鱶澤くんのトランス!
してはいけない。
いやそれはわかってるんだよ、前からさんざん言ってたことだから! そこを改めて聞くってことは、それ以外の手段がないかアドバイス求めてるに決まってんじゃねーか!
ナンパとかセックスとか、異性との交流を使うものは、俺が雄体化しているときにすること。一回雌体化してしまうと、女を口説くこともできない。
それがわからないシノブではない。これは俺をからかっただけなんだろう。
メッセージには続きがあるらしい。俺は指先で画面をスクロールさせた。
『……というのは冗談。長くなるからあとでまた送るわ』
これが、一通目。
履歴を見ると、一時間ほど経ってから改めて送られてきていた。
予告通りの長文だった。
『わたしの場合は、なるべく早く女に戻るためだったから、お兄ちゃんとは逆だけど……要領は同じらしいから、性別を変えて考えたものを書くね。
端的に言うと、"女の喜び"を感じないようにする。ただそれだけなの。
本気のえっちをすると……ってのもそういうことだから。男として、女として、その性別に幸福を覚えたらそっちに傾く』
……シノブの言葉は、俺の中にすんなりと入ってきた。
そもそもなぜ、ラトキア星人が雌雄同体なのか、周期的に性別や容姿、能力を変えるのか。
それはより良いパートナーと出会い、より良い環境で生き延び子を作る――生物の知恵なんだ。植物が日差しに向かって枝を伸ばし、己の姿形を変えるように。そう考えると、何の驚きもなく理解できる。
メッセージはまだ続きがある。
俺はさらに画面をスクロールした。
『具体的になにをしちゃだめとは言えない。たとえば女装しても、お兄ちゃんがそれをイヤダキモチワルイツライ、って思ってたら、逆に雄体化が早まる。楽しんでたら、よりその服が似合うようにと可愛い女の子になっていく。料理や子育ても女の専売特許なんかじゃないしね。要するにお兄ちゃんの気持ち次第なんだよ』
……。
震える指で、画面を移す。
『――アホ鮫団とバカ騒ぎしてるぶんには大丈夫だと思う。でも、チヤホヤ女の子扱いされて、意識しちゃったらダメ。まして悦んだり、男を好きになったりしたら絶対ダメ』
シノブの説明は、端的で、わかりやすい。箇条書きで、してはいけないことリストが貼り付けられていた。俺はそれを熟読し、胸に刻みつけていく。
男と性差を感じてはいけない。自分が女だと実感してしまうから。
背丈や体型、力の差を知ってはいけない。比べてはいけない。隣に並んではいけない。
声を出さない方がいい。鏡に映らない方がいい。自分が変わったことを理解してはいけない。
友達を作ってはいけない。もしも男に戻ったとき、行き場がなくなるようなものを作らない。女物を買わない。無くなると悲しくなるものを作らない。
自分を可愛いと思ってはいけない。
写真を撮らない。
思い出を作らない。
楽しんではいけない。
幸せになってはいけない。
『――難しければ、抜け出してきた方がいいよ。雌体化が長引いたのは、きっとそういうことなんだろうし……。帰っておいでよ。お兄ちゃんが、わたしたちを置いて一人、遠くへ行くのが怖いのは知ってる。けど、帰ってくるのは平気でしょう?』
ほかにわからないことがあれば電話して、と、優しい言葉で、メッセージは終わっていた。
……俺は、嬉しかった。
妹と俺は、そんなに仲良くない。あいつは性格が悪いんだよ。愛想がなくて筆無精で、ドライでイジワル――そんな彼女が、長々と丁寧にアドバイスをくれた。嬉しかった。
……かつて、悩んでいた彼女に、こうして教えたのはきっと母だろう。母もガサツで厳しいけども、優しいひとだと知っている。
俺は、幸せな人間だ。恵まれているよ。俺の性別に関係なく愛し続けてくれる家族が居る。
『青鮫団』だってそう、男の俺を慕ってくれている。俺ってリア充だよな。彼女いないけどさ。勉強は苦手だが学校は好きだし、体格にも恵まれて、仕事で評価ももらって、男の人生は毎日楽しかった。
男に戻りたいと思う。
戻らなくてはいけない。
――ワタル。
父は、俺の名を呼び、微笑んでいた。
――いいぞワタル。お前は筋がいい。
――すばらしい蹴りだ。強くなった。よく練習したな。えらいぞ。
――その強さはお前の財産だ。大事にしなさい。その力があればきっと――
俺は……大事なものをたくさん持っている。
あたしにはまだ、何も無い。
男に戻ったって、なにもかも嘘になったって、惜しい物なんかなにもない。なにも。
簡単なことだと思った。
大丈夫。平気だよ。
あたし、全然楽しくなんかなかったから。
あたしなんか要らない。
俺は水着を脱ぎ捨てた。元着ていた服を着け、借り物のパーカーは小脇に抱える。
睫毛を濡らす滴を拭って、試着室をあとにした。
さすがに待たせすぎたせいか、店員はもうそばにいなかった。俺は水着を手に、店員の姿を探す。今ならまだキャンセルできるはずだ。キョロキョロしていると、壁掛けの大きな鏡に突き当たった。ぶかぶかの男物のシャツに、白いミニスカート、うさ耳リボンカチューシャの、小柄な女がそこにいる。
俺は走ってそこを離れた。走りながら、頭のうさ耳をむしり取った。
走った先に見覚えのある背中。商品棚に向かう、少年の後ろ姿だった。
俺はそのまま駆け寄って、モモチの肩を掴んだ。
「モモチ! ごめんこれキャンセルして、俺もう帰――」
「ひぃっあっああああっ!?」
モモチは縦に飛び上がり、商品棚に脳天を強打した。しゃがみ込んだところにまた額を強打、どんがらがっしゃんと商品をぶちまけ、モモチは床に転がった。
「うぐぉぅ……っ!」
「え、えええっ……?」
俺はポカンと口を開け、悶絶するモモチを見下ろしていた。
な、なに……? そりゃちょっと、突然大きな声で呼びかけたとは思うけど、そんなに驚くほど?
この騒ぎに周りの観光客もいっせいに注目。人の輪の中で、俺はモモチに手をさしのべた。
「ごめん驚かせて、大丈夫?」
「だ、だいじょ、うぶ……」
モモチは片手で心臓を押さえながら、俺の手を取ろうとした。が、そこに何かを握っていた。手のひらよりちょっと大きいくらいの紙箱である。
「モモチそれ何、買うの?」
「え? ――あ! うわ!!」
彼は再び絶叫し、一度それを後ろ手に隠した。真っ赤に紅潮し、汗が噴き出している。
……なに、どうしたんだこいつ? 俺が首を傾げると、なんでもないよと首を振る。なんだよ、気になるじゃん。
「何隠したんだよ、見せろよ」
「か、隠してない、なにも。買わないし、おれはなにも持ってないっ!」
叫び、モモチは服をまくり、腹の中に小箱を入れた。
――あっ。
俺が声を出すより早く――遠くから、少年の声が響いた。
「泥棒!!」
ぎょっとしたのは俺、モモチはキョトンとしていた。その彼を、駆けつけた店員が見下ろす。さっき案内してくれたのとは違う、中年の男だった。よく日焼けした顔を苦笑いにゆがめて、モモチの肩を叩く。
「あー、じゃあ君、ちょっとバックヤードのほうまで来てもらえるかな」
「……ふえ? はい?」
まだ状況を理解していないモモチ。
威圧する店員、周囲の侮蔑の目、蒼白になった俺を順番に見比べて、そこでようやく事態を把握したらしい。改めて悲鳴を上げた。
「ちっ、違います! おれ、万引きなんかしてないっ!」
「……うん、はいはい。まあそう言うよね。でもごめんねーおじさんも見てたんだよね、服の中に商品入れたでしょー」
「いっ!? 違っ――」
「待ってくださいほんとに違うんです!」
俺は膝をつき、店員の腕を掴んだ。
大柄な中年男が俺を見下ろす。
「あたしが急に声を掛けて、それで彼は驚いて頭をぶつけて、こんな状態になってしまっただけなんです。騒いでごめんなさい、驚かせたあたしが悪いの」
「……んん……でもね。それで商品を盗む理由になってないよねえ?」
「盗んでなんか――たぶん、ただあたしから隠そうとしたんだと思います。もちろん服に入れたらだめだけど、きっと慌てて、それで――ねえモモチ!?」
「え。うん……」
半ば呆然と、頷くモモチ。しかしすぐにまた首を振った。
「いや隠してない、何も持ってないから!」
「何言ってるんだよバカ! 早く商品出して!!」
モモチはまだ、商品を持って一歩も歩いてないし、店敷地から出たわけでもない。レジを通過してから捕まったわけじゃないんだ。まだ窃盗は成立してないし、弁解もきくだろう。
まずはこの品物を服から出して、正直に謝らないと――
俺はモモチの腕を掴み、服を押さえているのをはずそうとした。しかしモモチは抗う。女の力で普通に引いてもびくともしない。ていうか何抵抗してるんだよバカじゃねーのほんとバカじゃねーの!?
ドタバタやってる俺たちの前で、中年男は嘆息した。
「……もういいからあんたら二人とも奥に来い。共犯かどうか知らんが、恋人に見せられない買い物なんてないだろう。隠した時点でマックロだよ坊主」
「恋人じゃない! 彼女は、だ、だからっ――」
変なところに反論するモモチ。今はソコどうでもいいだろう。ほんとにどうしたんだよ?
「あの、じゃあ、か、彼女のいないところで、あの――」
「は? なに? いいからさっさと商品出せや」
「待ってお願い、み、見ないでアユムちゃん、どっか行って――!」
モモチの言い分なんか聞いていられない。
俺は思いきり力を込め、モモチと争う。
でも、全然動かない。こいつヒョロいくせに結構チカラあるのな。ていうか何を全力出してんだよ。
どうして? なんでこんなことになったんだ?
「いい加減にしろ! この島に警察はいないと舐めてるのか? 本土まで送り届けてやる!」
嫌だ、モモチが犯罪者になる。高校も停学は免れないし、女将さんたちはショックだろう。この旅も強制終了だ。嫌だ。嫌だ。
嫌だ!
「痛っ――!?」
モモチが急に悲鳴を上げ、腹を抱えていたのをほどいた。思い切り引いていた俺は、そのままモモチの腕をひねりあげた。モモチのシャツから、ストンと小箱が落ちてくる。
それは、座り込んでいたモモチの股間にポトリと落ちた。パッケージに、でかでかと商品名、そして売り文句が書かれていた。
――【0,03 安心簡単装着 女性にやさしい天然素材ジェルたっぷりタイプ】。
……。
………………。
……ああ……
「ああ……」
「あー……」
「ああぁ……」
誰もが、低い声を漏らしていた。
モモチは無言でうずくまり、その商品を衆目からまた隠した。しかしその場を取り囲む全員が、何もかも目撃済み、そして理解済みだった。
俺も脱力し、座り込む。
男性店員は目をそらし、商品の片付けを始める。
万引き犯に眉をひそめていた客は黙って離散し、潮が引くように、事態は急速に収まっていった。
静まりかえった店先、地面にしゃがみこんだまま、モモチは小さく呟く。
「…………違……と、したわけじゃ……。ただ、見て……手に……違うんだ……」
……俺はもう、何も言えなくて、黙ってモモチの頭を撫でた。
癖のある髪が、俺の指をくすぐる。ふわふわ、やわらかくて、撫でてる方が気持ちいい。
きれいな形の後頭部、汗に濡れた首元まで、俺は優しく、撫で続けていた。
モモチがゆっくり、顔を上げる。その手は紙箱を握りつぶしている。変形し、手汗で湿ったそれを、俺は取り上げた。
「……あたし弁償してくるね……」
そう言って、レジへと向かう。レジにいたのはさっきの男性店員。彼は無表情でバーコードを読み取って、
「960円です」
財布を出したところで、うしろから手が現れ、カウンターに千円札が叩きつけられた。それを受け取り、おつりを俺に差し出す店員。小銭を握り、そこで初めて、俺は振り向いた。
誰も居なかった。
ナンパとかセックスとか、異性との交流を使うものは、俺が雄体化しているときにすること。一回雌体化してしまうと、女を口説くこともできない。
それがわからないシノブではない。これは俺をからかっただけなんだろう。
メッセージには続きがあるらしい。俺は指先で画面をスクロールさせた。
『……というのは冗談。長くなるからあとでまた送るわ』
これが、一通目。
履歴を見ると、一時間ほど経ってから改めて送られてきていた。
予告通りの長文だった。
『わたしの場合は、なるべく早く女に戻るためだったから、お兄ちゃんとは逆だけど……要領は同じらしいから、性別を変えて考えたものを書くね。
端的に言うと、"女の喜び"を感じないようにする。ただそれだけなの。
本気のえっちをすると……ってのもそういうことだから。男として、女として、その性別に幸福を覚えたらそっちに傾く』
……シノブの言葉は、俺の中にすんなりと入ってきた。
そもそもなぜ、ラトキア星人が雌雄同体なのか、周期的に性別や容姿、能力を変えるのか。
それはより良いパートナーと出会い、より良い環境で生き延び子を作る――生物の知恵なんだ。植物が日差しに向かって枝を伸ばし、己の姿形を変えるように。そう考えると、何の驚きもなく理解できる。
メッセージはまだ続きがある。
俺はさらに画面をスクロールした。
『具体的になにをしちゃだめとは言えない。たとえば女装しても、お兄ちゃんがそれをイヤダキモチワルイツライ、って思ってたら、逆に雄体化が早まる。楽しんでたら、よりその服が似合うようにと可愛い女の子になっていく。料理や子育ても女の専売特許なんかじゃないしね。要するにお兄ちゃんの気持ち次第なんだよ』
……。
震える指で、画面を移す。
『――アホ鮫団とバカ騒ぎしてるぶんには大丈夫だと思う。でも、チヤホヤ女の子扱いされて、意識しちゃったらダメ。まして悦んだり、男を好きになったりしたら絶対ダメ』
シノブの説明は、端的で、わかりやすい。箇条書きで、してはいけないことリストが貼り付けられていた。俺はそれを熟読し、胸に刻みつけていく。
男と性差を感じてはいけない。自分が女だと実感してしまうから。
背丈や体型、力の差を知ってはいけない。比べてはいけない。隣に並んではいけない。
声を出さない方がいい。鏡に映らない方がいい。自分が変わったことを理解してはいけない。
友達を作ってはいけない。もしも男に戻ったとき、行き場がなくなるようなものを作らない。女物を買わない。無くなると悲しくなるものを作らない。
自分を可愛いと思ってはいけない。
写真を撮らない。
思い出を作らない。
楽しんではいけない。
幸せになってはいけない。
『――難しければ、抜け出してきた方がいいよ。雌体化が長引いたのは、きっとそういうことなんだろうし……。帰っておいでよ。お兄ちゃんが、わたしたちを置いて一人、遠くへ行くのが怖いのは知ってる。けど、帰ってくるのは平気でしょう?』
ほかにわからないことがあれば電話して、と、優しい言葉で、メッセージは終わっていた。
……俺は、嬉しかった。
妹と俺は、そんなに仲良くない。あいつは性格が悪いんだよ。愛想がなくて筆無精で、ドライでイジワル――そんな彼女が、長々と丁寧にアドバイスをくれた。嬉しかった。
……かつて、悩んでいた彼女に、こうして教えたのはきっと母だろう。母もガサツで厳しいけども、優しいひとだと知っている。
俺は、幸せな人間だ。恵まれているよ。俺の性別に関係なく愛し続けてくれる家族が居る。
『青鮫団』だってそう、男の俺を慕ってくれている。俺ってリア充だよな。彼女いないけどさ。勉強は苦手だが学校は好きだし、体格にも恵まれて、仕事で評価ももらって、男の人生は毎日楽しかった。
男に戻りたいと思う。
戻らなくてはいけない。
――ワタル。
父は、俺の名を呼び、微笑んでいた。
――いいぞワタル。お前は筋がいい。
――すばらしい蹴りだ。強くなった。よく練習したな。えらいぞ。
――その強さはお前の財産だ。大事にしなさい。その力があればきっと――
俺は……大事なものをたくさん持っている。
あたしにはまだ、何も無い。
男に戻ったって、なにもかも嘘になったって、惜しい物なんかなにもない。なにも。
簡単なことだと思った。
大丈夫。平気だよ。
あたし、全然楽しくなんかなかったから。
あたしなんか要らない。
俺は水着を脱ぎ捨てた。元着ていた服を着け、借り物のパーカーは小脇に抱える。
睫毛を濡らす滴を拭って、試着室をあとにした。
さすがに待たせすぎたせいか、店員はもうそばにいなかった。俺は水着を手に、店員の姿を探す。今ならまだキャンセルできるはずだ。キョロキョロしていると、壁掛けの大きな鏡に突き当たった。ぶかぶかの男物のシャツに、白いミニスカート、うさ耳リボンカチューシャの、小柄な女がそこにいる。
俺は走ってそこを離れた。走りながら、頭のうさ耳をむしり取った。
走った先に見覚えのある背中。商品棚に向かう、少年の後ろ姿だった。
俺はそのまま駆け寄って、モモチの肩を掴んだ。
「モモチ! ごめんこれキャンセルして、俺もう帰――」
「ひぃっあっああああっ!?」
モモチは縦に飛び上がり、商品棚に脳天を強打した。しゃがみ込んだところにまた額を強打、どんがらがっしゃんと商品をぶちまけ、モモチは床に転がった。
「うぐぉぅ……っ!」
「え、えええっ……?」
俺はポカンと口を開け、悶絶するモモチを見下ろしていた。
な、なに……? そりゃちょっと、突然大きな声で呼びかけたとは思うけど、そんなに驚くほど?
この騒ぎに周りの観光客もいっせいに注目。人の輪の中で、俺はモモチに手をさしのべた。
「ごめん驚かせて、大丈夫?」
「だ、だいじょ、うぶ……」
モモチは片手で心臓を押さえながら、俺の手を取ろうとした。が、そこに何かを握っていた。手のひらよりちょっと大きいくらいの紙箱である。
「モモチそれ何、買うの?」
「え? ――あ! うわ!!」
彼は再び絶叫し、一度それを後ろ手に隠した。真っ赤に紅潮し、汗が噴き出している。
……なに、どうしたんだこいつ? 俺が首を傾げると、なんでもないよと首を振る。なんだよ、気になるじゃん。
「何隠したんだよ、見せろよ」
「か、隠してない、なにも。買わないし、おれはなにも持ってないっ!」
叫び、モモチは服をまくり、腹の中に小箱を入れた。
――あっ。
俺が声を出すより早く――遠くから、少年の声が響いた。
「泥棒!!」
ぎょっとしたのは俺、モモチはキョトンとしていた。その彼を、駆けつけた店員が見下ろす。さっき案内してくれたのとは違う、中年の男だった。よく日焼けした顔を苦笑いにゆがめて、モモチの肩を叩く。
「あー、じゃあ君、ちょっとバックヤードのほうまで来てもらえるかな」
「……ふえ? はい?」
まだ状況を理解していないモモチ。
威圧する店員、周囲の侮蔑の目、蒼白になった俺を順番に見比べて、そこでようやく事態を把握したらしい。改めて悲鳴を上げた。
「ちっ、違います! おれ、万引きなんかしてないっ!」
「……うん、はいはい。まあそう言うよね。でもごめんねーおじさんも見てたんだよね、服の中に商品入れたでしょー」
「いっ!? 違っ――」
「待ってくださいほんとに違うんです!」
俺は膝をつき、店員の腕を掴んだ。
大柄な中年男が俺を見下ろす。
「あたしが急に声を掛けて、それで彼は驚いて頭をぶつけて、こんな状態になってしまっただけなんです。騒いでごめんなさい、驚かせたあたしが悪いの」
「……んん……でもね。それで商品を盗む理由になってないよねえ?」
「盗んでなんか――たぶん、ただあたしから隠そうとしたんだと思います。もちろん服に入れたらだめだけど、きっと慌てて、それで――ねえモモチ!?」
「え。うん……」
半ば呆然と、頷くモモチ。しかしすぐにまた首を振った。
「いや隠してない、何も持ってないから!」
「何言ってるんだよバカ! 早く商品出して!!」
モモチはまだ、商品を持って一歩も歩いてないし、店敷地から出たわけでもない。レジを通過してから捕まったわけじゃないんだ。まだ窃盗は成立してないし、弁解もきくだろう。
まずはこの品物を服から出して、正直に謝らないと――
俺はモモチの腕を掴み、服を押さえているのをはずそうとした。しかしモモチは抗う。女の力で普通に引いてもびくともしない。ていうか何抵抗してるんだよバカじゃねーのほんとバカじゃねーの!?
ドタバタやってる俺たちの前で、中年男は嘆息した。
「……もういいからあんたら二人とも奥に来い。共犯かどうか知らんが、恋人に見せられない買い物なんてないだろう。隠した時点でマックロだよ坊主」
「恋人じゃない! 彼女は、だ、だからっ――」
変なところに反論するモモチ。今はソコどうでもいいだろう。ほんとにどうしたんだよ?
「あの、じゃあ、か、彼女のいないところで、あの――」
「は? なに? いいからさっさと商品出せや」
「待ってお願い、み、見ないでアユムちゃん、どっか行って――!」
モモチの言い分なんか聞いていられない。
俺は思いきり力を込め、モモチと争う。
でも、全然動かない。こいつヒョロいくせに結構チカラあるのな。ていうか何を全力出してんだよ。
どうして? なんでこんなことになったんだ?
「いい加減にしろ! この島に警察はいないと舐めてるのか? 本土まで送り届けてやる!」
嫌だ、モモチが犯罪者になる。高校も停学は免れないし、女将さんたちはショックだろう。この旅も強制終了だ。嫌だ。嫌だ。
嫌だ!
「痛っ――!?」
モモチが急に悲鳴を上げ、腹を抱えていたのをほどいた。思い切り引いていた俺は、そのままモモチの腕をひねりあげた。モモチのシャツから、ストンと小箱が落ちてくる。
それは、座り込んでいたモモチの股間にポトリと落ちた。パッケージに、でかでかと商品名、そして売り文句が書かれていた。
――【0,03 安心簡単装着 女性にやさしい天然素材ジェルたっぷりタイプ】。
……。
………………。
……ああ……
「ああ……」
「あー……」
「ああぁ……」
誰もが、低い声を漏らしていた。
モモチは無言でうずくまり、その商品を衆目からまた隠した。しかしその場を取り囲む全員が、何もかも目撃済み、そして理解済みだった。
俺も脱力し、座り込む。
男性店員は目をそらし、商品の片付けを始める。
万引き犯に眉をひそめていた客は黙って離散し、潮が引くように、事態は急速に収まっていった。
静まりかえった店先、地面にしゃがみこんだまま、モモチは小さく呟く。
「…………違……と、したわけじゃ……。ただ、見て……手に……違うんだ……」
……俺はもう、何も言えなくて、黙ってモモチの頭を撫でた。
癖のある髪が、俺の指をくすぐる。ふわふわ、やわらかくて、撫でてる方が気持ちいい。
きれいな形の後頭部、汗に濡れた首元まで、俺は優しく、撫で続けていた。
モモチがゆっくり、顔を上げる。その手は紙箱を握りつぶしている。変形し、手汗で湿ったそれを、俺は取り上げた。
「……あたし弁償してくるね……」
そう言って、レジへと向かう。レジにいたのはさっきの男性店員。彼は無表情でバーコードを読み取って、
「960円です」
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