竜神姫 ~白髪赤眼のモノノフ~

スサノオ

第六章 竜神姫 辰巳神千火




「その架け橋になれと?」

 千火の言葉にリヴァイアは頷いた。
 一度蔓延はびこりだした憎悪は、そう易々と消える物ではない。それは、戦乱の世に生を受け、憎み憎まれ奪い奪われる事が日常茶飯事だった千火にはよく理解出来た。ーーそして、結局それらを解消する為には、力あるいはそれに準じる相手を格段に上回る何かが必要と言うことも、よく分かっていた。
 どのような争い事も話し合いで解決しようなどとのたまう平和主義者もいるが、それが容易く成せる程現実は甘くはない。それでも成すものも稀にいるが、千火はその稀には当てはまらない。
 相手の憎悪を受け入れなだめられるだけの器量を持っている訳でもなければ、自らの憎悪を律するだけの忍耐強さがあるわけでもない。相手を魅了し、戦う気すらも奪う舌など持っている筈もない。
 千火が誇れる物は三つ。
 あまり自覚はないものの、リヴァイアすらも凌駕し分身体すらも容易く滅ぼす膨大な魔素量。
 その魔素を簡単に練り上げられる、尋常ならざる集中力。
 そして、以前の世界においてただ守り、殺すためだけに磨いてきた武術の数々。
 たったこれだけだ。
 そんな千火が世界を平定させる事が出来る方法は、一つしかない。

「私を架け橋にすれば、世界の平定するまでの間とは言え竜族、人、魔族、それぞれの憎悪がさらに増す事になるぞ?それでも良いか?」

 それは、戦って、勝って、千火の言うことに聞く耳を持ってもらうように、取り計らう事だけだ。

「…………わたくしは人々の希望になるように申し上げた筈です。何ゆえに、千火様は人々の憎悪も増大すると申されるのですか?」

 首を傾げる水を司る龍王に、千火は簡潔に答えを述べる。

「リヴァイアの言った通り、確かに私は人々の希望になろう。だが、それはあくまで竜族との徹底抗戦を望まず、竜族との元の関係に戻したいと望む者達だけだ。憎悪に狂い、竜族を撃滅する事しか頭にない連中や、私利私欲に歯止めを掛ける事が出来ずに暴走した者達などは、その限りではないと言う事だ」

 殺されても文句の言えない、あるいは大衆に暴虐の限りを尽くす者達も同様だ、と千火は付け加えた。
 人は、繋がり無くして生きることが出来ない脆弱ぜいじゃくな生き物だ。当然親しい者が殺されればその者を怒り、憎み、殺そうとするだろう。……たとえ殺された親しい人間が、鬼だ悪魔だと罵られる程の、どうしようもない悪人であったとしても。
 そして、人々の希望になると言うことは、竜族ーー主に飛竜族とだが、それらと戦う事ばかりではない。あくまで飛竜族も竜族の一種だ、完全に滅ぼしてしまおうなどと言う気はない。出来ることなら説得し、さとし、そして再び人間との関係をやり直させられる気持ちにさせたいところだ。もちろん皆無だとは思うが、王を殺されても尚人との共存を望む飛竜族とは積極的に交流は取りたいところでもある。
 とは言え、憎悪に駆られるあまり構成の余地が見られない者は、容赦なく仕留める。そしてそれは、何も竜族に限った話ではない。
 人々にとって害悪となる人間もまた、その対象であり、対象の人間の親族達の憎悪もまたこの世界に蔓延はびこる事になる。
 その意味も込めて、千火はこの言葉を返したのだ。

「そういう事に御座いましたら、わたくしとしましても申し上げる言葉は御座いません」

 千火の言葉の意味を全て理解したのだろう、リヴァイアは何度も頷いた。が、美しい蒼の輝きを放つ宝石のような瞳が、初めて揺らいだ。それは、どこか心配する親のような眼差しであった。

「むしろ、わたくしとしては、そう言った者達を殺して頂けると、世界のためにも非常に助かります。…………ですが、よろしいのですか?」
「……なにをだ?」

 その眼差しにいち早く気付いた千火は、すぐさま心配する意味を尋ねる。

「先の言葉を口にしたわたくしが申し上げても良いのかと迷いますが、千火様は戦ーーいえ、命の奪い合いと申せばよろしいでしょうか?それを酷く恐れているように見受けられます」
「…………」

 千火の真紅色に輝く瞳もまた、その言葉に揺らぎを見せる。だが、それはリヴァイアサンのそれとは異なる、驚きによるものだった。

「こう申し上げては全てを見透かしたかのような言い方になってしまいますが、千火様は確かにお強いです。未だ扱った事のないはずのトライデントを薙刀を応用して使われたその技量、宿されておられる魔素の量の多さ、そして僅かな集中力で魔素を練れるその才能は、歴代の竜神姫や竜神騎と比べても恐ろしく抜き出ております。しかしながら、千火様の技の一つ一つに、どことなく迷いがあるようにわたくしには見えたのです。千火様はあまり御自覚なされておられないかもしれませんが、わたくしの分身を凪ぎ払うほんの一瞬でこそありますが、切っ先が僅かに震えているのが見えたのです」
「…………」
「誕生してから三千五百年という月日を経ているわたくしですから分かる事に御座いますが、千火様の震えは愛すべき存在をやむを得ず殺そうとする人のそれに御座いました。……今ならばまだ間に合いまーー」
「愚問だな」

 千火はリヴァイアの言葉をその一言の元に斬り捨てる。

「私のような竜神姫を求めているリヴァイアが、私に竜神姫を辞めるように言うのか?」

 そこで一度息を吐き、竜神姫になって欲しいと望み、しかし竜神姫になって欲しくないと望む水龍王の蒼色の瞳をしっかりと見据える。その赤眼に宿るのは、確固たる強力な意志だ。

「案じてくれた事には感謝する。私の心の奥底にひた隠していた恐怖を見抜いた、その慧眼けいがんは見事と言うほかにない。確かに私は、命を奪う行為そのものに恐怖を抱いている」

 千火自身、自覚はあった。
 命を奪うというその行為が、どれだけ罪深いものかよく理解していた。それを学ぶ場が、そのような心を不要とする戦場であり、狩り場であったというのは、ある意味皮肉でしかない。

 
 命を奪うのは、確かに怖い。……けれど、

 
「もうそんな事は言っていられる段階ではない。この世界においては、確かにまだ殺生はしていない。だが、前世においては同族殺しから狩りまで幅広い形で命を奪ってきた私には、そんな事を言う資格はもうない。私の手は、既に多くの返り血で真っ赤に染まっているのだからな。……それにな、リヴァイアには何も知らずにここに転生してきたばかりの私を助けてくれた大恩がある。恩に報いるのはモノノフとして当然の義務、いかなる望みも叶えるつもりだぞ。……まあ、もう一つ言わせて貰えれば、私が仮に竜神姫にならなかったとして、その代わりとなる者が、都合よく現れるとは到底思えん。もう一度歩む事を許された人生の道を漠然と歩むよりかは、竜と人との架け橋となることで世界を救うという、壮大な目標を持って歩む方が面白いだろう?……私の身など気にせず望め。そして迷ってくれるな。散々戦場や狩場に赴いてきた私にとって、私情を押し殺すなど児戯じぎに等しい」

 憎悪を除けばな、と千火は付け加えて締めくくった。「そもそもの話、私が命を奪う行為に恐怖を抱いていると分かっているのなら、最初から竜神姫になるならないの話を持ち掛けるな」と言ってやりたいところだが、リヴァイアとしても迷っていたのだろう。「承知致しました。千火様がそうおっしゃるのであれば、わたくしはあなた様を竜神姫として迎えましょう」と言うリヴァイアの瞳もまた、揺らぎのない力強い物となっていた。

(そうなると、やはり眼の禍々しさや容姿は、魔族として君臨していた頃の名残なのかもしれないな)

 同時に復活した禍々しさを浴びつつ、千火は推察する。
 性格と中身がチグハグなのは相変わらずだが、元魔族だったのだから仕方ないだろう。勿論、それを口に出して指摘するなんて無粋な真似はしない。

「では、千火様。正式な竜神姫となられるにあたって、もう一つ行わなければならない儀式が御座います」

 そんな千火の思考を感じ取る訳でもなく、リヴァイアは言葉を投げかけた。

「……なに?まだ儀式があるのか?」

 力なら先の戦で十二分に示した筈だ。ならば、これ以外に何をしろと言うのだ。そんな疑問を込めて、千火は問い返す。

「そう身構えられないで下さい。大丈夫です、今度は簡単な物に御座います。…………多少の痛みは伴いますが」
「その儀式はいったいどういう儀式なのだ?簡単とは言うが、具体的には何をすれば良いのだ?それに、多少の痛みとはどういう事だ?」

 トライデントに込められた魔素を体内に取り込んだ時に加えて、氷槍に右腕を貫かれた挙げ句氷漬けにされたのだ。いかに痛みに強い千火と言えども、そして自分を竜神姫として迎える覚悟を決めた水を司る龍王の言葉であっても、警戒を強めざるを得ない。
 かえって警戒させてしまった水龍王は、言い方が悪かったと反省しつつ質問に答える。

「千火様とわたくし、それぞれの魂を少し分け与え、同時に魂と肉体を混同させる魂契の儀式に御座います」
「…………」
「だからそう警戒なされないで下さい」

 と言われて、いったいどれだけの人間がはいそうですかと安心して素直に頷くだろうか。いや、自殺志願者か狂人か、はたまたそう言った体験をしてみたいと言うとち狂った趣味を持つ変人でもなければ絶対に頷かない筈だ。
 当然、千火は最前者である。
 痛みの程度について尋ねて済む問題ではない。魂に直接関係するのだから、生死についても視野に入れなければいけない危険極まりない話だ。

「…………確かに自分の魂を分かち、代わりに相手の魂の欠片を取り入れるとなると、不安になられるかもしれません」
「かもしれません、ではなく不安しか無いぞリヴァイア。……それで?どうやってその儀式を終わらせれば良い?簡単なのだろう?」

 そんな危険な儀式など願い下げたが、そうはいっても同じ立場に立たされた竜族を放っておく訳にはいかない。結果として受ける事前提になってしまったが、果たして儀式の一連の流れは胸の中に巣くう不安が拭いさるような内容なのだろうか?万が一払拭出来ぬようであれば、申し訳ないが先の返事を撤回しなければならない。
 そうならぬ事を願望と、ある意味払拭されないで欲しいという願望。相反する双方の願いを胸に抱えたまま、千火は儀式について説明を催促する。

「千火様がわたくしの心臓をトライデントで貫くだけに御座います」
「………………………………………ん?」

 聞き間違いか?今、とんでもない単語を耳にしたような気がするのだが……。

「千火様がわたくしの心臓を貫くだけに御座います」

 …………待て、辰巳神千火。早まってはならぬ。決めつけるにはまだ早いぞ。深呼吸しろ。……よし、気は鎮まった。冷静に思考しよう。儀式が儀式なのだ、緊張のあまり私は幻聴を聞いてしまったのだろう。いかにリヴァイアと言えどもこの世界における水の支配者だ、そんなふざけた事を言うとは考えにくい。もう一度聞き直して、しっかりと耳に留めよう。大丈夫だ、早鐘を打っている訳でもなければ、呼吸が乱れている訳でもない。今度こそ、正確な答えが聞こえる筈だ。

「すまない、もう一度言って貰えないか?どうやら私にしては珍しく、幻聴が聞こえる程に緊張してしまっていたらしくてな」
「…………千火様。お気持ちは分かりますが、これもれっきとした儀式に御座います。どうか、現実をお受け止め下さい」
「………………正気か?心の臓を貫かれれば、いかにリヴァイアと言えども死ぬぞ?」

 もはや聞き間違いなどではない。
 希望を打ち砕くかの如くリヴァイアが告げた三度目の答えを聞くなり、自殺願望を抱く水龍王に問い掛けた。
 心臓の本当の役割が分からずとも、そこを穿たれれば間違いなく死ぬのは理解している。いかに儀式の為とはいえ、命の恩人ないし恩竜を殺すなど、仇で返すのと大差ない。それが、たとえリヴァイアが望んでいた事だとしても、だ。

「千火様の懸念はもっともに御座います。ですが、トライデントはもとよりわたくしの力に御座います。千火様がご自分の身体を思いっきり叩いても死ねないように、トライデントで致命傷を負わされても死ぬ事は御座いません。……それでも痛い事には変わりません。ですから、少しでも痛みが緩和出来るようにこの結界を張らさせて頂いたのです」

 なので心配には及びません、全力でわたくしの心臓を貫いて下さい、といってリヴァイアはゴツゴツとした白銀色の甲殻に覆われた胸部を結界に押し付ける。
 他の裏側が水色の鱗に覆われているのに対し、胸部だけ甲殻、それも一際目立つ白銀色であり、他のどの甲殻よりも重圧なそれに覆われている。その辺りから、この神の如き龍もまた生き物なのだと言う事を雄弁に物語っていた。
 理屈では分かっても、武器であることに変わりはない。加えて、どの部分よりもあからさまに堅牢な造りをしている胸部に、刃が通るのかも怪しいところだ。千火としても本当に言われた通り刺して良いのか迷ったものの、

「結界魔術をいきなり発動させてから今までずっと張りっぱしにしている点について疑問に思ってはいたが、なるほどそういう意味だったのか。……頼むから、勢いあまって死んでくれるなよ」

 結界魔術を実演してみせた意図を理解した千火は、トライデントを中段に構え、全体を前のめりにして沈み込ませる。上体に対して穂先を水平に持つ構えは、千火が最も嫌う攻撃に特化した構えーー辰巳神流槍術 鎌蛇の構えを取る。
 鎌首をもたげて今にも襲い掛からんばかりの蛇の姿を構え化したものだが、その本質は突進に特化した構えだ。全体重を前に掛けている関係上確かに破壊力はあるし、渾身の刺突を放つ事は可能ではあるが、しかしそれ以外にはまるで役に立たない上に他の技派生させにくいこの構えを心底嫌っていた。それでも、この構えを体得しておいて正解だったと思うことにする。
 怪物の力、もとい魔術によって身体能力を異常強化させた上での全力の一歩で、最大十里までの距離を一瞬で移動出来るのは前世で確認済みだ。これだけの跳躍に集中させれば、結界や甲殻を合わせたとしてもリヴァイアの左胸ーー心臓があるであろう場所目掛けて的確に攻撃出来る筈だ。無論、殺す事を目的にしている訳ではないが、それでもあれだけ堅牢そうな甲殻に守られているのだ。間違って殺してしまうのも怖いが、全力で行かなければ心臓に到達出来ない恐れがある。また、本人も死なない上に全力で来いと言っているのだ。鵜呑みにするのは危険だが、かといってそう言うならば、信じるよりほかにない。

「…………行くぞ」

 全力で氷の床を蹴り、十里の道のりを一瞬で駆け抜ける勢いそのままにリヴァイアの左胸へと突進する。
 衝撃で僅かに地震が発生し、氷床がガラスのように簡単に砕け散る威力の伴った蹴りによって推進力を得た千火は、簡単にリヴァイアの結界に接触する。しかし、こちらも氷床と同じく簡単に砕け散ってしまい、殆ど威力を軽減させていない。

 マズいッ!!

 そう思った次の瞬間にはトライデントはリヴァイアの胸殻を障子紙のように容易く突き破りーーついで、柔らかい肉を幾つも引き裂いて、深く貫いた確かな手応えが腕に伝わった。穂先越しに伝わる、一定周期に規則正しく脈動するヌメり気を帯びた肉塊の感触が、千火の身体を濡らす鮮やかな真紅色の温かな液体が、リヴァイアの望んだ心臓を貫いた事を教えてくれる。……が、

「……!!」

 本来ならば痛みを感じるのはーー当然生きていればの話だがーーリヴァイアの方であろう。しかし何故か、千火の心臓にもまた鋭利な物で貫かれたような激痛が走った。
 それは、魔術の公使によって出た反動よりも、トライデントを初めて握った時に感じたそれよりも、何かに全身を穿たれて死んだ時の痛みをも凌ぐ、劇痛だった。

「……ぅ……がはぁッ……っ……!!!」

 思わずトライデントから手放して左胸を抑えようとするが、何故か身体は時が止まってしまったかのように動かすことが出来ない。
 呻き声しか挙げられぬ中、トライデントを通して何か温かい小さな欠片のような物が身体の中に入ってくるのが分かった。リヴァイアの魂の欠片であろうそれは、千火が丁度痛みを覚えた心の臓へと迷うことなく到達したーー瞬間、それまでの激痛が嘘だと思える程急に消え失せたのだ。余熱すら残さぬその回復ように驚いていると、

「……千火様……そろそろ、心臓から…………離れて、頂け………ないでしょうか……?」

 リヴァイアの辛そうな声が掛けられる。それでハットした千火は、すぐさまトライデントを抜き取ろうとした。が、千火の指先一寸程しかない距離まで突き刺さった両斧槍を容易く抜き取れる筈がない。まして、三日月状の巨大な刃が備え付けられているのだ。それが返しの役割を果たしてしまい、力で抜き取るのは絶望的であった。
「リヴァイア、トライデントはこのまま突き刺したままで良いか?とてもではないが、深く刺さり過ぎて抜けそうにない。そればかりか、下手に抜き取れば死にかねないぞ」

 とは言え、これはもともとリヴァイアの力が具現化したものだ。ああ言っていたのだしこのままでも問題ないかもしれないと考えつき、千火はリヴァイアにそう問い掛ける。

「……そのまま……で、構いません……。……わたくしの……力、なの、ですから……」
「分かった」

 リヴァイアの了承を得たところで、千火はトライデントの柄から手を離し、同時に心臓を出来る限り優しく蹴った。
 血と脈動によって少し滑ったものの、なんとか千火は蹴った勢いでリヴァイアの胸殻に飛び移る。……蹴られた事でリヴァイアが苦痛の声を上げるが、千火としてもどうしようもない。あのままでは、リヴァイアの体内に落ちてしまうのだ。そうなれば、リヴァイアに更なる苦痛を与えなければならなくなる。
 良心が先ほどからズタズタに切り裂かれて胸が痛いが、本人が望んだ事だからと割り切る。血の所為で滑って難儀したものの、なんとか這い出る形で千火は胸殻の割れ目に到達、腕力に物を言わせてなんとか脱出してみせた。
 そして、千火が氷床に無事着地して怪我の度合いを確認しようと上を見上げたのと同時に、リヴァイアは無詠唱で支援魔術を発動させた。胸部全体を覆い尽くす巨大な緑色の紋章ーーもとい魔法陣が浮かび上がると、千火の右腕の傷口を治癒力させた時と同様にそれは徐々に赤色に染まっていく。それに合わせて、胸に空いた大穴は徐々にだが確実に塞がっていく様を、千火はまじまじと見据える。
 両手を氷床に着いて、ゼェゼェと荒い息を吐くリヴァイアの姿は見ていて痛々しかったが、それでも傷口が塞がるにつれて整った物へと変わっていきーー傷口が完全に塞がる頃には元の呼吸に戻っていた。

「お待たせ致しました。……多大な心配を掛けさせてしまった挙げ句、大変お見苦しい所をお見せしてしまい、誠に申し訳御座いません。ですが、これで竜神姫としての全ての儀式を終える事が出来ました。ご協力、誠にありがとうございました」

 謝罪と感謝双方の意味を込めて、リヴァイアは千火から一度離れると、そんな事を言って頭を下げてきた。

「やめてくれ。確かに心臓に悪いことこの上無かったが、私はリヴァイアの要望に応えただけで何もしていない。……あれだけの事をしておいて言うのもなんだが、リヴァイアから受けた恩はまだ返しきれていない。やっと返すための準備が整ったようなものなのだろう?ならば、感謝の言葉はリヴァイアの望む『竜と人が手を取り合う世界の再来』を成してからにして欲しい」

 心の臓を貫いた奴が何を抜かすかと思うが、事実千火はリヴァイアの言うとおりの行動をしたに過ぎない。それに、言葉通りここから先が本番なのだ。前段階で感謝されるのは少し違うというものだろう。

「千火様のおっしゃる通りに御座いますね。承知致しました」

 そう言って、リヴァイアは顔を上げると、「ところで千火様は、今後どうなされるおつもりですか?」と問い掛ける。

「そうだな。まずは地龍王の住む場所へ向かおうと思う。飛龍王の所にも行きたいところだが、いきなり人間を憎んでいる龍王とその配下が住まう場所に行っても、認められるよりも早く犬死にするのは目に見えている。なにより、この大量の魔素の扱いを学んだ上で魔術を体得して使いこなさなければ、いたずらに命を奪う事になる。それを避ける為にも、な。……何か提案でもあるのか?」
「いえ、千火様がその気であられるならわたくしは何も申し上げません。わたくしとしても、地龍王ヨルムンガンド様にお会いして頂きたい所に御座いましたので。……もう一つ質問してもよろしいでしょうか?」
「む?なんだ?」
「千火様はいかなる武器をお使いしたいですか?」
「…………どういう言う事だ?武器ならばリヴァイアのトライデント……って、あ。心臓に刺したままだったな。もう一度トライデントを召喚?で良いのか?をして貰えないか?」
「それは勿論の事に御座います。ですが、千火様にとってトライデントは扱いにくは御座いませんでしょうか?」

 何を言わんとしているのか察する事は出来ないが、
 「むぅ~、確かに正直な所使いにくいな。両刃なのはありがたいが、トライデントはただ斬るというよりは叩き斬るという扱い方だからな。いくら棒切れのように軽いとはいえ、辰巳神流薙刀術を体得している私としては、斬撃、刺突、打突、凪ぎ払い、それぞれの動きにすぐ移れるような取り回しの良さが欲しい。そう言う意味で言えば、トライデントは流れを持った戦には向かない。滅多には起こり得ないだろうが、先のように返しになって抜けなくなる恐れもある上に、突き刺した状態から斬撃に移らせようにも、穂先が三つでは穂先の多さが仇になって肉に引っかかって放てない。結果として、この場合は背にいる敵に対する対応する手段は打突しかない。おまけに、切り裂けない関係上、側面からの攻撃に対応するにはトライデントを手放すしかない。素手でも戦う事は出来るが、それは人の姿をした者に限られた話だ。人と異なる姿をした者との戦いにおいては殆ど役に立たないのは、先の飛竜族との戦いで確認済みだ。まあ、この世界最強の種族である竜で判断するのは少しおかしいのだろうがーーだとしても体術ではどうしても致命傷は与えられないのは容易に想像がつく。ゆえに、トライデントは私にとっては扱いずらいな」

と事細かく説明した上で千火は答えた。
 あまり説明で時間を取りたくはなかったが、戦は常に己の命を天秤に賭けなければならない。その命を守る武器が使いづらい物であれば、いかに武に長けた千火と言えども死ぬ可能性が大幅に上がってしまう。つまり、命に直接関わってくる事なのだ。自分が握る得物についてしっかり語るのは、当然であろう。

「左様に御座いますか」

 千火の答えを聞き終えたリヴァイアは短くそう言うと、蒼色の瞳を閉じた。かと思うと、

「この世界を構築する三大元素の一つ、全ての生物をはぐくみし母なる水よ」

 鋭い鉤爪が備え付けられた両手を、まるで何かを授かるかのようにうやうやしく掲げて、詠唱を始めた。途端に、リヴァイアの巨体を覆い尽くす程の巨大な魔法陣がその巨体の真下に出現する。

「それは、数多の命を生み出せし揺りかごにして、いかなる魂をも閉じ込める牢獄」

 その言葉が発せられると同時に、純白色に輝いていた魔法陣はたちどころに鮮やかな水色へと変わる。 詠唱は続く。

「そして、安らぎと幸福をもたらす至高の神にして、残酷な宣告を下す死神でもありし大いなる水よ。
 その御身が司る事を許した我、リヴァイアサンは願う。
 我に相応しき主にして、この戦と死にまみれた世界を安寧と平和に満たさんと望む竜神姫 辰巳神千火の歩む道を阻まんとする者を貫く矛とならん事を。
 激情に駆られ、進むべき道を踏み誤ったしても、すぐに進むべき道を示す道しるべとならん事を。
 かの者が望む至高の矛を、我が力と魂を以てして鍛え上げん!」

 詠唱が進むにつれて白銀、黒、翡翠、藍色と変えていた魔法陣が、リヴァイアの叫びと共に深い青色の激しい閃光を放った。
 眼を焼くほどの激しい、しかしどこか母の温もりに似た温かさを感じられる光に包まれた世界の誕生に、千火はとっさに腕で顔を隠した。が、数秒と掛からずに眩しさに慣れてきたのを機に、千火は恐る恐る腕を下ろす。

「…………」

 声も出なかった。
 まるで太陽の光が柱となって散々と降り注ぐ海の中にいるかのような、そんな幻想的な世界が広がっていた。
 辺り一面を覆いつくす、淵に行くにつれて藍色、黒へと変わっていく水色の優しい光に覆い尽くされた空間を、白銀色の光柱が幾筋も走って切り裂いている。まるで神かそれに準じる神々しき存在が君臨する前触れのような、木漏れ日のそれによく似た降り注ぎ方だ。光柱の出どころたる頭上を確認してみれば、周囲の蒼い光の海とは明らかに異なる、この絶景を創り出した水龍王の瞳と同色の光球が鎮座していた。
 リヴァイアの巨体すらも飲み込めそうな光球から放たれる白銀色に照らされるその姿は、人型でなくとも神のお告げを聞く為に祈りを捧げる巫女や神官のように見えてしまう。
 その光景に見惚れていると、

 「ッ!?」

 突如として千火の足元を激震が襲い掛かった。
 小さな空間に押し込まれてその中で激しく上下に振れれているかのような、千火自身の身体が揺れのあまり浮き上がるのではと錯覚するほどの大地震であったが、しかしそれは千火の周囲にある変化をもたらしていた。

 「これはあの時の……!!」

 揺れに耐えきれず膝を着いた千火の視界の先に現れたのは、翡翠色の突起。それは、リヴァイアとの戦いで壊れてしまったはずの祭壇の角に立っていた、あの積み上げられた石柱の先端と酷似していた。
 そればかりではない。千火の足元にもまた翡翠色の光が発せられたのだ。
 その事に気が付いて地面を見やれば、やはり千火が予想した通り翡翠色に輝くあの台座の地面があった。
 そこで今までの激震が嘘のように、唐突に鳴りやんだーーかと思えば、今度は鈴の音色にも似た優しい音色が頭上で聞こえた。
 音の出所たる蒼の太陽へと視線を向けると、白銀の輝きにも負けない、純白色の美しい輝きを放つ光の塊がゆっくりと落ちてきていた。それと同時に、牡丹雪に似たフワフワと降り立つ小さなそれは、リヴァイアの巨大すぎる手のひらにゆっくりと落ちていきーーやがて青色の指に阻まれて見えなくなる。
 それから僅か数秒後、

 「っ!?」

 それまで幻想的な風景に彩っていた光が、一斉にリヴァイアの大きな手ーー正確に言えば、手に降り立った光球に渦巻きながら吸い込まれ始めた。
 自分すらも飲み込まれてしまいそうな恐怖感すら覚える光景だが、しかし、実際は光だけが勢いよく飲み込まれるだけで、千火とその場で手を掲げたままのリヴァイアには何の影響はない。
 光を吸い込み続ける翡翠の一点は次第にその大きさを増しながら、水色、白銀、黒、翡翠、藍色と大きさに合わせて色を変化させーー千火の眼から見てもハッキリと分かるほど巨大化したころには、水龍王の瞳の蒼へと輝きを放っていた。
 その様を見据え続ける千火の目の前で、リヴァイアは天に掲げていた両手をおもむろに胸元に寄せ、光球を上下で挟み込むように右腕を上に乗せると、

顕現けんげんせよ!我が主に捧げる至高の矛よ!」

 大喝して両腕を左右に勢いよく走らせた。
 すると、巨大な光球はリヴァイアの腕の勢いに従って横に大きく伸び、一つの長大な蒼い光柱へとその姿を変えーーそして光子となって弾けた瞬間、長大な一振りの薙刀へと姿を変えていた。
 トライデントの時と同様に、白銀色の長い柄には二頭の水龍ーー幼き頃と称していたリヴァイアが巻き付いているかのような模様が刻まれている。のだが、トライデントの時とは異なり一頭は翡翠色に、もう一頭は水色に染まっており、しかもその間から覗く柄の所々には、あの石柱に刻まれていたものとよく似た文字らしき黒い模様が白銀の輝きを邪魔しない小ささで刻まれている。
 刀身周辺も大きく変化しており、刀身の真下は藍色の毛で出来た装飾がなされ、刃は透き通った水龍王の瞳色をし、そこには純白色で柄と同様の文字らしき模様が小さく刻まれていた。

 「さあ、千火様。どうぞお受け取りください。これが、わたくしと千火様の友好と契約の証であり、この世界の全ての水の力に御座います」

 トライデントよりも壮麗な輝きを放つ薙刀を恭しく両手で持ち直すと、慎重に千火に薙刀を差し出した。
 大きさから言えば、リヴァイアが持つ分には丁度良いものの、千火が持つにはあまりにも大きすぎる。しかし千火は、

 「こんな素晴らしい薙刀を鍛えてくれてありがとう。この薙刀、大事に扱わせてもらうぞ」

 片膝を着き、恭しく自身の伸長を遥かに超える大薙刀を受け取った。
 瞬間、目を焼き焦がしかねないような猛烈な閃光が、千火の眼に襲い掛かった。

 「くっ!!」

 しかしそれは一瞬の事であり、もう一度目を開けた時にはあの美しい光の世界は消え失せ、リヴァイアと戦う前のあの祭壇の上に立っていた。

 「…………リヴァイア?」

 静まり返った洞窟内を見渡してみるが、リヴァイアの姿は一向に見受けられない。右手に握る、千火の身長に見合った、しかしかつて愛用していたそれよりも大振りの刀身を持つ壮麗な大薙刀がなければ、変わった夢を見たとさえ思えたことだろう。

『千火様、わたくしの声が聞こえますでしょうか?』

 探していると、千火の頭の中にあの水龍王の声が響き渡った。

「リヴァイア?どこにいるのだ?」

 再度周囲を見渡してみるも、やはり姿は見受けられない。不思議と、本来慣れない筈の話方だと言うのに、そこまで違和感は感じられない。

『探さないで下さいませ。今すぐ姿をお見せする事は出来ませんが、わたくしは常に千火様のお側におりますので』
「……という事は、この薙刀がリヴァイアだと思えば良いのか?」
『そういう認識で構いません。これより先の旅は千火様お一人では厳しい場面が多々ありますし、わたくし自身千火様が無事に竜神姫としての役目を果たすそのお姿を見届ける義務が御座いますので、こういう形ではありますがお供させて頂きます。どうか、よろしくお願い申し上げます』
「それは心強い限りだな。まだこの世界にきて二日しか経ってない新参者だが、こちらこそよろしく頼む」
『はい、よろしくお願い致します。では参りましょう。この洞窟への出口は、わたくしがご案内致します』

 こうして、新たに誕生した第百十四代目竜神姫 辰巳神千火と水龍王リヴァイアの、人類と竜族の間に架け橋を掛ける旅は、始まったのだった。

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