天の仙人様

海沼偲

第97話

 俺一人が、待機列から離れて、彼らのすぐ目の前まで歩いて、近づいていこうと、行かなくてはならないと理解できた。そういうものなのだとわかったのだ。わかってしまったともいえる。さすがに、兄さんたちは手を掴んで止めようとしてくるわけであるが、どうにも、俺が行かなければより大きな騒ぎとなって、この町がめちゃくちゃになってしまう可能性すらあるわけだ。ならば、俺はいかねばならない。
 俺は兄さんたちへと振り向いた。覚悟を決めた瞳を見せているつもりである。それが彼らに伝わることを望んでいるのだ。伝わっただろうか。兄さんたちは、伸ばしていた手を引っ込めて、腰を掛けた。わかってくれたらしい。俺は笑顔を見せる。なんてことはない。ただ遊びに行ってくるようなものだというように軽く出会った。兄さんたちも、拍子抜けたようで、そして笑みをこぼしているのであった。俺たちにはそれだけで十分であったのだった。そうして、俺は馬車から降りるのであった。
 俺はすがすがしい気分ですらあった。やはり、馬車の中に座ったままだと、気がめいってしまう。疲れる。だからこそ、今こうやって、何もない草原に立ち、そのまま歩くことが出来ることに喜びを感じる。俺はそれをかみしめているのだ。さぞ華やかな顔を見せていることだろう。笑顔が隠せるはずもなくこぼれてしまっているだろう。それを何度も反芻させていく。俺は、外に出たことを喜んでいるのだと思い込ませていくのである。記憶は全て楽しく美しく塗り替えていく、塗りつぶしていくのであるのだから。
 目の前にはひときわ大きなカンムリダチョウ。俺が見上げて、彼が見下ろして、それでも目が合う。じっと、お互いを見ている。いいや、彼は睨み付けているのだ。俺のことを。俺の予想でしかない。想像でしかないが、俺は彼の娘を泣かせたことで怒っているのだろう。俺も親なら、娘が泣いて帰ってきたと知れば、相手の男をこの世から抹消するつもりでぶちのめそうと動いてもおかしくはない。だが、俺は彼らがそう思って行動しているということに対するわずかな驚きがあった。
 そうか、彼らにも身内が泣かされた時に黙っていられないと思うような情があるのだとわかったのだ。それは素晴らしいことだろう。自分の仲間が、親類が、傷つけられたことに腹を立てられるということがどれほど美しいことか。ただ、その対象が俺であるということは、すぐにでも恥ずべきことであるが。ああ、やはり無理やりにでも彼女と一緒に街に入るべきだったのか。いや、それは出来るわけがないだろう。もしそれを実行しようと動けば、ほぼ間違いなく彼女はただの鶏肉へと変わっていた。次の日の夕食に並べられたチキンが彼女かもしれない。そんなことは考えただけでも吐き気がする。だから、俺のやったことは正しいことのはずだ。そう信じている。だがそれでも、一人の女性を泣かせてしまったことはやはり、反省すべきことである。できることならば、今すぐにでも謝りたいが、今それを許してくれるかのような雰囲気をかもしているわけがないのである。ほんのちょっとのことで、戦争に発展しそうなほどにピリピリとした空気が張り詰めているのだから。
 俺はただ静かに、ゆれる草花よりも静かに、音も立てないとばかりに、その場に立っている。彼らの怨敵でも見つけたかのような恐ろしいまでの形相を前にしてでも、絶対に動じることなどせずに、ただただ、ゆったりと、心を落ち着かせているわけである。俺は彼女に対しては申し訳なさがあるのだが、それだとしても、今目の前にいる彼らに対しては、一切の申し訳なさを持っていなかったのである。どうしようもないが、少なくとも、彼らに対しては謝ろうとは思わなかった。俺が持っている申し訳なさは、彼女一人にしかなかったのであった。だからだろう、今こうして彼らを前にしても怯むことなく、動揺することなく目の前にい続けられるのである。もしも、彼らに対する謝罪の意識があればおどおどと怯えるばかりであっただろう。
 ただ、これで争いに発展して、更には俺が彼らを殺してしまったなどとなれば、彼女はまた更に悲しみの深みへとハマってしまうことだろう。それだけはしてはならない。だからこそ、俺としては彼らとは出来る限り穏便にことを終わらせたいわけである。ならば、彼らにも申し訳なさを分けてあげるべきなのだろう。そして、彼に頭を下げるべきなのだろう。とはいえ、一番大事な人に下げられなければ意味がないのだが。彼らに下げた頭では俺は納得出来ないのであった。
 彼らの顔は今にも俺に噛みつきそうなほどに近い。鼻息が俺の顔に当たっている。何とも生暖かい風である。わずかばかりの熱風も含まれているだろうか。少なくとも、怒りが漏れているということは確かであった。恐ろしいまでに周囲に囲まれている。そのために逃げ出すことなどできるはずもないし、俺にはそんなことなど考えようとさえ思わなかった。やはり、彼らを変に刺激してはいけないのだ。そうだというのに、関わらず、ふざけたように刺激させてしまったのである。何とも間抜けな男だ。どうしてそうも、適当に生きていることが出来るのかとぼやきたくもなるだろう。
 じつのところは、俺は恐れてしまっている。俺を助けようと衛兵が動いてこないかと恐れている。それが一番恐ろしいことなのだ。俺はどんなに喚こうが騒ごうが、一応貴族なのだ。貴族の子息を助けようと動かなければ、町の側は何を言わされるのだろうか。ああ、何とも生きづらい。どの身分であろうとも、自由など不可能なのだから。自由を求めたくば、浮浪者にでもなるしかないだろうな。俺はそれを許されないが。なにせ、婚約者が二人もいるのだから。それなのに、家を捨て世を捨て、生きていくことを選んではならないだろうさ。静かにこれを受け入れるのである。なにせ、恵まれた生なのだから。恵まれてなくてもそれを受け入れることしかできないことには変わりがないが。ならば、背負うしかあるまい。
 と、涙を流した後が残ったままに一羽のカンムリダチョウが鳥の波をかき分けて、俺の目の前へとやってきた。彼女が、俺が泣かせてしまったあの人なのだろう。ああ、申し訳ない。目をはらして泣かせてしまったのだ。罪な男だ。極悪人である、極刑である。今すぐにでも槍で突き刺されても文句は言われまい。女を泣かせた男に誰が慈悲をかけるというのだ。俺は今まさに彼女を泣かしているのだと、彼女が目の前にいることでより深く認識しているのだから。俺が俺をさばくことは出来ない。私刑でしか俺を罰することは出来なかった。

「《すまない。君の気持ちというものを一切考えずに、無理やりに俺の思いだけを貫こうとしてしまった。それが本当に悔いに残っていたのだ。申し訳ない。許してくれとは言わない。恨み続けたとしてもそれを受け入れよう。呪い死んだとしてもそうなのだと、思うことにしよう。だから、ただ、今俺の目の前で泣かないでほしい。やはり、自分勝手なんだ。でも、君が泣いている姿は見たくないんだ。たとえ今あったばかりの関係であっても、女性が、君のような女性が泣いているのを見たくはないんだ。俺が泣かしたのだと、俺が犯人だとわかっている。だが、それでも言わせてほしいんだ。泣いている姿ではなく、笑っている姿を、明るい姿を、俺は愛していたいんだ》」

 俺は、すべてを吐き出すように話した。言葉を、ひたすらに並べていったのだ。彼女たちはそれを静かに聞き入ってくれた。何も言わずにじっとして。俺の口が閉じれば、そのまま静かに見つめ合うのである。彼女の涙はやはり止まることない。再び流れた涙などそう簡単に止まるわけがあるまい。救いようがないのだ。俺の手では彼女の心を救えないのだ。人の心に手を差し伸べても、それに届かないのだ。どんなに伸ばして、限界にぶち当たってしまって仕方がないのであった。
 後ろにいる、彼らの怒気がより大きくなっていく。なにせ、、目の前で泣かしてしまっているのだから。どうすればいいのだと、自分自身に語り掛けるさ。だが、答えなんて見つからないのだ。頭の中ではただひたすらに、彼女を泣かしたという事実だけが渦巻いてしまっているのだから。そんな状態では見つかるものも見つからないだろう。諦めに近いものでもあったのだ。
 なんてことだ。なんてことをしてしまったのだ。止まらない。止まりようなど一つもない。ありとあらゆる可能性が消えていく。星が一つ一つ輝きを消して、一つの道へと手繰り寄せられていく。それから逃げるすべなど思い浮かぶことがなく、静かに、それに引き寄せられるように、歩き出すのだから。止まらないのだ。歩みがとまらない。助けを呼ぼうとも、それに伴うだけの、力がない。声が出せない。喉が死んだ。腹も肺も、すべてが死んでしまってそれに進んでいるのであった。
 俺は涙を流した。所詮この程度でしかないことを悔やんでいるのだ。ひどい男であるのだ。バカな男であるのだ。愛しているからと言って、それではどうにもならないのである。何度もその事実に打ちのめされて、そうして生き方を変えられない男の末路であるのだった。
 彼女は泣いた。そして、鳴いた。大声を張り上げてないた。その叫びに全ての法則などないのだ。ただ、発せられるだけのあらゆる音がただただめちゃくちゃにつなげられたままに、譜面を作り出して、不協和音をわざと埋め込むようにしてあるのだった。がちゃがちゃと錆びついた機会が無理やりに動いているかのような不快さを持っているのであった。目の前で聞いている俺は、今すぐにでも耳をふさいでしまいたいと思った。だが、それはこの世界のだれよりも許されるべき人物ではなかった。今この世で最もこの音から逃げてはいけない男なのだ。だから、俺は手を握り締めて、この奇声を耐えるわけであるのだ。静かに。口をつぐんで。
 いつまで続くのだろうか。そんなことはわからない。永遠であるだろうか。俺は永遠でも構わない。そうだ。彼女の絶叫を一つとして聞き逃してはいけないのだから。永遠として続くのであれば、その永遠を聞き続けるべきなのだ。愛せるだろう。それを愛してやまないだろう。感情の発露を、俺は絶対に、不変に、受け入れ続けるのだから。それが生き方を変えない俺自身の、意地というものでもあっただろう。だが、そうしなければ俺の全てを否定することでもあるとわかるのだ。だから、受け入れ続けることしかしないのである。逃げないのである。
 ひゅうと、音はだんだんと小さくなっていく。口が静かに閉じられていく。叫び疲れたとばかりに、消えてなくなった。しんと静まり返っているのである。今は夜。暗い闇の中に、ただしんとして静まり返って世界がある。ああ、美しい。今この瞬間だけを切り取って飾っておきたい。そう思えるほどである。ありとあらゆるものが消え去っており、今あるのは、これを見ている目と、これを美しいと、愛おしいと、愛しているのだと感じる心のみであるのだ。
 彼女はもうひと鳴き。ぽつぽつと、そしてぞろぞろと、彼らは姿を黒の外側へといなくなっていく。消えていく。さあと、闇の中へと溶けていってしまわれた。今まで会ったことは夢だろうかと、現実だろうかと。それすらもあやふやにして、ぐにゃりと歪むように、今起きたこの光景全てが嘘っぱちかのようにと、消えてしまっているのだ。
 ぽつんと、俺一人だけが今この舞台の上に残っている。残されてしまっているといってもいいだろうか。あまりにもみじめに、思えてしまうのである。今まで起きたこと全てか取り残されてしまったのだ。世界で一人だけ置いてけぼりを食らってしまったかのように錯覚してしまった。
 ああ、俺は、今まさに、孤独になってしまった。そう思えた。一歩足を踏み出す。さくりと、草が倒れ、音が鳴った。世界が彩った。まだまだ、俺は置いていかれていないようである。まだまだ、時間の流れについてきているようである。
 だんだんと、そしてゆっくりと。世界は戻っていく。色を戻していく。動き出していく。セピアに色あせてしまった今までとは違っているのだ。色鮮やかにすら見えるだろう。素晴らしく見えるだろう。再び愛せる。より洗練されて、美しくなってしまっている世界を、俺は愛せるだろう。
 とても素敵なことである。どうして今までこれを気付くことが出来なかったのだろうと、自分を責めたくなってしまうだろう。見てみてほしい。これほどまでに色鮮やかに、煌びやかに、夜でありながら光のごとく、輝いてしまっているのだから。どうしてこれから目が離せようか。
 俺は、町へと戻るのだ。足取り軽やかに。全てを思い出すかのように。スキップをしてもいいだろう。ゆったりとそして軽やかに、飛び跳ねていくのである。

「天の仙人様」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「ファンタジー」の人気作品

コメント

コメントを書く