天の仙人様

海沼偲

第38話 二人の婚約者

 温かなベッドに包まれて俺は目を覚ます。春の陽気が窓から差し込んできており、俺の顔に直接当てている。ちくたくと体内時計の針はいじられ正常な時間へと戻っていく。俺は上半身を起き上がらせようと力を入れる。だが、動くことはなかった。やはり、腕におもりが乗っかっていると動くわけがない。しかも、両腕であった。毎日のように、腕枕をされていれば腕がしびれるという事態はなくなってくる。それほどに、俺は彼女たちに腕を枕代わりにされているのだ。いや、片腕だけか。もう片方の腕は今日初めて重みを感じているわけだからな。痺れをかすかに感じている。しかし、彼女たちの体温を直に感じながら、寝ている姿を目に刻んでいるわけであり、俺としてはなんてことはない。むしろ、さらに彼女たちと体を密着させようと抱き寄せてしまうわけである。
 俺の右隣りには、ハルが。左隣には、ルーシィが寝ていた。そう、ルーシィも俺の家に住むことになった。二人の婚約者と、これから毎日のように同じベッドに寝るわけであるのだ。
 本来であるのならば、婚約者となったからといって同じ家に住むということはない。まだ結婚しているわけではないし、婚約者とは結婚する時まで顔を合わせることすらないということもあり得るのだ。だから、わざわざ同じ家に住んで一緒の生活を送るということはしないわけだ。しかし、ハルが俺と同居している。婚約者の一人が俺と一緒に住んでいるのだ。もう一方からしてみたら、そこの部分で差がついてしまうのだ。ということで、差を埋めるためには自分も一緒に住むしかないわけである。向こうの家族も同じことを思ったそうで、そこはスムーズに話が進んだ。むしろ、向こうは俺の家にルーシィを預けるつもりだったそうで。貴族の妻にふさわしく教育してほしいのだとか。別にそういうのは気にしなくていいと思うのだが、気にするのだから仕方がない。平民と貴族の差は男爵程度であろうとも大きいのは確かであろうから。俺が将来、他の貴族の人間に妻のことで馬鹿にされないようにという彼らの心遣いなのだろう。寂しくないのかと父さんは聞いていたが、他にも息子たちがいるので大丈夫だと、涙ぐんでいたがそう答えいていた。そこまで決めているのであれば、俺もありがたく好意を受け取るとしようという話であった。
 三人でベッドから降りて、食堂へと歩く。その間に話をするが、そのどれもが他愛のない、世間話にならないような、他人から見ればくだらないと一笑に付してしまうほどの話でしかない。だが、俺たちはそれを楽しんでいる。一言一言で、わずかに変わる感情の揺らぎを感じながら食堂へと向かっていくのだ。俺は、この時間がなんとなく好きだ。
 食事が終われば、着替えにハルは部屋へと戻る。俺はそれが終わるまでソファでくつろぐのだ。

「ハルは、どこに行ったの?」
「着替えに行ったんだよ。部屋に戻ってね」
「なんで? さっき着替えたばかりじゃないの? すぐに汚れちゃうの?」
「いいや。これから、森の中に入るんだ。だとしたら、ドレスを着ていくと動きづらいし、汚れてしまうだろう。だから、そうなってもいいような服装に着替えているのさ。ドレスで森の中に入るような人はいないだろう。いつものことだよ」

 俺は、なんてことないように答えた。すると、ルーシィは頬を膨らませて怒っているかのような顔を見せる。何かあったのだろうか。ただ、その怒っているであろう表情がとても愛らしく見えてしまい、俺はすと無意識的に腕を伸ばして頭をなでてしまった。彼女は最初はそれに喜んでいるようであったが、ふと自分が怒っていたということに気が付くと、再び睨んでいるかのような目つきをされた。睨んでいるような、であるため、そこまで怖さはないが。愛しさしかない。ただ、今度はそれを口にも体にも出すことはしない。

「どうしたんだい? 怒ったような様子を見せて」
「アランも行くの? 森の中に?」
「え? ああ、うん。もちろん」
「じゃあ、なんであたしにも言ってくれなかったの? あたしも婚約者でしょ? お嫁さんでしょ? あたしだって二人についていきたいよ。三人で一緒に森の中で遊びに行こうよ」
「あー、そうか。ごめんな、ルーシィ。普段は、ルーシィと一緒に森の中に入ったことがなかったから忘れていたよ。ごめん」

 俺は、申し訳なく頭を下げる。気にしていないというように俺の頬に触れて頭を持ち上げる。そして、にっこりと微笑む。俺も同じように笑みを返す。と、ルーシィの顔が近づいてきて、唇同士が触れ合った。離れると、恥ずかしそうに顔を真っ赤にしたルーシィがいた。彼女は周囲を見渡して、誰もいないことを確認すると、もう一度唇をくっつける。今度は、長かった。長いのか。わからなかった。一瞬であり、永遠である。止まっているかのような時間が瞬間的に流れているのを感じた。一瞬の永遠であった。
 俺たちの唇は離れる。彼女の顔は熟れたリンゴだった。そういえば、彼女とキスするのは初めてであったか。そう思うと、俺の頬も熱くなっていくのをわずかに感じてくる。ハルとのキスは薔薇のようなキスであるが、ルーシィとのキスはタンポポのようなキスであると思う。そういう二人の違いを感じていた。しかし、顔には出さない。今目の前にはルーシィがいるのだから。今まさに、彼女と愛し合っている中で、他の女性の名前を出すことは好ましくはないだろうから。

「これで許してあげる。次からはちゃんと気を付けてよね」
「ありがとう」

 この言葉を交わすだけが精いっぱいであった。精神は体から作られるのか、魂で作られるのか、わからない。しかし、今のこの現象は魂からのものではないということなのだろう。肉体に引っ張られてしまっているように思えてならないわけである。
 俺の精神は魂と肉体に挟まれており、幼児と成人の二重的な側面を持っているともいえるのである。それが混ざり絡まり合うことで、俺は少し、自分がどうなっているのかが混乱してしまうわけである。だが、今目の前にいる少女に対して愛情が芽生えているのは確かであり、結婚するということも、別に嫌ではない。むしろ、嬉しいのだ。彼女を愛して、それと結ばれる。そこにはいま現在の肉体など無意味であるとすら思えるわけである。やはり、婚姻は魂でするものなのだろう。肉体は所詮おまけなのだ。

「じゃ、じゃあ、あたしも着替えてくるね。アランと一緒にお出かけしたいし。使用人さんにお洋服の場所教えてもらわなくちゃ」

 逃げるように、駆け出していた。俺はその後姿を見つめているだけだった。姿が消えていく。後に残るのは向こうに佇む静かな扉である。しんとして、何物も寄せ付けない厳かな雰囲気がある。壁だった。立ちふさがっているかのように思えた。木で出来たそれは、岩の様に静かなのだ。少し、不気味だ。なので、俺はそれから目を逸らした。ゆっくりと天井を見上げる。あたたかなぬくもりを天井から感じる。木で出来ているからだろうか。包み込む母の優しさであるかもしれなかった。
 がちゃりと、ドアノブが回りハルが出てくる。にこやかである。色が戻る。モノクロで褪せていた色が、色彩豊かに彩られていく。さっと色が塗られていくわけである。その感覚が俺の中で意識されてとても愛おしく思えた。

「どう? 綺麗?」
「綺麗だよ。とても似合っている」
「ふふ……ありがとう」

 ハルは、俺の右隣りに座る。ここが定位置なのは変わらない。何かあるのだろうか。いまいち思い当たることがない。うーむ。
 手をつないだ。温かな感触が伝わってくる。柔らかで壊れてしまいそうな儚い美しさの中でそれがあるわけなのだ。俺はその感触を全身でもって感じているのである。絶対にこの美しさを忘れてはならないと刻み付けているのだろう。それぐらいに真剣であるかもしれない。
 俺は、ルーシィのことも待っていると、じっと俺の顔を覗き見るようにして、ハルがこちらを向いている。何事かと俺はハルの方へと顔を向き直ると、無理やり顔を押さえつけられる。無機物でも見るかのように感情のない目つきは、俺に恐怖を湧き上がらせるには十分な要素である。ハルの視線は唇で止まる。目をつむった。そのまま顔が近づいてくる。触れ合う感触だけが感じられる。やわらかい。やわらかいものが触れている。何かが口の中に入り込んでくる。それは、俺の舌と触れる。それもまた柔らかいものであった。ふわふわと、雲の上に乗っているかのような、そんな感触のまま時間が過ぎていくのを感じた。感触は不意に消える。俺は目を開くと、ハルはにこりと微笑んだ。

「ダメだよ? 一番は私なのだから。どれだけ、多くの女がアランに対して好意を抱いていようとも、アランが最も愛しているのは私なのだから。そして、私もアランのことを世界で誰よりも愛している。とっても美しくて素晴らしいことだと思わない?」

 ひんやりとした空気が俺の首筋を過ぎ去っていった。刃物が首筋に当てられて、さっと撫でられているかのような恐ろしさを感じずにはいられないのである。それを現実のものとするかのようで、彼女に指が俺の首に当たった。すうと撫でるように首に触れている。命の流れを感じてうっとりとした顔を見せている。それは俺の目を離すことなく縛っているかのようである。彼女の美しさに俺は目も体も奪われてしまったのだろう。それはなんて素晴らしいことだろうかと思えてならない。たった一人の女性に、全てを握られているのだ。
 彼女は怒っているのだろうか。いいや、怒ってはいないのだろう。諦めもあるのかもしれない。しかし、それ以上の何かを持って俺に接しているのがわかるのだ。おそらく、俺にはたどり着くことすらできない奥の、更に奥深くに存在するもの。それが顔をわずかにのぞかせて俺を見ているのだ。蛇に睨まれているかのような恐ろしさと、妖艶さが俺の体を縛っているのだ。

「愛してるの、アラン。誰よりも。一から百までその全てであなたのことを愛しているのよ。絶対に他の女では無理だろうと言えるくらいにね」
「俺だって愛してるよ、ハル。今が始まって過去になり、未来へと向かっていったとしても、その先までも俺はハルのことを愛し続けているさ。だから、心配はしなくていい。俺がハルのことを愛さなくなる可能性なんて、この世に塵一つでもないのと同じくらいなのだから」

 俺は無意識てきに、ハルの頬へと手を伸ばす。触れる。柔らかな感触が手を侵食していく。逃れることなどできない。むしろ、自分からか。自分からそこに沈み込んでいくのだ。囚われに行くのだ。救いようのないものだが、それがたまらないのだ。
 ルーシィが来るまでの間、俺たちは何もせず、ただ見つめ合うだけなのであった。時間が止まって、ただ二人だけの世界になる。完結しているのだ。そこから進歩も退化もなく。なにせ、今が完全でしかないのだから。誰にも邪魔をされないだけの完全たるものが存在しているのである。

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