元勇者との生活
略取
移住、という可能性を示されてから数日。
町を出る必要は無くなるかもしれない、と聞かされて私は少し拍子抜けした。
「……町を出なくても大丈夫……って、なにかあったんですか?」
「領主か、その上まで話を持って行ってもらう。……移住するか連中の手が後ろに回るか、どっちの方が早いかってところだ」
「……そんなこと、できるんでしょうか……」
アシュレイさんの言葉にしても、私は半信半疑であった。
私はアルファーノ・ファミリーの全貌をよく知らない。
けれど彼らが衛兵所すら味方につけ、市長も口出ししないという現状は知っている。
「この件については多分、としか言えないが。……お上に伝手がある相手だ。期待はできる」
「……おかみ……偉い人、です……?」
「まぁ、ざっくりと言えばそうだ」
アシュレイさんははっきりと頷いてみせる。
私にはいまひとつ想像がつかない話だった。
「……あんまり、ぴんと来ないです」
「かも知れないな。……この話は、実際にそうなってからにするか」
「は、はい。……あの、アシュレイさん」
「どうした」
「……王都、ってどんなところなんでしょう。……その偉い人がいるのも、王都なんですよね?」
移住する必要はもう無くとも、それはさておいて気にはなる。
あまり良い顔をされないかと思ったけれど、アシュレイさんは意外に嬉しそうに表情を和らげた。
「……平たく言えば、王都はこの国の中心だ。最も人口が多く栄えている都市で、何かにつけて華やかだな」
「華やか……です?」
「要するには見栄っ張りだ」
「そんな身も蓋もない」
「……とはいえ馬鹿にできたもんでもない。きらびやかな服やら美術品やらでも文化の一種だ。そういう文化を学ぶ土壌があるのと無いのではかなり話が違ってくる」
「……詳しくてかしこい人がいっぱいいる、という感じでしょうか……?」
「だいたい合っている」
私のぼんやりとした理解にアシュレイさんはすかさず首肯し、言葉を続ける。
「もし興味があるなら、行ってみるのもやぶさかじゃない。……無理にこの町に留まる必要は無いからな」
「……興味が、ないわけではないんですが……」
私は少し考え、アシュレイさんをじっと見つめて言う。
「王都についてもそうですけど……私には、知らないことがたくさんあります。……きっと、物事を判断する材料そのものが、私には足りないんだと思います」
「……そうか。そういう、ことか」
アシュレイさんは片目をぎゅっと瞑り、物憂げに唇をつぐむ。
どこか痛みを押し殺すような面差し。
どうしてアシュレイさんがそんな顔をするんだろう、と思う。
「私は、アシュレイさんの知っていることを知りたいです。……教えて、もらえますか?」
「……言っておくが、俺に家庭教師とかの経験は全く無いぞ」
「……じゃあ、私に色々教えてくれたら教えることの練習になると思います」
「そう来たか……」
アシュレイさんはがしがしと髪を掻いては天を仰ぎ、ふと私に視線を向けた。
まるで瞳を覗きこむような眼差しに私は思わず姿勢を正す。
「クラリッサ。字は書けるか」
「……いくつかの単語以外はだめです」
いくつかの単語、とはつまり市場で見かける食材の名前などのこと。
後はぜんぜんだめだった。
「読む方はどうだ」
「ぜんぜんだめです」
「わかった。そこからやるぞ」
「……いきなり大変じゃないですか!?」
「大丈夫だ。ちゃんとひとつひとつの文字から慣らしていこう」
「……そ、それくらいなら……」
私は部屋の隅っこに置かれている数冊の本に目を向ける。
以前開いてみても私にはちんぷんかんぷんだったが、その内容を知りたくないと言えば嘘になる。
「じゃあ、試しにやってみるか」
「……はい!」
*
テーブルの上には一枚の羊皮紙、インク壺、そして羽ペンが転がっている。
私の努力の残骸たちだ。
「大丈夫か」
「……頭から煙が出そうです……」
「詰め込みすぎたかもしれんな……」
私はテーブルに頭から突っ伏していた。
羊皮紙を汚した模様がなかなか文字として認識できない。
「『たすけて』っていう場合はどう書くんでしょう……」
「……終わってから無理に気力をひねり出すもんじゃない」
と、言いながらアシュレイさんは羽ペンを手に取って紙の上に滑らせる。
私はその文字の組み合わせをじっと見つめ、それの真似をするように何度も同じ文字を書き記した。
「困った時はこう書くことにします……」
「紙もただじゃないからな……いや、練習にになるから良いか」
「あっはい。……ちょっと、休憩します」
頭の中の普段使われない部分が熱を持っているような気がする。
すぐ隣のアシュレイさんは苦笑がちに目を細め、ふと立ち上がった。
「今のうちに買い物に行ってこよう。……何か要るものはあるか」
「……あ、いえ。いつもの以外は、大丈夫です」
「すぐに戻る。鍵は忘れずにな」
「……わかってます。いってらっしゃい」
食材はあまり日持ちがしないわけで、定期的な買い出しはどうしても必要になる。
アシュレイさんは金子の入った袋を持って玄関口の方へ向かう。
私はアシュレイさんが外に出ていくのを見送り、その後できちんと鍵をかけた。
洗濯などは朝から済ませたので残っている作業はなし。
今のうちに煮物でも仕込んでおこうと思い立って野菜の下準備を始める。
下味のスープには先日仕込んだコンソメの残りがあるので、ここにニンジン、タマネギ、カブ、後は豚肉の腸詰めを放り込んで煮詰めるという算段だった。
水を入れた鍋を火にかければ準備よし。後はちまちまと確認してまめに灰汁を取れば良い。
その間、私は部屋の隅に置かれていた本を手慰みに開いてみる。
「……ううん……」
当然のごとくさっぱりだった。
今の私は辞書にあった基礎文字表を覚えているか覚えていないかくらいのもの。
アシュレイさんの持っている本はぎっちりと字が詰まっている分厚いものが多く、なおさらちんぷんかんぷんである。
「……あ」
ひとつひとつを順番に見ていきながら、私はそのうちの一冊に目を留める。
その本だけは他のものと違って、完全な手書きの文字だったのだ。
もちろん読めないことは一緒なわけで、その点では他の本と大した変わりはないのだけれど。
――中に書き込まれていた文字の筆跡は、どこか見覚えがあるような気がした。
ページをぱらぱらと手繰ってみれば、あるページを境に完全な白紙が続いている。
――もしかして、と私はさっきアシュレイさんが書いた見本の文字を確かめた。
「……似てる」
思わず口に出してしまうくらいその筆跡は似通っていた。
内容はちっとも読めないが、ここまで来たらこの本が何かくらいは容易に知れる。
これはつまり、アシュレイさんの日記だ。
私は思わずまじまじと紙面に目を走らせる。
これは盗み見というやつなのではないか。さすがに良くない気がする。いや、そもそも一文もわからないのだけれど。
でも、もし文字が読めるようになったらこの日記も読めるようになるわけで――何かとてもよくない動機が私の中に発生しているような気がする。
私はアシュレイさんの日記と辞書との間で視線を交互に往復させ、
「……あっ」
――じゅう、と鍋の底から発生した音で我に返った。
私は慌てて柄杓で鍋をかき混ぜ、表面に浮いてきた灰汁をすくい取る作業に集中する。
その時、不意に外から妙な物音が聞こえた。
「……?」
話し声。何人かの足音。
部屋の中からはいまいちよく聞こえない。
私は耳を澄ませ、一度暖炉の火から鍋を下ろす。
壁に耳をつけながら玄関口の方に近づいていくと、声音が次第にはっきりする。
そのうちひとつは大家さんの声だった。
「待ってくださいッ!! あなたたち、どういうつもりです!?」
「黙れ。おまえがうちのガキを匿っていることはわかっているんだ」
「匿ってるって、それはどういう――」
「邪魔をするつもりなら容赦はしないぞ。アルファーノに楯突くか?」
――――ぞ、と背筋が戦慄が走る。
寒気が走り、全身が止めどなく震える。
大家さんと話していたのは、あまりに堪えがたい声。
聞き覚えのある声――二度と聞きたくはなかった声。
「で、ですがッ!! うちで勝手な真似は――」
「二度は言わせるな!!」
ごっ、と鈍い打撃音が響く。短い悲鳴の後、人ひとりが床にどさっと倒れる。
やめて。
だめだ。
この音は、いやだ。
もう、あんなのは――
「……ッ!!」
瞬間、私は信じられないものを見た。
目の前の扉から〝ぬるり〟と剣先が生えたのだ。
刃はそのまま縦に滑らされる。
真っ二つになり、使い物にならなくなった扉は部屋の中に倒れ込んだ。
「ぁ、あ……!」
前か後ろか。
部屋の入口は、ひとりの男が塞いでいた。
赤髪の、全身を黒衣に包んだ男の人。
片手には細剣を持っている。
そして、彼の隣には――あの男が、いた。
私はほとんど反射的に部屋の中へ逃げ込む。
袋小路とわかっているはずなのに。
なんの意味もないのに。
私はすぐに部屋の隅っこに突き当たり、がむしゃらにテーブルの上のペンを掴み、滑らせた。
「逃げるに及ばず」
その瞬間聞こえたのは、信じられないほど冷たい声。
感情の色が一切うかがえない言葉のあと、私の首のすぐ横を細い剣が走っていく。
震える手から、ペンが落ちる。
「……ッ、ぁ……あ……ッ」
黒衣の男の人が私の目の前にいた。
どこかで見たことがあるような。
どこにでも見かけられるような希薄な存在感。
彼は私の腕を掴み、壁に突き立っていた剣を引く。
「逃げるべからず、声を上げるべからず、暴れるべからず――是非には及ばず」
黒衣の男がすぐそばから囁きかける。
私の一切の意思表示を封じ込めるかのよう。
どうしようもなかった。
彼は強引に腕を引っ張り、私を部屋の中から引きずり出した。
「……ぁ、あ……」
「急げ、クロウさん。奴がいつ戻ってこないとも限らん」
「焦るに及ばず――この娘に違えなしか」
クロウ、と呼ばれた黒衣の男に突き出される。
私の目の前には――頬の痣もあらわに倒れている大家さんと、あの男がいる。
男は私の顔を覗きこむように瞳を細め、言った。
「探したぞ」
びくり、と無意識に肩が跳ねる。
身体の震えが止まらない。
「この指を見ろ」
男が右手を突き出す。
その手のひらは小指が欠けていた。
「これが俺の払った代償だ。おまえが逃げたために、その代償を俺が払うことになったんだ。わかるか?」
男の顔には青筋が走っている。
声色は静かなのに、押さえきれない怒りが滲み出しているようだった。
「全て!! 全ておまえのせいだ、奴隷の分際で!! ――――わかっているのか!!」
男が拳を振り上げる。
身体が無意識にこわばる。
何度見たかもわからない光景。
私は無意識に目をつむり――ひゅん、という風の音がした。
「……ッ……?」
来るかと思っていた衝撃は訪れなかった。
私はおそるおそる目を開き、眼前に輝く刃を見る。
「クロウ、なぜ邪魔をする!! これは躾だッ!!」
「それには及ばず」
「なぜだ!?」
「この娘はすでに貴様のものにあらず」
「ぐッ……!!」
あの男と私の間には、クロウの剣があった。
男は歯噛みしながら、遮られた拳をゆっくりと下ろす。
「……連れて行くぞッ!!」
「是非に及ばず」
クロウは再び私の腕をしっかりと掴む。
助けてくれた――わけではないだろう。
ふたりの関係はだいたい把握できた。
クロウはこの男の部下ではなく、たぶん、この男より上の人間の配下なのだ。
そう、おそらくはカルロ・アルファーノの。
「クレアさんッ……!!」
大家さんが身を起こしかける。
私は無理やり腕を引かれながら振り返った。
「……大家さん、私は……大丈夫、です」
「そんな、何をッ……!」
「……助けてくれます、から。きっと――」
「無駄口を叩くなッ!!」
あの男の大声が私の声を遮る。
怒鳴られるのは、いやだった。
無意識に身体がすくんで、力が入らなくなってしまう。
私はなすすべなく前に向き直らされ、無理やり腕を引かれていく。
「……私は、どこへ……?」
「知るには及ばず」
そう尋ねた直後だった。
あっと声を上げる間もなく私の身体はクロウの手によって馬車に放り込まれる。
まるで計っていたような周到さ。アシュレイさんをいない時を狙ってのこと、と嫌でも思い知る。
「ただで済むと思うな。おまえには死も生温い地獄を味わうことになるんだ」
あの男の声。
無意識に息が切羽詰まる。胸が苦しくなる。一瞬たりともこの場にいたくない。
両脇をふたりに固められ、馬車はほどなくして走り出した。
町を出る必要は無くなるかもしれない、と聞かされて私は少し拍子抜けした。
「……町を出なくても大丈夫……って、なにかあったんですか?」
「領主か、その上まで話を持って行ってもらう。……移住するか連中の手が後ろに回るか、どっちの方が早いかってところだ」
「……そんなこと、できるんでしょうか……」
アシュレイさんの言葉にしても、私は半信半疑であった。
私はアルファーノ・ファミリーの全貌をよく知らない。
けれど彼らが衛兵所すら味方につけ、市長も口出ししないという現状は知っている。
「この件については多分、としか言えないが。……お上に伝手がある相手だ。期待はできる」
「……おかみ……偉い人、です……?」
「まぁ、ざっくりと言えばそうだ」
アシュレイさんははっきりと頷いてみせる。
私にはいまひとつ想像がつかない話だった。
「……あんまり、ぴんと来ないです」
「かも知れないな。……この話は、実際にそうなってからにするか」
「は、はい。……あの、アシュレイさん」
「どうした」
「……王都、ってどんなところなんでしょう。……その偉い人がいるのも、王都なんですよね?」
移住する必要はもう無くとも、それはさておいて気にはなる。
あまり良い顔をされないかと思ったけれど、アシュレイさんは意外に嬉しそうに表情を和らげた。
「……平たく言えば、王都はこの国の中心だ。最も人口が多く栄えている都市で、何かにつけて華やかだな」
「華やか……です?」
「要するには見栄っ張りだ」
「そんな身も蓋もない」
「……とはいえ馬鹿にできたもんでもない。きらびやかな服やら美術品やらでも文化の一種だ。そういう文化を学ぶ土壌があるのと無いのではかなり話が違ってくる」
「……詳しくてかしこい人がいっぱいいる、という感じでしょうか……?」
「だいたい合っている」
私のぼんやりとした理解にアシュレイさんはすかさず首肯し、言葉を続ける。
「もし興味があるなら、行ってみるのもやぶさかじゃない。……無理にこの町に留まる必要は無いからな」
「……興味が、ないわけではないんですが……」
私は少し考え、アシュレイさんをじっと見つめて言う。
「王都についてもそうですけど……私には、知らないことがたくさんあります。……きっと、物事を判断する材料そのものが、私には足りないんだと思います」
「……そうか。そういう、ことか」
アシュレイさんは片目をぎゅっと瞑り、物憂げに唇をつぐむ。
どこか痛みを押し殺すような面差し。
どうしてアシュレイさんがそんな顔をするんだろう、と思う。
「私は、アシュレイさんの知っていることを知りたいです。……教えて、もらえますか?」
「……言っておくが、俺に家庭教師とかの経験は全く無いぞ」
「……じゃあ、私に色々教えてくれたら教えることの練習になると思います」
「そう来たか……」
アシュレイさんはがしがしと髪を掻いては天を仰ぎ、ふと私に視線を向けた。
まるで瞳を覗きこむような眼差しに私は思わず姿勢を正す。
「クラリッサ。字は書けるか」
「……いくつかの単語以外はだめです」
いくつかの単語、とはつまり市場で見かける食材の名前などのこと。
後はぜんぜんだめだった。
「読む方はどうだ」
「ぜんぜんだめです」
「わかった。そこからやるぞ」
「……いきなり大変じゃないですか!?」
「大丈夫だ。ちゃんとひとつひとつの文字から慣らしていこう」
「……そ、それくらいなら……」
私は部屋の隅っこに置かれている数冊の本に目を向ける。
以前開いてみても私にはちんぷんかんぷんだったが、その内容を知りたくないと言えば嘘になる。
「じゃあ、試しにやってみるか」
「……はい!」
*
テーブルの上には一枚の羊皮紙、インク壺、そして羽ペンが転がっている。
私の努力の残骸たちだ。
「大丈夫か」
「……頭から煙が出そうです……」
「詰め込みすぎたかもしれんな……」
私はテーブルに頭から突っ伏していた。
羊皮紙を汚した模様がなかなか文字として認識できない。
「『たすけて』っていう場合はどう書くんでしょう……」
「……終わってから無理に気力をひねり出すもんじゃない」
と、言いながらアシュレイさんは羽ペンを手に取って紙の上に滑らせる。
私はその文字の組み合わせをじっと見つめ、それの真似をするように何度も同じ文字を書き記した。
「困った時はこう書くことにします……」
「紙もただじゃないからな……いや、練習にになるから良いか」
「あっはい。……ちょっと、休憩します」
頭の中の普段使われない部分が熱を持っているような気がする。
すぐ隣のアシュレイさんは苦笑がちに目を細め、ふと立ち上がった。
「今のうちに買い物に行ってこよう。……何か要るものはあるか」
「……あ、いえ。いつもの以外は、大丈夫です」
「すぐに戻る。鍵は忘れずにな」
「……わかってます。いってらっしゃい」
食材はあまり日持ちがしないわけで、定期的な買い出しはどうしても必要になる。
アシュレイさんは金子の入った袋を持って玄関口の方へ向かう。
私はアシュレイさんが外に出ていくのを見送り、その後できちんと鍵をかけた。
洗濯などは朝から済ませたので残っている作業はなし。
今のうちに煮物でも仕込んでおこうと思い立って野菜の下準備を始める。
下味のスープには先日仕込んだコンソメの残りがあるので、ここにニンジン、タマネギ、カブ、後は豚肉の腸詰めを放り込んで煮詰めるという算段だった。
水を入れた鍋を火にかければ準備よし。後はちまちまと確認してまめに灰汁を取れば良い。
その間、私は部屋の隅に置かれていた本を手慰みに開いてみる。
「……ううん……」
当然のごとくさっぱりだった。
今の私は辞書にあった基礎文字表を覚えているか覚えていないかくらいのもの。
アシュレイさんの持っている本はぎっちりと字が詰まっている分厚いものが多く、なおさらちんぷんかんぷんである。
「……あ」
ひとつひとつを順番に見ていきながら、私はそのうちの一冊に目を留める。
その本だけは他のものと違って、完全な手書きの文字だったのだ。
もちろん読めないことは一緒なわけで、その点では他の本と大した変わりはないのだけれど。
――中に書き込まれていた文字の筆跡は、どこか見覚えがあるような気がした。
ページをぱらぱらと手繰ってみれば、あるページを境に完全な白紙が続いている。
――もしかして、と私はさっきアシュレイさんが書いた見本の文字を確かめた。
「……似てる」
思わず口に出してしまうくらいその筆跡は似通っていた。
内容はちっとも読めないが、ここまで来たらこの本が何かくらいは容易に知れる。
これはつまり、アシュレイさんの日記だ。
私は思わずまじまじと紙面に目を走らせる。
これは盗み見というやつなのではないか。さすがに良くない気がする。いや、そもそも一文もわからないのだけれど。
でも、もし文字が読めるようになったらこの日記も読めるようになるわけで――何かとてもよくない動機が私の中に発生しているような気がする。
私はアシュレイさんの日記と辞書との間で視線を交互に往復させ、
「……あっ」
――じゅう、と鍋の底から発生した音で我に返った。
私は慌てて柄杓で鍋をかき混ぜ、表面に浮いてきた灰汁をすくい取る作業に集中する。
その時、不意に外から妙な物音が聞こえた。
「……?」
話し声。何人かの足音。
部屋の中からはいまいちよく聞こえない。
私は耳を澄ませ、一度暖炉の火から鍋を下ろす。
壁に耳をつけながら玄関口の方に近づいていくと、声音が次第にはっきりする。
そのうちひとつは大家さんの声だった。
「待ってくださいッ!! あなたたち、どういうつもりです!?」
「黙れ。おまえがうちのガキを匿っていることはわかっているんだ」
「匿ってるって、それはどういう――」
「邪魔をするつもりなら容赦はしないぞ。アルファーノに楯突くか?」
――――ぞ、と背筋が戦慄が走る。
寒気が走り、全身が止めどなく震える。
大家さんと話していたのは、あまりに堪えがたい声。
聞き覚えのある声――二度と聞きたくはなかった声。
「で、ですがッ!! うちで勝手な真似は――」
「二度は言わせるな!!」
ごっ、と鈍い打撃音が響く。短い悲鳴の後、人ひとりが床にどさっと倒れる。
やめて。
だめだ。
この音は、いやだ。
もう、あんなのは――
「……ッ!!」
瞬間、私は信じられないものを見た。
目の前の扉から〝ぬるり〟と剣先が生えたのだ。
刃はそのまま縦に滑らされる。
真っ二つになり、使い物にならなくなった扉は部屋の中に倒れ込んだ。
「ぁ、あ……!」
前か後ろか。
部屋の入口は、ひとりの男が塞いでいた。
赤髪の、全身を黒衣に包んだ男の人。
片手には細剣を持っている。
そして、彼の隣には――あの男が、いた。
私はほとんど反射的に部屋の中へ逃げ込む。
袋小路とわかっているはずなのに。
なんの意味もないのに。
私はすぐに部屋の隅っこに突き当たり、がむしゃらにテーブルの上のペンを掴み、滑らせた。
「逃げるに及ばず」
その瞬間聞こえたのは、信じられないほど冷たい声。
感情の色が一切うかがえない言葉のあと、私の首のすぐ横を細い剣が走っていく。
震える手から、ペンが落ちる。
「……ッ、ぁ……あ……ッ」
黒衣の男の人が私の目の前にいた。
どこかで見たことがあるような。
どこにでも見かけられるような希薄な存在感。
彼は私の腕を掴み、壁に突き立っていた剣を引く。
「逃げるべからず、声を上げるべからず、暴れるべからず――是非には及ばず」
黒衣の男がすぐそばから囁きかける。
私の一切の意思表示を封じ込めるかのよう。
どうしようもなかった。
彼は強引に腕を引っ張り、私を部屋の中から引きずり出した。
「……ぁ、あ……」
「急げ、クロウさん。奴がいつ戻ってこないとも限らん」
「焦るに及ばず――この娘に違えなしか」
クロウ、と呼ばれた黒衣の男に突き出される。
私の目の前には――頬の痣もあらわに倒れている大家さんと、あの男がいる。
男は私の顔を覗きこむように瞳を細め、言った。
「探したぞ」
びくり、と無意識に肩が跳ねる。
身体の震えが止まらない。
「この指を見ろ」
男が右手を突き出す。
その手のひらは小指が欠けていた。
「これが俺の払った代償だ。おまえが逃げたために、その代償を俺が払うことになったんだ。わかるか?」
男の顔には青筋が走っている。
声色は静かなのに、押さえきれない怒りが滲み出しているようだった。
「全て!! 全ておまえのせいだ、奴隷の分際で!! ――――わかっているのか!!」
男が拳を振り上げる。
身体が無意識にこわばる。
何度見たかもわからない光景。
私は無意識に目をつむり――ひゅん、という風の音がした。
「……ッ……?」
来るかと思っていた衝撃は訪れなかった。
私はおそるおそる目を開き、眼前に輝く刃を見る。
「クロウ、なぜ邪魔をする!! これは躾だッ!!」
「それには及ばず」
「なぜだ!?」
「この娘はすでに貴様のものにあらず」
「ぐッ……!!」
あの男と私の間には、クロウの剣があった。
男は歯噛みしながら、遮られた拳をゆっくりと下ろす。
「……連れて行くぞッ!!」
「是非に及ばず」
クロウは再び私の腕をしっかりと掴む。
助けてくれた――わけではないだろう。
ふたりの関係はだいたい把握できた。
クロウはこの男の部下ではなく、たぶん、この男より上の人間の配下なのだ。
そう、おそらくはカルロ・アルファーノの。
「クレアさんッ……!!」
大家さんが身を起こしかける。
私は無理やり腕を引かれながら振り返った。
「……大家さん、私は……大丈夫、です」
「そんな、何をッ……!」
「……助けてくれます、から。きっと――」
「無駄口を叩くなッ!!」
あの男の大声が私の声を遮る。
怒鳴られるのは、いやだった。
無意識に身体がすくんで、力が入らなくなってしまう。
私はなすすべなく前に向き直らされ、無理やり腕を引かれていく。
「……私は、どこへ……?」
「知るには及ばず」
そう尋ねた直後だった。
あっと声を上げる間もなく私の身体はクロウの手によって馬車に放り込まれる。
まるで計っていたような周到さ。アシュレイさんをいない時を狙ってのこと、と嫌でも思い知る。
「ただで済むと思うな。おまえには死も生温い地獄を味わうことになるんだ」
あの男の声。
無意識に息が切羽詰まる。胸が苦しくなる。一瞬たりともこの場にいたくない。
両脇をふたりに固められ、馬車はほどなくして走り出した。
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