機械仕掛けと墓荒らし

山本航

そういう可能性

 鼻がひん曲がりそうな悪臭だと感じていたのはいつ頃までだったろうか、とトマウは思い馳せた。今でも悪臭だと感じているが、かつての強烈な不快感は失われた。慣れというのは恐ろしい、とトマウは思う。ケスパーの製霊工場の死臭は事務所の奥の隅々まで行き渡っている。虫はあまり集っていない。殺虫剤の経費に唸るケスパーはよく見る光景だ。

 もうトマウに擦り傷はほとんど無く、微かな痛みはあるが日常生活に支障はなくなった。
 体を慣らしがてら棄て山にでも行こうと少しばかり外を出歩く。すぐさまメルキンに見つかってしまった。この男は人を見つける才能があるのかもしれない、とトマウは常々思っている。あるいは俺を探す才能かもしれないという考えがよぎりトマウは身震いする。

 いつもの事務所にいつもの面々、ケスパーに秘書兼用心棒のグムタ、妙に重宝されるメルキン。
 そして見知らぬ男がソファの一つに座っていた。赤茶色の三つ揃えはいかにも高級そうな装いだが、その目は鋭く、裏社会の人間のように思えた。執拗に袖口の折り目を付けているが、目線は真っすぐ前の黄ばんだ壁に向けられている。

「久しぶりだなぁ、トマウ。橋から落ちたって聞いたぜぇ。なあメルキン」

 革張りの椅子に深く身を沈めたケスパーは細く鋭い目でトマウのつま先から旋毛まで舐めるように見る。

「はい。そうですね。この目で見ましたよ。男達との攻防の末に橋から落ちるトマウと棺。まるでソクトスの夕陽の殺陣みたいでしたよ。でもやっぱり生きてたんですね」

 演劇に例えられてもトマウにはぴんと来なかった。どこまで見られたのかトマウは思い返したが、特に見られてまずい事はないはずだと考えた。

「やっぱりだぁ? まるで分かってたかのように言うじゃねえかよ、メルキン。あの高さから落ちて生きてると思ってたってのかぁ?」とケスパーは訝し気にメルキンを問い質す。
「いや、可能性の一つとしてですよ? 丁度棄て山の辺りだからゴミの山の頂上辺りに落ちればそれほど高くはないなって思ってたんです。あの様子から察するに偶然でしょうけどね。まぁ分かってても飛び降りる気にはなれませんけど、僕だったら」

 メルキンは一口に一気に言いのけた。

「……まぁいい」ケスパーはトマウに視線を戻す。「ところでトマウ。随分遅かったなぁ」
「怪我をしたんだ。あの高さから落ちたんだ。当然だろ?」
「それで? 棺がねえって事はもう引き渡したのか。それなら金を受け取っているはずだが、それもねえようだ。説明してくれるんだろうな?」

 トマウは事前に想定していた質問に事前に用意した回答を返す。

「棺は空だった。奴らの事情は知らないけど依頼は達成できなかった」。

 ケスパーの表情は変わらなかったが、目の色に冷たい光を帯び、ゆっくりと口を開いた。

「トマウ。俺様は一つ危惧しているんだ。もしかしたら『依頼通り棺の中には死体があった』のかもしれねえ。もしかしたら『死体を相手方に引き渡し、依頼を達成した』のかもしれねえ。もしかしたら『トマウは成功報酬の全額を受け取っている』のかもしれねえ。もしかしたら『トマウはケスパーにその事を黙っていて、そして引き渡すべき成功報酬の半分をくすねている』のかもしれねえ。分かるか?」

 ケスパーがそう言い終えるとトマウもまた口を開く。

「そういう可能性を考慮するのは当然だ」

 トマウが言い終える前にケスパーは手近にあった椅子を蹴飛ばした。弧を描いた椅子は壁にぶつかって足を折った。メルキンだけが小さく悲鳴を上げて退いた。

「そういう可能性を考慮するのは当然だ。そういう可能性は次の可能性に繋がるんだぜトマウ」そう言ってケスパーは立ち上がる。トマウを睨み付けてゆっくりと近づきながら言葉を続ける。「『トマウはケスパーに反感を持っている』のかもしれねえ。『トマウはケスパーの財産をも奪うつもり』なのかもしれねえ。『そうなる前にケスパーはトマウを殺すべき』なのかもしれねえ」

 トマウの目の前にまで来てケスパーは言い終えた。一呼吸置いて、トマウは真っすぐにケスパーを見つめ返す。

「そんなつもりはないし、そんな事にはならないと思ったから今ここにいるんだ。依頼は達成できなかったけど俺が失敗したわけじゃない。依頼主の方が失敗したんだ」

 ケスパーがため息をついた時、トマウは自分の後ろに何人か立っている事に気付いた。振り返ることは出来なかったが、ケスパーの私兵に取り囲まれている事は分かった。

「俺様が手に入れるはずだった金をお前は補填する事が出来るんだ、トマウ。分かるよなぁ?」

 燃料になってどこかの金持ちの自家用車を転がす自分をトマウは思い浮かべる。

「俺はあんたを散々稼がせてきたはずだろ、ケスパー。あの報酬は一人分の屍材なんかで見合わない」

 冷や汗が背中を伝うのを感じた。こんな所で死にたくはないとトマウは必死に考えた。しかし逃げる事も皆殺しにする事も不可能だ。
 何も言わないケスパーにトマウは叫ぶように言った。

「補填すればいいんだろ!」

 ケスパーが微かに手を振った。何の合図かは分からないが、トマウの後ろにいる者達への合図である事は分かった。

「当てがあるのかぁ?」
「無い。借金に上乗せすればいい」
「分かってねえようだなぁ、おい。トマウよぉ。俺様が今危惧しているのは金じゃあねえんだよ」

 嘘をつけ。金にならない他人の命に関心がある訳がない。自身の財産が狙われているだと? 中州の誰もが好機を伺っているに決まっているだろうが。そうトマウは頭の中で罵倒した。

「まあまあまあ。落ち着いてください」初めて三つ揃えの男が口を開いた。相も変わらず視線も姿勢も変えず、執念深く左腕の袖口の折り目をつけながら言い募る。「正直話はよく見えませんが、補填に加えてケスパー氏の危惧を晴らすに足る支払いをするというのはどうでしょう。幸いワタクシの用意した報酬はそれに足りる事ですし、ワタクシとしてもケスパー氏を散々稼がせたという彼のような優秀な人材に是非ともこの依頼を受けて欲しいものです。もちろん、それを決めるのはケスパー氏ですが。いかがでしょう?」

 ふふ、とケスパーは微笑んだ。元の椅子まで戻り、いつものようにふんぞり返り、そして親し気に両手を広げた。

「もちろん、そのつもりだ。だからお前を呼んだんだトマウ」

 トマウの頭は冷静さを取り戻していた。
 金に関してケスパーは嘘をつかない。確かにそうかもしれない。だがそれ以外の嘘によってトマウを縛り付けようとしている。少なくとも借金を完済させるつもりはない。借金完済が目前に迫り、トマウを手放すのを惜しんでいる。それでいて金に関しては嘘をつかないというケスパー自身の評判を失う事も惜しんでいる。
 奴を帝王たらしめている中州のドブネズミどもから得ている支持は信頼が支えている。
 ケスパーは必ず報いてくれる。
 仕事に見合う報酬で必ず報いてくれる。
 その人を動かす力を何よりも惜しんでいる。おそらくは、金よりも。
 分かっていたようで分かっていなかった。契約と金を命より重んじるケスパーは契約より金を重んじる人間だ。
 トマウの頭は冷静さを取り戻していた。十数年間失っていた冷静さを。

「それで、あんたは?」とトマウは三つ揃えの男に言った。

 男はやはり視線を逸らさず、空中に固定したまま、今度は右腕の袖口を折りながら 答える。

「あんたは? ですって? 名乗らねばなりませんか? この中州で? 私が何者か知る必要がありますか?」
「ここまでのこのことやって来れるあんたが自身の安全に関して何も手を打ってないとは思えないんだが」

 トマウは男の袖に見入りつつ答えた。最早アイロンをかけても戻らないくらいの折り目が付いている。

「素晴らしいご慧眼ですね。とはいえ本名は名乗れません。本名は。これでも大事なものを抱えておりますので」
「偽名でも何でもいい。呼びづらいだけだ。早く話を進めてくれ」
「バザ、と。お呼びください」

 バザ、とトマウは唇で形だけ呟いた。バザはまた左腕に戻って袖口を畳んでいる。

「さあ、商談だぁ。一体俺様に何をさせたいんだぁ。バザさんよぉ」

 ケスパーはバザに目を向けたが、バザはそれに応えなかった。ケスパーも特に気にしてはいない様子だ。

「まあ、そうですね。改めてお話ししましょうか。簡単な仕事なんですよ。少なくともやるべき事はとても単純なんです。ある屍材を手に入れて欲しいんです」

 それだけ言って反応を待つようにバザは黙った。

「墓荒らしって事でいいんだな?」とトマウは呟くように言った。
「いいえ。申し訳ありませんが墓荒らしとは限りません」
「限りません? どういう意味だ?」
「所在が分からないのです。今、現在どこにあるのか一切分かりません。中州にあるとも、中州にないとも限らないのです。ただし両岸と中州を含めたこのクヾホオク市から出た可能性は低いです」

 今度は中々に厳しい依頼だとトマウは思った。

「簡単に言うがねぇ、バザさん。広い街だぜぇ。俺様の手駒だけじゃあとても行き届かないだろうなぁ」
「もちろん承知しております。ですからそれなりの報酬とある程度の必要経費はワタクシどもで用意しております」

 バザの差しだした一枚の紙をケスパーが手に取って読む。ケスパーは紙に視線を落としながら言う。

「これだけ用意できるなら自分で探しようがあるんじゃねえかぁ?」
「ですからこうして探しているのですよ。専門家に頼むというのも一つの手段です」

 他にも手段を用意しているという事なのだろう、とトマウはぼんやり思った。いずれにせよ、この仕事で自分が何か出来るとは思えなかった。こんなものは人の数を揃えるしかないだろうし、最も確実だ。

「おや? トマウさん。あまりやる気を感じられませんね。ケスパー氏にお支払いするべき借金返済の足しになるはずですが。ああ、心配しなくとも発見者にはワタクシが直接報酬を支払いますよ」

 ケスパーの、バザへ向けられた視線に少しばかり憎しみが込められた。が、バザに気付いている様子はない。あるいは気付いたうえで無視しているのかもしれないが。ケスパーは低い地鳴りみたいな声で笑った。

「それどころか一気に完済できるぜぇトマウ。頼りにしてるんだぜぇ、俺様はよぉ」

 トマウは小さくため息をつき、バザに問う。

「それで? その屍材に関して何か情報はないのか? この街にある屍材を全て持って来いってんじゃあないだろ? 何か目印はないのかよ」

 ないはずがない。これだけの金を出せる屍材なんてトマウは聞いた事もなかった。安価であればこそ燃料には価値がある。
 バザは黙ってさらに紙切れを取り出し、机の上に置いた。写真だ。
 そこには女が写っている。栗色の腰まで届く長い髪を扇のように広げて、シミ一つない真っ白なシーツに横たわっている。身に着けている病衣もまた純白で、顔と髪と手足だけがそこに置いてあるかのように見える。
 それはスースの母だった。

「ハーシーという名の女でした。屍材とは言っても一体丸ごと盗まれてしまいましてね」とバザは淡々と言う。
「これは死んでるんだよな……」とトマウは思わず呟いてしまった。

 バザがこちらを向く。トマウは初めてバザを真正面から見た。その鋭い視線が真っ直ぐにトマウの両目に注がれる。

「『死んでるんだよな?』 それはどういう意味ですか? 屍材ですから当然死んでいますけれども。屍材が生きていてはおかしいですよね」

 トマウは目を逸らすまいと必死に耐え、頭を巡らせる。

「つまり、この写真を撮った時の話だよ。普通、屍材に服は着せない」
「ああ、そういう事ですか。確かに、この時には既に死んでいます。死んだ直後の写真ですね。ただ、しかし盗まれた時も服は着たままです。それも一つの目印になるかもしれませんね。まぁ、盗んだ者がこの屍材を運用するとして服を着せたままにはしないでしょうけれども」そう言ってバザはまた誰もいない方向へと視線を向け、唐突に立ち上がる。「申し訳ありませんがこれで全てです。ではケスパー氏。あとはよろしくお願いします」

 そう言ってバザは事務所から出て行った。
 トマウは頭の中で計算していた。簡単な足し算だ。バザから得る報酬。スースから得る報酬。そこにケスパーによる引き算はない。

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