俺だけが蘇生魔法を使える!

AW

俺だけが蘇生魔法を使える!

     プロローグ


 あれはいつの事だっただろうか。

 朝、息苦しさで目覚めた俺の顔に、号泣する母さんが映ったのは。
 俺の首に何重にも巻かれた延長コード越しに――。


 何度聞かされただろうか。

 『お前は要らない子だよ』という嫌味を。
 なら、何故俺を産んだ?
 母さんは、俺は幸せを求めてはいけなかったのか?





 母の日は、生憎の嵐だった。
 遠く離れた山間の墓地で、1人手を合わせる。
 結局、母さんから『お前を産んで良かった』という言葉は貰えなかった。貰えたのは『ごめんなさい』という最期の言葉だけ。

 周囲からガチマザコンと言われようが、俺は母孝行に全てを費やした。
 母さんの為に文句一つ言わず家事をこなした。あちこち旅行に連れて行ったし、欲しい物はバイトして買って上げた。母さんの具合悪くなった時には学校を休んで看病し、入院が決まった時には就職する為に高校を中退する決意さえした。

 俺にとっては、価値観を否定したがる友人なんかより、当然、他の女なんかより、もっと言えば、見たことも聞いたこともない父親や祖父母なんかより、ずっと母さんが大事だった。唯一の肉親だからという理由ではなく、俺に生きる“目的”を与えてくれたから――。


 気付いたら俺は三十路の階段を上っていた。いや、正確には高層ビルのエレベーターのように、止まることなく一気に上昇していた。

 振り返ると、何と虚しい人生か。

 母さんを振り向かせる為に精一杯生きてきたと思っていたのに、結果を得られなかった途端、全てが脆くも崩壊していった。
 俺に残されたのは、半年ほど生き残れるかという僅かなお金と、心身ともにボロボロになった己だけだった。

 それでも俺は母さんを恨んではいない。生まれ変わったとしても、また母さんの子になりたいと願う。今度こそ――。

 その時、ゴゥゴゥという爆音と共に、天を切り裂くような雷光が見えた。

 一瞬、俺の視界が光で満ちた後、魂を突き刺すような電気が走った!
 それと同時に、脳裏に刻まれるメッセージがあった。

“汝に蘇生魔法を与える”

 何だか力が湧いてくるのを感じた。これは何だ……。

 歓喜? いや、違う。

 興奮? 間違ってはいないが正確ではないな。

 使命感? 少し違う。

 生きる目的? そうだ、生きる目的だ。
 俺の全身を駆け巡るこのエネルギーは、俺の生きる目的なんだ。

 そして、俺の第2の人生が始まった――。



 ★☆★



 ネカフェ店員の冷たい視線を無視し、びしょ濡れの身体をソファに沈める。

 PCを起動すると、まずはフリーメールのアカウントを取得した。次に、あちこちの掲示板を飛び回り、メッセージを書き込み続けた。

『死者蘇生承ります。報酬は応相談、連絡はメールで。angel_wing@freexxxx.co.jp』


 僅か数分でメールが届いた。

『通報しました』
『精神科にどうぞ』
『誰が低脳詐欺にひっかかるか、バーカ! 』
 ……

 10通単位で同類のメールが届いた。でも、俺は笑ってスルー出来た。当然の反応だし、俺でも同じように送るだろうから共感さえ抱いた。

 その中に埋もれるようにして、このメールがあった。

『奇跡が本当に起こせるのでしたら何でもします、助けてください! 』

 それは、詐欺師に対して詐欺を働くような悪質なものではなく、真に切羽詰った者の、魂の叫びに似ていた。俺は躊躇うことなく返信した。

『何処に行けば良いですか? 』

 駄メールを挟むことなく、返事はすぐに来た。

『東京都江戸川区の○△病院の救急連絡口でお待ちします』

 近いな……まさか、警察の罠じゃないだろうな?
 いや、そもそも詐欺じゃないし、病院でなら証明は容易い。魔法を試す良い機会だし、行ってみるか……。

『では、1時間後に』

『お待ちしています』



 ★☆★



 雨の中、電車とバスを乗り継いでその病院に着いた時には、既に日が沈みかけていた。
 意外と大きい。住宅街の中に高く聳える白亜のそれは、母さんが居た所とは雲泥の差だった。

 パーカーのフードを目深に下ろし、人通りの多い入口を避けて大回りをする。俺くらいの体型の男は腐るほどいるし、顔だって普通だと思うが、なるべく目立たない方が良いだろう。まぁ、気にし過ぎると逆に怪しいんだが。

 救急車が停車する脇を抜け、“救急用”と書かれたドアを開ける。
 すると、本当に居た――。

「どうも」
「貴方が例の方ですか? 」
「はい。ここではアレなので――」
「あ、そうですね。部屋まで案内します」

 40代、いや50代だろう。品の良さそうな服を着た中年のおばさんだった。やつれたその姿に、俺は無意識に母さんを重ねていた。

 階段を下りるにつれ、ひんやりとした空気が頬を撫でる。

 俺たちは無言で歩き続けた。時々鼻を啜るような音だけが聴こえた。

 廊下の突き当たりのドアが開く。
 怪訝そうな顔をした初老の男性が出てきた。

「あなた、この人が連絡を下さった方です」
「そうか、では中へ」
「はい、失礼します」

 俺はこの部屋を知っている。つい最近来たばかりだし。

 薄暗いその部屋の奥に、布を被せられた遺体が横たわっている。

「私は信じちゃいないが、信じたいと思っている。騙されても構わない、一瞬でも夢を見たいと思っているんだ。だが、もし娘を冒涜するような真似をしたら……」

 静かに語る男性に、悪寒が走る。
 俺自身も自分が魔法を使えるだなんて信じきれていない。あの時脳裏に刻まれたメッセージが何だったのかさえ分からぬまま、ただただこれが自分の生きる目的だと信じてここまで来てしまったのだから。

「報酬の件ですが……」

 俺は思考を放棄し、極力無感情を装って切り出した。

「生き返ってから答えると言いたいが……神は不誠実を認めんだろうな。分かった。着手で100万円、万が一娘が生き返った場合には、君の望む物を与えよう」

 失敗しても100万円か……いや、駄目だ。失敗したら走って逃げるか。交通費くらいは請求したいけどな……。

「分かりました」

 正直、蘇生魔法の使い方なんて分からない。でも、何だろう……この胸の奥で蠢くエネルギーは。これが魔力というやつなのか?

 とりあえず、目を閉じ、その蠢く力を左手に集めるイメージをする。

 すると、俺の左手から銀色の光が溢れ出してきた。

 その瞬間、再び脳裏にあの感覚が過ぎった。

“死者の心の臓に触れ、魂を呼び戻すのだ”

 心臓?
 でも、この人って女性だと思うけど……くそっ、どうにでもなれ!

 俺は右手で布を払い、服の上から左手を女性の胸部に当てる。

 粘土を触るような微妙な感触が伝わる。

 一種の罪悪感からか、女性の顔を見てしまった。

 息を呑むような綺麗な顔だった――。

 20歳くらいか。病死なのか、それとも事故死なのかは分からないが、惜しまれて亡くなったであろう事は感じ取れた。

「この者の魂よ。再び肉体に還れ! 」

 祈りの言葉が自然に口から漏れてしまった。

 その言葉が鍵になったのか、俺の左手から迸る光の奔流は彼女の身体を優しく包み込んでいく――。

 そして――俺の左手に彼女の鼓動と体温がしっかりと伝わった。


「まさか! まさか本当に……」
「あぁ、こんな奇跡が起きるなんて……」

 俺の膝元でひれ伏す両親と、目を見開き、自分が置かれている状況を整理しようとする娘を目にした途端、俺の頭を激痛が走った!
 割れんばかりの頭痛で気を失う俺――。

 一瞬だけ見えたメッセージは、確かにこう刻まれていた。

“汝の1年間の命と引き換えに――”



 ★☆★



「大丈夫ですか? 」
「あ、ありがとう」

 初めて見る天井だった。
 俺はどのくらい気を失っていたのだろう。いつの間にか綺麗なベッドで寝かされていた。ここは病室、じゃないよな……この子の自宅?
 あの激痛を思い出し頭を掻き毟る。そして脳裏に刻まれた残像をなぞる。蘇生魔法の代償、それは俺自身の寿命ということか。命は命で償えということだろうか――。

 俺が蘇生した子がベッドの横に座っている。改めて見ると若くて可愛い子だ。その隣には彼女の母親も居る。

「何と言えば良いのか……とにかく、ありがとうございました。あ、私は――」
「名前は言わないで。君自身のことも全て」
「どうしてですか……」
「俺の能力にかかわるんだ」
「えっ!? そうなんですか、分かりました……」

 いや、嘘なんだけどね。本当は興味がないだけ。でも、効果覿面だったようで、彼女は口を閉ざして考え込んでしまった。
 すると、代わりに母親が口を開く。

「お名前もお訊きしない方が? 」
「はい、申し上げられません」
「そうですか。では、お約束の報酬の件ですが、ご希望はありますか? 」
「報酬……」

 何も考えていなかった……。
 お金は100万円も貰えれば、今の俺には十分だし、車を貰っても免許がない。家はあるし、今は特に欲しい物なんて何にもないんだけど――。

「思い浮かばないようでしたら、こちらから提案させて頂くことは可能でしょうか」
「提案? 」



 ★☆★



「社長、ここにサインをお願いします」
「うん、これで良い? 」
「大丈夫です。次はこっち――」

 母の日から今日で4日目。まさか、俺が社長と呼ばれる日が来るなんて想像すらしていなかった。忙しく走り回るバイトを見ながら、柔らかいソファの上にふんぞり返って天井を見上げる。

 あの夫婦の提案はこうだった。
 夫婦が経営する会社の子会社に俺を迎え入れる、それも社長として。そこは社員10名の小さな会社で、本業は企業向けの人材派遣アウトソーシングらしい。都内に事務所が設けられてはいるが、社員は全て現場に直行直帰し、月例会議で出社する程度。そして、高校に通う娘を俺専属の秘書アルバイトとして働かせる、というものだった。

 最初は、俺を金儲けに利用するのかと憤った。
 しかし、聴けば聴くほど俺自身の底が見えた気がして、お世話になることを決意した。
 要するに、税金対策と安全対策だ。蘇生によって金品を貰う場合、今のままだと脱税の謗りは免れ得ない。それに、魔法のことがバレてしまうと、俺を拉致する輩も現れよう。そのW対策として、既存の会社を隠れ蓑にし、裏でこっそり動くということになった。

「社長、依頼が3件入りましたが、どうします? 」

 プリントアウトしたリストを俺の机の上に並べ、真顔で吟味する彼女は、都内の進学校に通う高校2年生らしい。
 彼女は生き返った翌日から普通に学校に通い始めていた。まぁ、通夜もしていなかったし、友人の誰も知らない急死だったらしいから問題がないとは思う。でも、部活も生徒会も予備校も辞め、俺ごときの為に週7日もアルバイトをするという点は大問題だろう。

「離れていますね。飛行機にしましょうか」

 ふとリストを見る。

・82歳男性、山口県在住の政治家
・12歳女性、京都府在住の中学生
・54歳男性、北海道在住の企業家

 もうフリーメールでの募集はしていない。彼女の提案で、セキュリティのしっかりした会員制のサイトに限定したんだ。でも……。

「あのさ、全員を生き返らせるの? 」
「え? 生き返してほしいって希望ですけど? 」
「誰の希望? 」
「誰って――」
「依頼人でしょ? 本人ではなく」
「だって、本人は依頼出来ないもん! 出来るならするよ! 」
「皆が皆、生きることが幸せだと思うか? 」
「それは……私には分からない……でも、力があるのに使わない理由にはならない! 」

 俺の命を削っても……か。俺には命を選ぶ資格なんて無いんだろうな。幸せになる資格も。凄い力だと思ったけど、ある種の罰ゲームじゃん。良いよ、受けてやる。どうせ惰性で生きる余生だ。他人に全てくれてやる。

「社長命令な。蘇生対象はお前が決めろ。報酬だけ俺が決める」



 ★☆★



「社長、今の報酬は何ですか! 」
「いやぁ、可愛かったからさ……」
「中学生とデートとか、ただの変質者でしょ! ううん、それ以前にそんなの命と釣り合わないじゃない! 」
「お前さ、命の価値なんて分かるの? 」
「お金で計れない事くらい理解してるよ! 」
「そりゃ凄い。俺的にはね、価値の高そうな人は無償でも良いけど、価値の低い奴にはふっかけるつもり。そもそも釣り合わせようなんて、ハナっから思ってないんだよ。反比例万歳だ」
「え……」
「次行くぞ。初北海道だ」
「私は……」
「ん? 行ったことあるの? 」
「ううん、何でもない……」


「5億って……」
「ふっかけるって言っただろ? 案外儲かってそうだったし俺らも軍資金必要だし。相手には運が悪かったと諦めてもらうしかないな」
「分からない」
「安くても高くても文句言うのな」
「そういう次元じゃないの! 」

 怒らせて悪い。でも、俺の命くらい俺が決めたいんだわ。



  ★☆★



 週末になる度に全国を飛び回る、という生活が2週間続いた。

 楽しみにしていた京都観光(JCデート)は、音信不通の為、独りでの傷心旅行に変更となった。

 秋の嵐山を歩く俺の頬を熱い涙が伝う。
 裏切られた悲しみからではなく、母さんと何度も歩いた記憶がフラッシュバックしたからだ。

 我慢仕切れず、新幹線でとんぼ返りした俺を、彼女は笑って迎えてくれた。女子中学生に振られて泣いて帰ってきた俺を。

「しょうがないなぁ、私がデートしてあげるから元気だしなよ」

 彼女の無邪気な笑顔に、俺は救われた気がした。


 緊張で前の日は眠れなかった。

 朝10時に駅前の時計台で待ち合わせ。

 20分前に着いた俺に、彼女は笑顔で手を振る。

 普段通りの地味な服装の俺に対し、彼女は不釣り合い過ぎた。清楚で可憐な美少女という形容が相応しい。肩より少し長いサラサラの黒髪がそよ風に靡く。慌てて髪とスカートを押さえる手は白魚のように透明感がある。服の種類なんて分からないけど、膝上丈のスカートから覗く白くて細い脚に、俺の目が釘付けになる。

 恥ずかしくて通り過ぎようとした俺の腕を抱き寄せる彼女。腕に伝わる柔らかな感触が、すぐ近くにある飾らない綺麗な笑顔が、俺の赤面度をMAXにする。

「見たい映画はある? 」
「恋愛モノ……」


 本来は男がリードするんだろうけど、俺には到底不可能なミッションだった。情けなくも彼女に引っ張られておろおろするばかり。

 デート自体は普通だった。映画を見て、ファストフード店で感想を語り合う。ゲーセンで遊び、服や本を物色した後、ファミレスで夕食。

 でも、人生初のデートはとても新鮮で楽しかった。俺の人生は今まで何だったのかと疑いたくなるほどに。

 いつの間にか手を繋いで歩いていた。可愛い子なんてどうせ俺とは無縁なんだからと、興味を持たないようにしてきた。映画の影響か、彼女のせいか、恋愛感情というものが少し分かった気がした。

 でも、俺にはここまでだ。これが限界。

「今日はありがとな。楽しかったよ」
「ほんと? 私もすっごく楽しかった! 」
「お前、かなりモテそうだな。デート慣れ――」
「初めてだよ! 男の人と手を繋ぐのも初めて」
「え? そりゃ悪いことしちゃったな……」
「別に悪くないし! 」
「お前、勘違いしてるだろ」
「何を? 」
「自分の心に訊くんだな」

 俺には分かってる。彼女は彼女なりにお礼をしたいんだと。もし、万が一、億が一でも俺を好きだと言ってくれたとしても、それは異質の感情――俺自身ではなく、俺の力を好きになっているだけなんだと。

「よし! 早く帰らないと明日遅刻するぞ」
「帰りたくない――」
「帰れ」
「……」
「送っていくから、帰ろう? 」
「また今度デートしてくれるなら」
「お互い、生きていればね」
「約束だよ? 」
「分かっ――って、おい! 」

 歩道脇のコンクリートの上から俺に飛びついてきた彼女。何とか抱き留めることに成功したが、その隙をついて唇を奪われてしまった――俺の1stキスが……。



 ★☆★



 翌日から、彼女は変わった。

 毎朝、俺の家まで朝食を作りに来た。台所を勝手に使い、お揃いの弁当を作り始めた。会社と学校は1駅しか離れていないので、途中まで一緒に通い始めた。


 そんな生活が始まってから2か月と経たないうちに、転機が訪れた――。

「ねぇ、この依頼だけど……」

 彼女が持ってきた紙を見る。


・16歳男性、〇△王国第2王子(スイス在住)


「海外? どうやって広まったんだろう」
「もう27人も蘇生したからね。どうする? 」
「海外旅行か、一度は行ってみたいな。でもさ、お前学校あるだろ。俺は英語も碌に話せないし無理だな」
「1週間休みとってある」
「え? 」
「学校も、両親にも許可貰ったもん」
「この依頼のために? 」
「――うん」
「試験とか、大丈夫なの? 俺みたいに中退するなよ? 」
「赤点も無いし、出席日数も大丈夫! 」
「じゃ、行くか」
「うんっ!! 」


 午前10時過ぎ、成田発の便に乗る。スイスまでの直行便でも、所要時間は12時間を超える。

 人生初の飛行機に、搭乗前から俺のテンションは上がりっぱなしで、結局、機内を何往復もしてしまった。

「外国人ばっかりじゃん! 」
「ふふっ、興奮しすぎ」
「これが空を飛ぶってのがホント信じられないんだけど」
「確かに、ちょっと怖い気がするよね」

 音楽と照明が消えると、機体は滑走路を急加速していく。俺は心地良いGを感じながらシートに身を任せる。

 照明が点灯し、安定飛行に入ったことを知らせる放送が流れると、俺はやっと緊張から解放された。彼女の手を握りっぱなしだったことに気付き、焦って手を離す。クスクス笑う彼女の息が、火照った俺の頬を冷ます。

 羞恥心から逃げようと、小さな窓から外を見やる。

「雲の海だ……」
「綺麗ね。下から見るのとは大違い」
「歩けないかな? 」
「歩けたら魔法でしょ」
「そっちの方が良かったな」
「私はこっちがいい」

 逃亡中の俺の手が彼女の両手に包まれる。

 この左手が無ければ俺はどうなっていただろう。

 生きる目的を失い、野垂れ死んだかもしれないし、逆に、のらりくらりと長生き出来たかもしれない。

 でも、今感じているこの温かさを知ることは決してなかっただろう。寄り掛かられるこの重みを感じることは決してなかっただろう。

 知らず知らずのうちに、俺たちはまどろみの中に溶け込んでいった。長く、幸せな夢を見ていた。



 異変は突然起きた――。

 内臓を抉るような感覚で目覚めた後、鳴り続く爆音と鳴り止まぬ悲鳴が、俺の耳朶を叩く。現実と非現実的との境界線を曖昧にする。

 その不確かな、信じ難い現実の中にあって、手を伝わる彼女の温かさだけは確実にここに在った。

「翼が燃えてる! 」
「まさか、墜ちないよね!? 」
「しっかり俺に掴まってろよ!」

 蒼白な顔で涙する彼女を強く抱き締める。

 右翼はもう駄目だ。恐らく機体は急降下している。

 乗客の声は聞こえなくなっていた。祈りを捧げているのか、それとも、真の恐怖は人に沈黙を強いるのか。しかし、墜落という悪夢へと誘うが如く、けたたましく鳴り響く警報音が、乗務員の指示を妨げる。

 そんな中、辛うじて聞き取れた単語は『テロ』『マスク』『シートベルト』の3つ。俺は、天に吊されたマスクを彼女に装着し、シートベルト越しに彼女をぎゅっと抱き寄せる。


 時間がスローモーションのように過ぎていく。


 機体が45度にかしぐと、何かに衝突して大きく跳ねる。


 上下に激しく揺れながら再び轟音を上げて衝突する。


 ファーストクラスを乗せた先頭部が爆発炎上して吹き飛び、機内に雪崩が押し寄せてくる。


 後方部分は何度もバウンドを繰り返しながら、何かにぶつかって止まった――。



 生きている――。

 恐らく、俺の腕の中に居る彼女も――。

 その時、激しい頭痛と嘔吐感の中で、天に昇って逝く数多の魂が見えた。
そして――覚悟する。

薄れる意識の片隅に、また例のメッセージが刻まれているのに気が付いた。

“汝の全ての命を以って、全ての魂を蘇らす”





     エピローグ


 スイスのとある教会で鐘が鳴り響く。

 今日は貸し切りで新郎不在の結婚式が執り行われている。

 新婦が赤く染まった手紙を大切そうに抱き、ゆっくりと読みあげる。

『俺はきっとそう長くは生きられないだろう。もし俺が居なくなった時、これを読んでほしい。嘘偽りのない、俺の気持ちをここに捧げます――』

 新婦は嗚咽を漏らし、膝を付く。
多くの励ましの声が、彼女に勇気を与える。
 そして、再び新婦は手紙を抱き締め、朗読を続ける。

『デートの約束を果せなくてごめん。愛してるって言ってあげられなくてごめん。一緒に生きていけなくなって、本当にごめん――でも、今までありがとう、俺なんかの為に時間をくれて。心からありがとう、一緒に生きてくれて。幸せをくれて』

 再び泣き崩れる彼女にそっと寄り添う母。

そして、新婦は澄みきった空を見上げ、精一杯の笑顔を作って叫ぶ。

あなたに出会えて良かった、と

コメント

コメントを書く

「現代ドラマ」の人気作品

書籍化作品