天の仙人様

海沼偲

第74話

 ルイス兄さんは、今年は夏も春も帰ってくることはなかった。最初は、何かあったのかと騒ぎ出し、ケイト母さんが再び倒れてしまうという事態が起きてしまったが、カイン兄さんいわく、王都でやることがあるそうで、帰ることが出来ないのだそうだ。それを聞いて、どうにか立ち直ることが出来たが、それでも、今年はルイス兄さんに会えないというのはかなりショックだというのは言わなくてもわかることであった。あの男はどうも、俺たち家族の心を弄ぶのが大好きなようだと思うことしかなかった。あとで一発殴っても許されるのではないだろうか。そう思ってしまっても許してもらえるのではないだろうか。
 そんなこともあり、とうとう俺も王都に向かうことになる。そんな年になってしまった。ハルとルーシィ、更にはルクトルもついてきてくれるそうだ。彼女たちは俺と同い年ということにしているので、一緒に王都に向かう。ルクトルとルーシィは問題ないのだが、ハルが何歳なのかというのがわからない。だから、そこは同い年ということで押し通しているのである。自称では成人しているらしいのだが、ゴブリンの成人は一歳なために、あまり参考にならない。だがしかし、三人は試験に合格しなければ、学校に通うことは出来ないわけだが。だから、兄さんたちが入学するときに出発した日時よりも早い出発となる。俺とカイン兄さんもそれに合わせての出発となった。一足早くの出発にアリスは文句がありそうな顔をしていたが、しぶしぶということで納得してもらった。
 俺は、聖域を放置して王都に行ってしまうことを悩んでいたのだが、その時にお師匠様がこちらにやってきてくれた。素晴らしくいいタイミングだと思う。だから、それについて相談をすると、もう放置をしていても荒らされることがないだろうということだ。これが、変に悩ませないようにするための方便であったとしても、俺が気楽になったのは事実なので、ありがたく思っている。それに、聖域は俺の力がなくても一人でやっていけるほどの力をつけたのだ。とても喜ばしいことである。それのおかげで、俺が心残りになっていることはないのだ。母さんたちの体調も問題はないし、サラ母さんは俺と一緒に旅をするのだ、具合が悪くなってもすぐに駆け付けられる。だからこそ、俺は今回の旅を安心しきっていられるのである。
 そうして、当日。俺たちは二台に分かれて馬車に乗り、王都に向けて旅立った。アリスと、ケイト母さんはとても寂しそうに涙ぐんだような顔を見せながら、手を振ってくれている。俺も負けじと手を振り返すのである。それは、二人が見えなくなるまで続けられるのである。これから数か月の間。母さんたちの顔が見られなくなる。その悲しさを抑え込むようにじっと遠くを見ているのであった。
 馬車の旅というのは、スムーズに進んでだいたい一週間程度かかる。思わぬアクシデントの対策として余裕をもって、日程を組んでいるから、最大でその二倍の時間を計算に入れているわけだ。それでも、数日は余裕をもってつくことは出来るだろうと思うけれど。一応、これよりも早く移動できるほかの手段もあるにはあるのだが、どれもそれなりの年月とお金がかかる。男爵家程度ではやはり馬車が安定するのである。
 馬車の外から見る景色というのは初めて見る。馬の速度に合わせて木々が流れていく。顔を出せば風が俺の顔に当たり、草花の匂いがこちらへとものすごい勢いでやってくる。ガラガラとした音と振動にあわせて、揺れているのも心地よい。座席にはクッションを敷いてあるので、お尻が痛くなることもないだろう。馬車自体にもスプリングを入れているので、大きな衝撃は伝わってこない。
 俺が乗っている馬車には、俺の他にハル、ルーシィ、ルクトルの三人が乗っている。当たり前の面子わけであった。三人が俺と別れることを良しとしないのだから、こうなることは目に見えているのである。ルクトルは、しっかりと男性の姿でいさせている。学校では、女装を許可しているわけではないからな。自室ならともかく、授業中に女装をしてはいけないのである。これは、先生が混乱しないようにするための処置である。性別は男なのに、女として学校にいたら、混乱するだろう。だから、仕方なくという様子でルクトルは男性用の服装に着替えていた。だが、女性用の服装も荷物の中に紛れ込ませていたのも知っている。だが、俺はもう口を出さないことに決めている。彼が好きなようにすればいいのだ。最低限のルールを守っているのならば、そこから先は彼の自由であろう。俺はそこに思い至ることが出来たのである。

「ルクトルは、行商をしていたころは、馬車に乗って荷を運んでいたのかい。この景色はよく見たものなのだろうか。程よい程度に素早く景色が移り変わっていくのはとても素晴らしいと思うわけだけれども」

 ルクトルは、最近では行商をしていたころの、思い出話などを語ってくれるようになっていた。自分からぺらぺらと話すことはなくなったが、聞いてみると、楽しそうに話してくれるのである。前は、思い出しただけで涙をあふれさせ気が動転して話せるような状況ではなかったから、少しは乗り越えることが出来たのだと嬉しく思っているのである。それでも、無理に話させることにはならないように、彼自身の心に余裕があるだろうなという時を狙ってきいているわけであるが。

「ええ、確かに、わたしは御者台からの景色ですが、流れていく景色を眺めておりました。ですが、このように、アラン様と一緒の景色を同じ場所から、寄り添いあうことも可能なままに、見ることは初めてでございます。こうやって、アラン様と一緒の景色を見ることが出来るのは大変うれしく思います」
「そうか……たしかに、俺もルクトルたちと一緒にこの景色を見られることを嬉しく思っている。感謝したい気分だ」

 俺は、今まで生かされているのだと、思う。より深く思うのである。自然に生かされているという当たり前で、絶対的な真実に。だからこそ、今こうやって、愛する者たちと、馬車に乗って景色を眺めているというだけの行為が輝かしいものとしてみることが出来るのであった。
 と、前方を見ていると、クマが現れた。かなり大きい。春になり、冬眠から目覚めてしまったのだろう。食料として馬を狙っているというのがわかる。しかし、うちの馬はよく調教されているので、馬程度では怯むことがない。そのまま走り続ける。だが、このままだと通り道にクマが入り込んできてしまう。そうする前に、排除をしなくてはならないのだが、その仕事をするのが御者である。
 俺の乗っている馬車を操っている彼は、一見すると、年老いた男性でしかないのだが、水筒の中のものを口に含み、そのまま吐き出す。それは大きな水の刃となり、クマに斬りかかる。クマは避ける間もなく胴体を真っ二つに切り裂かれてしまうのである。すぐに、それは風の力で無理やり側溝へと、押し出されて、道は綺麗なものへと戻る。そこを華麗に通り過ぎていく。クマはいずれ、他の肉食獣のえさとなるだろう。だが、俺たちは生き物を殺したということである。ならば、冥福を祈るべきだろう。来世では良い人生を送れるように願うのである。俺は、静かに手を合わせ、クマの方へと念を送り続けるのである。それは見えなくなるまでであった。
 御者の仕事は、このように進行途中の障害の排除もある。しかも、剣ではない。剣だと馬車がとまってしまう。そうならないように、魔法の技術が高い者だけが成れるのだ。当然御者になるための試験というものも存在している。相当難関なために、合格者は多くはない。だから、御者となれるものはある種の敬意が払われるのだ。とても、美しく誇りだかい人たちなのである。
 今回の旅では、先日であったクマが最も大きな障害だっただろうか。それ以外では、何もない。平和な旅路であると言えるだろう。のんびりと、自然と共に穏やかに過ごすことが出来ている。
 今は、王都に行く間の小さな町に泊まっている。宿場町という奴であった。宿は、貴族向けの少々値の張るものであるが、こういう時に金を落としていくのも貴族の務めであるのだ。そうしないと、経済が回ることはないだろう。金持ちが金をたくさん落とすことで経済が潤っていくのだから。貴族とはそういう義務もあるのだ。男爵家側としてみれば、財布のひもはきつく結んでおきたい心もあるだろうが、それ以上に貴族の義務というものが大切なのである。むしろ、毎年、それ用のための給付金が下級貴族に配られたりもする。
 この町は、村とは違い、石造りの建物が多い。がっしりとした建物が多いという印象を受ける。木のような温もりを感じることはないが、強固で力強い感じを受けるのである。確かに、魔導文字を彫るときには石の方が効果が高い。芸術家たちは、彫刻的な美的な感性を残したまま、柱の一つ一つにしっかりと、力をもたらす文字をつづることが出来るのだ。絵でしか見たことがないが、いつか見てみたいと思う。王都の美術館には、そういうものも飾られていることだろう。それを鑑賞するのを非常に楽しみにしている。

「あ、あの……」
「ん? なんだい?」

 と、俺に一人の少女が話しかけてきた。彼女はもじもじと恥ずかしそうに体をゆすりながら、俺の顔をちらちらと覗き見るようにしている。俺は、彼女が何をしたいのかがわからずに、首をかしげてしまう。すると、彼女は恥ずかしそうに悲鳴を上げて逃げて行ってしまった。俺はわからずに、ただただ首をひねることしかないのである。

「ねえ……」

 と、今度は背後から、恐ろしい程に黒く沈んだ低音が聞こえてくる。底冷えするほどである。俺は、ゆっくりと顔を向けると、そこにはひどく表情が抜けたような顔を見せている、ハルが立っていた。
 俺は、ただ笑う。笑顔を見せるのみである。堂々としていればいい。彼女が勘違いをしているだけなのだから。つまりは、俺に一切の非がないということに他ならない。ならば、なぜ恐れる必要があろうか。
 彼女のこの表情は村にいた時もよく見ているのである。これは癖に近いものだろうと思っている。いいや、それ以上の魂に刻まれた本質というべきだろうか。本性が漏れているだけなのである。ならば、何を気にする必要があるという話である。

「あの女、なに? 私のアランにたいして、なれなれしく近づいちゃって。本当気持ち悪いよね。きっと、自分にもチャンスがあるかもなんて勘違いしちゃっているんだよ。きっと、町で一番かわいいみたいにちやほやされちゃったんだよね。だから、ああやって、自分とは次元の違うところにいる人に対して変な恋心を抱いちゃうんだろうね。本当、ああいうのって迷惑だよ」
「ハル、言いたいことはそれですべて吐き出し終わったかい。全部吐き出せたのなら、こっちにおいで」

 俺が呼ぶと、彼女は俺の体に頭をうずめる。やはり、そういうことだった。本当に愛らしい。可愛らしいのである。俺は、ただ優しく頭をなでるだけである。それを彼女はただただ受け入れるだけなのである。静かに、流れるように、固まったかのような。何も言わない。ただ、俺たちはそれだけでも通じるだろう。

「アラン、愛してる」
「ハル、俺もだよ。愛してるよ、ハル」

 だが、それでも言うべきことはあるのだ。ただ、それを口に出すだけであった。口に出すとより美しく感じてしまえるのだから。

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