天の仙人様

海沼偲

第107話

 俺としては彼らの目の前を堂々と歩いて通りたいのだが、そうすると彼らが当然のように妨害することはわかっている。非常に残念なことだが、仕方がないことだと諦める。気配をだんだんと消していくのである。すうっと溶けるように人から視線を感じなくなっていく。たとえ、俺が目の前にいようと気づくことはないだろう。気配というものはそれほど大切なものなのである。とはいえ、普通ならば肉体が残るために人に見つかってしまうことは当然なのだが。だが、俺たちはそれよりさらに上で消えていくのである。
 いままさに、衛兵の目の前に立っているのだが、俺と目が合うことがない。気づかれていないのである。そこいらに転がっているものと同義、いや、それとすら認識できていないのかもしれない。とはいえ、気配を消すだけでそれほどの力はないので、認識を阻害するように操っているところでもあるが。そうすることで、完全に何かがいるとはわからないのである。これならば人間をだますことはたやすい。他の生き物になると、振動から臭いからありとあらゆるものを消していく必要があるが。そうじゃなければ、この程度でも大丈夫なのであった。人間はある意味では、最も騙しやすい動物であると言える。キツネやタヌキがなぜ人間ばかりを化かすのかという理由の一つとして考えられていることであるのだ。
 門の先へと進んでいく。俺の前にはお師匠様が歩いており、俺はそのあとをついていくだけではあるが。森がこの先にあるといっても、王都の周りは平原である。そのために、しばらく歩くことになる。そう近いわけではないのだ。とはいえ、急いでいるために、のんきに歩くことはしないのだが。
 駆け足で進んでいけばすぐにたどり着く。仙人の足ですぐにたどり着くということではあるが、一応一時間はかからない。そうして、俺の目の前には大きな森が広がっているのである。ぞっとするような寒気を放っているのであった。空気感というものが今まで出会ってきた森の中でも格別に不気味だと言えることだろう。ここには入ってはいけない。入らないほうが安全であると語り掛けてくるほどである。
 一歩近づくごとに鳥肌が立ってくる。体全身でもってここに入ってはいけないと訴えかけているのである。これはさすがに危険ではないだろうか。お師匠様も何を感じ取っているようでその場から動かずにじっと、その森を見つめている。その先になにがいるのだ折るか。静かなのだ。不気味なほどに。生を実感させるほどの音をこの森は発していないのだ。それがことさらに、俺たちの足を踏み入れるということすらも躊躇させてしまっているのであった。

「お師匠様、目の前まで来るとなかなかに格別でございますね。これほどまでの恨みつらみをぶつけてくるような不気味な空気感というのは初めて味わいましたよ。怨霊でも住み着いてしまったのでしょうかね。いいや、怨霊ならばもっと優しい。ぬるま湯につかっているとすら思えるでしょうが。それよりもっとひどい。ですが、これを怨霊と表現しないではどう表現したものか」
「ふん、そうだといいがな。怨霊であるならばここまで恐れることなどしないだろう。そこいらの怨霊どもとは一段どころではない格上な恨みが込められているぞ。世界を恨んでいようともここまでは憎しみをためることは出来まい。もっと根源的な部分で憎んでいないとダメであろうな。先天的に憎んでいなくては無理であろう。少なくとも、人間が許容できる恨みの量ではあるまい」

 お師匠様の顔つきが険しくなっている。それほどの相手であるとそれだけでもうわかるというものなのであった。どれほどの相手がこの先に待ち構えていることだろうか。できれば会いたくはない。下手したら、ここで死んでしまうのではないだろうか。それだけの恐怖心というものが体中を駆け巡っているように思えてならないのであった。これが武者震いの類であるのならばよかったのだが、そうではないのだとはっきりわかってしまっている。それが非常に残念でならなかった。
 森へと一歩足を踏み入れれば、全身にまとわりつくようなねばっとした気が流れているのを感じられた。ゆっくりと全身を包み込んでくるかのような、気持ち悪い程の粘度を持っている。思わず目を見開いた。体が重たく感じてしまう。この空気に混ざってしまっているかのような物質に体がとられて、進みすら鈍く感じてしまうほどである。笑ってしまうだろう。ここまで来ると、逆に笑えて来るのである。いいや、笑っていなくてはならない。陰の力があまりにも強すぎるのだ。陽気に笑っていなくては、このまま体が蝕まれてしまうだろう。そう思えてならなかったのである。
 陰陽の力をここまで偏らせてしまうと、危険であるという教えをこれでも詰め込んだという空間であった。陰の力は負の力。生であるならば死の概念に相当する力である。それが、この森一体に蔓延ってしまっているのであった。今すぐにでも回れ右をして帰りたくなってもおかしくはない。だが、俺はそれを許さないのである。
 生きているということをひたすらに、思い続ける。自分は生者であり、日のもとに当たる穢れなき清廉とした存在であるのだ。美しく気高く。さらりとした透き通るような気を持っているのだ。だから、これらに侵食されるはずがないだろう。その心の持ちようでこの地を歩く必要がある。少しでも、陰気なことを考えてみろ。すぐさま飲み込まれて生きたままに亡者となり果てることだろう。生きているが、死んでいると同義なのだ。全ての本能を捨て去るかのようにして、ただ、ふらふらと動き回るだけの抜け殻になってしまうのだろう。それには成ってはならない。そんな醜い存在だけは否定しなくてはならないのであった。ここでは、希望を捨ててはいけないのである。望みですら怪しい。もっと、絶対的な生の力を見つめ続けていなくてはいけないのである。
 俺たちはゆっくりゆっくりと踏みしめるように歩いていく。地面を一歩一歩、歩いていくのだ。恐ろしい。地面から生き物の、生物の、気力を感じられないのである。死んでしまっているのである。地面からでもなのだ。あたり一面は全て、ただ緑なだけで、ただ、茶色なだけなのだ。絶望的であるといえるだろうな。今すぐに叫びたくなるほどの、おぞましさなのだ。ただ生きていない。それだけが、今この地面は、生きていないのだ。これほどまでにこの表現が正しいと思ったことはない。死んではいない。だが、生きてはいないのである。生気を奪われると、死ぬわけではなく生きていないという状態になるのだ。ああ、わかってしまうのだ。彼らはもうゾンビなのだ。ありとあらゆる生物としての本能を捨て去られてしまって、その場に佇んでいるかのようだ。救えるか。だめだろう。魂が、腐ったのだ。乗っ取られたのだ。植物状態ですら生ぬるいという表現になってしまうのだ。脳が死んだという言葉が、救いの言葉に思えることだろう。全てが生きていながら、すべてが死んでいるのである。死んでいるものは救えない。生きているのに、死んでいるから、救うことが不可能なのである。どれだけ手を伸ばそうとも、彼らから手を伸ばしてくることはなく、そして俺たちも届かない。どうすることもできない。
 目の前にイノシシが現れた。だが、当然のようにただ立っているだけで何もしない。彼らは何を待つというのか。何も待っていないのだ。ただいるだけだ。ただいるだけなど、死んでいるに違いない。生きたままに死んでしまっているとはこういうことなのであった。
 殺してあげれば救えるだろうか。この此岸に囚われたままに彼岸に行くような苦痛から解放するためには、肉体も精神も同じように彼岸に送るべきなのだろうか。それならば殺すべきだろう。だが、それでも彼らがこの苦しみから解放されることはありえないとわかってしまうのである。呪縛であろうか。そうではないのだ。
 泣いてはいけなかった。悲しんではいけなかった。この姿を見てただ気丈に振る舞うことしか許されていないのである。どれだけ心に痛みを負おうとも、それを見てすぐにそれらの感情を捨て去る必要があるのだ。何も感じないように、仏すらも恐れるほどに無の境地へと至らなければならないのだ。そうしなければ、俺もまた彼らと同じ場所へと行ってしまうのだから。それだけ危険な場所なのである。

「くくく、なかなかに狂った世界が生まれてしまったようだ。瘴気ばかりが存在する世界は見たことがあるがそれの何十倍も濃いな。恐ろしい程に、体が震えてきている。これはどれだけ気丈に振る舞おうとも、仙人の力がなければ歩くことすらできないな。やはり、俺たちでなければ、ダメだったようだ」
「そうですか、お師匠様。やはり、俺のこの力はこの悲しみから救うためにあるのでしょうか」
「いいや、そんなことはない。貴様に使命などない。そんなものを背負ってしまってみろ、魂がここに囚われる。それでは仙人としては失格だ。だから、そんなことは考えてはならん。仙人の暇つぶしで、ついうっかり世界を救ってしまった。その程度の気持ちでないといかんのだ。だから、これを遊び感覚でいなくてはならない。難しいことではあるがな」

 お師匠様はにいっと笑う。俺もそれにわざとつられるように口元を吊り上げる。そうして、心と体を、生気満たしていくのである。笑顔で、邪悪であろうとも笑顔で顔を固めなくては生きていけない場所にいるのだから。
 俺はゆっくりと息を吐いたり、また吸ったり。心を落ち着かせるようにしながら歩いていくのである。できるだけ心が揺さぶられないように常に、落ち着かせていかなくてはならなかったのである。全てに愛をもって接してしまう俺だからこそ、そうしなくてはならないともいえる。愛を捨て去ることが出来ないからこそ、危険性が数倍以上にも膨れ上がってしまうのだから。愛を捨てよう。それが最もこの場で安全に動くことのできる条件なのだから。
 だんだんと近づいてきている。濃くなってきているのである。粘っこい気の塊はあまりの粘性に、体を動かすのをより困難にさせていく。どれほどまでの瘴気を発しているのかと、呆れるほどなのだ。どうすれば、こうなる。森一帯の生命を殺すことが出来る。何を思う。何を感じる。貴様の恨みは、他の生き物の命を奪ったからと言って晴れるようなものなのだろうか。そんなわけはあるまい。だったらもう消えていてもいいだろう。消えていないということはそんなことでは到底解決しないものなのだ。わかっているのだ。それなのに、その恨みでもって他の生き物を無慈悲に生のままに殺しているのである。発狂してもおかしくない事態であろう。そして、俺はこの現象に悲しさをもって答えることが出来ないことをただただ残念に思ってならないのである。この原因の主に同情すら許されていないのだ。怒ることもだめなのだ。それがもっとも、この主にとって残酷な仕打ちなのだろう。俺はそう思えてならないのであるのだから。
 お師匠様の足が止まった。顔つきも大きく変わる。先ほどまでは飲み込まれないようにわざとらしく笑顔を張り付けていたのだが、そうではない。真剣なものへと変化していくのである。この先に入るのだろう。これらを引き起こしている元凶が。俺も手を握り締める。緊張している。これほどの危険なそんざいを野放しに出は出来ないだろう。正義感というわけではない。ただ、愛するべきものたちが、死すらも与えられないほどの苦痛にさらされるということ、それがこれからも被害を増やしていくのだろう。それに我慢がならないのである。おそらく、元凶も悲しい生き物なのだろうか。残酷な生き物なのだろうか。それも俺は愛するのだろう。だが、それでも俺は殺すのだ。愛して、その愛のままに殺してやるのである。俺が出来る最上のことなのだから。そうでなくてはならないだろう。今はよりそう思えてならないのだから。

「もう準備は出来たか? 敵はもう目の前にいる。今から少しでも気を抜いたらすぐに死ぬことだろう。俺だって安心は出来ない。たとえ、貴様が死にかけても守れるかどうかはわからない。だから、絶対に死なないように立ち回れよ」
「かしこまりました、お師匠様」

 お師匠様がここまで言うのだから、相当なのだろう。俺は深く深呼吸をして。心を整える。覚悟は決まっている。大きく頷いたのだ。それだけを見ればお師匠様の満足だったようだ。再び前に向き直る。そして、茂みから飛び出すのだ。

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