天の仙人様

海沼偲

第73話

 夜のことであった。俺は寝ていた。ただ、その日はどうにも寝つきが悪かったというか、眠りが浅かったのである。なんてことはない。たまにはあることだろう。妙に眠れない日というのがたまたまあったというだけの話である。だが、問題はそれだけでおわらなかったということなのである。あまりにも唐突にそれが起きてしまったのだ。まさかと思わざるをえない。
 わずかに部屋の扉があいたような気がした。音はなっていないが、空気の乱れ方から、何かが部屋に入ってきており、そのために扉を開けたのだというのを感じられるのだ。だが、その空気の流れがなければ、俺は人が入ってきたのだろうというのはわからなかったことだろう。気配というものの一切が極微笑であり、相当に警戒をしていないと気づかない程であるのだ。呼吸音すらも、息を止めているか、それ以上ですらある。足音も何もなく、すうっとベッドの近くまでやってきている。そのまま、重さを感じさせることなくベッドに乗り、俺のすぐそばまで接近している。ここまで来てようやく、存在していることを認識できるのだが、いるとは思えないほどの存在感の希薄さ。それが妙に不気味に感じられるのである。
 俺の体に手がかかる。服を引っ張られて肩を出された。そこに息がかかっているのを感じる。舌が這っているような、独特の感触を感じる。そのまま噛みつかれる。甘くである。だが、途中から歯をたてられる。肉に突き刺さり、血が出ているだろうということを実感する。それを、俺の上にいる人物は飲んでいるということもわかってしまった。俺の血を飲んでいるのだと気づいてしまった。俺の血を、そもそもは、体を食料としている存在が、今俺の上にいるということなのだ。一瞬固まってしまった。自分を食料だと思うような存在が、今まさに俺の寝室にまで侵入するとは思っていないからである。森で出会ったら覚悟も出来よう、だが、今この場所でならば覚悟はできるだろうか。そういう話なのだ。
 俺はつい目を開いてしまう。誰が犯人かを確かめたくなったのだ。見たら呪われてしまうのではないかと思ったが、それ以上に誰に血をのまれているのだという疑問を解消するほうが勝っていた。好奇心が勝ってしまったのだ。
 俺の視界に入ってきたのは闇すらも飲み込むほどに黒く透き通った髪であった。俺はそれに一瞬目を奪われてしまう。だが、この髪の持ち主は一人しかいないということにすぐさま気づいた。俺は視線を横に向けると、確かによく見た顔がある。恍惚とした表情で俺の血を貪っているのだ。そこにはわずかながらのエロスがあった。だが、今それに対してわずかながらの愛欲を掻き立てられるわけにはいかない。おれは、ぽんぽんとその人物の背中を叩いたのである。
 彼は、口を離して、後ろを振り向いた。しかし、誰もいないだろう。そして、こちらへと振り返ると、俺と目が合う。俺はにこりと笑った。彼の口からは、鮮やかな赤が輝いている。自分の血をこうやって見ることは初めてであるが、宝石として売ることが出来るとしたら、どれほどの価値があるのかと考えてしまった。彼の口から滴り落ちる自分の血というものに、一種の芸術性を見出してしまっていたのだ。
 彼は、何もできないようで固まったまま動かなくなってしまった。あまりにも予想外のことなのだろう。だが、この状況を朝まで残しておくわけにはいかないだろう。すぐにでも処理しなくてはならない案件であることには間違いはない。

「ルクトル、君は今……何をしているんだい? まあ、その様子から見ても、何をしていたのかということは言うまでもないのだけれども。だが、俺は非常に驚いているよ。まさかルクトルがそんなことをするとは思わなかったからね」

 そう、俺の血を飲んでいたのは、ルクトルであった。彼は、この世の全てに絶望したかのような顔色を見せる。青白い顔が余計に青く見えるほどであると言えた。青白い顔の少年の血の気の引いた顔というものは、人形と差し支えない程に生気が抜けているように見えるのだと感心してしまう。
 俺は、何事もないようにベッドから降りて、部屋についてある椅子に座った。彼は、しゅんとして今から行われるであろう罰則に対して、恐れているように見えた。俺はその彼に対面の椅子に座らせる。びくびくとして小刻みに震えているのである。それもわずかながらに愛らしく思えてしまう。
 彼はおそらく、というかほぼ間違いなく、吸血鬼なのであろう。ヴァンパイアである。それがバレたくないというのも今の様子から見てわかる。きっと、バレたら嫌われてしまうとでも思っているのだろう。たしかに、ヴァンパイアが人間と仲がいいという文献は一つとしてない。自分の血を吸ってくる奴と仲良くは出来ないだろうということだろうな。気持ちはわからないでもない。ネズミと猫が仲良くできるかという話なのだ。できたとしても相当難しいことだろう。食べる食べられるの関係のままに仲良くなど不可能なのだから。
 俺は彼の顔を覗いている。彼はただ、これがバレてしまったことに対する絶望感と、わずかな興奮がごちゃ混ぜになったような顔を見せている。それがいっそう美しく見えてしまっているのであった。

「吸血鬼は、血を飲むと興奮するのかい? それは、どういう興奮なのだろうか。やはり、血の気が高いからこそ起きてしまうアドレナリンの分泌のようなものなのだろうかね。俺は食事で興奮をしたことがないのだが、食事中に興奮するというのはどういう感覚なのだろうな。ちょっと気になってしまったよ。もし話したくないというのであれば、言わなくても大丈夫だよ。俺の個人的な興味なのだから」

 彼は、聞かれたことが自分の予想していなかったことのようで、驚いた眼をしてこちらを見ていた。だが、俺が再び質問をしてみると、恥ずかしそうにもじもじしながら、話し始めてくれた。

「あ、あの……吸血鬼は血を飲むと……血というか、獣ではなくて人間の血なんですけど、その……性的に興奮してしまうんです。ですが、これは誰でもいいわけではなくて……えっと、その……自分が好きな人とか、大切な人とか、そういう人の血だけしか吸わないんですけれど……」
「そうか、よくわかったよ。ありがとう。恥ずかしいんだったら、これ以上話さなくても大丈夫だよ。別に、ルクトルを辱めようとしているわけではないからね」

 彼は、頭を下げて口をつぐんでしまう。よほど恥ずかしかったのだろうと、わかる。確かに、俺の血を飲んでいるときは性的に興奮していると、俺の目の前で言うのは相当に恥ずかしいことだろう。だから、俺はこれ以上それについての話題は触れないでおこうと決める。彼に嫌われてしまったら意味がないからね。
 彼はいまだにひどく落ち込んでいるようであった。そして、物足りなさそうな残念そうな顔を見せているのである。この様子から見ても、俺が気づいていないだけで、何度も血を飲まれていたということだろう。それに、今はわずかながらに血が足りなくてふらふらとしている。つまりは、朝に貧血気味だと感じているときは、血を飲まれていたと考えていいだろう。……つまりは、毎日飲まれていたようである。よほどのことだろう。俺が仙人でなければ死んでいたことだろう。いまほど、仙人でいることを感謝したことはないかもしれない。まさか、このようなことでこの力を感謝するとは思わなかったが。でも、そのおかげで、こうして今も生きていることが出来るのである。

「ルクトルは、毎日俺の血を飲んでいたんだろう? 俺は、毎朝起きるたんびに貧血気味だったんだ。つまりは、そういうことになると思うんだけどさ。これも答えてほしいな」
「……はい、そうです。わたしは、アラン様の血を毎晩飲んでおりました。一応、我慢しようとは思いました。しかし、アラン様と毎日顔を合わせていると、我慢できなくなってしまって……でも、昼間に無理やり飲むことは出来ないから、夜にみんな寝ている隙をついて、飲んでいました。申し訳ございません」

 淡々と答えてくれた。彼はどうやら、諦めてしまっているようであった。自分がこの家から追い出されてしまうことを覚悟していて、受け入れてしまっているような、そんな話し方であった。俺はそれに悲しくなってしまう。そんな顔をしないでくれと叫んでしまいたくなってしまう。だが、俺はそれを最後の最後でこらえるのだ。
 俺は、何も言わずに彼の頭をなでる。彼はびくりと体を震わせているが、撫でられているだけだとわかると緊張が解けていくようである。俺は彼の不安をほぐしていくように、ゆっくりと優しく頭をなでていくのである。
 彼は上目遣いでこちらを見ている。俺がなぜこんなことをしているのかがわからないのだろう。不安なのだろう。だから、俺は笑うのだ。笑顔を見せるのだ。優しく微笑んで見せるのである。あたたかな優しさをもって、心と溶かしていくのである。彼にもそれが通じてほしいという思いである。
 笑顔は心の奥を映してくれる。本心がより表に出てきてしまうのが、笑顔なのだ。だからこそ、想いを伝えるのに笑顔は素晴らしいものであると言えた。俺の気持ちを隠すことなくそれは伝えてくれるのだ。ルクトルも笑ってくれる。にわかに笑みがこぼれる。少しは落ち着いてくれたのだとわかる。それが嬉しい。俺の気持ちが伝わったという証拠なのだから。

「ルクトル。君は吸血鬼なんだろう。ということは、血を飲むということはただの生理的欲求でしかない。つまりは、君が血を求めるのは当然のことなんだ。そして、その求める相手が俺だったというだけだ。だから、それを恥じて隠す必要はないんだよ。堂々としていればいい。誰にも君の欲求を否定させない。だから、好きな時に、俺の血を飲みたいと言ってくれればいい。まあ、俺が倒れない程度にしてほしいという願いはあるけどね」
「ほ、本当ですか? 本当に、わたしがアラン様の血を飲んでもいいのですか? 許してくれるのですか?」
「愛する者が、俺を求めているというだけだろう。正確には血だけれど。それを拒む人間はいないのさ。まあ、自分の体の一部を食事として提供するというと聞こえが悪いかもしれないが、種族としての本性を俺は否定したりはしないさ」
「あ、ありがとうございます、アラン様……ありがとうございます」

 彼は泣いて喜んだ。それを見ていると俺も嬉しくなる。俺は間違っていないのだと思うのだ。彼は堂々と自分の欲求を満たすことが出来るし、俺も、彼に求められているのだと深く理解できる。それが嬉しい。たとえ血液であっても、愛する者から何かを求められることは喜びである。
 俺は静かに彼の頭に手をおいて、ゆっくりと撫でる。彼が落ち着くように静かに撫でるのである。これで彼は深く理解してくれることだろう。俺は何があろうともルクトルを嫌いになることはないのだと。愛し続けているのだと。

「あ、あのですね……アラン様。ぶしつけなお願いなのだろうとは思っているのですが、まだ飲み足りないのです。ですから、もう一度飲ましていただけないでしょうか? お腹が空いているのです」

 彼は、そう言った。俺は呆れたように笑いながらも、肩を差し出した。そして、彼は首筋に噛みついた。血が吸われているのを感じている。それと共に、彼が俺を抱きしめる力が強まっていく。息が荒くなる。俺の顔も血が吸われていっているというのにも関わらず熱くなってきている。無理やりに仙人の力によって血を生み出しているのである。ならば、足りないことはないだろう。でも、それでも顔に血を登らせる余裕があるそうだ。驚きである。
 それを朝まで永遠と続くかのような時間の中で続いているのであった。

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