鱶澤くんのトランス!

とびらの

ももえっち


 母から聞いたその故郷ほしは、女性がとても生きにくい文化であるらしい。端的に言えば男尊女卑。社会的な扱いがどうかじゃなくて、全国民の理念として、男が尊く、女が卑しいと理解されているのだとか。

 あたしはそれを聞いたとき、なら国民は男ばかりなのかと思った。だってそうだろ。明らかな差別があって、自分がどっち側になるか、自分の意思で選べるんだぞ。そりゃ、男を選ぶだろ。しかも方法は難しくない。
 男に恋をすれば女に。女に恋をすれば男になれるのだ。

 あたしがそう言うと、母は笑って、肩をすくめた。

「好きになりたい人を好きになって、なっちゃいけない人に恋をせずに済むなら、誰も苦労をしやしないわよ」

 当時は、あたしは意味が分からなくて、ただ首をかしげただけだった。気をつけなさいよと母は言う。

「――雌体化しているときに、惚れた男に触られる快楽は麻薬だよ。とくに雄体優位ほど、雌体化周期は短いぶん、貴重だから。――この機会に男を取り込み、自分が女になるために、種族の繁殖本能が全身を侵す。
 根性で抗うなんて絶対無理。
 あんたがもし、そうなって――女になりたくないと思うなら――とにかく早いうちに、男と距離を取りなさい。物理的な接触なくして、性別の固定はできない。ラトキア星人に遠距離恋愛はできないのよ」


 ――あたしは、モモチの体を抱きすくめ、しがみつき、これ以上ないほど体を密着させていた。ぎゅうぎゅうと、力の限り抱擁する。
 体の距離が近すぎて、モモチはあたしを、触りにくそうにしていた。それでも離さなかった。

「アユムちゃん。アユムちゃん――」

 ――雄体優位のラトキア星人が、雌体化したとき男に触れられたなら――

 母はそう言っていたけど、その真偽は怪しいと思う。
 あたしの体を、痛むほど強い握力で揉みしだき、抱きしめ、吸いつくモモチが、いまのあたしより理性的とは思えなかったから。
 彼は自身を、ナルシストでもムッツリスケベでもない、普通だとたびたび宣言した。あたしもそう思う。宇宙人とか、男女とか、出会ったばかりとか、未来がないとか――そんなことは関係ない。きっと、とても普通。当たり前のこと。

 恋って、止まらないんだ。

 モモチはあたしを言葉で弄り、笑ったりなどしなかった。荒れた呼吸だけを口にして、時折あたしの名前を呼んで、あとはずっと無言だった。
 普段はおしゃべりなモモチ。だけど彼は、あたしを触るとき無口になる。
 可笑しい。面白い。可愛い。いとおしい。

「アユムちゃん――好き。好きだ」

 耳元で、吐息とともに囁かれる言葉。あたしの名前。

「あたしも好き。モモチ。あたし、あなたのことが好き」

 あたしは言った。
 狭いベンチに仰臥して、全身を脱力させる。彼の前で手足を投げ出して、あたしは微笑む。
 跨ぐようにかぶさっていた少年に、甘い声で、短く言った。

「……しよっか」

 ……だけど、それでも。あたしは理性を失っていたわけじゃない。
 もうどうなってもいい、って、吹っ切っていたわけじゃなかった。

「で、でも……」

 戸惑うモモチの、揺れる視線を指で誘導する。ベンチの脇に、あたしのリュックが落ちている。昼間に背負っていた、荷物がそのまま入っていた。

「売店で、弁償で買い取りしたアレ、あるから。……取り返しがつかないことにはならない」

 モモチは理解し、眉をたらしたあと、少し機嫌を悪くした。

「取って返す、つもりなんかないよ。大切にしたいから使うものだろ」

 あたしは笑って、頷いた。
 嬉しいなあ。いい男だ。

 可愛いモモチ。優しいモモチ。それと比べて、卑怯なあたし。
 母親の警告をあたしはちゃんと覚えていた。
 雌体化しているこの時期に、惚れた男に触られて、逃れることは難しい。あたしはさっさとその努力を放棄した。しかしもうひとつ、妹の言葉も覚えていた。

 異性の体液を、粘膜で直接吸収すれば、性が固定になる――あいつはもっと品のないダイレクトな言い方をするけども――それを、あたしはちゃんと覚えていた。
 言い換えれば、直接でなければ、固定にはならない。
 一度や二度、感覚を開けて遊ぶくらいなら、ずっと雌雄同体でいられるのだ。大幅に傾いてはしまうけど、取り返しがつかないということはない。

 ――今夜だけ。

 あたしはそう思っていた。
 まだ、人生の選択をする勇気がなかった。女の生き方も想像できない。モモチのこともよく知らないし、男の暮らしを捨てる覚悟がない。

 だから今夜だけ。

 ごめんねモモチ。
 あたしは弱い人間だ。捨てる覚悟もできず、拾い上げる勇気もなく、快楽に抗う意思もない。ただ今夜だけ、モモチが欲しい。

 そうしてあたしは、モモチを招いた。


「来て……」



 モモチは一度、あたしを撫で、キスをして、リュックサックに手を伸ばした。手探りで取り出した小箱を、月明かりに掲げる。そのまましばらく、じっと停止。顔の近くへ寄せ、目を細めたり見開いたり。何度もひっくり返して、また顔に寄せた。

 あたしは半眼になった。

「……眼鏡もってないの?」
「ご、ごめんちょっとまってね。えっと。ちょっと待ってねすぐだから。えっと……」
「手の感覚でなんとなくわかるでしょーよ」
「いや、それは、き、緊張で指が。感覚が。震えて。あっあっ箱が揺れて字が読めない」
「……ちょっと貸して。貸せって。――さっさと貸せよ乾くだろっ。ほらここ、ていうかテープ外さなくてもビリッて破けばいいでしょハイ。……ってまた同じことするのかよ!」
「だってこれ裏表が。説明書ないのかな、あっきっと外箱に解説が」
「お前それ読めねーだろあたしに朗読させる気っ!?」

 喚き、あたしはモモチにチョップを食らわせた。
 手に持ったものを強奪し、あたしが開けてやろうと切り込みを探す。
 ……あれっ、ほんとによくわかんないぞ。これはあれか、どこからでも切れますってやつか。カップやきそばのスパイスとかでよくあるやつ。

「えーっと」
「お、おれやろうか」
「うるさい、モモチよりはあたしが早いよ」

 そう言ったとたん、モモチはかぶさってきた。体重で押し倒されて、ベンチに背中から落ちる。

「こら、ちょっと待っててば――」

 苦笑いした頬に、濡れた感触。そこにあるモモチの頭から――
 月明かりの下、その色までは、よくわからない。しかしヌルリとした感触、鼻をさす匂いには覚えがある。顔を覗き込むと、モモチの閉じた目、まつ毛に滴る鮮血。


「……モモチ?」


 瞬間、モモチの体がふっとんだ。あたしの体がむき出しになり、風にさらされる。モモチのうしろ、目の前に、大柄な男がいた。
 見覚えのある顔。ゴリラみたいな体つきだが、まだ年は若く、あたしと同じ高三男子。

――空見――『天竜王』のリーダー。

 その手には、警棒のようなものが握られていた。ポツリと一滴、血が落ちる。

 あたしは悲鳴を上げた。

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