天の仙人様

海沼偲

第60話

 やはり、兄さんは魔法使いなのだろう。俺たちよりも、アリスといることが多くなった。明らかに二人は、魔法使いとなることを運命づけられているかのような、才能を持っている。だからだろう。二人とも、何を言っているのかわからない、独特の言葉で話しているのだ。

「――――」
「―――――――」

 今のは、兄さんとアリスの会話である。音が鳴り響いているだけなのだ。からんころんと軽快な、人に発生できるのかとすら思えるほどの、軽やかな音。音だけだ。そこに意味はないと感じる。そう思えるほどに、無意味な『ド』や『レ』や『ミ』の音の集合にしか聞こえないのだ。それが、精霊の言葉であるのだろうということはわかる。だが、俺にはわからない。音が鳴っているということだけしかわからない。カイン兄さんたちには、そもそも、音がなっているということすらわからないらしい。精霊の言葉というのはそういう不可思議さを持ち合わせている。ある種の超音波であるのだ。不気味であるようにも思えることだろう。
 そう、ルイス兄さんはどういうわけか、精霊の言葉を話せるらしい。しかし、精霊を見ることは出来ないようであり、聖気が体からあふれているということもない。つまりは、自力で精霊の言葉を覚えたということだ。どうやってなのか、教えてもらいたいものだが、おそらくは、ルイス兄さんにしか出来ないのだろう。それほどまでに、俺にはあの音が言語だと認識するのを拒んでしまっている。どうやって、兄さんはあの音の集まりでしかないものに言葉としての概念を見出すことが出来たのか。恐ろしいことだ。
 とはいっても、ルイス兄さんが精霊の言葉を話せるからと言って精霊に愛されているわけではないようで、アリスのような緻密な魔力操作の技術に達することは出来ないようで、ひどく落ち込んでいたが、どうやら、精霊の言葉……いわゆる精霊語という奴を紙に書き込んで表にまとめていたりするわけである。俺も見せてもらったが、標準語として使われる文字の隣に、子供の落書きともとれる何かが書かれている。ただぐちゃぐちゃとした線の塊のようでしか見えない。

「兄さん、この線のような……もしかしたら、イラストかい? どっちかはわからないが、この謎の記号のような何かはなんだい?」
「ああ、それはね……精霊語だよ。とはいっても、わかりやすいように、文字を作ってみて、それに対応する言葉を隣に書いてあるんだ。この文字は僕が発明したものだよ。すごいと思わないかい」

 どうやら、このひょろひょろとした、線のような絵のような何かが、精霊語と呼ばれる、物を表しているそうだが……それに意味はあるのだろうか。精霊たち、ひいては妖精たちも文字というものを持たない。そのため、そこから編み出された魔導言語にすら文字はない。全てが、口伝いでしかないのだ。魔導言語を紙であらわす場合は、標準語の音を無理やり、魔導言語の音に合わせて使うのだ。要するに、万葉仮名のようなものとして魔導言語を紙に書くのだ。
 魔道言語を模様として表現することはある。建造物の表面に刻むことで魔法的な強度を持たせるために、魔導言語を模様化させるのである。だが、それは文字ではない。文字のようで、文字ではないのだ。規則持った模様なのだ。だから、文章として書く場合には、模様を使用することはない。それに、模様そのものに力があるのだ。だからこそ、魔導言語を刻むことで、力を発揮するのである。紙に書いてしまったら、魔法がそこから発動してしまう。そういう意味もあってこれらの模様を文字として使用することはない。
 俺は、なんとなくこの線の塊に規則性があるのかと見てみるが……母音らしきものが全く見当たらない。……仮名文字みたいに、くっついてしまっているのだろうか。そうじゃなければ、子音と母音に分かれるのが文字である。そうじゃないとしたら、これに規則性がない理由がわからないのだ。魔導言語の言語体系を思い返してみても、音韻が数十音程度である。この表にある数だけの言葉を使って考えてみても、数十、それどころか、数百ですら足りない程である。
 この記号の塊は、非常に俺を悩ませるにふさわしいものとなっている。諦めるように、俺は兄さんに答えを聞いてみることにした。

「ああ、そうだね……すべてが同一で、すべてが異となるんだ。同じ音で違う意味。違う音で同じ意味。全てがそれに当てはまっているのさ。『k』の音に『楽しい』と『悲しい』が混ざっているようなものなんだよ。面白いだろう。一つの音、しかもたった一音にそれほどの音を盛り込まれているんだ」
「……なんだいそれは? そんなの、そもそも言語として成立するのかい? 正反対じゃないか。しかも、音として分けられる最低のレベルでだよ」
「だろう。なら、そうだな……『―――』って言葉と『―――』って言葉の意味の違いがわかるかい?」
「わかるって……その言葉は、同じ音だったよ。口の開きも喉の震えも、一緒。これに違いなんてないよ。『楽しい』と『楽しい』に違いはあるかいなんて問題にはないって答えるしかないじゃないか」
「そう思うだろう。答えはね……最初の音が『嬉しい』って意味で、次の音が『優しい』って意味なんだ」
「はあ? そんなのありえないよ。だって、音が全く一緒なら、全く一緒の言葉になるはずなんだ。違いが現れるのなんて、そもそも、違う言語じゃなきゃあり得ない。言語として破たんしているじゃないか」
「そうだろう、そうだろう。でも、それが事実なんだ。同異の理が精霊語の本質であり、魔導言語の基礎なんだよ。魔力も、魔法も、すべてこの本質を元に出来ているんだ。僕は、夏休みの期間にそのことばかり考えた結果、そういうところに行きついた気がするんだ」

 兄さんは、恍惚とした表情で、紙に書かれた落書きのようにしか見えない線の集まりを見ている。何が見えているのだろうか。言葉。そのさらに奥の、深くへと、進んでいるのだろうか。俺にたどり着けるのだろうか。深淵のさらに深淵。深く深く、潜っていかなくては届かないような、恐ろしい世界へと足を踏み込む。そもそも、その度胸が俺にあるのだろうかということである。そうじゃなければ、兄さんの領域へとたどり着くことが出来ないのではないだろうか。たどり着いてみたいかと言われると……たどり着いてみたいさ。狂ったような世界の真実。背けたくなるような、事実。それを見てみたいものだ。世界の果て、世界の終わりを一目見てみたいと思うのと一緒だ。破滅的な感覚であるのだ。

「そうだ、一つヒントがあるんだ。《水と土の愛しさと共に揺さぶるように、愛すべき魔の発現を》」

 そう言って、兄さんの手のひらに表れるのは、雷の球体。雷で出来ているのだ。バチバチと、激しく音を鳴らしながら、手のひらにとどまり続けている。そっと指を近づけてみると、ばちんとした刺激が俺に襲い掛かってくる。すぐさま手を離せばそれ以上のものは来なくなる。

「……兄さんって、完全な無詠唱が出来るようになったの? 水と土からでは雷の要素は生まれないよ」
「いいや。僕はまだ、詠唱を飛ばそうとすると、補助となる動作をしてあげないと、魔力は動いてくれないよ」

 ならば、どのような理屈で、水と土の因子から雷を生み出したのか。少なくとも、想像の段階では、出来なくもなさそうであるが。それでも、効率が悪い。水が蒸気となり摩擦を起こし、静電気を蓄え、それが地面へと落ちる。その流れによって水と土を使うことで雷は起こせるが、もっと早く起こすことは出来る。プロセスが多すぎるのだ。電気を生み出すことにおいて、そうしなくとももっと簡単に出来るのだから。
 だが、兄さんの魔力は最も効率のいい魔力の運用の仕方と同じ程度しか消費されていない。……わからない。何が起きてこうなっているのかがわからない。わからないということがこれほど恐ろしいことだと改めて認識するのである。そうなのだと。不気味なものがただ口を開いて待ち構えているかのような怖気が走る。

「これが、同異の理なんだよ。同じものでありながら、違うものであり続け、違うものでありながら、同じものであり続ける。この矛盾であり本質。これが、魔法の原理なんだよ。少なくとも、僕はこう思うし……僕の中ではこれが大正解なんだ。つまりは、アランの中では、別の答えがあるのかもしれない。カインだってそうだ。誰もが同じ答えを求めて、違う答えを見つけるが、それもまた同じ答え。一つとして同じ答えはなくて、そしてそのすべてがある一つの答えにたどり着くんだ。そしてその答えは永遠に同一となることはない」

 兄さんは、にへっとした顔を見せる。全てにたどり着いてしまったような、廃人のような健常者。正気のまま狂っており、狂うことが正気である。ああ、そういうことなのかもしれない。いや、違うのか。あってて、違うのか。正解であり、不正解なんだ。つまりは、そういうことなのかもしれない。恐ろしい、事実であり、虚偽である。俺の頭を混乱させて狂わせようとしていることがありありとわかる。これを考え続けてはいけないのだと訴えている。ならば、俺はやめよう。少なくとも、今考えても答えは出ない。答えでありながらそれは答えではないのだから。目の前にぶら下がっているエサを掴んではいけないのだ。それは、俺にとっての不正解なのだから。真実は無限に一つだということなのだ。
 ルイス兄さんの意地が悪いところは。そのような奇怪な問いを夏休みがもうすぐ終わり、王都へと戻ってしまうという時に出してくるというところか。

「兄さん、残念だけど……それは間違いだよ。答えは一つなんだ。心理は一つ。無限に見えるのは、それまでの道程が、無限にあるだけ。だから、たった一つの道のりを歩く途中で、それらしいものを見つけただけで、それを堂々と見せびらかすのは間違いなんだ。どれほどに難解な道を歩もうとも、容易な道を歩もうとも、それは一つの山頂に登るための道でしかないのと一緒なんだよ」

 ならば、俺だって意地悪をしてやろう。答えを、答えではないということで。兄さんは、捕まったよ。また思考のるつぼに入っていくんだ。頭を悩ませて、飛ばして考えるしかない。人間の精神と思考が、神と同格のところに存在する無に等しい答えを見つけられるのか。それに挑戦していくのだ。
 それは、俺も同じなのである。おれもまた、そこに、その深みに入り込んでいく。永遠に見つからない答えの更に奥底に存在するものを探しに。

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