天の仙人様

海沼偲

第104話

 夏休みというものは、いずれ終わりが来てしまうというものであった。当然逃げられるわけがなく、俺たちは再び馬車の前に立って両親たちとの別れを済ませていくのである。ほんの僅かばかりの短い期間しかいられなかった。もっと、いたかった。だが、ごねることは出来ないのである。学校は待ってはくれないのだから。おそらく、俺以外にも同じ気持ちを持っている学生諸君は世界中にいるのだろう。全ての生徒、学生が俺と同じ気持ちで今この瞬間を迎えているのだと思うと少しばかり、おかしく感じてしまう。だが、そう気を紛らわしても、やはり、今この別れを寂しく思う気持ちは紛れそうになかった。
 春にもう一度帰ってくる。その時までのしばしの別れだろう。だが、その期間があまりにも長すぎるように感じてしまうのである。永遠とすら言えるほどに、遠く感じてしまうのだ。手をどれほどまで伸ばそうとも、決して届かない気がしてきてしまう。時間は同じ感覚でしか進んでくれないのである。どれほどまで望んでいようとも、速くなることはけっしてあり得ないのだ。永遠を瞬間で到達することは出来ないのだから。こればかりは、どうしようもできないのである。たとえ仙人であろうとも。
 馬車に乗り込んだ。扉が閉まる。ガラガラと動き始め、だんだんと遠ざかっていく。手を振る。見えなくなっても、俺はそれをやめる気にはならなかった。そうしていたかったのであった。どれだけ振っていようとも、満足することはないのではないかとさえ思ってしまうのである。
 道中はスムーズに進んでいく。今までのどれよりも、何も起きなかったと言えるだろう。一切の邪魔が入らなければ、これだけ素早く、走ることが出来るのかと、驚いたほどであった。そう考えれば、俺は今までどれほどまで運が悪かったのかと思い知らされるのである。それほどまでの軽快な道のりであると言わざるをえなかったのだ。しかし、道中に何の事件もないというのもまた暇だというのは事実である。窓の外を眺めていることぐらいしか娯楽はないわけなのだから。俺としてはそれだけでも十分に暇を過ごせるだろうが、兄さんたちがそれでいいわけではなかった。暇つぶしに魔法を外に放ち始めるのではないかと少しばかり恐ろしく思っていたほどであった。
 もうすぐそこまで来ている。ほとんど目の前にあるといってもいいだろう。近づいてきている。ぐんぐんと迫ってきているのである。向かっていってもいる。無駄に早すぎるのだから、のんびりと走ってもいいだろう。馬の速度がほんのわずかに下がる。急ぐ旅でもあるまい。ゆうらりと穏やかに風の心地を感じながら駆けるのも悪くはないだろうさ。ぱからぱからと、鳴らす音に耳を傾けて。それは、風に流れて消えてしまっているかのようにも聞こえているのであった。俺は目を閉じているのである。
 草原まで来ている。王都までは目と鼻の先だろう。目を凝らせば、あの大きく洗練されているかのような荘厳な壁が見えることだろう。もうここまで来てしまったのかと、思っているのであった。つい先ほどまでは実家にいたというのに、もうすぐそばには王都の姿が見えるのだ。何日もの夜と朝を過ごしたが、それでも、短い時間だったと感じてしまうのである。数日ばかりの日付は意味もなさずに消え去っていくのだ。虚しいものである。厚みを持たずに消えてしまうのだから。
 何事もなかった。最後の壁すらも障害とならずゆっくりと俺たちの馬車は壁の中へと入っていくのである。何の障害もなさ過ぎたと言えるだろうか。良いことではあるだろう。逆につまらなすぎるということが起きていたのであった。確かに、楽な道のりは悪くはないだろうが、刺激がないというのはそれはそれでつまらないことであると気づいたのである。それならば、ほんの僅かばかりの障害を求めてしまうというのも頷けてしまうわけであった。だが、実際に遭遇すれば、ただただ面倒に感じてしまうことはよくわかっているので、それを願うということはしなかったわけであるが。
 学校へ到着すれば、俺たちはぞろぞろと荷物をもって、降りる。御者が最終確認をすれば、今来た道を戻っていくのである。俺たちはそれを見送っているのであった。だんだんと消えていった。それから目を外すことをしなかった。彼は、夏の残骸であるのだ。彼から目を離せば俺の、俺たちの休みが完全なまでに消えてしまうのである。それは寂しいと思うわけであった。だから、彼らの姿を最後まで目に焼き付けておこうと思ったのであるのだ。
 夏休みというわずかな期間で、大きく何かが変わるということはなく、今まで通りのいつもの姿というものを残している。ここにもまた帰ってきているということなのだった。もう一つの家なのである。落ち着くものがあるのだ。静かに部屋への扉を開けて、ベッドに体を預ける。静かで暗く、ひんやりと冷たく感じてしまうそれに、なつかしさを覚えて、より深く体を預けていくのであるのだ。
 学校が始まるまでの間に、何かやり残したことはないかと、いろいろと確認していくわけであるが、忘れ物はなく落ち着いて新学期を迎えることが出来そうだと思うわけであった。ルクトルはこの部屋にはいない。女性陣に連れまわされているのだそうだ。何が起きているのかはわからない。だが、彼にとっても、彼女たちにとっても有意義なことであってほしいと願うばかりである。喧嘩さえしていなければ、俺としては十分である。出来れば仲良くして欲しいと思うが、それは望み過ぎだろうか。
 今日は俺一人で、部屋にいるというのも悪くはないだろうが、どうせならばと散歩をすることにした。俺は王都の全てを知らないのだ。だったら、今この暇な時間を使ってのんびりと歩き回ってみるのも面白いだろう。そう思ったのである。
 ならばとさっそく、外に出て、ふらふらとあたりに視線をさまよわせながら歩いている。なんとなく、猫一匹に視線が吸い寄せられ、彼の後をつけてみることにした。彼は、俺の存在に気づいていないようで、のんきに歩いている。俺も同じほど気を緩めて歩いているわけであるが。お仲間といってもいいだろうか。警戒心などなくのんびりと、彼の後をついていくのである。ふりふりと揺れている尻尾に目を奪われた振りをしながら、後をなぞるようにしているのであった。
 そのあとをついていけば、見知った建物にたどり着いた。彼もまたここを目的地にしていたようで、入っていくのである。俺もその後に続くのだ。中には前に来たときと同じ雰囲気を出している。一回しか来ていないわけだが、変わっていないと思わせる。それだけのインパクトをまだ残しているのである。
 猫は見えなくなった。知っている場所には用はない。俺が見たいところは知らない場所なのだから。残念であったが、そういうこともあるだろう。ならば、さらっと帰ればいいだろう。俺は一つのかごを見て、その中に眠ったままにいるカラスに手を振ると建物の外へと出るのであった。そうしてまた再び、ふうらりとあたりを歩いていくのである。
 そうして、一つの小さな公園へとたどり着いた。日差しを避ける場所はなく明るい公園である。ベンチに座って全体を眺める。人工の小さな川が流れており、そこから涼し気な空気が流れてきているのである。だらりともたれるようにしながら涼んでいると、誰かが近づいてきているような気がする。そちらへと目を向ければ、ルイがこちらへとニコニコと笑みを浮かべながら近寄ってきているのである。
 久しぶりに見た顔だ。当然、夏休み前が最後である。彼女の顔も懐かしく感じている。日に焼けてより、明るい雰囲気が出ているように見えた。大きく腕を露出させて、それがまた健康的にも見えた。

「あら、もう戻ってきていたのですか? それとも、実は帰省していなかったとか? だから、今こうして穏やかな顔をしながら涼んでいるのでしょうかね? お隣に座ってもいいでしょうかね?」

 俺が何かを言う前に俺の隣に座る。彼女もここに涼みに来たのだろうかと思うわけだが、ここは特別涼しい場所ではないだろうし、それは違うだろうという予測がたっているのであった。たまたま偶然に、彼女もここに来ただけだろうか。そうしたら俺がいたということであろうか。
 俺はすこし、腰をずらして二人がゆったりと座れるような位置をとる。セミの鳴き声が遠くから聞こえている。川の流れる音に傾ければ、日よけなどなくても、十分に涼しく感じるのであった。とても心地よく、気持ちよく、体が涼んでいくようである。

「わたくしたちって、よく会いますよね。最初に出会った時から何かと……そういえば、学校でも授業中に目が合うことがありますよね。それも、何度も。……アランしゃんは。……運命って言葉をアランしゃんは信じますか? わたくしは、運命ってものがあるといいなと、素敵だと常日頃から思っているわけなんですけれどもね。素晴らしいと思いますよね、運命って。どれだけの障害が二人に有ろうとも、必ず結ばれることを約束されているのですよ。わたくしにも、そんな人がいないかと思ってしまいます」
「たしかに、運命があるといい、俺だってあると信じているさ。だけれども、それは目に見えない。これだという確証が持てない。そうして、長い年月が経って、ようやく運命に気づくものなのだろうね。今この瞬間に運命を見つけようというのは難しいだろうね。でも、そういうものだから、とても素敵なものに映るんだとも思う。だから、俺は運命を信じているんだ。今こうして目に見えないことがとっても、美しく輝いてしまうのだからさ」

 彼女はすっと、手を俺の上に重ねるように置いた。俺はそちらに視線を移す。確かに置かれている。彼女の手の温度が俺にしっかりと伝わってきているのである。彼女はいたずらを思い浮かべているような……いいや違う。なんだろうか。にいと口元をつりあがらせてはいるが、それは隠すための仮面でしかない。本心を隠すためにかぶっているものでしかないのである。何かが、奥底にしまわれてしまっているのであった。俺はそこまで進むための鍵を持ち合わせていなかった。だから、それがわかっただけで止まってしまう。
 俺たち二人の指が絡まっていく。ゆっくりと、侵食されていくかのように、混ざり合っているような錯覚すら覚えていくのであった。だんだんと周りがゆらゆらとぼやけてしまっているかのようにすら感じてしまえた。

「いま、この場にはわたくしたちしかいませんね。だから、こうして二人で恋人のように手を重ねても邪魔ものが入ってこない。ふふ、素敵ですね。あなたとわたくしの間にある障害の全てが今この瞬間取り払われているのですよ。もし、唇を重ねても、舌を絡ませても、誰にも邪魔されず嫉妬されず……素敵だと思いません。わたくしが、アランしゃんのことを愛していて、そして、また愛してくれているのであれば、二人きりの、恋人に今なれているのですから」

 彼女の頭が俺の肩の上に乗っかる。重さを感じる。ここまで彼女と密着しているというのは初めてではないだろうか。いつもは、ハルが間にいたのだから、当然なことではあるが。つまりは、今俺は裸でいるようなものだと思った。俺を守る一切のものがないのである。その隙をつかれているかのように彼女にここまで入り込まれているのである。彼女がどういうつもりで今こうしているのかがわからない。俺のことを愛しているからなのだろうか、好きだからなのだろうか。あまりそういうふうには思えないために、俺は困惑するしかないのであるのだ。
 俺はただ戸惑うことしか出来ていないということを残念に思った。もし、彼女が俺のことを愛していると、今の言葉が本心であるならば、いいや、想定などではなく本心であると確信しなくてはならない。俺はそれを前提に動くべきであるだろう。だから、俺は静かに彼女の頭をなでる。ゆっくりと撫でていく。こちらに視線を向けている。お互いの視線がぶつかり合う。何も言わない。わかるから。二人がお互いを求めるかのようにだんだんと近づいていく。そして……彼女の指先によって止められた。

「噓ですよ。わたくしは、あなたとはそういうことをするつもりはありませんので。なにせ、あなたたちが幸せそうにしているのを見ているので。そういうところに、入ってめちゃくちゃにしてみたらどうなるかは非常に興味はありますが、それ以上にそれを壊したくはないという思いがありますので。わたくしはとってもいい女なのですから。お母しゃまからもおばあしゃまからも、いい女になるように言われていますからね」

 彼女の瞳は、ほんのわずかにさみしそうに見えた。一瞬だけしかそれを見せなかったが、そう見えてしまったのだ。それは勘違いだろうか。それとも、あの目こそが彼女の本心なのだろうか。それは俺にはわからない。確かめるべきだろうか。いいや、それこそ恐ろしいことだ。俺自らが動くことがどれほどまで危険なのかということを俺自身が一番知っているのであるから。

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