剣豪幼女と十三の呪い
二/疑心
シャロン・アースワーズが十二使徒――――
にわかには信じがたい話であった。邪気のかけらもうかがえないあの娘が、呪術の一門に連なる末裔であろうとは。
そう考えたところでカイネはクラリーネを見つめる。
彼女もまた罪がないとはいえないが、十二使徒の末裔でありながら根は善良な少女であった。クラリーネという前例があるならば、シャロンもまた因業に絡め取られていないとも限らない。
「……証拠もなしに言っておるわけではなかろう?」
「うん。写本を持ってきている」
「どういう経緯で名が出ておるのだ」
「家ぐるみの交流があった。百年くらい前を最後に途切れているけど」
「同じ姓、なんてことはなかろうな?」
「二百年以上続いてて、地理的にもぴったり合う。そんなアースワーズは他にない」
「……左様か」
カイネは口元に手を当て、ふとクラリーネを一瞥する。
彼女の目は一心にカイネを見つめていた。瞳の表面が水面のように揺れている。
(気にかけてくれておるのだな)
カイネはふっと笑みをほころばせ、言った。
「案ずるな。おまえさんはおまえさんで学業に励むがよかろ――」
「シャロン・アースワーズはカイネさんにことさら近づこうとしている。友好的に見せかけているのもそのため。何か目的を隠している。彼女に近づいてはいけない」
「……では、シャロンはおまえさんに何かおかしなことでもしおったかの?」
矢継ぎ早に言いつのるクラリーネをなだめるように言うと、彼女は表情のない顔をかすかにこわばらせた。
「……色々と聞かれた。どこで、どうやってカイネさんと知り合ったかとか」
「おまえさんのことが気になるのであろう。なにかおかしいか」
「カイネさと同室なのがうらやましいと」
「懐かしいのではないかの。以前はあやつと同じ部屋に寝泊まりしておったから」
「えっ」
クラリーネの瞳がきょとんと丸く見開かれる。カイネはなんでもないことのように頷く。
「かれこれ一月は同室だったが、特に何もなかったぞ。なにか目的があるとすれば、その時に果たすのが絶好の機会だったとは思わんか?」
「…………でも」
クラリーネはうつむき、納得できないように制服のスカートの裾をもてあそぶ。
同類と意識してしまったからには無理からぬか。
その時カイネはふと、ネレムから聞いた話を思い出す。
(『……事情は長くなるから割愛するけど、シャロンはアースワーズ家の相続権第一位。でも、そのせいで何度か暗殺未遂に遭っている。ここに入学したのは彼女の身の安全のためでもある……』)
――面倒事の臭いがした。
そしてカイネはクラリーネの臨時保護者として、彼女を面倒事に巻き込みたくはなかった。
「相分かった。クラリーネよ、ひとつ頼みがあるのだが」
「……なに?」
クラリーネはばっと顔を上げてカイネをまっすぐに見つめる。
「おまえさんはシャロンのそばにおってくれ。無理はせぬでよいぞ、今まで通り普通でいい。それでもし、もしも妙なことがあったらおれに知らせてほしい。探りを入れるような真似はせんでよいし、おれのことなんぞいくらでも話してくれてよい――頼めるかえ?」
「……わかった。励みます」
クラリーネは心なしか瞳を輝かせて頷く。
無論、頼みとは方便だった。クラリーネにこう言うことでシャロンを警戒しているよう装いつつ、彼女自身はシャロンと長い時間をともにして交友関係を築いてくれれば良い。
シャロン自身を警戒するべきか否かは別にして、アースワーズ家本体に探りを入れるべきなのは確かだろう。そこはカイネが片付ければいい。年端もいかない少女に気をもませることではない。
カイネは自室の柱時計にふと目を向け、言った。
「話はそれだけかの? ――そろそろ入浴時間か、行っといで」
「いっしょに行こ」
「おれが女子と入れるわけがなかろうが」
「……なら、がんばって偵察してきます」
「そんな張り切らんでよいから」
カイネは着替えを持ったクラリーネを部屋の外に送り出す。と、廊下の向こう側――階段の踊り場でシャロン、ネレムの両名と合流する様子が見えた。
カイネは室内に取って返し、クラリーネが持ち出したというルーンシュタットの記録を確かめに行く。
(……シャロンが相続権第一位、となると暗殺を命じたのは他に相続権を持つ親族であろうが……素直に考えれば現当主が十二使徒か? ……誰の手引きで入学したかも定かでなし。まずはそこを調べねばな)
***
――いくら同じ女といっても、人前で素っ裸を晒すなんてどうかしている。
クラリーネは鼻の下まで湯面に身を沈めながら洗面場を眺める。視線の先には十、いや二十は下らぬであろう女学生の裸身がひしめき合い、かしましい声を上げている。
田舎育ちが板についているクラリーネは、この大浴場という文化に極めて不慣れであった。
「洗っている途中になに寝てるでありますか!? ネレム、ネレム起きるであります……!」
「zzzz......」
クラリーネは浴槽の中から目を右往左往させた挙句、彼女たちへと視線を戻す。
シャロン・アースワーズ。ネレム・ネムリス。
ここ数日観察した限りシャロンは交友関係が広範に渡るようだが、とりわけネレムとは親しかった。寮の部屋が同じと聞いた時はいたく納得したものである――まさかその部屋にカイネがまぎれこんでいたことがあったとは夢にも思わなかったが。
「あーこら、またもたれかかって……ちょっと重くなったでありますか?」
「……気のせい」
「起きてるならちゃんと起きるであります……!」
鏡台の前に腰を下ろしたネレムの頭を後ろからわしゃわしゃと洗ってやるシャロン。薄紫色の短い髪が泡にまみれていく。シャロン自身の髪は洗った後なのか、いつもはポニーテールに結い上げるプラチナ・ブロンドの髪を背中に下ろしている。
この光景だけを見れば世話焼きな姉と世話のかかる妹といった風情だが、学業成績はネレムの方がやや良いという話であるから人は見かけではわからない。
そう、人は見かけではわからないものだ。例えシャロンがどれほど明るく面倒見が良くてお人好しに見えても、彼女は〝アースワーズ〟に連なる血筋なのだ――
「リーネ、リーネは洗ったでありますかー?」
シャロンはネレムの髪についた泡を洗い流しながら振り返り、どこかへ親しげに呼びかける。
リーネとはまた誰か親しい友人の名であろうか。クラリーネはシャロンの視線を追いかけるように周りをぐるりと見渡す。
「リーネ、聞いてるでありますか。聞こえてるでありますー?」
かしましい浴場内にも彼女の朗々とした声はよく響く。
クラリーネはあてどなく視線をさまよわせるが、シャロンが呼んでいる相手と思しき人影は見当たらない。
シャロンはとうとう立ち上がり、浴槽のそばまで歩み、クラリーネの目の前で足を止めた。
「大丈夫でありますか、リーネ。のぼせてしまったでありますか?」
シャロンはその場で腰をかがめ、クラリーネの顔をまじまじと覗き込む。
「…………私?」
「他に誰がいるでありますか」
「わかるわけないです」
「だって、毎回毎回クラリーネと呼ぶには少し長い気がするのであります」
「勝手に変えないで」
「うーん。じゃあなんと呼ぶのがいいであります?」
「そういうことじゃなくて」
「……ちゃんと呼ばないといやでありますか?」
「べつにいやじゃないけど」
改めて問われると答えに窮してしまう。シャロンは何が楽しいのやら、にっこりと微笑みながらクラリーネを見下ろした。
「それじゃあ、他に思いつくのだとリナとかネールとかがあるでありますが」
「いい。リーネでいい」
「よかった。気に入っていただけたなら重畳であります!」
別に気に入ったわけではないのだけれど――
クラリーネの見上げた先には天真爛漫な笑みを浮かべるシャロンの顔があった。そのあまりに脳天気な表情に毒気を抜かれそうになる。いったい私は何を心配しているのかという一種のバカバカしさと油断がこみ上げる。
――――だめ。それこそ彼女の狙いかもしれない。
クラリーネは蒼い瞳を鋭く細めて言った。
「それで、なに?」
「髪、まだ洗っていないでありましょう。一緒にどうでありますか?」
「……わかった。いく」
クラリーネは湯船からざぱっと立ち上がる。不作法にお湯につかっていた後ろ髪から雫がぽたぽたと落ちる。
シャロンに連れられて壁際の洗い場に行き、ネレムの隣に腰を下ろす。彼女は石鹸で身体を洗いながら「……お先。まだ慣れない?」と、まどろみを誘うほど眠たそうに声をかけた。
「……なんで」
「身体。隠してるからね」
「ここの人があけっぴろげすぎるだけ」
クラリーネは自らの胸を抱くように腕を回したままちらりと横を見る。ネレムの目は眠っているか起きているかの判断がつかないほど細い。
「すぐ慣れるよ。大丈夫」
「リーネ、目をつむってないと沁みるでありますよ」
「子ども扱いしないで」
「私よりは年下でありましょう?」
「あなたはいくつなの」
クラリーネが15歳であることはすでに述べたが、ふたりの年齢はまだ聞いていなかった。シャロンは特にためらいもなく言った。
「今年で17になるであります」
「私もだよ」
「……ぜんぜん同い年に見えない」
「よく言われるでありますなー」
シャロンはにこにこと笑いながら泡まみれの手でクラリーネの髪を洗っていく。その扱いがやけに手慣れているのは、彼女自身の髪もクラリーネと同じように長いからだろう。
「きれいな髪でありますなー。手入れなんかはどうしてるでありますか?」
「べつに、なにも」
「うらやましいな。私は伸ばしてもすぐ絡んだりしてだめになるから」
「ネレムも私のように結べばよいでありますよ」
「そういう問題ではないんだよ……」
どこか遠い目をするネレム。シャロンはクラリーネの髪を丁寧に梳いていく。
クラリーネは鏡越しにシャロンの様子をじっと見つめているが、同じ十二使徒の一門に向ける警戒心のようなものは一切うかがえない。
「……何か気になるでありますか?」
「え、いや、ううん。べつに」
「シャロンが胸に余計なものを揺らしてるからだよ」
「そこはちがう」
確かに目にはつくけど、とクラリーネは頭を振る。
一際眼を引くほど大きいというわけではないが、シャロンの身体の曲線美はネレムにもクラリーネにも望めないものだった。すらりと高い背も相まって美しく見えるが、淫靡さを少しも感じないのはひとえに彼女の明朗快活な人柄があってのことか。
「シャロンさんは、どうしてカイネさんを慕ってるの」
「敬称などよいでありますよ。気楽に呼んでくれれば――」
「おしえて」
クラリーネは鏡越しに尋ねた。それはシャロンに探りを入れるためでなく、純然たる興味から発せられた問いだった。
シャロンは微笑を浮かべたまま、少し困ったように眉をたわめた。
「うーん……改めて聞かれるとどう答えたものか困るでありますな……」
「憧れの人って言ってたね。『五十年戦争記』でも読んだって」
「確かにそれもあるのでありますが……それはきっかけに過ぎないのであります。剣の腕……というのも、あるにはあるのでありますが……」
「……べつに簡単に言ってくれなくてもいい」
クラリーネ自身、カイネ・ベルンハルトに対する感情を簡単に言い表すことは難しいのだ。
シャロンはクラリーネの髪を洗う手を止め、桶一杯のお湯で泡を洗い流しながら言った。
「命の恩人でもあり、何事にも謙虚なお人柄なのでありますが……そこは核心ではないというか……〝然るべき時に然るべく力を行使できる〟ところでありますなぁ。だからこそカイネ殿は、歴史に残るほどの御仁となったのではないかと思うのであります」
「私は強くてちっちゃくてかわいいから好きだよ」
「命の恩人なのはネレムにとってもなのでありますが……」
「うん。それも少しはあると思う」
「色々とどうかと思うであります」
シャロンとネレムのやり取りを耳に入れながらクラリーネは得心する。
シャロンが語ったのはカイネ・ベルンハルトの美点というよりも、彼女自身が何を重く見ているかということだ。
クラリーネの目から見たカイネ・ベルンハルト像はいささか異なっていた。
彼は時に無謀な力の使い方をするし、時に自己犠牲が過ぎるきらいもある。彼自身にとっては〝然るべく〟力を振るっているのだろうけれど。
「貴きものは貴きものの義務を果たせ、とはよく言ったもの。カイネ殿は元々農民だったそうでありますが、貴族としての理想を体現してもおられるのでありますよ」
朗らかにそう語るシャロンは屈託ない笑顔を浮かべており、本心を口にしているようにしか見えない。
クラリーネは若干面食らいながらうつむき、洗い終わった髪から滴り落ちる雫をそっと拭う。
「……ありがと。少し、わかった気がする」
「それならよかったであります……って、なにがわかったでありますか?」
「私たちの知らないカイネさんのこととか?」
「そういうのじゃない」
クラリーネはぶんぶんと雫を払うように頭を振る。
わかったと口では言いつつも、実際のところ謎は深まるばかりだった。カイネが言っていた通りクラリーネの取り越し苦労に過ぎないのか、それともシャロンの詐術はクラリーネを完璧に欺いているのか――
「リーネはカイネ殿と立ち会ったと言っていたでありますな。せっかくだから詳しいところをお聞かせ願うであります」
「……あまり面白くはないと思う」
「私も聞いときたいな。集団実習とかで一緒になった時、どういう魔術を使うかわかってたほうがいいよ」
「そういうことなら、いいけど」
クラリーネはふたりから向けられる率直な好意と好奇に戸惑いながら、連れ立って再び湯船に向かう。
歓談するうちに本来の目的を忘れかけたりしつつ、いつしか人前で裸になっていることはほぼ気にならなくなっていた。
にわかには信じがたい話であった。邪気のかけらもうかがえないあの娘が、呪術の一門に連なる末裔であろうとは。
そう考えたところでカイネはクラリーネを見つめる。
彼女もまた罪がないとはいえないが、十二使徒の末裔でありながら根は善良な少女であった。クラリーネという前例があるならば、シャロンもまた因業に絡め取られていないとも限らない。
「……証拠もなしに言っておるわけではなかろう?」
「うん。写本を持ってきている」
「どういう経緯で名が出ておるのだ」
「家ぐるみの交流があった。百年くらい前を最後に途切れているけど」
「同じ姓、なんてことはなかろうな?」
「二百年以上続いてて、地理的にもぴったり合う。そんなアースワーズは他にない」
「……左様か」
カイネは口元に手を当て、ふとクラリーネを一瞥する。
彼女の目は一心にカイネを見つめていた。瞳の表面が水面のように揺れている。
(気にかけてくれておるのだな)
カイネはふっと笑みをほころばせ、言った。
「案ずるな。おまえさんはおまえさんで学業に励むがよかろ――」
「シャロン・アースワーズはカイネさんにことさら近づこうとしている。友好的に見せかけているのもそのため。何か目的を隠している。彼女に近づいてはいけない」
「……では、シャロンはおまえさんに何かおかしなことでもしおったかの?」
矢継ぎ早に言いつのるクラリーネをなだめるように言うと、彼女は表情のない顔をかすかにこわばらせた。
「……色々と聞かれた。どこで、どうやってカイネさんと知り合ったかとか」
「おまえさんのことが気になるのであろう。なにかおかしいか」
「カイネさと同室なのがうらやましいと」
「懐かしいのではないかの。以前はあやつと同じ部屋に寝泊まりしておったから」
「えっ」
クラリーネの瞳がきょとんと丸く見開かれる。カイネはなんでもないことのように頷く。
「かれこれ一月は同室だったが、特に何もなかったぞ。なにか目的があるとすれば、その時に果たすのが絶好の機会だったとは思わんか?」
「…………でも」
クラリーネはうつむき、納得できないように制服のスカートの裾をもてあそぶ。
同類と意識してしまったからには無理からぬか。
その時カイネはふと、ネレムから聞いた話を思い出す。
(『……事情は長くなるから割愛するけど、シャロンはアースワーズ家の相続権第一位。でも、そのせいで何度か暗殺未遂に遭っている。ここに入学したのは彼女の身の安全のためでもある……』)
――面倒事の臭いがした。
そしてカイネはクラリーネの臨時保護者として、彼女を面倒事に巻き込みたくはなかった。
「相分かった。クラリーネよ、ひとつ頼みがあるのだが」
「……なに?」
クラリーネはばっと顔を上げてカイネをまっすぐに見つめる。
「おまえさんはシャロンのそばにおってくれ。無理はせぬでよいぞ、今まで通り普通でいい。それでもし、もしも妙なことがあったらおれに知らせてほしい。探りを入れるような真似はせんでよいし、おれのことなんぞいくらでも話してくれてよい――頼めるかえ?」
「……わかった。励みます」
クラリーネは心なしか瞳を輝かせて頷く。
無論、頼みとは方便だった。クラリーネにこう言うことでシャロンを警戒しているよう装いつつ、彼女自身はシャロンと長い時間をともにして交友関係を築いてくれれば良い。
シャロン自身を警戒するべきか否かは別にして、アースワーズ家本体に探りを入れるべきなのは確かだろう。そこはカイネが片付ければいい。年端もいかない少女に気をもませることではない。
カイネは自室の柱時計にふと目を向け、言った。
「話はそれだけかの? ――そろそろ入浴時間か、行っといで」
「いっしょに行こ」
「おれが女子と入れるわけがなかろうが」
「……なら、がんばって偵察してきます」
「そんな張り切らんでよいから」
カイネは着替えを持ったクラリーネを部屋の外に送り出す。と、廊下の向こう側――階段の踊り場でシャロン、ネレムの両名と合流する様子が見えた。
カイネは室内に取って返し、クラリーネが持ち出したというルーンシュタットの記録を確かめに行く。
(……シャロンが相続権第一位、となると暗殺を命じたのは他に相続権を持つ親族であろうが……素直に考えれば現当主が十二使徒か? ……誰の手引きで入学したかも定かでなし。まずはそこを調べねばな)
***
――いくら同じ女といっても、人前で素っ裸を晒すなんてどうかしている。
クラリーネは鼻の下まで湯面に身を沈めながら洗面場を眺める。視線の先には十、いや二十は下らぬであろう女学生の裸身がひしめき合い、かしましい声を上げている。
田舎育ちが板についているクラリーネは、この大浴場という文化に極めて不慣れであった。
「洗っている途中になに寝てるでありますか!? ネレム、ネレム起きるであります……!」
「zzzz......」
クラリーネは浴槽の中から目を右往左往させた挙句、彼女たちへと視線を戻す。
シャロン・アースワーズ。ネレム・ネムリス。
ここ数日観察した限りシャロンは交友関係が広範に渡るようだが、とりわけネレムとは親しかった。寮の部屋が同じと聞いた時はいたく納得したものである――まさかその部屋にカイネがまぎれこんでいたことがあったとは夢にも思わなかったが。
「あーこら、またもたれかかって……ちょっと重くなったでありますか?」
「……気のせい」
「起きてるならちゃんと起きるであります……!」
鏡台の前に腰を下ろしたネレムの頭を後ろからわしゃわしゃと洗ってやるシャロン。薄紫色の短い髪が泡にまみれていく。シャロン自身の髪は洗った後なのか、いつもはポニーテールに結い上げるプラチナ・ブロンドの髪を背中に下ろしている。
この光景だけを見れば世話焼きな姉と世話のかかる妹といった風情だが、学業成績はネレムの方がやや良いという話であるから人は見かけではわからない。
そう、人は見かけではわからないものだ。例えシャロンがどれほど明るく面倒見が良くてお人好しに見えても、彼女は〝アースワーズ〟に連なる血筋なのだ――
「リーネ、リーネは洗ったでありますかー?」
シャロンはネレムの髪についた泡を洗い流しながら振り返り、どこかへ親しげに呼びかける。
リーネとはまた誰か親しい友人の名であろうか。クラリーネはシャロンの視線を追いかけるように周りをぐるりと見渡す。
「リーネ、聞いてるでありますか。聞こえてるでありますー?」
かしましい浴場内にも彼女の朗々とした声はよく響く。
クラリーネはあてどなく視線をさまよわせるが、シャロンが呼んでいる相手と思しき人影は見当たらない。
シャロンはとうとう立ち上がり、浴槽のそばまで歩み、クラリーネの目の前で足を止めた。
「大丈夫でありますか、リーネ。のぼせてしまったでありますか?」
シャロンはその場で腰をかがめ、クラリーネの顔をまじまじと覗き込む。
「…………私?」
「他に誰がいるでありますか」
「わかるわけないです」
「だって、毎回毎回クラリーネと呼ぶには少し長い気がするのであります」
「勝手に変えないで」
「うーん。じゃあなんと呼ぶのがいいであります?」
「そういうことじゃなくて」
「……ちゃんと呼ばないといやでありますか?」
「べつにいやじゃないけど」
改めて問われると答えに窮してしまう。シャロンは何が楽しいのやら、にっこりと微笑みながらクラリーネを見下ろした。
「それじゃあ、他に思いつくのだとリナとかネールとかがあるでありますが」
「いい。リーネでいい」
「よかった。気に入っていただけたなら重畳であります!」
別に気に入ったわけではないのだけれど――
クラリーネの見上げた先には天真爛漫な笑みを浮かべるシャロンの顔があった。そのあまりに脳天気な表情に毒気を抜かれそうになる。いったい私は何を心配しているのかという一種のバカバカしさと油断がこみ上げる。
――――だめ。それこそ彼女の狙いかもしれない。
クラリーネは蒼い瞳を鋭く細めて言った。
「それで、なに?」
「髪、まだ洗っていないでありましょう。一緒にどうでありますか?」
「……わかった。いく」
クラリーネは湯船からざぱっと立ち上がる。不作法にお湯につかっていた後ろ髪から雫がぽたぽたと落ちる。
シャロンに連れられて壁際の洗い場に行き、ネレムの隣に腰を下ろす。彼女は石鹸で身体を洗いながら「……お先。まだ慣れない?」と、まどろみを誘うほど眠たそうに声をかけた。
「……なんで」
「身体。隠してるからね」
「ここの人があけっぴろげすぎるだけ」
クラリーネは自らの胸を抱くように腕を回したままちらりと横を見る。ネレムの目は眠っているか起きているかの判断がつかないほど細い。
「すぐ慣れるよ。大丈夫」
「リーネ、目をつむってないと沁みるでありますよ」
「子ども扱いしないで」
「私よりは年下でありましょう?」
「あなたはいくつなの」
クラリーネが15歳であることはすでに述べたが、ふたりの年齢はまだ聞いていなかった。シャロンは特にためらいもなく言った。
「今年で17になるであります」
「私もだよ」
「……ぜんぜん同い年に見えない」
「よく言われるでありますなー」
シャロンはにこにこと笑いながら泡まみれの手でクラリーネの髪を洗っていく。その扱いがやけに手慣れているのは、彼女自身の髪もクラリーネと同じように長いからだろう。
「きれいな髪でありますなー。手入れなんかはどうしてるでありますか?」
「べつに、なにも」
「うらやましいな。私は伸ばしてもすぐ絡んだりしてだめになるから」
「ネレムも私のように結べばよいでありますよ」
「そういう問題ではないんだよ……」
どこか遠い目をするネレム。シャロンはクラリーネの髪を丁寧に梳いていく。
クラリーネは鏡越しにシャロンの様子をじっと見つめているが、同じ十二使徒の一門に向ける警戒心のようなものは一切うかがえない。
「……何か気になるでありますか?」
「え、いや、ううん。べつに」
「シャロンが胸に余計なものを揺らしてるからだよ」
「そこはちがう」
確かに目にはつくけど、とクラリーネは頭を振る。
一際眼を引くほど大きいというわけではないが、シャロンの身体の曲線美はネレムにもクラリーネにも望めないものだった。すらりと高い背も相まって美しく見えるが、淫靡さを少しも感じないのはひとえに彼女の明朗快活な人柄があってのことか。
「シャロンさんは、どうしてカイネさんを慕ってるの」
「敬称などよいでありますよ。気楽に呼んでくれれば――」
「おしえて」
クラリーネは鏡越しに尋ねた。それはシャロンに探りを入れるためでなく、純然たる興味から発せられた問いだった。
シャロンは微笑を浮かべたまま、少し困ったように眉をたわめた。
「うーん……改めて聞かれるとどう答えたものか困るでありますな……」
「憧れの人って言ってたね。『五十年戦争記』でも読んだって」
「確かにそれもあるのでありますが……それはきっかけに過ぎないのであります。剣の腕……というのも、あるにはあるのでありますが……」
「……べつに簡単に言ってくれなくてもいい」
クラリーネ自身、カイネ・ベルンハルトに対する感情を簡単に言い表すことは難しいのだ。
シャロンはクラリーネの髪を洗う手を止め、桶一杯のお湯で泡を洗い流しながら言った。
「命の恩人でもあり、何事にも謙虚なお人柄なのでありますが……そこは核心ではないというか……〝然るべき時に然るべく力を行使できる〟ところでありますなぁ。だからこそカイネ殿は、歴史に残るほどの御仁となったのではないかと思うのであります」
「私は強くてちっちゃくてかわいいから好きだよ」
「命の恩人なのはネレムにとってもなのでありますが……」
「うん。それも少しはあると思う」
「色々とどうかと思うであります」
シャロンとネレムのやり取りを耳に入れながらクラリーネは得心する。
シャロンが語ったのはカイネ・ベルンハルトの美点というよりも、彼女自身が何を重く見ているかということだ。
クラリーネの目から見たカイネ・ベルンハルト像はいささか異なっていた。
彼は時に無謀な力の使い方をするし、時に自己犠牲が過ぎるきらいもある。彼自身にとっては〝然るべく〟力を振るっているのだろうけれど。
「貴きものは貴きものの義務を果たせ、とはよく言ったもの。カイネ殿は元々農民だったそうでありますが、貴族としての理想を体現してもおられるのでありますよ」
朗らかにそう語るシャロンは屈託ない笑顔を浮かべており、本心を口にしているようにしか見えない。
クラリーネは若干面食らいながらうつむき、洗い終わった髪から滴り落ちる雫をそっと拭う。
「……ありがと。少し、わかった気がする」
「それならよかったであります……って、なにがわかったでありますか?」
「私たちの知らないカイネさんのこととか?」
「そういうのじゃない」
クラリーネはぶんぶんと雫を払うように頭を振る。
わかったと口では言いつつも、実際のところ謎は深まるばかりだった。カイネが言っていた通りクラリーネの取り越し苦労に過ぎないのか、それともシャロンの詐術はクラリーネを完璧に欺いているのか――
「リーネはカイネ殿と立ち会ったと言っていたでありますな。せっかくだから詳しいところをお聞かせ願うであります」
「……あまり面白くはないと思う」
「私も聞いときたいな。集団実習とかで一緒になった時、どういう魔術を使うかわかってたほうがいいよ」
「そういうことなら、いいけど」
クラリーネはふたりから向けられる率直な好意と好奇に戸惑いながら、連れ立って再び湯船に向かう。
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