一人で出来る、コトにさえ。
#4:泣き顔と個性的な、返礼。
路地裏の暗がりを抜けて
数度、角を曲がり、
その行き止まりに到着した。
行き止まりの壁に触れてみると、どうやら開けっ放しのようだった。通路まで解放されており、短い階段を降りると、その部屋は殺風景なままだった。一日で何が変わるのかと二一六番は考えたが、変わっていないのは部屋の主も同じだった。
「あら、二一六番さん。ご無事で何よりです」
ベッドに腰掛けて読書をしていたようだ。変わったのは本を持っているという一点のみで、乱れた髪も、汚れ破れた服も、均整の取れた顔も、何も変わらない。微笑を浮かべ、二一六番はイナミを見た。ただし、そのやや後ろを。
「ありがとう。イナミのお陰だ」
対する二一六番は短く返礼をし、頭を下げた。昨晩は巻き込まないことを返礼と考えたが、それを忘れて話に興じてしまった。追われていることを時に忘れてしまうほど、二一六番は楽しんでいた。それだけに、同時に謝罪も述べねば気が済まなかった。
「それと、済まない。昨日ここにいたことで、イナミが俺の関わったことに巻き込まれる可能性もあったのに、泊めて貰って」
イナミは腿の上に置いていた栞をハードカバーの本に挟み、それを閉じた。パタリと音を立て、二人の会話を途切れさせる。意識したわけではなく、偶然に大きな音が鳴っただけだった。
「あ、ごめんなさい……」
照れくさそうに謝るイナミだが、それは二一六番も同じだった。昨晩の浮かれた自分がどこか照れくさく、入室時からイナミの顔を真っ直ぐに見られない。目を逸らし、壁や天井に視線を這わせた。
(ああ、昨晩ははしゃぎ過ぎた。あんな感情は初めてだったから、つい乗ってしまった……)
二一六番が後悔に流されていると、イナミがそれを見てくすくすと笑った。気持ちを暴かれたと思った二一六番は、そこでようやくイナミを直視した。
「な、何か可笑しいか」
イナミは笑いを止めずに、いえ、いえと手を振る。下を向く顔と表情は長い髪に隠れて表情は見えなかったが、漏れる声は確かに笑い声だった。
「可笑しいです。だって二一六番さん、とても恥ずかしそうで」
二一六番は赤面する。自分のはしゃぎ振りを笑われたのだ。多少なり恥ずかしい思いもあるだろう。それを振り払う手段を知らなかった二一六番は、イナミに対して話題を逸らすことしか出来なかった。
「お、お前はどうなんだ?」
イナミもようやく二一六番を見た。お互いに赤面しているのが理解できる。二人は同じ表情で、照れているのか笑っているのか、あるいは少しふてくされているのか。複雑な表情だった。
(ああ、同じなのか。イナミも楽しんでくれたんだ)
得心し、二一六番は表情を和らげた。おどおどしながら答えるイナミを制して話し出す。
「わ、私ですか?私は、その」
「いいよ、よく分かった。楽しんでくれてありがとう」
「あ、うん、あの、はい」
照れくさくて俯いたイナミをそのままに、二一六番は部屋の中央に四つある椅子の一つに腰掛けた。テーブルに肘を置き、本題を切り出す。
「それで、二日連続でごめん。相談があるんだ」
イナミは顔を上げ、手を両膝に置いたまま小首を傾げた。「相談?」と言わんばかりの表情で目を丸くしている。乱れた髪と破れた服以外は、令嬢のような仕草だ。
「昨日、俺は名前を貰いに行くと行っただろ」
「はい。言っていました。あ、貰えたのですか?おめでとうございます!」
二一六番の表情は変わらなかった。真顔のまま、隠れ家を出てからのことを簡単に説明した。無論、組織のことや仲間のことは話さなかったが。
「なるほど。名前は自分で考えるものだったのですね」
「そうなんだ。それで、自分の名前をどうするか困っていて」
「うーん、そうですね。何か、リクエストはありますか?こんな名前がいい、という風な」
二一六番は考えたが、特に思いつかなかった。彼が名前に求めるものは、個人としての記号でしかなかった。だから名前を決めていいと言われたとき、どのような名前でも良いと思う反面、どのような名前が良いのかという疑問も生まれてしまった。
「…………それが、わからない。俺にとって名前は自分を定義する記号でしかなかった。名前を持つことが大事で、名前自体に興味はなかったんだ」
「えーと、それなら適当な名前を決めれば良かったのではないでしょうか?」
「確かにそうなんだけど、……いざ自分で名前を考えた時に、どんな名前も何故かしっくり来ない。だから相談にきた」
「なるほど、確かに私、昨日自分の名前を決めていましたからね。相談相手にはうってつけです」
イナミは薄い胸をえへんと張った。二一六番は何も言わなかったが、昨晩のことを思い出していた。名前を尋ねたら「聞いてみる」と言った彼女を。誰に、どのように聞いたのかは不明だが、自分の名前はその時に決めたものだろう。それは本人も認めた通りだ。
二一六番はイナミという名前を気に入っていた。響きが柔らかいし、その柔らかさは彼女自身の微笑に合っていた。違和感のない名前を、自分自身に付けられることが羨ましかった。
「……そうだな。君はうってつけだ。じゃあ、ここからが相談の内容なんだけどさ」
そう、二一六番がイナミに持ち掛ける相談は、自分自身の名前を決めてもらうことではない。それは相談ではなく判断の委譲だ。
「あれ、名前を決めることではないんですね」
「それは自分でやるよ。イナミに相談したいのは、名前の決め方だ」
「あ、なるほど。そういうことですか」
イナミは顎に右人差し指を当て、天井を見つめた。うーんといううなり声と共に、自分の名前を決めたときのことを思い出しているようだ。
「……名前を、俺にイナミと名乗った時、どういう風に考えたんだ?」
「あ!はい、えっと、足し算です」
考え事の最中に声を掛けられたイナミはビクリとしたが、その時のことを正直に答えた。
「何と何を足したんだ?」
「自分にとって大切な数字を、二つですね。その合計を読むと、イナミになりました。百七十三です」
イナミはにこやかにそう言った。二一六番は自分の名前が数字であったことを忌避していた。それは部隊の仲間も同じだった。だから語呂合わせがし易い二一七番は自分をニーナと名乗っていたし、他にもそういう人間は組織にいた。しかしこの女は、自分の名前を数字にした。二一六番にとって、その判断は自分の理解を超えたものだった。それではまるで、機械のようではないかと。しかし、それを踏まえてもなお、彼女の名前は胸にストンと落ちた。
「それは、うん、名前を知らない俺が言うのもなんだけど、すごくいい名前だ」
実際は複雑な感情だったが、そのことも本心の一端だった。自分に由縁のあるものを名前の一部に。そんなことが出来ればいい。
「ありがとうございます。でも、いえ、今は二一六番さんのお名前ですね」
「ああ、ありがとう。でも聞きたいことは聞けた。名前は自分で考えるよ。お礼も言えたし、今日はお暇する」
二一六番は立ち上がり、出入り口に向けて歩を進めた。イナミも立ち上がり、見送りに出る。階段を昇り、通路を抜けた先で互いに挨拶をした。
「今日はありがとう。短い時間だったけど、また話せて嬉しかった」
イナミは破顔し、
「またいらしてくださいね。外からここを開閉する方法を教えておきます」
と、二一六番にその手順を示した。隠し通路を見て右の壁は煉瓦模様のタイル張りになっており、その一部は外れるようになっている。それを外して、ボタンを押せば開閉できるようだ。長押しをしたり二度押しをしたりといくつかの操作が必要らしい。
(なるほど、この操作が毎度必要なら、確かに外から開けられることはないな)
「正しい操作をすると、その都度ボタンが振動しますので、参考にしてください。操作は覚えましたか?」
「ありがとう、覚えたよ」
「ではまた、いつでもいらしてください。お待ちしております」
「そちらこそ、いつでも家に来てくれ。路地裏から出て、正面に見えるアパートの二〇三号室だ」
「あら、ご近所ですね。では、またお会いしましょう」
イナミは再び隠し通路を開き、その中に戻っていった。通路は開けっ放しだった。
「……不用心な」
二一六番は先程教わったばかりの方法で通路を閉じ、路地裏を後にした。通路に戻るイナミの後ろ姿、その乱れた髪と汚れた服が、妙に気になった。
(……やっぱり、どうにかした方がいい、な)
このとき、二一六番の頭の中にはある目標が浮かんだ。自分にとって初めての“やりたいこと”に、二一六番はひどく興奮した。歩きながらそのことを考えて、通りを渡りきった。アパートの前に着くと、そのすぐ隣にあるコンビニエンスストアが目に入る。そういえば現金の持ち合わせがない。二一六番は自室から預金通帳の間に挟まったキャッシュカードを持ち出し、コンビニに入った。
自動扉の閉まる音と、気の抜けた店員の挨拶を無視してATMへ。当面は不足のない分の現金を引き下ろし、無造作にポケットに押し込んだ。
(これだけあれば足りるだろう。後は明日でいいか……)
その後、二一六番は夕飯と飲み物、いくつかの雑誌を購入し、アパートに戻った。店員には怪訝な目で見られたものの、支払いは問題なく済んだ。
部屋に入ると同時、後ろ手に鍵を閉めた。後ろめたいことはなかったが、買った雑誌を見られたくなかったのだろう。
(まさか、二一七番が好きそうな雑誌を買うことになるとは)
購入した雑誌は女性もののファッション誌だった。派手目な下着や、装飾の多い衣服を着た女性が並んでいる。それらはいずれも二一六番には新鮮に見えた。
(服なんて、必要な機能さえあれば何でもいいと思ってたんだけどな。色々あるもんだ)
必要のない模様や刺繍、短過ぎる丈のスカート。確かに可愛らしいとは思う。しかし、着せたい相手にはどうも似合う気がしなかった。汚れ破れた服を着た彼女には。
同じ頃、イナミは隠れ家で読書の続きをしていた。ベッドに腰掛け、時には寝転びながら。
それは人間の書いた、人間の恋愛を描く小説らしい。イナミには恋愛が分からなかったが、恋愛をするということの本質は理解できた。また、それが物語になる理由も。
恋愛は相互理解の一種で、友愛や家族愛に並び、物語のテーマとされることが多い。いずれも人の生死を話の根幹に据えることが多く、読者をより楽しませるために感情を移入させる。そのための演出として、登場人物にはわかりやすい欠点が備えられており、読者に親近感を抱かせる。感情移入した人物が死んだり、または生死の境を彷徨うことで、読者は感動に胸を打たれるようだ。
感動のメカニズムは理解したが、イナミはそれを読んでも感動の表情を浮かべなかった。無表情で、どうでも良さそうな顔をして読了する。
「感想?そうだなー、女性向けの恋愛物は飽きたかな。沢山読んだから、そろそろ違う色合いのものを読みたい」
会話のような独り言は、彼女自身も意識せずにに発したものだ。対話の相手が誰にも見えないのだから、それは独り言に他ならない。イナミはそれを続けた。
「例えばー、うーん、えーと、あー、二一六番さんなら、何かアイデアをくれるかも。次に会ったら相談してみよう」
イナミは昨日出会った男、人間の男のことが気になっていた。どこからどう見ても人間の彼は昨日、自分は“まだ”人間じゃないと言った。彼の口振りから察するに、名前を貰うことが人間になるために必要なことらしい。人間にも色々あるようだ。
「気になるかって言えば気になる。だって、あの人はどう見たって“私達”だよ。初めて出会えた“私達”」
イナミは二一六番と話すとき、自身でも分かるほどに高揚していた。それを相手に伝わらせないように表情を隠していたが、微笑が常に漏れていることを二一六番は気付いている。彼はそれをイナミの人柄だと思い込んでいるが、実際は異なる理由から来るものだ。
イナミは努めて無表情で彼に接しているつもりだ。だから少し心配でもあった。冷たい奴だと思われてはいないだろうかと。その杞憂は、今日彼が訪ねてくれたことで霧消した。彼が訪ねやすいよう、隠し通路を開放していて正解だった。
そして再び自分以外の“私達”に会えたことで、イナミはとても機嫌が良かった。目覚めてからずっと重かった頭が嘘のように軽くなり、このところ読んでいるそれに出てくる、片思いをする少女のような心境だった。違うことは、抱く感情が恋愛とは異なること。しかし惹かれていること。
「明日は二一六番さん、来てくれるかな」
そんな呟きは殺風景な部屋に溶け、イナミは彼の来訪を待ち続ける。
五日後、二一六番は悩み続けていた。彼は自身の定義する人間になる前に、一般的な人間らしい悩みを抱えていた。自身の名前を決めることもそうだったが、それと同じくらいに悩むことがあった。
この五日間、ベッドや床の上でろくに体も動かさず、ひたすらに唸っていた。悩み事は二つあるが、自身の名前については、間に合わなければ雑に決めるだけでいい。問題はもう片方。
「…………ああ、これじゃあまるで」
そよ悩みは最近知り合った女、イナミのことだった。彼女の汚れた服や乱れた髪が気になって仕方がない。女を知らない二一六番だったが、それでもイナミの格好は、世間一般の女性がするものではないだろう。
「そもそも、俺は人に贈り物をしたことがない……」
自分を助けてくれた礼はしたいと思う。礼の形を考えた結果、その装いを整えることは一般的に礼になると、二一六番は考えた。しかし、彼は贈り物などをしたことはない。物々交換の経験はあるが、いずれも自分から提案したことはない。相手が欲する物を分かっている場合を除き、取引というものを行った経験がないのだ。
「ああ、本当に、まるで恋煩いだ」
枕に顔を押し付けつつジタバタと手足をバタつかせる中、部屋の呼び鈴が鳴った。続けてノックも。
「しまった。騒ぎすぎたか」
組織の隠れ家でもこういうことがあった。二一七番は騒がしい女だったから、隣から苦情が来ることもあった。その都度二一八番が彼女を叱りつけたものだ。しゅんとした顔でこちらを見るものだから、彼女を庇う役はいつも俺だった。
玄関扉に近付くにつれ、ノックの音は大きくなった。徐々に強くしているらしい。相手は相当ご立腹だ。二一六番は扉を開けると同時に謝った。
「はい。ごめんなさい、うるさかったでしょ、う……か…………?」
扉を開けて来客の姿を認めると、その姿は見覚えのない隣人ではなく、見覚えのある乱れ髪と汚れた服、それに真っ赤なマフラーだった。イナミだ。
「イナ、……ミ?」
「ええ、こんにちは」
表情こそにこやかだったが、怒っているのは明らかだった。語気が強く、有無を言わせない迫力を伴っている。二一六番は上擦った声で尋ねた。
「あ、あの、イナミ?今日は、どうした、のかな?」
「あら、立ち話もなんですから、とりあえず上がってもよろしいですか?いいですよね?お邪魔しますね」
二一六番の返答も聞かず、イナミは部屋に上がり込んだ。靴も脱がずに、ベッドに腰掛けている。表情は怒りと悲しみが入り混じったそれで、二一六番と目を合わせるつもりは無いようだった。部屋の窓から、ずっと外を見ている。
「あのー、イナミ、さん?」
「…………」
二一六番が声を掛けるも、返答はない。ぷいと顔を背けるばかりだ。二一六番には心当たりがなかった。彼女がこうも怒ることは想像すらできなかったし、怒るにしても、二一七番とも違うタイプだ。二一六番には対処ができず、ただ謝ることしかできなかった。
「俺が悪かった。悪かったから、怒っている理由を教えてくれ。頼む」
二一六番にはお手上げだった。彼女が怒るにしても、理由が分からなければ正しい謝り方すらできない。彼に出来ることは、怒らせたという事実のみを認め、ただ謝罪することだけだった。数度、謝りながら頭を下げると、彼女はようやく話し出した。
「………………って、言ったのに……」
「え……?」
余りにか細い声。前半部分は二一六番には聞き取れず、間抜けにも聞き返すことになる。それが、イナミの感情に火をつけた。
「来てくれるって、言ったのじゃないですか!どうして五日も来なかったんですか!」
泣きながら言われるも、二一六番は彼女に引いていた。確かにまた会おうと口約束をした。いつでも来てくれとも言った。しかし、二回会って話しただけの女に、恩人とはいえここまでされると、どうも気持ちが引いてしまっていた。
「え、えぇ……」
イナミはそこからベッドの上に鎮座している枕に顔を埋めて泣き始めた。二一六番が呆然としていると、彼女は枕元に置いていたそれに気付く。
「うぇぇぇぇん………………なんでずか、これ」
鼻をすすりながら手に取ったそれを、顔を伏せつつ見ると、女性物のファッション誌だった。表紙のモデルと自分の格好を見比べ、イナミは更に泣いた。もちろん、枕に顔を埋めて。
「こんな写真の女の人に夢中で、わだじとの約束破ったんだぁぁぁぁ……」
「あ、あの、それは」
二一六番は彼女のあまりの泣き振りに引きながらも、理由を説明することに気恥ずかしさも覚えていた。それは目の前にいるイナミの為のもので、断じて自分の為に購入したものではなかったからだ。
「それは、なんでずが?可愛い女の人です。間違いないです」
イナミはようやく体を起こして二一六番を見た。雑誌を突きつけ、浮気を疑う面倒な女のようだ。彼は赤面し、イナミを直接見られないようだった。イナミにはそれも怒りの対象となった。
「ぐず、私の顔を見て言ってくだざい!ぐず」
二一六番は観念し、イナミが持っている雑誌について説明を始めた。彼女が怒らないように、彼女の顔を見て。
「そ、それは!イナミのために買ったものだ」
「え……?わだじの、ため、れすか?」
鼻声のイナミはその一言で泣き止み始めた。次の一言を期待するように二一六番を見つめる。目に涙は浮かんでいたが、もう声を上げて泣くことはしなかった。
「あの、イナミは、さ。今日もそうだけど、汚れた服を着ているだろう。匿ってくれたお礼に、何か、贈り物できたらなー、って……」
理由の説明はこれで半分だ。イナミも当然納得するはずもなく、
「えへへぇ……」
頬に片手を添え、蕩けるような顔で納得しかかっていたが、それでも怒っている部分の解決ではない。イナミにとって当然の疑問を提示した。
「じゃあ、どうして五日も来なかったんですか?」
努めて怒った声を出そうとしているが、顔がにやけているので説得力はない。ていうか、傍目にはもう怒ってない。むしろ上機嫌にしか見えない。
「贈り物って、したことなくて……どうしていいか、わからなくて。悩んでたら、五日も経ってた」
「えへ、そうなんですかぁ、えへへ……」
二一六番は彼女の表情を見て、引いた気持ちの分だけ申し訳なさを感じた。ここまで感情が激しく動くほどに自分との会話が楽しみだったのだ。彼女に対して憎い感情が沸くはずもない。
「その、…………ごめん」
謝ることしかできなかった。イナミはもう完全に機嫌を直したようで、目を輝かせながら続きを待っている。雑誌にはしわが入る程の力が込められていた。
「良かった、ら。服を贈らせて欲しい。何が似合うか俺には分からないから、一緒に選んでくれると、助かる」
イナミはにやけ顔を最大限締めようとして、それでもやっぱり顔は蕩けている。返事をするのも忘れて、整わない身なりのまま、二一六番を引っ張り出した。外はまだ午前中。街が動き出す頃合だ。二人は手を取り合って出掛ける恋人のようだった。
そして時間が経ち、
女は身なりを整え、
男は疲れ果てた。
購入した衣服は、どれも高いものではなかった。シンプルながら安くて質の良い服が揃う、有名な衣類店が近くにあったためだ。二一六番は先日引き出したお金の大半を使い、自分の生活に必要なものの他、イナミに服を買い与えた。それは二一六番にも楽しい時間であったし、イナミにとっては至福の連続だった。ただ、二一六番にとっては、荷物が重く、両手両腕が痛むことだけが苦痛だった。
買い物に一区切りを迎え、二人はアパートに帰ってきていた。昼食を摂ることさえ忘れて、服の取り合わせを考えている。
イナミは出先で購入したものに服を着替え、それまで着ていた服を買い物袋の奥底に仕舞い込んでいた。見た目は以前の服を修繕しただけのように見えなくもないが、歴とした新品だ。相も変わらず、季節はずれのマフラーだけが目立っている。
汚れた服を捨てない理由について二一六番は詮索しなかったが、それも時間が経つにつれ忘れてしまっていた。
服の問題は解決したが、二一六番には気になることがもう一つあった。彼女の髪のことだ。二一七番は自身の髪をとても大切にしていたし、二一五番や二一八番が気安く触ることを許さなかった。毎朝それを弄っていたし、任務外の時間では、彼女は年相応の少女でしかなかった。二一六番は、イナミもそうあるべきだと考えた。それが人間の普通らしいのだから。
イナミは買ってきた衣服を取っ替え引っ替えし、二一六番相手にファッションショー気分だ。キッチンに座り込んだ二一六番は、呼びかけるようにイナミに提案した。
「服は解決したし、次は髪をどうにかしよう!」
イナミはご機嫌に、ブラウンのチュニックを胸元に合わせているところだった。二一六番の提案の意図が不明だったのか、頭上に疑問符がありありと浮かぶような顔で、キッチンまでそのままの姿で現れ、二一六番をじっと見つめる。
「髪ですか?服と違い、特に困ってはいませんよ」
チュニックを胸に合わせたまま踊るような仕草を取るイナミを見て、二一六番は今朝の騒ぎを思い出していた。面倒だと思っていたが、にこにことご機嫌な姿を見せてくれている今を鑑みれば、今朝の泣きっ振りが可愛らしいものに思えてくる。
(機嫌は完全に直ってくれたみたいだ。良かった。お礼も、できたと思っていいかな)
安堵した二一六番を見るイナミの表情は、邪気のないそれだ。天真爛漫を絵に描いた様な顔と言ってもいい。チュニックを床に置いて、「どうしましたか?」と小首を傾げた。
二一六番は胡座を解いて立ち上がり、「乱れた髪を整えよう」と続けようとした。が、女性が果たして髪をいじることを提案して喜ぶだろうか?
そういえば二一七番は任務外の時間によく髪をいじっていた。結び方やその道具、髪の色や服装に合わせたヘアスタイルがあるらしく、二一五番が「邪魔だろう、それ」と声を掛けようものなら、翌朝まで落ち込む程だった。それほどまでに、髪は女にとって大切なものなのだろう。そう考えると、二一六番はイナミ対し、安易な発言ができなくなっていた。
「……うーん。それも個性なのか……?」
「?」
疑問符を頭の上に浮かべて目を丸くしているイナミだが、二一六番の言うことも理解できた。暇潰しに行っている日課の散歩途中ですれ違う女性は、誰もが髪を大切にしているようだったし、自分のそれとは違って、彼女らの髪には艶があった。
(そういえば、みんな綺麗だよね、髪。私みたいにぱさぱさじゃなかった)
中には地毛を異なる色に染めている者もいた。周囲とは異なり目立つヘアスタイルにする者もいた。その理由について考えることはしなかったが、イナミは自分なりに思考する。
(髪は大切、だから色を変えたり、結い方を変えたりする。どうして?多分、人間はそうするのが普通だから。でも私は人間じゃないし、うーん)
思考が空回りする。気付けば口から音が漏れていた。うーんと唸るイナミだったが、考えていることは簡単だった。人間ではない(と定義している)自分が、果たして人間が取る行いを模倣してよいものか。ということだ。
(でも日課の散歩は人間の真似じゃない?うん?あれ、わからなくなってきた……)
「とりあえず、さ」
悩むイナミの肩を軽く叩き、二一六番はキッチンからベッドのある自室へ入り込んだ。衣類にまみれた自室の惨状に溜め息を吐きつつ、イナミに言う。
「髪、洗いなよ。お風呂使ってさ」
風呂を女に勧める男の図。男女の営みにおける事前準備にも聞こえなくはないが、洗う場所を髪に限定しているだけ健全に聞こえるだろうか。イナミにはそう聞こえたようで、
「うー、うん、そうします」
と、疑問符を浮かべながらも浴室に入り込んで行った。シャワーを出す音が直ぐに聞こえてくる。今頃は飛沫に打たれていることだろう。二一六番はその音を聞いて微笑すると、軽く息を吐いてワイシャツの袖を捲った。
「とりあえず片付けよう」
これらを全て持ってあの狭い路地裏を通るのは困難だ。持って行けるだけを纏めて、残りは次回にイナミの隠れ家に行くときにでも持って行けばいい。大まかに、トップスとボトムスを袋一つずつに分けた。結構な量ではあったが、この程度なら路地裏に持って入れそうだ。
部屋にようやく足の踏み場が生まれて、ベッドの上も綺麗に片付いた。二一六番は疲れからベッドに沈み込んだ。微睡みが押し寄せてくる。数時間程度のことだったが、女と買い物に行くことは初めてだったから、それなりに緊張はした。沢山の感情を見せてくれて、イナミとの距離は近付いた気もするものの、彼らがお互いに顔を合わせるのは、まだたったの三回目なのだということをすっかり忘れている。それほどに、幸福感のある疲労だった。
(こういうのも、人間の生活なんだろうか)
考えながら眠りに落ちる寸前、ぴちゃりぴちゃりと音が聞こえた。キッチンの方からだ。というより、バスルームの方からだ。そういえば、イナミが服を脱ぐ音や、そのために生じるバスルーム入室のタイムラグはあっただろうか?
(いや、な、まさかまさか。イナミが少し変わってるとは言え、着衣風呂なんてことするわけが)
そこまで考えて、それは願望だと気付いた。髪を洗えと言ってからバスルームに入るまでに、彼女はタオルも持たなかったし、着替えも持たなかった。部屋の片隅に隠すように散らかった下着一式や未だに散乱した服のどれをも持たず、彼女はそのままの格好でバスルームに入室したに違いない。
予感が確信に変わり、二一六番が体を起こして振り返った時、それは確かな形で現実にいた。水浸しの床と、びしょびしょの服を着たイナミ。頭からつま先、トレードマークのマフラーまでもが、濡れに濡れていた。その姿を認めた二一六番は軽く頭を押さえた。
「イナミ。風呂の入り方を知らないのか?」
「うん、初めてですよ」
微妙にズレた返事だったが、二一六番には十分だった。先程チェストにしまい込んだバスタオルをイナミに投げ渡し、適当な下着一式と服も放り投げた。いずれもイナミの肩や頭に引っかかる。
「あ、お風呂は着替えをする場所でもあるんですね。なるほど、道理で衣服洗浄用の装置がバスルームの近くにあるわけです」
「もう一度だ、イナミ。入り方を説明するから、よく聞くように」
二一六番は半ば呆れながら、イナミに風呂の入り方を説明した。濡れ鼠のイナミに、一つ一つ丁寧に。
「まず風呂に入る前は服を脱ぐ。今は脱ぐな。頼むから」
「はーい。脱ぎません」
素直なイナミだったが、言う寸前まで手がスカートに掛かっていた。少し下げたそれを引き上げる。てへへと可愛らしくおどけるが、二一六番は気が気ではなかった。
(この女、変だとは心の奥底で思ってたけど、やっぱり変だ!)
二一六番は脱いだ服を脱衣籠か、バスルームの扉正面に設置してあるドラム型洗濯機に入れるように教え、バスルームの扉を開けた。中は暖かな空気で満ちており、せめてお湯を浴びていたことがわかったのが僥倖といえば僥倖だった。風呂ではお湯を浴びるものという認識はあったらしい。
「服を脱いで風呂に入ったら、お湯を浴びる。この容器には髪を洗うヤツ、こっちは体を洗うヤツが入ってる」
女性の風呂はもっと複雑なものらしいが、二一六番には知る由もない。話すことすらできなかった。シャンプーの容器とボディソープの容器を説明して、それぞれを洗いたい場所に擦り付けることも説明した。
「最後に洗い流して、タオルで拭いて終わり。わかったか?」
「はーい!わかりました」
右手を高く挙げ、生徒のように笑顔を返す。ならばよし、と二一六番は大きく頷いた。視線が下を向いた刹那、脱衣籠に入れた着替えが目に入る。黒の下着が扇情的で、二一六番は一人赤面する。
「わ、わかったなら早く入ってくれ。風邪を引くから」
「はい、ありがとうございます。えーと、服を脱ぐ……洗濯機に入れる……」
バスルームのイナミをそのままに、二一六番は彼女から背を向けてベッドに座り込んだ。顔が上気している。鼓動が速い。会って三回目のイナミを女性として意識していた。
(ああ、もう。そんな意識を持つつもりはなかったのに)
シャワーを浴びる音が聞こえてくる。そんなつもりは毛頭なかったのに、本当に男女の関係のようではないか。いかんいかんと頭を振り、二一六番は立ち上がった。アパートのすぐ隣にあるコンビニエンスストアにでも行き、適当な雑誌を立ち読みしようかとも思ったが、風呂から上がったイナミが、自分を探して裸のまま出歩く想像をしてやめた。
「とりあえず、洗濯機回すか……」
放り込まれた服は新品ゆえに汚れてはいなかったが、動くかどうかのテストもしたかった。二一六番は何も考えずに開始ボタンを押し、洗濯機が動くのを待った。少しの間隔を開け、注水が開始された。ここまで動けば心配はいらない。二一六番はベッドに戻った。僅かな違和感を感じたが、それは時間が経てば判明することだった。
三十分ほど経ち、イナミが風呂から上がってくる音を聞いた二一六番は、その方向に視線をやった。……やはり、床が濡れている。先に感じた違和感の正体が見えた。ドラムの中にマフラーが入っていなかったのだ。
いや、イナミのマフラーは毛糸で編まれたものだ。洗濯機で洗うべきではない。それは二一六番も理解していた。後から取り出せばいいだろう。水浸しだから陽当たりの良いところに置いて乾かせばいい。そう考えた二一六番だったが、ドラムに入っていないことを完全に見落とした。脱衣籠は見ることすらできなかった。
「どうしたんですか?頭を抱えて」
何も知らないイナミだけが、再び床を濡らして現れた。二一六番は軽い頭痛を覚え、しかし何か可笑しさも感じた。
(イナミは変だけど、まあこれも個性、かな?)
その姿を見ると、案の定マフラーが濡れていた。滴る水が、せっかく着替えた新品のTシャツを濡らしている。それすらも面白くて、二一六番は大笑いした。
「はは、ははははは……!!イナミ、お前、マフラーだけは絶対外さないのか、くく……」
イナミは何が可笑しいのか理解できないという風に、元気よく頷いた。はいという声が、部屋に暖かく溶けていった。
数度、角を曲がり、
その行き止まりに到着した。
行き止まりの壁に触れてみると、どうやら開けっ放しのようだった。通路まで解放されており、短い階段を降りると、その部屋は殺風景なままだった。一日で何が変わるのかと二一六番は考えたが、変わっていないのは部屋の主も同じだった。
「あら、二一六番さん。ご無事で何よりです」
ベッドに腰掛けて読書をしていたようだ。変わったのは本を持っているという一点のみで、乱れた髪も、汚れ破れた服も、均整の取れた顔も、何も変わらない。微笑を浮かべ、二一六番はイナミを見た。ただし、そのやや後ろを。
「ありがとう。イナミのお陰だ」
対する二一六番は短く返礼をし、頭を下げた。昨晩は巻き込まないことを返礼と考えたが、それを忘れて話に興じてしまった。追われていることを時に忘れてしまうほど、二一六番は楽しんでいた。それだけに、同時に謝罪も述べねば気が済まなかった。
「それと、済まない。昨日ここにいたことで、イナミが俺の関わったことに巻き込まれる可能性もあったのに、泊めて貰って」
イナミは腿の上に置いていた栞をハードカバーの本に挟み、それを閉じた。パタリと音を立て、二人の会話を途切れさせる。意識したわけではなく、偶然に大きな音が鳴っただけだった。
「あ、ごめんなさい……」
照れくさそうに謝るイナミだが、それは二一六番も同じだった。昨晩の浮かれた自分がどこか照れくさく、入室時からイナミの顔を真っ直ぐに見られない。目を逸らし、壁や天井に視線を這わせた。
(ああ、昨晩ははしゃぎ過ぎた。あんな感情は初めてだったから、つい乗ってしまった……)
二一六番が後悔に流されていると、イナミがそれを見てくすくすと笑った。気持ちを暴かれたと思った二一六番は、そこでようやくイナミを直視した。
「な、何か可笑しいか」
イナミは笑いを止めずに、いえ、いえと手を振る。下を向く顔と表情は長い髪に隠れて表情は見えなかったが、漏れる声は確かに笑い声だった。
「可笑しいです。だって二一六番さん、とても恥ずかしそうで」
二一六番は赤面する。自分のはしゃぎ振りを笑われたのだ。多少なり恥ずかしい思いもあるだろう。それを振り払う手段を知らなかった二一六番は、イナミに対して話題を逸らすことしか出来なかった。
「お、お前はどうなんだ?」
イナミもようやく二一六番を見た。お互いに赤面しているのが理解できる。二人は同じ表情で、照れているのか笑っているのか、あるいは少しふてくされているのか。複雑な表情だった。
(ああ、同じなのか。イナミも楽しんでくれたんだ)
得心し、二一六番は表情を和らげた。おどおどしながら答えるイナミを制して話し出す。
「わ、私ですか?私は、その」
「いいよ、よく分かった。楽しんでくれてありがとう」
「あ、うん、あの、はい」
照れくさくて俯いたイナミをそのままに、二一六番は部屋の中央に四つある椅子の一つに腰掛けた。テーブルに肘を置き、本題を切り出す。
「それで、二日連続でごめん。相談があるんだ」
イナミは顔を上げ、手を両膝に置いたまま小首を傾げた。「相談?」と言わんばかりの表情で目を丸くしている。乱れた髪と破れた服以外は、令嬢のような仕草だ。
「昨日、俺は名前を貰いに行くと行っただろ」
「はい。言っていました。あ、貰えたのですか?おめでとうございます!」
二一六番の表情は変わらなかった。真顔のまま、隠れ家を出てからのことを簡単に説明した。無論、組織のことや仲間のことは話さなかったが。
「なるほど。名前は自分で考えるものだったのですね」
「そうなんだ。それで、自分の名前をどうするか困っていて」
「うーん、そうですね。何か、リクエストはありますか?こんな名前がいい、という風な」
二一六番は考えたが、特に思いつかなかった。彼が名前に求めるものは、個人としての記号でしかなかった。だから名前を決めていいと言われたとき、どのような名前でも良いと思う反面、どのような名前が良いのかという疑問も生まれてしまった。
「…………それが、わからない。俺にとって名前は自分を定義する記号でしかなかった。名前を持つことが大事で、名前自体に興味はなかったんだ」
「えーと、それなら適当な名前を決めれば良かったのではないでしょうか?」
「確かにそうなんだけど、……いざ自分で名前を考えた時に、どんな名前も何故かしっくり来ない。だから相談にきた」
「なるほど、確かに私、昨日自分の名前を決めていましたからね。相談相手にはうってつけです」
イナミは薄い胸をえへんと張った。二一六番は何も言わなかったが、昨晩のことを思い出していた。名前を尋ねたら「聞いてみる」と言った彼女を。誰に、どのように聞いたのかは不明だが、自分の名前はその時に決めたものだろう。それは本人も認めた通りだ。
二一六番はイナミという名前を気に入っていた。響きが柔らかいし、その柔らかさは彼女自身の微笑に合っていた。違和感のない名前を、自分自身に付けられることが羨ましかった。
「……そうだな。君はうってつけだ。じゃあ、ここからが相談の内容なんだけどさ」
そう、二一六番がイナミに持ち掛ける相談は、自分自身の名前を決めてもらうことではない。それは相談ではなく判断の委譲だ。
「あれ、名前を決めることではないんですね」
「それは自分でやるよ。イナミに相談したいのは、名前の決め方だ」
「あ、なるほど。そういうことですか」
イナミは顎に右人差し指を当て、天井を見つめた。うーんといううなり声と共に、自分の名前を決めたときのことを思い出しているようだ。
「……名前を、俺にイナミと名乗った時、どういう風に考えたんだ?」
「あ!はい、えっと、足し算です」
考え事の最中に声を掛けられたイナミはビクリとしたが、その時のことを正直に答えた。
「何と何を足したんだ?」
「自分にとって大切な数字を、二つですね。その合計を読むと、イナミになりました。百七十三です」
イナミはにこやかにそう言った。二一六番は自分の名前が数字であったことを忌避していた。それは部隊の仲間も同じだった。だから語呂合わせがし易い二一七番は自分をニーナと名乗っていたし、他にもそういう人間は組織にいた。しかしこの女は、自分の名前を数字にした。二一六番にとって、その判断は自分の理解を超えたものだった。それではまるで、機械のようではないかと。しかし、それを踏まえてもなお、彼女の名前は胸にストンと落ちた。
「それは、うん、名前を知らない俺が言うのもなんだけど、すごくいい名前だ」
実際は複雑な感情だったが、そのことも本心の一端だった。自分に由縁のあるものを名前の一部に。そんなことが出来ればいい。
「ありがとうございます。でも、いえ、今は二一六番さんのお名前ですね」
「ああ、ありがとう。でも聞きたいことは聞けた。名前は自分で考えるよ。お礼も言えたし、今日はお暇する」
二一六番は立ち上がり、出入り口に向けて歩を進めた。イナミも立ち上がり、見送りに出る。階段を昇り、通路を抜けた先で互いに挨拶をした。
「今日はありがとう。短い時間だったけど、また話せて嬉しかった」
イナミは破顔し、
「またいらしてくださいね。外からここを開閉する方法を教えておきます」
と、二一六番にその手順を示した。隠し通路を見て右の壁は煉瓦模様のタイル張りになっており、その一部は外れるようになっている。それを外して、ボタンを押せば開閉できるようだ。長押しをしたり二度押しをしたりといくつかの操作が必要らしい。
(なるほど、この操作が毎度必要なら、確かに外から開けられることはないな)
「正しい操作をすると、その都度ボタンが振動しますので、参考にしてください。操作は覚えましたか?」
「ありがとう、覚えたよ」
「ではまた、いつでもいらしてください。お待ちしております」
「そちらこそ、いつでも家に来てくれ。路地裏から出て、正面に見えるアパートの二〇三号室だ」
「あら、ご近所ですね。では、またお会いしましょう」
イナミは再び隠し通路を開き、その中に戻っていった。通路は開けっ放しだった。
「……不用心な」
二一六番は先程教わったばかりの方法で通路を閉じ、路地裏を後にした。通路に戻るイナミの後ろ姿、その乱れた髪と汚れた服が、妙に気になった。
(……やっぱり、どうにかした方がいい、な)
このとき、二一六番の頭の中にはある目標が浮かんだ。自分にとって初めての“やりたいこと”に、二一六番はひどく興奮した。歩きながらそのことを考えて、通りを渡りきった。アパートの前に着くと、そのすぐ隣にあるコンビニエンスストアが目に入る。そういえば現金の持ち合わせがない。二一六番は自室から預金通帳の間に挟まったキャッシュカードを持ち出し、コンビニに入った。
自動扉の閉まる音と、気の抜けた店員の挨拶を無視してATMへ。当面は不足のない分の現金を引き下ろし、無造作にポケットに押し込んだ。
(これだけあれば足りるだろう。後は明日でいいか……)
その後、二一六番は夕飯と飲み物、いくつかの雑誌を購入し、アパートに戻った。店員には怪訝な目で見られたものの、支払いは問題なく済んだ。
部屋に入ると同時、後ろ手に鍵を閉めた。後ろめたいことはなかったが、買った雑誌を見られたくなかったのだろう。
(まさか、二一七番が好きそうな雑誌を買うことになるとは)
購入した雑誌は女性もののファッション誌だった。派手目な下着や、装飾の多い衣服を着た女性が並んでいる。それらはいずれも二一六番には新鮮に見えた。
(服なんて、必要な機能さえあれば何でもいいと思ってたんだけどな。色々あるもんだ)
必要のない模様や刺繍、短過ぎる丈のスカート。確かに可愛らしいとは思う。しかし、着せたい相手にはどうも似合う気がしなかった。汚れ破れた服を着た彼女には。
同じ頃、イナミは隠れ家で読書の続きをしていた。ベッドに腰掛け、時には寝転びながら。
それは人間の書いた、人間の恋愛を描く小説らしい。イナミには恋愛が分からなかったが、恋愛をするということの本質は理解できた。また、それが物語になる理由も。
恋愛は相互理解の一種で、友愛や家族愛に並び、物語のテーマとされることが多い。いずれも人の生死を話の根幹に据えることが多く、読者をより楽しませるために感情を移入させる。そのための演出として、登場人物にはわかりやすい欠点が備えられており、読者に親近感を抱かせる。感情移入した人物が死んだり、または生死の境を彷徨うことで、読者は感動に胸を打たれるようだ。
感動のメカニズムは理解したが、イナミはそれを読んでも感動の表情を浮かべなかった。無表情で、どうでも良さそうな顔をして読了する。
「感想?そうだなー、女性向けの恋愛物は飽きたかな。沢山読んだから、そろそろ違う色合いのものを読みたい」
会話のような独り言は、彼女自身も意識せずにに発したものだ。対話の相手が誰にも見えないのだから、それは独り言に他ならない。イナミはそれを続けた。
「例えばー、うーん、えーと、あー、二一六番さんなら、何かアイデアをくれるかも。次に会ったら相談してみよう」
イナミは昨日出会った男、人間の男のことが気になっていた。どこからどう見ても人間の彼は昨日、自分は“まだ”人間じゃないと言った。彼の口振りから察するに、名前を貰うことが人間になるために必要なことらしい。人間にも色々あるようだ。
「気になるかって言えば気になる。だって、あの人はどう見たって“私達”だよ。初めて出会えた“私達”」
イナミは二一六番と話すとき、自身でも分かるほどに高揚していた。それを相手に伝わらせないように表情を隠していたが、微笑が常に漏れていることを二一六番は気付いている。彼はそれをイナミの人柄だと思い込んでいるが、実際は異なる理由から来るものだ。
イナミは努めて無表情で彼に接しているつもりだ。だから少し心配でもあった。冷たい奴だと思われてはいないだろうかと。その杞憂は、今日彼が訪ねてくれたことで霧消した。彼が訪ねやすいよう、隠し通路を開放していて正解だった。
そして再び自分以外の“私達”に会えたことで、イナミはとても機嫌が良かった。目覚めてからずっと重かった頭が嘘のように軽くなり、このところ読んでいるそれに出てくる、片思いをする少女のような心境だった。違うことは、抱く感情が恋愛とは異なること。しかし惹かれていること。
「明日は二一六番さん、来てくれるかな」
そんな呟きは殺風景な部屋に溶け、イナミは彼の来訪を待ち続ける。
五日後、二一六番は悩み続けていた。彼は自身の定義する人間になる前に、一般的な人間らしい悩みを抱えていた。自身の名前を決めることもそうだったが、それと同じくらいに悩むことがあった。
この五日間、ベッドや床の上でろくに体も動かさず、ひたすらに唸っていた。悩み事は二つあるが、自身の名前については、間に合わなければ雑に決めるだけでいい。問題はもう片方。
「…………ああ、これじゃあまるで」
そよ悩みは最近知り合った女、イナミのことだった。彼女の汚れた服や乱れた髪が気になって仕方がない。女を知らない二一六番だったが、それでもイナミの格好は、世間一般の女性がするものではないだろう。
「そもそも、俺は人に贈り物をしたことがない……」
自分を助けてくれた礼はしたいと思う。礼の形を考えた結果、その装いを整えることは一般的に礼になると、二一六番は考えた。しかし、彼は贈り物などをしたことはない。物々交換の経験はあるが、いずれも自分から提案したことはない。相手が欲する物を分かっている場合を除き、取引というものを行った経験がないのだ。
「ああ、本当に、まるで恋煩いだ」
枕に顔を押し付けつつジタバタと手足をバタつかせる中、部屋の呼び鈴が鳴った。続けてノックも。
「しまった。騒ぎすぎたか」
組織の隠れ家でもこういうことがあった。二一七番は騒がしい女だったから、隣から苦情が来ることもあった。その都度二一八番が彼女を叱りつけたものだ。しゅんとした顔でこちらを見るものだから、彼女を庇う役はいつも俺だった。
玄関扉に近付くにつれ、ノックの音は大きくなった。徐々に強くしているらしい。相手は相当ご立腹だ。二一六番は扉を開けると同時に謝った。
「はい。ごめんなさい、うるさかったでしょ、う……か…………?」
扉を開けて来客の姿を認めると、その姿は見覚えのない隣人ではなく、見覚えのある乱れ髪と汚れた服、それに真っ赤なマフラーだった。イナミだ。
「イナ、……ミ?」
「ええ、こんにちは」
表情こそにこやかだったが、怒っているのは明らかだった。語気が強く、有無を言わせない迫力を伴っている。二一六番は上擦った声で尋ねた。
「あ、あの、イナミ?今日は、どうした、のかな?」
「あら、立ち話もなんですから、とりあえず上がってもよろしいですか?いいですよね?お邪魔しますね」
二一六番の返答も聞かず、イナミは部屋に上がり込んだ。靴も脱がずに、ベッドに腰掛けている。表情は怒りと悲しみが入り混じったそれで、二一六番と目を合わせるつもりは無いようだった。部屋の窓から、ずっと外を見ている。
「あのー、イナミ、さん?」
「…………」
二一六番が声を掛けるも、返答はない。ぷいと顔を背けるばかりだ。二一六番には心当たりがなかった。彼女がこうも怒ることは想像すらできなかったし、怒るにしても、二一七番とも違うタイプだ。二一六番には対処ができず、ただ謝ることしかできなかった。
「俺が悪かった。悪かったから、怒っている理由を教えてくれ。頼む」
二一六番にはお手上げだった。彼女が怒るにしても、理由が分からなければ正しい謝り方すらできない。彼に出来ることは、怒らせたという事実のみを認め、ただ謝罪することだけだった。数度、謝りながら頭を下げると、彼女はようやく話し出した。
「………………って、言ったのに……」
「え……?」
余りにか細い声。前半部分は二一六番には聞き取れず、間抜けにも聞き返すことになる。それが、イナミの感情に火をつけた。
「来てくれるって、言ったのじゃないですか!どうして五日も来なかったんですか!」
泣きながら言われるも、二一六番は彼女に引いていた。確かにまた会おうと口約束をした。いつでも来てくれとも言った。しかし、二回会って話しただけの女に、恩人とはいえここまでされると、どうも気持ちが引いてしまっていた。
「え、えぇ……」
イナミはそこからベッドの上に鎮座している枕に顔を埋めて泣き始めた。二一六番が呆然としていると、彼女は枕元に置いていたそれに気付く。
「うぇぇぇぇん………………なんでずか、これ」
鼻をすすりながら手に取ったそれを、顔を伏せつつ見ると、女性物のファッション誌だった。表紙のモデルと自分の格好を見比べ、イナミは更に泣いた。もちろん、枕に顔を埋めて。
「こんな写真の女の人に夢中で、わだじとの約束破ったんだぁぁぁぁ……」
「あ、あの、それは」
二一六番は彼女のあまりの泣き振りに引きながらも、理由を説明することに気恥ずかしさも覚えていた。それは目の前にいるイナミの為のもので、断じて自分の為に購入したものではなかったからだ。
「それは、なんでずが?可愛い女の人です。間違いないです」
イナミはようやく体を起こして二一六番を見た。雑誌を突きつけ、浮気を疑う面倒な女のようだ。彼は赤面し、イナミを直接見られないようだった。イナミにはそれも怒りの対象となった。
「ぐず、私の顔を見て言ってくだざい!ぐず」
二一六番は観念し、イナミが持っている雑誌について説明を始めた。彼女が怒らないように、彼女の顔を見て。
「そ、それは!イナミのために買ったものだ」
「え……?わだじの、ため、れすか?」
鼻声のイナミはその一言で泣き止み始めた。次の一言を期待するように二一六番を見つめる。目に涙は浮かんでいたが、もう声を上げて泣くことはしなかった。
「あの、イナミは、さ。今日もそうだけど、汚れた服を着ているだろう。匿ってくれたお礼に、何か、贈り物できたらなー、って……」
理由の説明はこれで半分だ。イナミも当然納得するはずもなく、
「えへへぇ……」
頬に片手を添え、蕩けるような顔で納得しかかっていたが、それでも怒っている部分の解決ではない。イナミにとって当然の疑問を提示した。
「じゃあ、どうして五日も来なかったんですか?」
努めて怒った声を出そうとしているが、顔がにやけているので説得力はない。ていうか、傍目にはもう怒ってない。むしろ上機嫌にしか見えない。
「贈り物って、したことなくて……どうしていいか、わからなくて。悩んでたら、五日も経ってた」
「えへ、そうなんですかぁ、えへへ……」
二一六番は彼女の表情を見て、引いた気持ちの分だけ申し訳なさを感じた。ここまで感情が激しく動くほどに自分との会話が楽しみだったのだ。彼女に対して憎い感情が沸くはずもない。
「その、…………ごめん」
謝ることしかできなかった。イナミはもう完全に機嫌を直したようで、目を輝かせながら続きを待っている。雑誌にはしわが入る程の力が込められていた。
「良かった、ら。服を贈らせて欲しい。何が似合うか俺には分からないから、一緒に選んでくれると、助かる」
イナミはにやけ顔を最大限締めようとして、それでもやっぱり顔は蕩けている。返事をするのも忘れて、整わない身なりのまま、二一六番を引っ張り出した。外はまだ午前中。街が動き出す頃合だ。二人は手を取り合って出掛ける恋人のようだった。
そして時間が経ち、
女は身なりを整え、
男は疲れ果てた。
購入した衣服は、どれも高いものではなかった。シンプルながら安くて質の良い服が揃う、有名な衣類店が近くにあったためだ。二一六番は先日引き出したお金の大半を使い、自分の生活に必要なものの他、イナミに服を買い与えた。それは二一六番にも楽しい時間であったし、イナミにとっては至福の連続だった。ただ、二一六番にとっては、荷物が重く、両手両腕が痛むことだけが苦痛だった。
買い物に一区切りを迎え、二人はアパートに帰ってきていた。昼食を摂ることさえ忘れて、服の取り合わせを考えている。
イナミは出先で購入したものに服を着替え、それまで着ていた服を買い物袋の奥底に仕舞い込んでいた。見た目は以前の服を修繕しただけのように見えなくもないが、歴とした新品だ。相も変わらず、季節はずれのマフラーだけが目立っている。
汚れた服を捨てない理由について二一六番は詮索しなかったが、それも時間が経つにつれ忘れてしまっていた。
服の問題は解決したが、二一六番には気になることがもう一つあった。彼女の髪のことだ。二一七番は自身の髪をとても大切にしていたし、二一五番や二一八番が気安く触ることを許さなかった。毎朝それを弄っていたし、任務外の時間では、彼女は年相応の少女でしかなかった。二一六番は、イナミもそうあるべきだと考えた。それが人間の普通らしいのだから。
イナミは買ってきた衣服を取っ替え引っ替えし、二一六番相手にファッションショー気分だ。キッチンに座り込んだ二一六番は、呼びかけるようにイナミに提案した。
「服は解決したし、次は髪をどうにかしよう!」
イナミはご機嫌に、ブラウンのチュニックを胸元に合わせているところだった。二一六番の提案の意図が不明だったのか、頭上に疑問符がありありと浮かぶような顔で、キッチンまでそのままの姿で現れ、二一六番をじっと見つめる。
「髪ですか?服と違い、特に困ってはいませんよ」
チュニックを胸に合わせたまま踊るような仕草を取るイナミを見て、二一六番は今朝の騒ぎを思い出していた。面倒だと思っていたが、にこにことご機嫌な姿を見せてくれている今を鑑みれば、今朝の泣きっ振りが可愛らしいものに思えてくる。
(機嫌は完全に直ってくれたみたいだ。良かった。お礼も、できたと思っていいかな)
安堵した二一六番を見るイナミの表情は、邪気のないそれだ。天真爛漫を絵に描いた様な顔と言ってもいい。チュニックを床に置いて、「どうしましたか?」と小首を傾げた。
二一六番は胡座を解いて立ち上がり、「乱れた髪を整えよう」と続けようとした。が、女性が果たして髪をいじることを提案して喜ぶだろうか?
そういえば二一七番は任務外の時間によく髪をいじっていた。結び方やその道具、髪の色や服装に合わせたヘアスタイルがあるらしく、二一五番が「邪魔だろう、それ」と声を掛けようものなら、翌朝まで落ち込む程だった。それほどまでに、髪は女にとって大切なものなのだろう。そう考えると、二一六番はイナミ対し、安易な発言ができなくなっていた。
「……うーん。それも個性なのか……?」
「?」
疑問符を頭の上に浮かべて目を丸くしているイナミだが、二一六番の言うことも理解できた。暇潰しに行っている日課の散歩途中ですれ違う女性は、誰もが髪を大切にしているようだったし、自分のそれとは違って、彼女らの髪には艶があった。
(そういえば、みんな綺麗だよね、髪。私みたいにぱさぱさじゃなかった)
中には地毛を異なる色に染めている者もいた。周囲とは異なり目立つヘアスタイルにする者もいた。その理由について考えることはしなかったが、イナミは自分なりに思考する。
(髪は大切、だから色を変えたり、結い方を変えたりする。どうして?多分、人間はそうするのが普通だから。でも私は人間じゃないし、うーん)
思考が空回りする。気付けば口から音が漏れていた。うーんと唸るイナミだったが、考えていることは簡単だった。人間ではない(と定義している)自分が、果たして人間が取る行いを模倣してよいものか。ということだ。
(でも日課の散歩は人間の真似じゃない?うん?あれ、わからなくなってきた……)
「とりあえず、さ」
悩むイナミの肩を軽く叩き、二一六番はキッチンからベッドのある自室へ入り込んだ。衣類にまみれた自室の惨状に溜め息を吐きつつ、イナミに言う。
「髪、洗いなよ。お風呂使ってさ」
風呂を女に勧める男の図。男女の営みにおける事前準備にも聞こえなくはないが、洗う場所を髪に限定しているだけ健全に聞こえるだろうか。イナミにはそう聞こえたようで、
「うー、うん、そうします」
と、疑問符を浮かべながらも浴室に入り込んで行った。シャワーを出す音が直ぐに聞こえてくる。今頃は飛沫に打たれていることだろう。二一六番はその音を聞いて微笑すると、軽く息を吐いてワイシャツの袖を捲った。
「とりあえず片付けよう」
これらを全て持ってあの狭い路地裏を通るのは困難だ。持って行けるだけを纏めて、残りは次回にイナミの隠れ家に行くときにでも持って行けばいい。大まかに、トップスとボトムスを袋一つずつに分けた。結構な量ではあったが、この程度なら路地裏に持って入れそうだ。
部屋にようやく足の踏み場が生まれて、ベッドの上も綺麗に片付いた。二一六番は疲れからベッドに沈み込んだ。微睡みが押し寄せてくる。数時間程度のことだったが、女と買い物に行くことは初めてだったから、それなりに緊張はした。沢山の感情を見せてくれて、イナミとの距離は近付いた気もするものの、彼らがお互いに顔を合わせるのは、まだたったの三回目なのだということをすっかり忘れている。それほどに、幸福感のある疲労だった。
(こういうのも、人間の生活なんだろうか)
考えながら眠りに落ちる寸前、ぴちゃりぴちゃりと音が聞こえた。キッチンの方からだ。というより、バスルームの方からだ。そういえば、イナミが服を脱ぐ音や、そのために生じるバスルーム入室のタイムラグはあっただろうか?
(いや、な、まさかまさか。イナミが少し変わってるとは言え、着衣風呂なんてことするわけが)
そこまで考えて、それは願望だと気付いた。髪を洗えと言ってからバスルームに入るまでに、彼女はタオルも持たなかったし、着替えも持たなかった。部屋の片隅に隠すように散らかった下着一式や未だに散乱した服のどれをも持たず、彼女はそのままの格好でバスルームに入室したに違いない。
予感が確信に変わり、二一六番が体を起こして振り返った時、それは確かな形で現実にいた。水浸しの床と、びしょびしょの服を着たイナミ。頭からつま先、トレードマークのマフラーまでもが、濡れに濡れていた。その姿を認めた二一六番は軽く頭を押さえた。
「イナミ。風呂の入り方を知らないのか?」
「うん、初めてですよ」
微妙にズレた返事だったが、二一六番には十分だった。先程チェストにしまい込んだバスタオルをイナミに投げ渡し、適当な下着一式と服も放り投げた。いずれもイナミの肩や頭に引っかかる。
「あ、お風呂は着替えをする場所でもあるんですね。なるほど、道理で衣服洗浄用の装置がバスルームの近くにあるわけです」
「もう一度だ、イナミ。入り方を説明するから、よく聞くように」
二一六番は半ば呆れながら、イナミに風呂の入り方を説明した。濡れ鼠のイナミに、一つ一つ丁寧に。
「まず風呂に入る前は服を脱ぐ。今は脱ぐな。頼むから」
「はーい。脱ぎません」
素直なイナミだったが、言う寸前まで手がスカートに掛かっていた。少し下げたそれを引き上げる。てへへと可愛らしくおどけるが、二一六番は気が気ではなかった。
(この女、変だとは心の奥底で思ってたけど、やっぱり変だ!)
二一六番は脱いだ服を脱衣籠か、バスルームの扉正面に設置してあるドラム型洗濯機に入れるように教え、バスルームの扉を開けた。中は暖かな空気で満ちており、せめてお湯を浴びていたことがわかったのが僥倖といえば僥倖だった。風呂ではお湯を浴びるものという認識はあったらしい。
「服を脱いで風呂に入ったら、お湯を浴びる。この容器には髪を洗うヤツ、こっちは体を洗うヤツが入ってる」
女性の風呂はもっと複雑なものらしいが、二一六番には知る由もない。話すことすらできなかった。シャンプーの容器とボディソープの容器を説明して、それぞれを洗いたい場所に擦り付けることも説明した。
「最後に洗い流して、タオルで拭いて終わり。わかったか?」
「はーい!わかりました」
右手を高く挙げ、生徒のように笑顔を返す。ならばよし、と二一六番は大きく頷いた。視線が下を向いた刹那、脱衣籠に入れた着替えが目に入る。黒の下着が扇情的で、二一六番は一人赤面する。
「わ、わかったなら早く入ってくれ。風邪を引くから」
「はい、ありがとうございます。えーと、服を脱ぐ……洗濯機に入れる……」
バスルームのイナミをそのままに、二一六番は彼女から背を向けてベッドに座り込んだ。顔が上気している。鼓動が速い。会って三回目のイナミを女性として意識していた。
(ああ、もう。そんな意識を持つつもりはなかったのに)
シャワーを浴びる音が聞こえてくる。そんなつもりは毛頭なかったのに、本当に男女の関係のようではないか。いかんいかんと頭を振り、二一六番は立ち上がった。アパートのすぐ隣にあるコンビニエンスストアにでも行き、適当な雑誌を立ち読みしようかとも思ったが、風呂から上がったイナミが、自分を探して裸のまま出歩く想像をしてやめた。
「とりあえず、洗濯機回すか……」
放り込まれた服は新品ゆえに汚れてはいなかったが、動くかどうかのテストもしたかった。二一六番は何も考えずに開始ボタンを押し、洗濯機が動くのを待った。少しの間隔を開け、注水が開始された。ここまで動けば心配はいらない。二一六番はベッドに戻った。僅かな違和感を感じたが、それは時間が経てば判明することだった。
三十分ほど経ち、イナミが風呂から上がってくる音を聞いた二一六番は、その方向に視線をやった。……やはり、床が濡れている。先に感じた違和感の正体が見えた。ドラムの中にマフラーが入っていなかったのだ。
いや、イナミのマフラーは毛糸で編まれたものだ。洗濯機で洗うべきではない。それは二一六番も理解していた。後から取り出せばいいだろう。水浸しだから陽当たりの良いところに置いて乾かせばいい。そう考えた二一六番だったが、ドラムに入っていないことを完全に見落とした。脱衣籠は見ることすらできなかった。
「どうしたんですか?頭を抱えて」
何も知らないイナミだけが、再び床を濡らして現れた。二一六番は軽い頭痛を覚え、しかし何か可笑しさも感じた。
(イナミは変だけど、まあこれも個性、かな?)
その姿を見ると、案の定マフラーが濡れていた。滴る水が、せっかく着替えた新品のTシャツを濡らしている。それすらも面白くて、二一六番は大笑いした。
「はは、ははははは……!!イナミ、お前、マフラーだけは絶対外さないのか、くく……」
イナミは何が可笑しいのか理解できないという風に、元気よく頷いた。はいという声が、部屋に暖かく溶けていった。
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