鱶澤くんのトランス!
鱶澤くん、トランス?
モモチはあたしをまたぐようにして、暗闇の中、あたしの顔をじっと見下ろしていた。
あたしの口の端の、しずくをぬぐい、頬を撫で、髪を指で梳き、また唇を合わせる。
ぬるま湯みたいな心地よさで、うたた寝してしまいそうだった。
「アユムちゃん」
モモチの手が一つ、あたしの腕から離れた。
終わってしまうのかという嘆きは、見当違いだった。モモチはあたしの口を吸ったまま、手のひらをあたしの胸元に置いた、膨らみに合わせ、手のひらをぴたりとくっつける。
愛撫、なんてものじゃない。ただそこにあるだけの手――そこから首の裏まで、しびれるような快感が突き抜けていった。モモチの指は冷え切り、強ばって、震えていた。そのくせ手のひらだけは焼けるほど熱い。それがゆっくりと動く。
そして静かに、浴衣のなかへ差し込まれていった。
――皮膚に感じる、モモチの指紋。
「……わ……うわっ!」
「わあ!」
あたしとモモチ、両者が同時に悲鳴を上げた。モモチは破裂したように後ろに跳ね、あたしも、胸を押さえてうずくまる。
ドキドキと強い鼓動はここでやってきた。痛いほどに早うつ心臓を抱きすくめ、縮こまって身体を固めた。浴衣の衿と裾を寄せ、全力で素肌を隠す。肩越しにチラと視線で確認すると、モモチは尻餅をつき、自分の右手を見て震えていた。
「や、やわっ――え……な……。えっ? おれ今なにかした?」
「なにかしたじゃないだろーがっ!」
あたしは叫んだ。
「ひっ、人の胸っ、ダイレクトに触っといて! つかなんでお前が悲鳴上げてるんだよ! サイテー最悪、めちゃくちゃ失礼!」
「えっ……あ、ご、ごめん」
「ごめんで済むかっ! ちゅーだって、な、なにあれ。ちょっとだけ、一回だけって言ったのに。一回だけって言ったのに……!」
「ごめん!」
モモチはその場で土下座した。ただならぬ騒ぎに、ウサギたちがワラワラ集まってくる。もふもふ軍団に囲まれて、モモチは地面に額をつけている。
「ごめんなさい。ほ、ほんとにこんな、そこまでするつもりじゃ。なんか止まんなくって……ごめんなさい。すいませんでした」
これ以上無く、平身低頭。はじめから、あたしの中に怒りなどなかった。だけど顔を上げることが出来ない。自分がこんなにも動揺していることに、なにより戸惑う。
気にすんな、中身は男だ。減るもんじゃなし、どーせ今夜限りの乳だ好きにしろと、理性が考える。だが口から出てこない。
大事件だと、魂が震えていた。
ちょっと一回――なんてもんじゃない。あれは、男と女のキスだ。身体を触られた。確かに、モモチはあたしの身体に夢中になっていた。あたしもソレを、心地よく感じてしまったんだ。
だめだ。これはだめだ。大事件だ。
心臓が痛い。ドキドキが止まらない。
だめだ……
「あの……あ、アユムちゃん、おれ……本当にごめん。でも……」
自分の鼓動がうるさくて、風の音も、夏虫の声も聞こえない。しかしモモチの言葉だけは、息継ぎまで聞こえてくる。
「……おれ……あの、シノブちゃんのことは友達の彼女でしかなくて、そういう気持ちは全然、無くて、同じ顔だけどそうだからっていう、ことじゃなくて」
返事が出来ない。モモチの顔が見れない。なんだこれ? 恥ずかしいともいたたまれないとも違うのに、とにかくどうにも落ち着かない。全身が焼かれているように熱かった。だめだ。
「……だから、偽物うんぬんもどうでもいい、君が団長のなんなのかも」
ああ、だめだ。心臓が痛い。どくんどくんと跳ね続けている。
「おれにとって、アユムちゃんは、アユムちゃんだ。だ、だから……」
――どくん。
強い鼓動。
「――うっ!?」
目を見開く。胸を押さえ、かがみ込んだのを、モモチが驚いて覗き込んできた。
「どうしたの? アユ――」
「見るな!!」
あたしは立ち上がった。
座り込んだモモチに背を向けて、そのまま何も言わずに走り出す。遠くで、エッ? という声。耳をふさいで走る。女物のサンダルで、何度も躓き、転がりながら、あたしはペンションの中に逃げ込んだ。誰にも見られないよう、泥棒みたいに壁に張り付き、肩を縮めて、暗いところに身を隠して。
ようやく息を吐き出したのは、部屋に入り込み内鍵をかけてからだった。
「――はあっ……!」
胸の中に、やっと酸素を取り込んで、あたしは天井を仰いだ。どっと汗があふれる。二、三度転んだせいで、全身が痛い。ぐちゃぐちゃにはだけた浴衣を脱ぎ捨てる。
きっと酷い顔をしている。もしかしたら泣いているかも知れない。
わからなかった。自分のことなのに、今の姿がわからない。
あたし、いまどんな顔をしている?
どんな身体をしている?
……今、何時?
視界の隅に、鏡と壁掛け時計がある。
ほんの少し前、髪をとき、笑顔をうつした鏡だ。もうすぐモモチが来るとドキドキしながらいていた時計。あたしはベッドへ逃げ出した。
頭からシーツをかぶり、目を閉じる。もう何も見たくなかった。
鼓動は少しずつ治まり、体温もすっかり下がっている。
……終わったんだ……俺は、もう、アユムじゃなくなった。
俺は目を閉じた。泣き声は出さなかった。今夜はまだ、自分の喉から漏れる、男の声を聞きたくない。それでも俺に不安はなかった。明日になればきっと平気。今はまだ、身体の変化に心が追いついていないだけだ。
明日になればきっと平気。
鱶澤ワタルの姿と心で、モモチに向かって、笑ってみせるよ。
ウサギの島に、日が昇る。
明るい部屋。カーテンを開けたまま寝てしまったことを思い出す。
……一体俺、何時間眠っていたんだろう。
妙に重たい足をひきずり、俺は部屋の隅まで行くと、旅行鞄を開いた。中にはXLサイズの男性服がある。
……さて。
これを着て出て……ワタルとなった俺は、『青鮫団』の皆にちょっとした嘘をつかなくてはいけない。
「カゼで休んでいたけども、すぐに回復したので追いかけた。夜中のうちに、妹に話して入れ替わってもらった。あいつはもう帰ったよ」
……と。
…………それで、男どもはなんということなく、鱶澤ワタルを迎え入れてくれるだろう。旅に出た当初は、それで何の問題も無いと思ってた。けど……
モモチは、気にするだろうな。……あんなことがあったアユムが、急に帰ってしまったのだから。
……どうしよう。本当のところ、俺はもう、旅行を楽しむ気持ちになれなかった。あれだけ楽しみにしていたウサギとのふれ合いも、もう心を湧かさない。
このまま帰ってしまおうか。モモチには……あとから、なにかフォローをして……
ああ、でもきっと傷つくだろうなあ。出来ることなら『俺』じゃなく、アユムが顔を出して、モモチにちゃんと挨拶したい。だけど、もう。
俺は嘆息し、Tシャツをかぶった。その着用感に、違和感。
肩が落ちている。……なんだこれ。すごく……おおきい?
「――んっ? えっ!?」
俺は叫んだ。まだ寝ぼけ眼だったのが一気に覚醒、手足を見下ろし、身体を触り、鏡の前に駆け込む。そこに映っていたのは、コワモテの大男、団長などではない。
赤い髪に、ちょっときつめの黒い瞳。ほっそりした顎、華奢な肩、ふっくら盛り上がった胸。
「なんでっ!? あたしっ、な――なんで女のままなのぉっ!?」
その絶叫は甲高い、女の声で発声された。
あたしの口の端の、しずくをぬぐい、頬を撫で、髪を指で梳き、また唇を合わせる。
ぬるま湯みたいな心地よさで、うたた寝してしまいそうだった。
「アユムちゃん」
モモチの手が一つ、あたしの腕から離れた。
終わってしまうのかという嘆きは、見当違いだった。モモチはあたしの口を吸ったまま、手のひらをあたしの胸元に置いた、膨らみに合わせ、手のひらをぴたりとくっつける。
愛撫、なんてものじゃない。ただそこにあるだけの手――そこから首の裏まで、しびれるような快感が突き抜けていった。モモチの指は冷え切り、強ばって、震えていた。そのくせ手のひらだけは焼けるほど熱い。それがゆっくりと動く。
そして静かに、浴衣のなかへ差し込まれていった。
――皮膚に感じる、モモチの指紋。
「……わ……うわっ!」
「わあ!」
あたしとモモチ、両者が同時に悲鳴を上げた。モモチは破裂したように後ろに跳ね、あたしも、胸を押さえてうずくまる。
ドキドキと強い鼓動はここでやってきた。痛いほどに早うつ心臓を抱きすくめ、縮こまって身体を固めた。浴衣の衿と裾を寄せ、全力で素肌を隠す。肩越しにチラと視線で確認すると、モモチは尻餅をつき、自分の右手を見て震えていた。
「や、やわっ――え……な……。えっ? おれ今なにかした?」
「なにかしたじゃないだろーがっ!」
あたしは叫んだ。
「ひっ、人の胸っ、ダイレクトに触っといて! つかなんでお前が悲鳴上げてるんだよ! サイテー最悪、めちゃくちゃ失礼!」
「えっ……あ、ご、ごめん」
「ごめんで済むかっ! ちゅーだって、な、なにあれ。ちょっとだけ、一回だけって言ったのに。一回だけって言ったのに……!」
「ごめん!」
モモチはその場で土下座した。ただならぬ騒ぎに、ウサギたちがワラワラ集まってくる。もふもふ軍団に囲まれて、モモチは地面に額をつけている。
「ごめんなさい。ほ、ほんとにこんな、そこまでするつもりじゃ。なんか止まんなくって……ごめんなさい。すいませんでした」
これ以上無く、平身低頭。はじめから、あたしの中に怒りなどなかった。だけど顔を上げることが出来ない。自分がこんなにも動揺していることに、なにより戸惑う。
気にすんな、中身は男だ。減るもんじゃなし、どーせ今夜限りの乳だ好きにしろと、理性が考える。だが口から出てこない。
大事件だと、魂が震えていた。
ちょっと一回――なんてもんじゃない。あれは、男と女のキスだ。身体を触られた。確かに、モモチはあたしの身体に夢中になっていた。あたしもソレを、心地よく感じてしまったんだ。
だめだ。これはだめだ。大事件だ。
心臓が痛い。ドキドキが止まらない。
だめだ……
「あの……あ、アユムちゃん、おれ……本当にごめん。でも……」
自分の鼓動がうるさくて、風の音も、夏虫の声も聞こえない。しかしモモチの言葉だけは、息継ぎまで聞こえてくる。
「……おれ……あの、シノブちゃんのことは友達の彼女でしかなくて、そういう気持ちは全然、無くて、同じ顔だけどそうだからっていう、ことじゃなくて」
返事が出来ない。モモチの顔が見れない。なんだこれ? 恥ずかしいともいたたまれないとも違うのに、とにかくどうにも落ち着かない。全身が焼かれているように熱かった。だめだ。
「……だから、偽物うんぬんもどうでもいい、君が団長のなんなのかも」
ああ、だめだ。心臓が痛い。どくんどくんと跳ね続けている。
「おれにとって、アユムちゃんは、アユムちゃんだ。だ、だから……」
――どくん。
強い鼓動。
「――うっ!?」
目を見開く。胸を押さえ、かがみ込んだのを、モモチが驚いて覗き込んできた。
「どうしたの? アユ――」
「見るな!!」
あたしは立ち上がった。
座り込んだモモチに背を向けて、そのまま何も言わずに走り出す。遠くで、エッ? という声。耳をふさいで走る。女物のサンダルで、何度も躓き、転がりながら、あたしはペンションの中に逃げ込んだ。誰にも見られないよう、泥棒みたいに壁に張り付き、肩を縮めて、暗いところに身を隠して。
ようやく息を吐き出したのは、部屋に入り込み内鍵をかけてからだった。
「――はあっ……!」
胸の中に、やっと酸素を取り込んで、あたしは天井を仰いだ。どっと汗があふれる。二、三度転んだせいで、全身が痛い。ぐちゃぐちゃにはだけた浴衣を脱ぎ捨てる。
きっと酷い顔をしている。もしかしたら泣いているかも知れない。
わからなかった。自分のことなのに、今の姿がわからない。
あたし、いまどんな顔をしている?
どんな身体をしている?
……今、何時?
視界の隅に、鏡と壁掛け時計がある。
ほんの少し前、髪をとき、笑顔をうつした鏡だ。もうすぐモモチが来るとドキドキしながらいていた時計。あたしはベッドへ逃げ出した。
頭からシーツをかぶり、目を閉じる。もう何も見たくなかった。
鼓動は少しずつ治まり、体温もすっかり下がっている。
……終わったんだ……俺は、もう、アユムじゃなくなった。
俺は目を閉じた。泣き声は出さなかった。今夜はまだ、自分の喉から漏れる、男の声を聞きたくない。それでも俺に不安はなかった。明日になればきっと平気。今はまだ、身体の変化に心が追いついていないだけだ。
明日になればきっと平気。
鱶澤ワタルの姿と心で、モモチに向かって、笑ってみせるよ。
ウサギの島に、日が昇る。
明るい部屋。カーテンを開けたまま寝てしまったことを思い出す。
……一体俺、何時間眠っていたんだろう。
妙に重たい足をひきずり、俺は部屋の隅まで行くと、旅行鞄を開いた。中にはXLサイズの男性服がある。
……さて。
これを着て出て……ワタルとなった俺は、『青鮫団』の皆にちょっとした嘘をつかなくてはいけない。
「カゼで休んでいたけども、すぐに回復したので追いかけた。夜中のうちに、妹に話して入れ替わってもらった。あいつはもう帰ったよ」
……と。
…………それで、男どもはなんということなく、鱶澤ワタルを迎え入れてくれるだろう。旅に出た当初は、それで何の問題も無いと思ってた。けど……
モモチは、気にするだろうな。……あんなことがあったアユムが、急に帰ってしまったのだから。
……どうしよう。本当のところ、俺はもう、旅行を楽しむ気持ちになれなかった。あれだけ楽しみにしていたウサギとのふれ合いも、もう心を湧かさない。
このまま帰ってしまおうか。モモチには……あとから、なにかフォローをして……
ああ、でもきっと傷つくだろうなあ。出来ることなら『俺』じゃなく、アユムが顔を出して、モモチにちゃんと挨拶したい。だけど、もう。
俺は嘆息し、Tシャツをかぶった。その着用感に、違和感。
肩が落ちている。……なんだこれ。すごく……おおきい?
「――んっ? えっ!?」
俺は叫んだ。まだ寝ぼけ眼だったのが一気に覚醒、手足を見下ろし、身体を触り、鏡の前に駆け込む。そこに映っていたのは、コワモテの大男、団長などではない。
赤い髪に、ちょっときつめの黒い瞳。ほっそりした顎、華奢な肩、ふっくら盛り上がった胸。
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