天の仙人様

海沼偲

第32話 仲直りの愛情

 それから、しばらくの期間が過ぎたが、ルーシィがやってくることはなかった。そう、彼女が女だと自分のことを明かしてから、俺は、彼女と一度とて会っていないのだ。
 そりゃそうだ。いきなり勝手に他人の秘部に触れるような人間と関わらせようという親なんか要るわけがない。しかも、自分の娘だ。こんな俗物的な人間と関わらせないようにするのが当然だろう。もし、長くかかわっていたら、自分の娘が穢されるとすら思ってもおかしくない。いや、そもそももうすでに汚されてしまっているとすら思っていてもおかしくはない。だから、俺は涙を流すだけで止めるのだ。一丁前に泣いているのである。救いようのない程にバカみたいな男のくせに。

「俺は、ルーシィを愛しているのだろうな。ならば、こんなに涙があふれることなどない。ああ、ルーシィ。君の顔が見たいよ。君の笑顔が、見たいよ。しかし、それはかなわないのだろうな。俺は罪人なのだ。君のような華憐な少女に夫でもないのに手を出してしまう卑しい男なのだ。ああ、神よ。許してほしいとは言いません。ただ、俺の懺悔を聞いてほしいだけなのです」

 俺は、そこからしばらく、懺悔の言葉をただひたすら天に向かって発し続けた。許しなどいらない。ただ、懺悔をきいてくれればよかった。自己満足でしか成りえないのだから。ここにさらなる許しを求めるというのであれば、俺は相当に強欲で醜いことこの上ないだろう。それは許せないのである。自分自身を許せなくなることだろう。
 それが終わると、すっきりはしていないが、気持ちを落ち着かせることは出来た。全てを吐き出すことで何とか精神の安定を図っているだけなのである。しかし、見るところは相変わらず窓の外なのは変わりない。家から出ることは出来ないのだから。だが、これもまた罰であろう。そう思えるなら何でもない。
 むしろ、ルーシィから愛されることがなくなってしまった今、俺を愛してくれることがある身内以外の存在は、自然しかないのだ。だから、俺はさらに深く自然に傾倒するだけなのだ。今まで通りに。自然を愛し、自然と一つになり、美しく、溶けあい、混ぜ合っていくだけなのだから。そうして、俺は俺自身を慰めていくのである。何度でも、何度だって。

 俺は四歳になり、ようやく外出許可が下りた。俺はすぐさま森の中へと入った。その時の母さんたちの顔は呆れていたが、諦めてほしい。俺はそういう人間なのだ。むしろ、今までの状況でよくこらえ続けていたことだろう。今のような状況ではより深くそう思うのだ。
 ルーシィに会いに行くという案もあるにはある。しかし、俺のような人間が行ってはいけないと思ったし、使用人からも、絶対に言ってはならないとダメ押しをされた。恐ろしい形相である。おそらく、俺が謝罪の気持ちをもって彼女の家に向かったとしたら、なんとかして保っているこの現状を大きく崩してしまうことになるのだろう。これは、相当大変なことになっていると思ったわけだから、俺は森へと入るしかないのだ。
 森の中へ入り、いつもの場所へと向かう。足取りはだんだんと軽くなっていく。もうすぐで俺が待ち望んでいた場所へと到着するのだから。しばらくの月日をあの敷地の中でしか過ごせなかった不満の爆発が俺の足をがむしゃらに動かしているのである。それだけは確実に言えるのである。

「――――」
「ああ、ただいま。ようやく帰ってこれたよ。寂しかったんだ。お前たちに会えないことがね。でも、数か月ぶりというのも悪くはないかもね」
「――――」

 一歩入りこめば、彼らが歓迎してくれている。ころころと綺麗な音色を弾ませながら俺の後を追いかけるようについてきている。競争である。鬼ごっこかもしれない。俺が逃げて、彼らが追いかけてきているのだから。俺の速度には追い付くことは出来ない様で一定の距離を保って後をついてくる。そして、その数は多くなる。もうすぐであることを伝えているかのようにであった。
 たどり着いた先には変わりなく、それはしっかりとあり続けていた。俺の定位置となっていた岩は少し苔むしているが、輝いてある。きらきらと、空気を反射しているのだ。その上には、妖精がいくつものってくつろいでいる。なんというか、前に来たときよりも増えているように感じなくはない。清廉されていて美しい空気が、風が俺の周りにまとわりついてくる。さわやかで一切の不快感を持たせることはない。永遠に過ごしていられる心地よさを感じられる。俺は人間であるために、この場にずっと過ごし続けることが出来ないということを悔やんでしまうほどだろう。しがらみが多いのだから。
 妖精や精霊は生き物ではない。つまりは、実体がないわけであるが、触れないわけではない。実体と幽体のはざまをゆらゆらと揺られている存在なわけである。一時期は、天国への使いなどと言われていたほどである。実際に、此岸と彼岸を渡り歩いているそうだ。お師匠様が、向こうでも見かけることがよくあるそうで。天国に住んでいるとか。
 そういえば、お師匠様は俺が外出禁止の期間に何回か来てくれたので、退屈な時間を過ごしていたわけではない。しっかりと、仙術の修練を積むことも怠らずにしていたわけだしな。とはいえ、退屈であることとストレスがたまることはイコールというわけではない。退屈ではなくてもストレスはたまるし、ストレスがたまらなくても退屈ということはある。俺は今まさにたまりにたまっていたストレスが体中から吐き出され、そして、浄化されているのを全身に感じているのである。
 と、後姿に見覚えのあるものを見かける。俺の気配を感じたのか振り返ると同時に、懐に飛び込んできて、拳が飛んでくる。俺は突然のことに、少し反応が遅れてしまった。肩を殴られてしまう。バランスが崩れた。そこに追撃の蹴りが飛んでくる。太ももに手刀を当てて、動きを止める。

「どうしたんだ?」

 俺の声は落ち着いていた。いや、落ち着くように見せていた。俺が愛するもう一人の女性なのだ。今度は嫌われないようにと心を決め、ゆっくりと一音一音発せられたものである。それを聞いた、ゴブリンはじっと俺の顔を見ていた。肩が震えているのに気づいた。俺は手を伸ばすと弾かれてしまう。

「……イナクナッタ」

 その一言は俺の胸に深く刺さる。最近、俺の胸が締め付けられることが多いな。相当な大罪人である。だが、生物的には地獄には落ちない。人間的には地獄の一丁目確定であることは間違いないのだが。今すぐにでも閻魔様が目の前に現れて地獄に引きずりこまれてしまってもおかしくはない。おそらく、地獄基準では俺にかまうことはないだろうけれども。

「すまなかった。許してほしい。俺の方で事情があったとしても、こうして、置き去りにして一人ぼっちにしてしまったことはすまないと思っている」
「ユルサナイ。……ユルサナイ」

 俺に駆け寄り、胸に拳を当てる。何度も何度も当てる。力なく、何度も何度も。俺はそれをされるがままにしていた。抵抗してはいけなかった。納得するまでそれは続けられることであろう。痛みはない。だが、俺の心に突き刺さるような痛みがじわじわと響いてくるのである。俺はこの痛みから目をそらしてはならない、逃げてはならないのである。歯を食いしばるように耐え続ける必要があるのである。
 最後の一発が終わり、彼女はうつむいたまま止まっている。俺は彼女に触れることなどせずじっと待っていた。全ての不満をぶつけられなくてはいけない立場の人間なのであるのだから。何か声をかけるべきなのだろうか。いいや、まだダメだろう。彼女の中にたまっているものが全部吐き出されていない。その状態で声をかけることに意味なんてないのだ。待つしか出来ないのだ。

「…………」
「……サミシカッタ。……イママデズットズットマッテイテ、イツニナッタラキテクレルカトオモッテイタケレド、ゼンゼンコナカッタ。ワスレラレテシマッタノカトオモッテ、コワクテコワクテ……デモヤッパリサミシカッタ」

 言いたいことを全て伝えたのかのようにまくしたてるようにしゃべり切ると、再び黙った。彼女の今まで生きてきて感じたことを全て伝えられたのだろう。俺の心の奥底からずっしりと重くのしかかってくる。彼女を不幸にしてはダメだろう。愛しているのなら。彼女に愛しているというのならば、不幸にしてはいけないのだから。深く深く理解できる。

「ごめん。俺にはそれしか言えない。でも、その……ごめん。俺が悪かった。一人にしちゃって」

 しかし、俺にはそれだけしか言えない。語彙が貧弱なのか。それもあるかもしれない。でも、出てくる言葉のすべてが卑しい人間の戯言にしかならないと気づいてしまったのである。俺のこの気持ちを言葉にして表すことは出来ない。俗物で醜く感じてしまうのだから。だとしたら、謝るしかなかった。それが精いっぱいである

「サミシカッタ!」

 彼女は俺に抱きつく。思い切り力を込めて抱きつかれたために、体が痛みで悲鳴を上げているが、俺はそれを受け入れる必要があるのだ。黙って受け入れる。

「ウ……ウウ…………」

 彼女の嗚咽を漏らす姿だけが俺の目に映っていた。腕は動かせた。俺は、彼女を抱きしめる。これまでの欠けたものを埋めるように。寒さを温めるように。俺は全身全霊をもって彼女を抱きしめるしかなかった。
 彼女の力が弱まった。俺もそれに合わせて弱める。すると、彼女は再び力いっぱいに抱きしめてくるのである。

「ダメ」

 俺は、ぎゅっと抱きしめる。ダメ出しをされてしまった。今日は彼女の言うことを聞いてあげる日になるだろう。だが、俺はそれでいいと思える。むしろ、俺自身が彼女のために、彼女の願いを聞いてあげたいと思っているのだから。
 いつ満足するか。それはわからないだろう。もしかしたら、昼を過ぎるかもしれない。ただ、そうならないことは感じた。彼女は俺が困らないと思っているから、これをねだっているのだろうから。

 次の日、彼女と仲直りすることは出来た。今は、言葉を学ぶ時間である。彼女は、俺の腕を抱きしめて、肩に頭を乗せて体全体を預けてきている。これだけで、俺たちの仲がわかるというものである。

「えーっと、『私の名前は、アラン=バルドランです』はい、言ってみて」
「ワタシノナマエハ、アラン=バルドランデス」

 あ、そうか。復唱すりゃ俺の名前を言うのは当たり前の話だ。それに気づかないとはなかなかに残念なことだ。再会できた感動で少しばかり頭が弱くなってしまっているのかもしれない。だが、この愛おしさを抑え込める気がしないのだ。しばらくはこんな状態が続くのかもしれない。今、俺の愛を受け止めてくれる同年代の友人が彼女しかいないというのも拍車をかけているのかもしれない。前は、もう一人いたのだから。

「あー、違う違う。自分の名前を言うんだよ。『私の名前は、ほにゃらら』で、ほにゃららの部分が自分の名前」
「ワタシノナマエハ、ホニャララ」
「いや、自分の名前だよ。あるでしょ。お父さんとかからもらった名前」

 そういえば、今までゴブリンは彼女にしか会わなかったから、名前なんて気にしたことなかったな。だから、俺は知らないし、俺も名前を名乗っていなかった。名乗る必要がなかったのだ。それだけで通じ合えるのだから。愛し合っているのだから。たぶん、おそらく。俺は少なくとも愛していると断言できるが、彼女が俺のことを愛しているかは少し自信がなくなった。だが、俺が彼女を愛し続けることは変わりがない。
 俺は深く呼吸をした。手が震えている。愛されなくなることへの恐怖からか。怖がり過ぎだと思う。しかし、それほどまでに、愛する人に会えなくなるのは恐ろしい。

「で、名前はなんだい?」
「ナマエッテ、ナニ?」

 しかし、彼女は名前を知らないようであった。これは、どうしたものかと俺は頭を抱えてしまった。そのせいで、彼女を心配させるという負のスパイラルに陥っている。
 なんとかして、彼女に名前というものがどういうものかを教えることが出来た。彼女はとても賢いのだ。理解するのがとても早い。俺としては非常にありがたい教え子である。そうでなければ、ここまで早く言葉を話せるようにはなっていない。

「ナマエ……ナマエ……。アラン」
「そう、俺の名前は、アランだ」
「ワタシノ、ナマエハ? ……ナイ」

 彼女はひどく落ち込んでしまった。しかし、俺には解決策が浮かばなかった。どうしたものかと俺は頭を抱えていると、何かを思いついたようで、彼女は俺に視線を向ける。

「どうしたんだ?」
「ワタシノナマエヲ、ツケテ」

 彼女の視線は真っすぐこちらを向いていた。それだけで、本気で言っているのだと理解することが出来てしまった。

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