ひとりよがりの勇者
第三話 全てを失って
頭に響く鋭い痛みによってエリアスは目を覚ました。意識は覚醒し始めたものの、身体は重たく、意識はおぼつかない。視界はグラグラと揺れ続け、分かるのは自分が倒れていることだけ。
少しずつ体を起こそうとするが、それにさえ苦労していた。
時間をかけ、体調が少しは改善したことを自覚すると、何とか立ち上がり顔にかかった長い髪を払い除ける。払い除け──
「何だこ……え?」
その行為に大きすぎる違和感を覚えて、エリアスは思わず声を出す。その声色まで普段のものと違い、覚醒したばかりの脳みそが早くもショートしかけていた。
第一に、エリアスの髪は短く前髪でさえも顔にかかる訳が無い。声質だって一般的な男性の低さだ。そのはずなのに、青い髪は視界を覆っており、今出したばかりの声は女性と間違えるほどに高かった。
許容量を超え、停止寸前の頭は状況をまるで把握できない。もっとも例え調子が良くても今の状況をすんなり飲み込めるとは思えなかった。
半狂乱になりかけつつも慌てて他の異常を探す。筋肉で引き締まっていた腕は見るからに貧弱で細くなっており、下半身へその腕を降ろしてみれば、同じく自分のものとは思えない柔らかな太ももの感覚が伝わってくる。
思えば目線も明らかに低くなっていた。身体が一回り、二回り縮んでしまったようであり、世界が大きく見えるのは決して気のせいではないだろう。
思わず叫び散らしたい衝動に襲われるが、何とか押し込めて一度深呼吸する。
「どうなってるんだ……子供にでも戻ったのか?」
今の状況からそれらしき事実を推測する。髪がどうして長くなっているのか。それだけは説明できないものの、大半のことは納得できる。
──その時、思考を続けながら腕を組んだのは、ただの癖のようなものだった。混乱を少しでも落ち着かせるために、そわそわしていたというのもあっただろう。そんな特に理由もない無意識の内の行動だ。
だが、そんなことなど今はどうでもよい。重要なのは組んだ腕と触れていた部分。胸の辺りから柔らかな弾力が伝わってきたことである。
「…………」
先ほどは鈍るだけで済んでいた思考が、今度こそ完全に停止する。たっぷり一分ほどかけて再起動を果たしたエリアスは、組んでいた腕を解き、今度は手のひらで胸に手を当ててみた。
特段大きくはないが、確かに存在を主張する胸の膨らみが、細くなってしまった指から感じられた。
息を呑み、一度目を瞑る。そして覚悟を決めると目を開き、恐る恐る身体を見下ろしてみた。
いつの間にか服はボロボロな布切れに変わっており、胸の辺りが何やら盛り上がっている。
手をそこからさらに下半身へと這わせて、足の付け根付近に軽く触れた。そして、そこにあるはずのものを確かめようとして──空しく指は宙を切る。
「は、ははは……ふざけるんじゃねえ!! 一体あのジジィ、何をしやがった!?」
怒りの雄たけびに答える者は、誰もいなかった。
☆ ☆ ☆ ☆
謎の男から襲撃を受け、目を覚ましたら性別が入れ替わっていた。端的にまとめればそういうことだが、言葉にしてみても中々訳が分からない。
「とにかく、あのジジィを見つけて問いただしてやる……!」
あれほどあった膨大な量の魔力はどこにも感じられず、何者にも屈しなかった強靭な肉体は貧弱な少女のものになり、そして何よりも、
「クソッタレ……!!」
右肩を左手で掴みながら悪態を付く。その手の下に刻まれていたはずの刻印が、今は跡形も無く消え去っていた。
『勇者』の身体には、それぞれ場所は違うが不思議な形をした刻印が存在する。生まれた時には無いのだが、『勇者』として覚醒したときに現れるのだ。
エリアスの場合は右肩に一対の翼のような形の刻印だった。しかし、その刻印も体の変化と共に消え去ってしまっている。
それはエリアスが超人である『勇者』から、只人に落とされたことを意味していた。
どれもこれもあの初老の男性の仕業であることは明白であり、元に戻る方法もきっと彼が知っているはずだ。
『勇者』の力は絶対に取り戻さなくてはならなかった。だって、それが無くてはエリアスはエリアスで無くなってしまう。『勇者』として、不幸しか生み出さない悪魔の種族、魔族を駆逐することだけがエリアスの生きる意味なのだから。
「それでここは……どこなんだ?」
壁に背を預け、胡坐をかきながら辺りを見渡す。うす暗いこの場所は、どうやら建物と建物の間の裏路地のようで、左右に道が続いていた。左へ顔を振り向けば、大きく広い道に多くの人々が活発に動いているのが見え、逆に右を向いても、どんどん細くなっていくうす暗い道が続くだけだ。
「どっかの都市……そういや、あのジジィが王都に連れていくとか言ってたような」
地獄のような苦しみに襲われている最中だったため、記憶はぼんやりとしているが、確かにそう言っていたはず。どうして王都まで運んだのか。分からないが、今は考える必要は無いだろう。
「王都なら都合がいい。情報局に行ってみるか」
左の大通りへ出る道を選び、歩きながらこの後の方針を立てる。目的地は王国直属の情報機関だ。国内外問わず、様々な情報が集められている施設であり、一般人は立ち入りを禁止されているものの『勇者』には特権で利用する許可が下りていた。
そもそも都市へ入ること自体を制限されていたエリアスは二回しか利用したことが無いが、一生かけても読み切れないような量の資料があったことはとても印象的。そこならあの男性の手掛かりも見つかるかもしれない。
「道はうろ覚えだけど、まあ何とかなるだろ」
そう呟きながら路地裏から大通りへ、足を踏み入れて、
「────」
見たことの無いような風景が広がっていた。大量の人間が忙しなく行き交い、そこら中から活気の良い声が響く。戦時下とはとても思えない、繁栄がそこには広がっていた。
こうして王都の日常の風景を見るのは、これが初めてだ。軍隊としてなら大勢の人間はいくらでも見てきたが、都市の活気と冷徹な兵士では感じるものはいくらでも違う。
「……そうか。異能も消えてるから誰も逃げないのか」
エリアスの『勇者』としての異能は『魔力掌握』。ただそこにいるだけで周囲の魔力はエリアスへ集い、付き従う。ただし、ある程度まで抑えることはできても、完全に止めることは不可能であり、さらには敵味方の区別もつかない不便な異能であった。
その力ゆえに、都市へ入ることを制限され、『勇者』を讃えるパレードでも他の『勇者』と違って畏れの視線を向けられていた。だが、今はその異能もエリアスの身体には存在しない。
「っち。そんなこと考えている暇はないだろ……!」
らしくないことを考えてしまった。どうせ力を取り戻せば、元通りになることだ。周りが騒がなくて楽とだけ思っておけばよい。
口ではそう言いつつも、王都の人混みに紛れていく元青年の少女の後ろ姿は、どこか落ち着きがないものだったが。
☆ ☆ ☆ ☆
それから三十分ほど歩いた先で、エリアスは巨大な施設の前に立っていた。身体が小さくなってしまったこともあり、より大きく見える建造物。それこそが目的地である王国情報局だ。
現代の魔法技術に加えて古代魔法帝国の遺産をも利用した施設である。以前、訪れた際に施設の役員が自慢げに長々と話していたのを覚えている。限界まで異能を抑えていたとはいえ、エリアスの傍に特に鍛えてもいない人間が数時間も平気な顔でいたのは驚きだった。
ちなみに、その会話の内容は最初の五分ほどしか記憶にない。
重要な施設らしく深い堀と高い壁に囲まれ、大勢の兵士が巡回している。門も正面の一か所にしかなく、下手な都市よりも防護が高そうだった。
その施設の真正面の門へ、エリアスは堂々と歩いていき──道を兵士の持つ槍に阻まれる。前回は顔パスで通れたはずだ。なぜ、という疑問と苛立ちとが同時に湧き上がり目の前にいる若い兵士を睨み付けた。
「何だよ?」
「お嬢ちゃん。悪いが、ここには一般人は立ち入り禁止なんだ。知らないかもしれないけど、たくさんの大事なものが仕舞ってあってね」
「分かってる。こんな姿になっちまってるけど、俺は『勇者』エリアスだ。通れるはずだろ?」
エリアスがそう言い切ると、兵士はポカンと効果音が鳴りそうな間の抜けた表情になる。それからエリアスのことをまじまじと見つめてから、
「さすがにもうちょっとうまい嘘を考えてきたほうがいい。『勇者』殿の中に君みたいな少女はいないよ。まあ、目と髪の色が“狂戦士”殿と同じぐらいだね」
微笑ましいものを見るように苦笑する。その態度がエリアスには気に食わなかった。エリアスは『勇者』エリアスだ。それは間違いない。
本人がそう言っているのだから、決まっているではないか。そう考えているのが顔に出ていたのか、兵士は一度ため息を付くとエリアスの右肩を指差す。
「君が本当に『勇者』殿だと言うのなら、“聖器”を見せてくれないと。『勇者』殿なら全員が個別に授かっているはずだろう?」
「だから、それも今は無くなっちまってるんだ! 意味分かんねえ男に襲われて、気が付いたらこんな身体にされてな!! 荷物も全部、どっかいっちまった!!」
確かに今のエリアスは元の姿からは、とても想像の付かない少女のそれだ。それは分かっている。分かっているが、どうして事情を話しても理解してくれないのか。
どんどん膨れ上がっていく苛立ちに任せて叫び散らし、槍を押し退けて強引に前へ進もうとする。しかし、いくら押しても槍はビクともしなかった。
本当なら量産品の武器など素手で握りつぶせるのに。しかし、今の少女の身体にはそのような力など備わっていない。自分はどれだけ非力になってしまったのか。
「やめてくれないか。これ以上されると、俺も仕事をしないといけなく……」
「うるせえ!!」
限界まで溜め込んだ苛立ちにエリアスの低い沸点は耐え切れなかった。槍を退けるのを諦め、軽く跳躍すると兵士の顔面へ拳を叩きつける。いくら非力になってもエリアスは十年間、戦争の最前線にいたのだ。
どう腕を振れば効率良く人を殴れるのか熟知していた。
まさか攻撃されると思っていなかったのか、兵士は勢いそのままに背中から倒れる。周囲の兵士が騒ぎに気付き、こちらへ駆け寄ってくるが知るものか。
なけなしの魔力を振り絞り、両足に集中。その強化された脚力で門を飛び越えようと、
「そこの兵士も言っていただろう。我々に、子供を殴らせないで欲しかったのだが」
うなじに重たい衝撃が加わって思わずその場で倒れ伏した。脳が揺れ焦点を合わせられない。
揺れる世界で、どうにか見上げればエリアスの傍へ、中年の兵士が佇んでいた。
「た、隊長殿……!? お手を煩わせてしまい申し訳ありません!」
「いいや、まだ大事には辛うじてなっていない。構わんよ。ただ、このような少女に殴り倒されるとは情けない。もっと修練に励むように。今は私に任せておけ」
「は! 失礼します」
エリアスに殴られた兵士は中年の兵士にそう言われると、敬礼し慌ててこの場を離れていく。それをため息で送り返してから、中年の兵士はエリアスを見下ろして、
「これも職務なのでな」
「ぐぁ──!?」
容赦無くエリアスの横腹へ蹴りを入れた。胃液と肺の空気をまとめて吐き出す羽目になり、苦悶の声を上げながら軽い身体は転がっていくと、何度か跳ねてからようやく止まる。
(どいつもこいつもふざけやがって……!!)
しかし、やろうと思えば中年の兵士は意識を刈り取ることだってできたはずだ。それなのに、こうしてエリアスは意識を保っている。つまり、手加減をされたということだ。
『勇者』であるエリアスが、手加減された状態で地面を舐めさせられている。それがどれだけ侮辱なのか、エリアスにしか分かるまい。
中年の兵士は転がっていたエリアスに歩いて近づくと、顔の近くへ屈んで目線を合わせる。その構図は、奇しくもエリアスが力を奪われたときと似ていた。
何とか一矢報いてやろうとするが、強い衝撃でふらつく身体が動かない。それでも目の前にある仏頂面をにらみ続ける。
「……悪いことはしたよ。だが、君の為なんだ。分かってくれ」
しかし、中年の兵士は予想外の行動に出た。小さくエリアスにしか聞こえない声量で言うと右手に何かを押し付けてくる。反射的にそれを受け取ってしまい、手の中を確認してみるとそこには数枚の銀貨があった。
意味が分からず、唖然とした顔のまま中年の兵士を見上げる。その視線を無視して彼は立ち上がると、
「情報局への侵入は未遂。今の蹴りで処罰は十分だ」
「し、しかし隊長殿。未遂とはいえ王国の要所への侵入は……」
「私が直接報告書を提出する。それで良いだろう。……これも偽善なのだろうがな」
最後の部分は誰にも聞こえなかっただろう。ただ、その顔を正面から捉えていたエリアスだけが、口の動きで何とか理解できた。
その眼が、さっさと行けと語っているような気がして、エリアスは震える足で立ち上がると、情報局を後にする。
(何なんだよ。どいつもこいつも意味が分からねえ……!)
その背中を見なくなるまで眼で追いかけていた中年の兵士の表情が、どこか憂いに満ちていたことをエリアスは知らなかった。
少しずつ体を起こそうとするが、それにさえ苦労していた。
時間をかけ、体調が少しは改善したことを自覚すると、何とか立ち上がり顔にかかった長い髪を払い除ける。払い除け──
「何だこ……え?」
その行為に大きすぎる違和感を覚えて、エリアスは思わず声を出す。その声色まで普段のものと違い、覚醒したばかりの脳みそが早くもショートしかけていた。
第一に、エリアスの髪は短く前髪でさえも顔にかかる訳が無い。声質だって一般的な男性の低さだ。そのはずなのに、青い髪は視界を覆っており、今出したばかりの声は女性と間違えるほどに高かった。
許容量を超え、停止寸前の頭は状況をまるで把握できない。もっとも例え調子が良くても今の状況をすんなり飲み込めるとは思えなかった。
半狂乱になりかけつつも慌てて他の異常を探す。筋肉で引き締まっていた腕は見るからに貧弱で細くなっており、下半身へその腕を降ろしてみれば、同じく自分のものとは思えない柔らかな太ももの感覚が伝わってくる。
思えば目線も明らかに低くなっていた。身体が一回り、二回り縮んでしまったようであり、世界が大きく見えるのは決して気のせいではないだろう。
思わず叫び散らしたい衝動に襲われるが、何とか押し込めて一度深呼吸する。
「どうなってるんだ……子供にでも戻ったのか?」
今の状況からそれらしき事実を推測する。髪がどうして長くなっているのか。それだけは説明できないものの、大半のことは納得できる。
──その時、思考を続けながら腕を組んだのは、ただの癖のようなものだった。混乱を少しでも落ち着かせるために、そわそわしていたというのもあっただろう。そんな特に理由もない無意識の内の行動だ。
だが、そんなことなど今はどうでもよい。重要なのは組んだ腕と触れていた部分。胸の辺りから柔らかな弾力が伝わってきたことである。
「…………」
先ほどは鈍るだけで済んでいた思考が、今度こそ完全に停止する。たっぷり一分ほどかけて再起動を果たしたエリアスは、組んでいた腕を解き、今度は手のひらで胸に手を当ててみた。
特段大きくはないが、確かに存在を主張する胸の膨らみが、細くなってしまった指から感じられた。
息を呑み、一度目を瞑る。そして覚悟を決めると目を開き、恐る恐る身体を見下ろしてみた。
いつの間にか服はボロボロな布切れに変わっており、胸の辺りが何やら盛り上がっている。
手をそこからさらに下半身へと這わせて、足の付け根付近に軽く触れた。そして、そこにあるはずのものを確かめようとして──空しく指は宙を切る。
「は、ははは……ふざけるんじゃねえ!! 一体あのジジィ、何をしやがった!?」
怒りの雄たけびに答える者は、誰もいなかった。
☆ ☆ ☆ ☆
謎の男から襲撃を受け、目を覚ましたら性別が入れ替わっていた。端的にまとめればそういうことだが、言葉にしてみても中々訳が分からない。
「とにかく、あのジジィを見つけて問いただしてやる……!」
あれほどあった膨大な量の魔力はどこにも感じられず、何者にも屈しなかった強靭な肉体は貧弱な少女のものになり、そして何よりも、
「クソッタレ……!!」
右肩を左手で掴みながら悪態を付く。その手の下に刻まれていたはずの刻印が、今は跡形も無く消え去っていた。
『勇者』の身体には、それぞれ場所は違うが不思議な形をした刻印が存在する。生まれた時には無いのだが、『勇者』として覚醒したときに現れるのだ。
エリアスの場合は右肩に一対の翼のような形の刻印だった。しかし、その刻印も体の変化と共に消え去ってしまっている。
それはエリアスが超人である『勇者』から、只人に落とされたことを意味していた。
どれもこれもあの初老の男性の仕業であることは明白であり、元に戻る方法もきっと彼が知っているはずだ。
『勇者』の力は絶対に取り戻さなくてはならなかった。だって、それが無くてはエリアスはエリアスで無くなってしまう。『勇者』として、不幸しか生み出さない悪魔の種族、魔族を駆逐することだけがエリアスの生きる意味なのだから。
「それでここは……どこなんだ?」
壁に背を預け、胡坐をかきながら辺りを見渡す。うす暗いこの場所は、どうやら建物と建物の間の裏路地のようで、左右に道が続いていた。左へ顔を振り向けば、大きく広い道に多くの人々が活発に動いているのが見え、逆に右を向いても、どんどん細くなっていくうす暗い道が続くだけだ。
「どっかの都市……そういや、あのジジィが王都に連れていくとか言ってたような」
地獄のような苦しみに襲われている最中だったため、記憶はぼんやりとしているが、確かにそう言っていたはず。どうして王都まで運んだのか。分からないが、今は考える必要は無いだろう。
「王都なら都合がいい。情報局に行ってみるか」
左の大通りへ出る道を選び、歩きながらこの後の方針を立てる。目的地は王国直属の情報機関だ。国内外問わず、様々な情報が集められている施設であり、一般人は立ち入りを禁止されているものの『勇者』には特権で利用する許可が下りていた。
そもそも都市へ入ること自体を制限されていたエリアスは二回しか利用したことが無いが、一生かけても読み切れないような量の資料があったことはとても印象的。そこならあの男性の手掛かりも見つかるかもしれない。
「道はうろ覚えだけど、まあ何とかなるだろ」
そう呟きながら路地裏から大通りへ、足を踏み入れて、
「────」
見たことの無いような風景が広がっていた。大量の人間が忙しなく行き交い、そこら中から活気の良い声が響く。戦時下とはとても思えない、繁栄がそこには広がっていた。
こうして王都の日常の風景を見るのは、これが初めてだ。軍隊としてなら大勢の人間はいくらでも見てきたが、都市の活気と冷徹な兵士では感じるものはいくらでも違う。
「……そうか。異能も消えてるから誰も逃げないのか」
エリアスの『勇者』としての異能は『魔力掌握』。ただそこにいるだけで周囲の魔力はエリアスへ集い、付き従う。ただし、ある程度まで抑えることはできても、完全に止めることは不可能であり、さらには敵味方の区別もつかない不便な異能であった。
その力ゆえに、都市へ入ることを制限され、『勇者』を讃えるパレードでも他の『勇者』と違って畏れの視線を向けられていた。だが、今はその異能もエリアスの身体には存在しない。
「っち。そんなこと考えている暇はないだろ……!」
らしくないことを考えてしまった。どうせ力を取り戻せば、元通りになることだ。周りが騒がなくて楽とだけ思っておけばよい。
口ではそう言いつつも、王都の人混みに紛れていく元青年の少女の後ろ姿は、どこか落ち着きがないものだったが。
☆ ☆ ☆ ☆
それから三十分ほど歩いた先で、エリアスは巨大な施設の前に立っていた。身体が小さくなってしまったこともあり、より大きく見える建造物。それこそが目的地である王国情報局だ。
現代の魔法技術に加えて古代魔法帝国の遺産をも利用した施設である。以前、訪れた際に施設の役員が自慢げに長々と話していたのを覚えている。限界まで異能を抑えていたとはいえ、エリアスの傍に特に鍛えてもいない人間が数時間も平気な顔でいたのは驚きだった。
ちなみに、その会話の内容は最初の五分ほどしか記憶にない。
重要な施設らしく深い堀と高い壁に囲まれ、大勢の兵士が巡回している。門も正面の一か所にしかなく、下手な都市よりも防護が高そうだった。
その施設の真正面の門へ、エリアスは堂々と歩いていき──道を兵士の持つ槍に阻まれる。前回は顔パスで通れたはずだ。なぜ、という疑問と苛立ちとが同時に湧き上がり目の前にいる若い兵士を睨み付けた。
「何だよ?」
「お嬢ちゃん。悪いが、ここには一般人は立ち入り禁止なんだ。知らないかもしれないけど、たくさんの大事なものが仕舞ってあってね」
「分かってる。こんな姿になっちまってるけど、俺は『勇者』エリアスだ。通れるはずだろ?」
エリアスがそう言い切ると、兵士はポカンと効果音が鳴りそうな間の抜けた表情になる。それからエリアスのことをまじまじと見つめてから、
「さすがにもうちょっとうまい嘘を考えてきたほうがいい。『勇者』殿の中に君みたいな少女はいないよ。まあ、目と髪の色が“狂戦士”殿と同じぐらいだね」
微笑ましいものを見るように苦笑する。その態度がエリアスには気に食わなかった。エリアスは『勇者』エリアスだ。それは間違いない。
本人がそう言っているのだから、決まっているではないか。そう考えているのが顔に出ていたのか、兵士は一度ため息を付くとエリアスの右肩を指差す。
「君が本当に『勇者』殿だと言うのなら、“聖器”を見せてくれないと。『勇者』殿なら全員が個別に授かっているはずだろう?」
「だから、それも今は無くなっちまってるんだ! 意味分かんねえ男に襲われて、気が付いたらこんな身体にされてな!! 荷物も全部、どっかいっちまった!!」
確かに今のエリアスは元の姿からは、とても想像の付かない少女のそれだ。それは分かっている。分かっているが、どうして事情を話しても理解してくれないのか。
どんどん膨れ上がっていく苛立ちに任せて叫び散らし、槍を押し退けて強引に前へ進もうとする。しかし、いくら押しても槍はビクともしなかった。
本当なら量産品の武器など素手で握りつぶせるのに。しかし、今の少女の身体にはそのような力など備わっていない。自分はどれだけ非力になってしまったのか。
「やめてくれないか。これ以上されると、俺も仕事をしないといけなく……」
「うるせえ!!」
限界まで溜め込んだ苛立ちにエリアスの低い沸点は耐え切れなかった。槍を退けるのを諦め、軽く跳躍すると兵士の顔面へ拳を叩きつける。いくら非力になってもエリアスは十年間、戦争の最前線にいたのだ。
どう腕を振れば効率良く人を殴れるのか熟知していた。
まさか攻撃されると思っていなかったのか、兵士は勢いそのままに背中から倒れる。周囲の兵士が騒ぎに気付き、こちらへ駆け寄ってくるが知るものか。
なけなしの魔力を振り絞り、両足に集中。その強化された脚力で門を飛び越えようと、
「そこの兵士も言っていただろう。我々に、子供を殴らせないで欲しかったのだが」
うなじに重たい衝撃が加わって思わずその場で倒れ伏した。脳が揺れ焦点を合わせられない。
揺れる世界で、どうにか見上げればエリアスの傍へ、中年の兵士が佇んでいた。
「た、隊長殿……!? お手を煩わせてしまい申し訳ありません!」
「いいや、まだ大事には辛うじてなっていない。構わんよ。ただ、このような少女に殴り倒されるとは情けない。もっと修練に励むように。今は私に任せておけ」
「は! 失礼します」
エリアスに殴られた兵士は中年の兵士にそう言われると、敬礼し慌ててこの場を離れていく。それをため息で送り返してから、中年の兵士はエリアスを見下ろして、
「これも職務なのでな」
「ぐぁ──!?」
容赦無くエリアスの横腹へ蹴りを入れた。胃液と肺の空気をまとめて吐き出す羽目になり、苦悶の声を上げながら軽い身体は転がっていくと、何度か跳ねてからようやく止まる。
(どいつもこいつもふざけやがって……!!)
しかし、やろうと思えば中年の兵士は意識を刈り取ることだってできたはずだ。それなのに、こうしてエリアスは意識を保っている。つまり、手加減をされたということだ。
『勇者』であるエリアスが、手加減された状態で地面を舐めさせられている。それがどれだけ侮辱なのか、エリアスにしか分かるまい。
中年の兵士は転がっていたエリアスに歩いて近づくと、顔の近くへ屈んで目線を合わせる。その構図は、奇しくもエリアスが力を奪われたときと似ていた。
何とか一矢報いてやろうとするが、強い衝撃でふらつく身体が動かない。それでも目の前にある仏頂面をにらみ続ける。
「……悪いことはしたよ。だが、君の為なんだ。分かってくれ」
しかし、中年の兵士は予想外の行動に出た。小さくエリアスにしか聞こえない声量で言うと右手に何かを押し付けてくる。反射的にそれを受け取ってしまい、手の中を確認してみるとそこには数枚の銀貨があった。
意味が分からず、唖然とした顔のまま中年の兵士を見上げる。その視線を無視して彼は立ち上がると、
「情報局への侵入は未遂。今の蹴りで処罰は十分だ」
「し、しかし隊長殿。未遂とはいえ王国の要所への侵入は……」
「私が直接報告書を提出する。それで良いだろう。……これも偽善なのだろうがな」
最後の部分は誰にも聞こえなかっただろう。ただ、その顔を正面から捉えていたエリアスだけが、口の動きで何とか理解できた。
その眼が、さっさと行けと語っているような気がして、エリアスは震える足で立ち上がると、情報局を後にする。
(何なんだよ。どいつもこいつも意味が分からねえ……!)
その背中を見なくなるまで眼で追いかけていた中年の兵士の表情が、どこか憂いに満ちていたことをエリアスは知らなかった。
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