな揺れまでを消すことは非常に難しい。その揺れの隙間をついてこの不気味な力は入り込んでくる。そう思えるのである。だからこそ、より慎重になるのだ。お師匠様ですらそこまで慎重にならなければ、いけないということなのだ。
 振り下ろされた。お師匠様の剣はさらりとタヌキの首をはねた。大きく飛んだ彼の首は、俺の足元に落ちる。しんと静まり返った空間でどさりと首の落ちる音が響いた。その切り口から奇妙な叫び声を上げながら何かが飛び出てくる。お師匠様はそれを見逃すことはしなかった、それに対して斬りかかったのだ。スパンと斬れる。あまりにもあっけない。恐ろしい形相を見せながら黒い靄のような何かは姿を消滅させていくのであった。それと同時に、段々と瘴気が薄くなっていく。完全に消え去るにはまだ大きな時間がかかるだろうが、それでも確かに、消えていっているのが感じられるのである。

「さきほど、タヌキの体から出てきたのが、これの正体という奴か。見たことがない。あれほどまでに、瘴気をためこんで、そして実体を持たないなんて奴は、俺は見たことがない。一体、何にとりつかれていたというのだ。こいつは……」

 お師匠様は、じっと彼の亡骸を見ている。完全に生気がなくなっており、死んでいるのだとわかる。先ほどまで、確かに生きていた命は、完全に消えてなくなってしまったのであった。俺たちにはそれがしっかりとわかる。
 そうして、しばらくすれば完全に瘴気が消えてなくなっているのであった。俺たちは最後までそれを確認していた。完全に綺麗な空気が戻ってきているのである。だが、この森で瘴気に犯されてしまった生き物たちが元に戻ることはない。そこまで優しいものではないのである。しかし、いづれはここから新たな命が生まれることだろう。元には戻らないが、彼らが残していた命の残骸が新たな命を生み出していくのである。何年も、何十年もかかるだろう。仕方のないことである。

「お師匠様、彼はとても悲しいお人でした。哀れなお人でした。最後の一人になって、そして、世界が死んでいく様を見せられていたのです。泣くことも叫ぶことも許されずに、あの世界の中に孤独に狂っていくのです。それでも、一切の感情の吐露が許されない。地獄すら生ぬるい世界に浸らされていたのです」
「そうだな……」
「俺は、俺に対して何もできませんでした。どんなに偽善的であろうとも、憐れんでやることすら許されなかったのです。ですから、今こうしていても、彼は許してくれるでしょうか。彼は、ありがとうと言ってくれるでしょうか。言わなくても構いません。ただ、彼の心は浮かばれるでしょうか」

 俺は彼の墓を作った。小さく石を積んだだけのもでしかないが、それでも、彼が安ランで逝けるように俺は祈る。ここで、俺の目から涙がこぼれてしまう。努力をしていても、もう大丈夫だと思えば、どうしてもこれがとまる気配などない。不可能であるのだ。だから、そのままに流れるままにしているのである。

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