天の仙人様

海沼偲

第98話

 山を一つばかし越えて、道なりに進んでいる。ガラガラと車輪の音と共に、坂を下り、視線がだんだんと下へ下へと下がっていってしまう。最も高いころには、それなりに、遠くを見渡すことが出来たのだが、今ではそれもかなわずに、木々が視界を阻んでしまう。開けている場所は空にしか存在しないのである。だからと、俺は上を見てゆうわりと浮かんでいる雲を見ているのであった。
 ゆったりとして、のどかな時間であろう。静かである。小鳥たちが、小動物たちが、ちちちと鳴いているのである。それは合唱だ。格式の高さなどはない。まとまりなんてない。ただ、それでも美しくハーモニーを奏でているのである。それぞれがそれぞれの赴くままに鳴いているだけであるのに、それが一つの曲となり、森一帯に広がっているのだ。俺は指を一本たてて、窓の外から伸ばして振る。俺は彼らの指揮者へと変貌するのだ。このオーケストラをまとめているのは俺であった。するとどうだろうか。まとまりが見えてこないだろうか。俺の指揮に合わせて彼らは泣いているのである。より美しく、重みをもって、音が生み出されていくのである。
 小鳥が一羽、窓のふちにとまる。ちちちと、ぴぴぴと、鳴いている。俺は反対側の指を一つ、人差し指を出した。そこに移る。ぴょんと飛び乗るように移った。青い小鳥。とても綺麗な青の羽を持つ小鳥。幸せを運んできてくれるのだろうか。ならば、この小鳥を見たことが幸せなことなのだと言ってみよう。今この瞬間に幸福を手に入れるわけである。それならば、彼らの噂も本物であろうさ。これだけでも、青い鳥というものは完成されているのであった。完全な美は存在しないだろうが、俺の中でそれは完全な美しさを生み出されているわけであった。
 美しいものを美しいと感じられることは、とても幸せなことだと思う。世界には、それすらも満足に出来ない人たちだっている。内乱時に、芸術をただ芸術として、鑑賞し、称賛することが出来るとは思えまい。ならば、俺はとてつもなく幸せな人間だろう。俺ばかりがこんなにも幸福を独り占めしてしまってもいいのだろうか。そんな優越感に浸ってしまう罪悪感を抱いてしまうほどなのだから。もっとも、傲慢な人間とは、最も幸福な人間なのかもしれない。そう思ったのであった。
 小鳥はそのまま肩へと移る。自分の巣であるかのように堂々と、肩に居座っているのである。このままにさせてやろう。俺は目を閉じる。肩に乗っているわずかな感触だけを感じながら、そして、馬車に揺られるようにしていながら、残りの日にちを過ごしていくのである。もうわずか。あと少しで、目的地である。それを楽しみにするように、俺と小鳥は安らいでいるのであるのだから。
 何事も、すべてが簡単にいくということはないのである。残念なことに、それは全てのことにおいて真理的な意味を持っているのである。やはり、どれだけ注意をしようとも何かしらのトラブルは起きてしまうのだろう。それはとても悲しいことだ。できることならば、失敗など何も起きなければいいのだが。それでもやはり、そういうことは起きてしまう。人間なのだから。運命か、偶然か。そのどちらかかはわからないが、何かに引き寄せられるようにして、ミスというものに遭遇することは珍しいことではないだろう。まあ、今回はミスとは違うだろうが。不遇というべきか。運がなかったというべきであろう。そういう事態なのだった。
 俺は、残念だという表情を隠すことなく、あらわにしている。これが、馬が怪我をしてしまったであるとか、そういう類であれば、ただにこりと微笑んで、彼らのこれまでの仕事をねぎらいながら、治してあげていたというのだが、そうではないのだから、不満を外に漏らしてしまってもいいだろう。ただ、その奥では笑って許してあげる慈悲深さを持っていなくてはならないが。人生に対して、まあ、そんなこともあると寛容に受け止めなくては、この事態すらも愛すことは出来ないのである。だから、この不満は表面上だけで処理できなくてはならないのであった。
 俺たちの馬車を足止めしている不届きな人たちがいるわけである。それがどうも、民族大移動であるとか、村中が焼け野原になって、避難している最中だとか、そういう理由であれば、俺は穏やかな心で待ってあげられただろう。だが、汚らしい服装で、おおよそ人間が発していい臭いではない、悪臭をまき散らしながら、こちらに武器を向けて、脅しているという、アホンダラたちを相手にして、ニコニコと笑顔を作っていられるだろうかという話であった。これはさすがに、表面上でも苛立ちを出さなくてはならないだろう。という思いもまたあるのだった。
 彼らの要求としては、どうも、なにかしら金目のものが欲しいらしい。貴族の馬車だと目をつけて襲ってきたそうである。だが、貴族の御者は、そこいらの、兵士よりも強いというのに、それも知らずに、のこのこと現れてきたというのは、何とも、間抜けな奴らだと呆れ果てるしかなかった。普通ならば、盗賊が貴族の馬車を襲うなんてことはありえないわけである。その常識を乗り越えてきたわけだから、そう考えれば、彼らは恐ろしく素晴らしいかもしれない。一つの壁を超えることが出来るわけだからな。それは、なんであれ称賛をされてしかるべきだろう。名前が後世に残るかは知らないが。

「あいつらは、何をしに来たんだい? すぐさま返り討ちにあうだろうっていうことは、今時学校に通ってもいない子供ですらわかることじゃないのかな。それなのに、こうして奇襲も仕掛けずにのこのこ出てくるなんて、あり得るかい? ああ、あり得たんだった。何せ、今こうして存在している現状がすべてを物語っているのだからね。これ以上ない程に」
「……いいや、あり得ないよ。そんなことをするのはさすがに病気だ。普通の人間だったらそんなことは考えないし、思いつかない。だから、彼らの戦力はこれで全部じゃないということだと思う。どこかに隠れているんじゃないかな。隙をうかがっているんだよ。気を抜いた瞬間にいつでも襲い掛かれるようにね。奇襲を成功させるために、油断をさせなくちゃあいけない。だから、こうしてのこのこ現れたんだろうね。実際、油断をしてしまっている節がある」
「どこにいるんだろうか? 姿は見えないよ。気配も感じ取れない。森の中は静まり返っている」
「とても、優れた兵士を持っているみたいだね。一筋縄ではいかないだろうなあ。はあ、本当に嫌になるよ。どうして、今日に限って、しかも俺たちの前に現れてしまったのだろうか。そうじゃなければ、まだ許してあげられることがほんのわずかでも存在したかもしれないのにさ」

 俺は、どんよりとした、あまりにも人に見せるにはふさわしくはない目つきで、彼らを見ているわけである。どうしてくれようかと、なかなかに汚らしく、他人様にお見せできるはずもない醜い感情がふつふつと湧き上がってきてしまう。ああ、いやだ。何をそんなに憤ることがあるのか。ただ、彼らが、彼らの行動理念にのっとって動いただけだというのに。ならば、俺たちだって、その理屈に沿って動いても構わないだろうさ。慌てることなんてないのだ。静かに、心を落ち着かせて。俺はそういうことを考えて、醜く黒くなってはいけないだろうよ。それは信条から反するだろう。
 彼らも愛そう。愛せるだろう。むしろ、なぜできないと思うのだ。優しく、花束を差し出すのだ。受け取ってくれるだろうか。いいや、受け取らせてあげればいい。無理やりにでも、渡すのだ。今日の俺は無理やり感があるな。だがいいだろう。愛というのは無理やりなのだ。強情なのだ。どれだけ自分を押し付けられるかでもある。ゆっくりと、立ち上がった。
 俺は扉を開けて外に出る。彼らが俺に勝てる可能性なんて、どれほど謙虚に考えてもないだろう。ならば、恐れることなんてない。堂々としていればいいのだ。大きく胸を張ってだ。兄さんたちは驚いたような顔を見せているが、あれらは嘘だ。彼らもきっと、外に飛び出したいのだ。だが、それを躊躇しているだけなのだから。親に怒られるのはとても心苦しいからな。わかる。だから、怒られることを気にしないで出ている俺に対しての驚き、そちらの方が大きいかもしれない。
 だからこそ、俺は最初の一歩を踏み出そう。近くに落ちていた石を掴んで、投げる。頭がはじけ飛んだ。花火かとすら見紛うほどに、綺麗に飛び散る。ぴちゃぴちゃと、血を流して彼は倒れ込むのである。血の花は美しく咲いたのだ。一輪咲いて、そうしてすぐに枯れてしまうのであった。寂しく感じる。心に穴が開くような寂しさがそこにはある。でも、それはまた美しくもあるのだ。
 一瞬にして、しんとその場が静まり返る。後ろの馬車で、ハルたちが飛び出してきそうな気配を見せているが、手を向けて、その場に居るように伝える。背後からくる場合もあるだろう。その時に、彼女たちに背後の監視を任せたいのだ。敵は前だけではないのだから。それに、彼女たちが来てしまったら、彼らは美しく散ることが出来ないかもしれない。死は最期の芸術だ。だったら、俺が綺麗に飾り付けたいと思うだろう。誰にも手出しはさせないさ。

「糸は切れました。ぶらりと垂れる体は自由が利かず。ただ待つのであります。死というものはよほど恐ろしい。少しでも視界に入れればやはり、歯を鳴らし膝を振るえさせて、命を……これからの生を望むでしょう。ですが、彼らには、いいえ、君たちには残念なことに、それを乞うことは出来なくなってしまったのです。どうして? それは、君たちが自分自身で、天から伸びる、一本の糸を切ってしまったからにほかなりません。自分自身で、自分自身の命綱をちぎってしまったのです。なんと。それは大変なことでしょう。あなたたちが動けるだけのわずかな生命線すらもこの世にはもう存在してはいないのです。神も、仏もふんわりと柔らかな笑みを浮かべて、ただ切られてしまった糸の切り口を眺めているばかりでございます。残念でなりません。静かに待つしか出来ないのです。あなたたちには、口を動かすことすら、指を動かすことすら、足を動かすことすら、いいえもっと、体をひねることすら、もしかしたらゆすることすらも許されてはいないのですから。それだけなのです」

 彼らの体は動かない。俺の言うとおりにピクリとも動かすことは出来ないのだ。彼らが仲間の死を目撃した時のわずかな緊張。そこに付け込んで金縛りにかけたのだ。だから、彼はこの恐怖を克服できなければ動くことは出来ない。だが、今まさに動けなくなって殺されてしまうだろうと、思っている時に、恐怖を克服できるのだろうかという話であるのだ。少なくとも俺にはできないだろう。
 俺は一人一人、目の前に立ち。自分の腰にぶら下げていた剣を手に持って、首を斬っていく。ポンと、綺麗に斬られた首は地面に落ちる。それでも、金縛りは解けず。体は直立のままなのである。ああ、そうなのだ。彼らの恐怖は伝染するのだ。彼らの誰か一人でも恐れていたら、これから逃げることなどは出来ない。それは死体ですらもなのだから。だが、その首のない姿態が一人、二人。同様に立っている。そしてそこから噴水のように血が噴き出すのだ。題名の存在しない彫刻作品として世に出せる美しさをわずかばかり内包しているといっても過言ではないだろう。解放ともいえるのである。
 草陰から、一人、いいや二人だ。二人の男が飛び出してきた。油断していると思ったのだろう。でも、残念だった。彼らの膝は魔法で打ち抜かれるのだ。針のように鋭くとがらせた魔法で、膝を貫いたのだ。どれほどの大きさか。指ほどの大きさか。まだ、人差し指程度なのだから、喜ぶべきだと思う。親指であるならば、さらにすさまじい。背筋が凍るだろうね。俺の背筋が凍ってしまう。体に無駄な穴が開いてしまうのだから。大きく誰からでも見えてしまうように。それは神聖さが失われてしまうことに等しい。俺はそれを嫌に思うわけであった。
 彼らもまた、逃げ出せずに、固まってしまうのだ。このエリアでは恐れてはいけないのだから。一人一人と、首が飛んでいく世界で恐怖を抱いてはいけないのだ。
 ああ、忘れていた。彼らが死んでしまったのだから、頭が落ちているところに一輪ずつ花を添えてあげよう。そうしなければ、しっかりと成仏できない。それはかわいそうだ。世界に縛られるほど、苦しいことはないのだ。恨みつらみは消えてしまったほうが良い。次の生ではとても楽しく、そして美しく、生きてほしいものだ。俺はそれを心から願うのであるのだ。

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