竜神姫 ~白髪赤眼のモノノフ~

スサノオ

第一章 洞窟を抜けたその先で

 

 どうどうと流れ落ちる滝の音が遠くに聞こえる。
 水気を含んだ心地良い冷たさと、ゴツゴツとした固い岩の感触を全身に感じて、千火は目を覚ました。

「……っ!!」

 とは言え千火は山奥で一人で修業し、同時に狩りをしていた身だ。無防備な状態を晒す危険性を十二分に理解している。ガラガラと音を立てながらも即座に立ち上がって身構え、視線をせわしなく動かす。
 夜の所為か辺りは暗く、周囲にはそこかしこに丸っこい石が転がっているのがかろうじて見える程度だ。上を見上げても暗闇が広がっているだけで、星空の類が一切見えない。これではここがどういう場所なのか、どれくらいの広さなのかも分からない。何が起きるか分からない為しばらくそのまま警戒していたが、依然として生物の気配が微塵も感じられない。それでも十数分程そのままの体勢で様子を見続け、何事も起きない事を確認してようやく警戒を解いた。

「……ここはどこだ?」

 試しに声を出してみると、この空間一杯に千火の声が響き渡る。響き方から察するに、どうやらここは洞窟の最奥部さいおうぶ、それもかなり大きな物のそれらしい。そこでも尚滝の音がしているあたり、出口近くにはかなり大きいものがあるだろう事も推測できた。
 誰かがここに運んだのだろうか。そう思って自らの身体をもう一度動かして、

「……?」

 疑問に思った。
 確かに千火は、今までのそれをはるかに超える力の代償の痛みに膝を着いた所で、謎の武器による一斉射撃を受けて死んだ筈だ。
 だが、動いてみると肌と服が擦れ合う感触は戦う前のそれとまったく同じであり、なんとか暗闇の服の様子を見てみても穴一つすら空いていないのは確認出来た。加えて、身体もすこぶる軽く調子が良い。僅かな痛みすらも感じられない。化け物並みの力を持っているが故に、同等の再生能力を保持していたのかとも考えたが、だとしても服まで再生しているのはおかしい。何より、傷を直視した訳ではないが、痛みからして間違いなく左胸、正確に言えば心の臓を射抜かれた。いかに化け物と言えども、心臓を潰されれば生きられる筈がない。
 そもそも、一体誰があの状況で助けられると言うのだ。同族がいたとしても、命の危険を冒してまで助け出す事になんの得があるのだろうか。それに、たとえ利があって助けられたにしても、千火の覚えている限りこんな場所は知らない。近辺に滝があったのは間違いないが、それは一カ所だけだ。しかも、その滝壺に身を置いて修業した事もあったが、さほど大きなものでもなければ、滝の裏側にそう言った物が見受けらたわけでもない。どこか別の場所に運ばれたとなればそれまでだが、だとしても少しは生活感はあるはずだ。それすらないのはさすがにおかしい。

「……いずれにしても、長居は無用だな」

 そう言って、暗闇に包まれた岩場において安全に足場を確保すべく薙刀を取り出そうとして、気がつく。

「……武器が無いな」

 剥ぎ取られたのか、暗がりで分からないが近くに置いてあるのか。いずれにしても今の段階では武器が無い事実に溜め息を吐き、仕方なく足元にあった石を拾う。

「太刀の一つでもあればありがたいのだが……」

 そう言って、試しに正面に向かって石を投げつける。
 カコンッ、と石と石がぶつかり合う音が反響する。その作業を一周ぐるりと回るまで繰り返し、もう一度溜め息を吐いた。

「……やはり無いか。仕方ない、石で足場を確認しながら出口を探すとしよう」

 そして、石を拾っては投げて音の反響で周囲の状況を確認し、手探りならぬ足探りで一歩一歩慎重に、滝の音に向かって歩き出した。いくらぼんやりと見えると言えど、この洞窟に何があるかまったく分からない。警戒しておくに越した事はない。
 怪物の力を使って強行突破することも可能といえば可能だが、出た先で戦に巻き込まれでもしたら堪ったものではない。それ以前に、洞窟と言うことは山の中にいることになる。下手に強行突破して、痛みで立ち止まったところで山崩れに巻き込まれて死亡、なんてこともありうる以上、下手な行動は慎むべきだ。
 そうこうしているうちに、他の石とは少し異なる衝突音が聞こえたので、そこに歩み寄り、洞窟の壁を発見する。それを頼りに、しかし石の反響音で状況を確認しながら足場が悪い道を歩き続けた。
 壁伝いで歩き続けて分かった事だが、この洞窟は緩やかな曲線を描き、徐々に上り坂になっている。とぐろを巻いた大蛇の体内を歩いているかのような気分にすらなる程だ。その壁は、転がっている石と同様にツルツルしており、手を切る心配が無いのが千火にとってなによりもありがたかった。
 だが、そうやって洞窟の構造を把握しながら歩みを進める千火としても、困った事があった。
 水と食料の確保だ。
 喉が渇きを訴えているが、洞窟の涼しさが幸いしてかそこまで酷くはない。加えて、だいぶ近付いてきている滝の音があるのだ。洞窟を抜けられれば適当な所でいくらでも飲む事が出来るという安心感がある。
 だが、食料は別だ。洞窟を抜けた先に狩れる動物、もしくは食べられる果物の類があるという確証がない。最悪手掴みで魚を捕まえる事も出来るが、この洞窟は暗い上に広すぎて川が流れているかどうかすらも分からない。それにあったとしても、この暗闇では到底捕まえられない。加えて、仮にこの洞窟を抜けた先に動物がいたとしても、武器ーーそれも狩りにおいて最も重要な弓矢が無い。狩るにしても捌くにしても、弓矢や刃物の類を作らなければならない。……そして良くも悪くも、この洞窟には生物の気配がない。植物もあるかもしれないが、この暗闇では探しようがない。しかし、空腹感が徐々に強くなってきている。
 空腹のあまり動けなくなれば、そのまま餓死するしか方法は無くなる。そうなる前に出口を見つけなければと、少しでも早く出口を見つけられるようにと、千火は歩む足を早めた。
 そうしてどれほどの時間歩き続けただろうか。
 滝の音も殆ど間近と変わらない音量になり、出口が近い事を千火に知らせてくる。それを励みに、壁伝いにひたすら歩き、

「……むっ。やっと出口が見えてきたな」

 たびたび石に足を取られて転びそうになりはしたが、それ以外は特に何事もなく歩みを進められた千火は、遂に降り注ぐ真っ赤な陽光を見つける事が出来た。よく見れば、陽光を浴びてキラキラと輝く水面の姿も見える。静か過ぎて分からなかったが、どうやらこの洞窟にも大きい川が流れているらしい。
 否が応でも気持ちは高ぶる。ようやく見えた日の光なのだ、嬉しくない筈がない。
 だが、赤いと言う事は間もなく日が落ちる事を意味している。
 食料確保の事を考えると、宵闇に紛れてでも洞窟から出て探索に出た方が良いだろう。
 だが、地の利もない場所の夜は危険だ。月明かりを含めたとしても、こちらは暗闇で視界が利かない上に地形にも疎い。しかも、自らの命を守るために必須ともいえる武器がない状態なのだ。最初からこの場所の暗闇の中で生き抜いてきた生き物達にとって、格闘でしか戦う手段を持ち合わせていない千火など、格好の獲物でしかない。

「…………仕方ない。石の音を頼りに川を探し、喉を潤してから寝るとするか」

 故に、千火はそう決断を下す。
 そして、近くに転がっている石を投げて、音を頼りに川を探す。だが、やはり洞窟はかなり広く、反響音を頼りに川にたどり着いた時にはとっくに日が暮れてしまっていた。

「……やれやれ。川に辿り着くまでにこんなに時間を掛けさせられるとはな」

 そうして苦労して近づくことができた川に手を入れた。ひんやりとした水特有の冷たさが、歩いている内に暑くなった手に心地良い。それを感覚である程度の量をすくい上げ、一息に飲み干す。渇いた喉を、冷たい液体が潤していく感触は、筆舌に尽くしがたい爽快感と安堵感をもたらしてくれる。生き返る、とはまさしくこの何とも言えない感覚の為にある言葉と言えよう。

「……どうやら私は、地獄でも天国でもない、未知の場所に飛ばされてしまったようだな」

 喉をうるおし、半ば確信を抱いて、千火はそう結論づけた。
 慎重に歩いていたとは言えやっと出口が見つかったのだ、あんな所に人が住んでいるとは到底考えられない。その上、音が聞こえない程流れが緩やかで大きな川が流れている洞窟を見たことがない。そして、千火自身の死に似た体験。その三点を踏まえれば、今まで生きてきた場所とは異なる場所に飛ばされたという考えに至るのは、至極当然と言えよう。

「明日は洞窟の外の状況を確認しつつ、食料を見つけなければな。最悪、川の中の魚を取って食べれば良いしな。……少し、歩き疲れたな」

 いかに狩りで獲物を求めて走り回っり、村人たちを守るために武の道を突き進んだ千火としても、神経を張り詰めさせた状態での洞窟探検は流石にこたえた。
 ゆっくりと、疲れ切った筋肉の筋を伸ばすと、無防備にも寝っ転がった。
 石という決して寝心地の良い場所ではないが、それでも眠って疲れを取っておかなければならない。本来ならすぐに起き上がれる体勢で寝るところだが、この洞窟は動物の気配が一切しない。それに、途中から壁伝いに歩いていたとは言え、動物が棲んでいれば絶対ある筈の骨すらも無かったのだ。何かしらの理由があるにしても、この洞窟に動物が寄ってこないのは明確。身を守る手段を持たない千火としてはありがたい話だった。
 しばらくはここを拠点にして周囲の散策に当たるか、と考えながら瞳を閉じる。
 すぐに襲い掛かってきた睡魔に身を任せて、千火は一時の眠りについた。

 
 差し込んだ太陽の光に眩しさを覚え、千火は起床する。ガラガラと、丸っこい石が音を立てる。

「…………本当に、なぜこの洞窟には何も寄ってこないのだろう?」

 すぐに眠りに落ちながらも一応警戒は怠らなかったのだが、どうにも熟睡出来てしまった。
 山奥で一人で野宿する事も多々あった為、眠りながら警戒する事ぐらい造作もない。だが、一匹ぐらい動物が紛れ込んでも良いものなのに、そう言った事が一切無かった事に千火は首を傾げる。
 けれど、そんな思考を遮るように、千火のお腹はコロコロと可愛らしい音を立てる。

「…………腹が減ったな。さて、今日は散策も兼ねて朝餉あさげを探さねばな」

 苦笑しながら千火は腰を上げーーそして、また首を傾げる事となる。
 時間感覚は狂ってしまったため何とも言えないが、長時間足場の悪い道を歩いたのは間違いない。だが、その割には疲れは全く残っておらず、足の節々もまったく痛まない。
 いかに疲労回復の為に筋を伸ばしたと言えど、この疲れの抜け具合は異常だ。
 そして千火はふと、昨日飲んだ水の事に思い至り、視線を移す。夜の暗闇で分からなかったが、川底が見える程透き通った鮮やかな青色の水は、太陽の光を浴びて宝石のように輝いている。

「……確かめなければならないな」

 もしこの水が千火の疲労を癒やしてくれたのだとすれば、これはかなり大きな力になる。
 今日は体力が限界を迎えるまで歩いてみるかと、水について思考しながらも太陽の差す光を道しるべに千火はまた歩き出した。
 やはりもうすぐ出口が近いと言うこともあり、千火の足は自然と早くなりーー程なくして出口にたどり着いた。

「…………」

 思わず空腹も忘れて、千火は目の前の風景に魅入ってしまう。
 千火の住んでいた村もそうだったが、この洞窟近くもまた深い森に囲まれていた。いや、人の手が入っていない所為か緑は村よりも深く思える。その森を横切るように流れる川の出所には、湖とも形容出来そうな巨大な滝壺があり、流れ落ちる滝は、天から降り注いでいるのではないかとさえ思えるほどの高さから落ちており、自然の雄大さをこれでもかと言わんばかりに見せつけてくる。……風向きによって水しぶきがこちらに降りかかってくるのが玉にきずであったが。
 滝が流れ落ちる岩壁は、自然の荒々しさを物語るようにゴツゴツとしている。が、生き物によるものと思われる大穴がまばらに空いている。
 何か居そうだな、と思った所でぎゅるるると腹の虫が本格的にうるさく鳴き出した。

「……まったく。少しは空気を読まぬか、お前は。だがまあ、これから毎日この風景を見るためにも、あの大穴に住む動物を見る為にも、お前の言う通りにしなければな」

 鳴き叫ぶ腹の虫に溜め息を吐きつつ、千火はゆっくりと歩き出した。幸いにも森がある為、夜になるまでは木の実探しも兼ねて周囲の地形、何がいるのかの調査も含めて散策を開始する。

「……む?あれは?」

 散策を開始して早々に、千火は見たこともない実をいくつも実らせる木を発見する。
 薄い桃色が特徴的な、手鞠てまり程の大きさのドングリのような形をした木の実だ。しかし実り方はドングリとは真逆で先端部分が枝先から垂れ下がる形で実っている。熟したら地面に落ちて種を落とすのだろうか。
 そう思って根本周辺の地面を見てみるが、食べられてしまったのかどこにも木の実は見当たらない。
 落ちている実を探すのを諦めて、実らせている木を見上げる。目測でも五丈ほどありそうな高い木だが、所々小さな枝を生やしたり割れたりしている。上るのはそう難しい訳ではなさそうだ。

「よし。ここは一つ、頂いてみよう」

 毒の可能性もあり得るが、何事も経験が大事である。ある意味出たとこ勝負だが、先人たちもこうして体を張って試して来たのだ、今度は自分の番だと割り切れば何の問題もない。
 千火は動き辛そうな和服でありながら猿顔負けの身軽さで駆け上り、さほど時間を掛けずに木の実の所までたどり着く。
 早速、千火は手頃な所にある木の実を取ろうとして、

「……おや?何かが食べた跡があるな。この尖った物で何度も刺されたような感じは、鳥のものだな。そうか、この世界にも鳥はいるのだな」

 その視線の先に、半分ほどまで何かにしつこくつつかれたような食べ跡がある木の実を見つける。跡の大きさから鑑みるに、食べただろう鳥の大きさはカラス程ではないだろうか。

「まだ見かけていないが、夜行性なのか?フクロウのように木のうろに巣を作っているのであれば、火種と刃物を確保出来れば充分食料に出来るな。……ふむ、後で虚のある木を探してみよう」

 思わぬ発見に喜びつつ、千火は腕を伸ばして木の実を一つもぎ取る。
 触った感触はまさに桃のそれで、少しでも力を込め方を誤れば簡単に潰せそうな程柔らかい。匂いを嗅いでみると、若干酸味のありそうな、柑橘系の甘い香りがする。
 ぐるるるるる。
 匂いに触発され、早く喰わせろと言わんばかりに腹の虫が鳴り響く。
 行儀が悪いことこの上ないなと、心底自分の胃袋に呆れつつーー自分の体のことなのに随分と客観的に見れるのは、なかなか真似できない千火の特技ともいえようーー木の実を白袴の上に器用に乗せて手を合わせる。

「いただきます」

 そして千火は、この世界に来て初めての食物にかぶりついた。
 匂いに違わぬ程よい酸味、その後から口一杯に広がる甘さは、まさにみかんのそれだ。皮も柔らかい為、十二分に食べられる。

「……うまいな。毒だったら困りものだが、ここでひとまずある程度腹を満たしてから、次に向かうとしよう」

 滴る果汁で服が濡れるのも気にせず、千火はペロリと一つ平らげると、二つ目、三つ目……と、次々口に放り込んでいく。千火は自分の事を笑っていたが、一日断食して歩き続けたのだ、腹が減るのはどうしようもない。
 無心に枝の幹に成っている木の実を十個程食べ終え、もう一個と手を伸ばそうとした……その時。

「むっ!?マズイッ!!」

 千火は思わず身体を強ばらせた。否、反射的に身体が強張ってしまった。
 今までに体感した事のない、戦おうと思うことすら馬鹿らしく思える程猛烈な寒気と威圧感を纏った気配が、まっすぐこちらに向かって来ている事に気がついたからだ。それも、よりにもよってその気配は上空を疾風のような尋常ならざる速さで迫ってきている。
 急いで森林に身を潜めねばッ!!
 頭では分かっているっ。原初の時より持っていた生存本能が煩いくらい今すぐ木を降りろと警鐘≪けいしょう≫を鳴らしているッ!だが千火の体はそんな本能に反して指一つ動かす事が出来ないッ!!

(これは本当にマズイッ!!これほどの威圧感を伴った化け物とは、いったいーーッ!!)

 そして、視線だけを気配の方へと向けてーー千火は見てしまった。威圧感だけで千火の動きを封じてみせた、既に三丁先にまで迫ってきている恐怖の元凶を。
 それは、一対の巨大な翼を悠々と羽ばたかせてこちらに向かってきている。ただしそれは、羽毛の生えた鳥のそれではなく、真紅の腕を翼の形状に進化させ、薄い真っ赤な膜を張ったものーーコウモリのそれである。翼の出どころにある胴体は、太陽光を浴びて鋼の如き輝きを放つ真っ赤な鱗に覆われている。長くしなやかな尾も、何かを大きな物体を掴んでいる一対の後ろ足もまた同じだ。その胴体を動かす頭部は、トカゲに似た顔つきをしている。が、、青空のように綺麗な、しかし猛禽類を思わせる鋭さの伴った青い瞳がはめ込まれ、トカゲのそれに比べるとゴツゴツした顔つきをしている。そして極めつけが、後頭部から生えた後方に向けて伸びる、七支刀のように枝分かれした乳白色の一対の角だ。鹿のそれとは明らかに異なるそれは、兜のそれで用いられる装飾よりも一線を画す威圧感を伴っていた。
 千火は我が目を疑った。知識の中にあるそれとはだいぶかけ離れているが、その猛々しくも神々しいその姿は、

(……竜……なのか……!?)

 そうとしか、考えられなかった。
 そんな、畏怖に固まってしまう千火などまるで眼中にないとでも言うかのように竜ーー千火からすれば翼竜とでも形容すべきそれは、一際大きく羽ばたかせる。
 遠く離れた所での、推進力を保った上で、高度を上げるための行為。たったそれだけだと言うのに、その衝撃で発生した暴風は木々を激しく揺らし、巻き上がった砂は一時的に砂嵐へと変貌する。

「ぐっ!!」

 千火は咄嗟に全身に力を込めて木に捕まろうとするが、硬直した肉体でそれが出来る筈がない。全身が浮遊感に包まれるのと、暴風に成されるがままに木の葉のように吹き飛ばされるのは同時だった。
 嫌と言うほど全身を枝に叩きつけながら急降下し、木に背と後頭部を激しく打ちつける事でようやく止まる。が、

「ガハゴホッ!!ぐぅ………ぐっ……ぬぅ……っ!」

 木に背中を叩きつけた影響で酸素を無理やり吐き出され、しかも肺がショックを起こしてうまく呼吸も出来ない。後頭部を打った事で意識も混濁し始めたが、それは皮肉にも咳き込んだ際に肺に感じた激痛で覚醒する。どうやらあばら骨が数本逝ったらしい。
 だが、そんな事を冷静に気にしている場合ではない。
 空気をッ!!早く空気をッ!!
 身体が酸素を欲していても、肺は酸素を受け入れる事を許さない。
 このままでは本当にマズイッ、そう思った時、

「…………ハァッ!!はぐぅ!?…ぐ、……ハァ、ハァ、ハァ」

 肺がやっと正常な機能を取り戻し、すぐさま千火は酸素を取り込む。だが、肋骨が折れた影響で深呼吸が出来ない。浅くでも呼吸出来るだけまだマシだが、事態は更に悪化する。

「…………クソッ……!!」

 再び、あの翼竜によるものと思われる暴風が、千火目掛けて吹き荒れたのだ。押し寄せる強烈な風圧とそれに舞う砂塵で、目を開けて状況を確認する事も、浅かった呼吸すらも、マトモに出来なくなってしまう。

(……あの竜。まさか、羽ばたきだけで私を殺すつもりか……!!)

 逃げようにも、押し寄せる暴風で木から立ち上がる事すらままならない。しかも、少ししか空気を吸えなかった為に、既に視界と頭はクラクラしだしている。
 このまま無抵抗のまままた殺されるのだろうか。そう思った時、それまで吹き荒れていた暴風が止んだ。
 少しでもこの場から離れなければ……!!
 本能の赴くままに、千火は呼吸出来ない身体に鞭を打って木に背を預けたまま立ち上がると、半ば引き摺るようにして死に物狂いで走り出した。
 だが、酸欠状態で急にそんな動きをしたのだ。すぐさま走る千火の身体はよろけ、青葉が生い茂る地面に転がってしまう。……死ぬ前のそれとは異なるとは言え、全身の筋肉を引きちぎらんばかりに引っ張られているかのような激痛に襲われながら。だが、この痛みは千火にとってなれたものだ。呻き声を上げながらもなんとか立ち上がろうと試みる。
 だが、そんな千火を嘲笑うかのように、今までの暴風はなんだったのかと思えるような、真空波すら伴った烈風が吹き荒れた。
 切り裂く風は至る所に生い茂っていた木々を寸断し、千火の身体も例外なく切り裂き、吹き飛ばし、嫌という程地面を転がした。次々と変わる視界の気持ち悪さと、吐き気と、痛みとでぐちゃぐちゃに脳をかき混ぜられながらも千火しばらく転がり続けーー最初にいた洞窟の入り口近くでようやく止まった。
 ズシン、ズシンと、規則正しい周期で地鳴りがしている辺り、千火を殺さんと翼竜が降りてきたのだろう。

「…………」

 幸か不幸か、軽い裂傷だけで寸断される事無く生きている千火であったが、もはや指一つ動かす事が出来ない程に弱り切っていた。
 長時間酸素を吸えない状態が続いた為か、脱力感のあまり全身に力が入らない。どころか、既にあの時とは異なり、徐々に視界がぼやけて暗くなりつつあった。その暗闇は、初めて死んだときと同じ、絶望感と安心感という矛盾する二つの感情を抱かせるものであった。ここまでくると、もはや生き残った方が不幸としか言いようがなかった。
 またなのか、と千火は思った。
 また私は、殺されるのか。竜だから意志疎通が図れるとは思ってはいない。だとしても、せめてその表情くらいは見てみたいものだ。
 動物もまた、人間と同じ生ける者なのだ。肉親を失えば悲しみ、殺されれば殺した者を怒り憎み、食べ物を分け与えて貰えれば喜び、じゃれあっていれば楽しそうな表情を浮かべる。人間と、何も変わらないのだ。言葉が発せ無い、体つきが違う、人間と動物を隔てるものなどそれだけだ。
 村人達が生きる為に、頑張って働けるように、守る為に、多くの野生動物の命を狩ってきた千火は、それをよく理解していた。
 そんな千火の思念に応えるかのように、翼に生えた手を器用に使って翼竜は寄ってくるのが見えた。徐々に薄れゆく意識の中で、千火は無駄だと分かっていながらも問いかけずには居られなかった。
 私はお前に何をした?あの果実を食べたからか?だがそれなら何故、私は食べてはならないのだ?
 声無き問いが翼竜に届く筈もないのだが、どう言う訳か翼竜は千火を見下ろせる距離にまで近付いてきた。
 噛み殺しにきたのか、それとも獲物の生死を確認しに来たのかーー真意は定かではない。だが、千火にとって近寄ってきてくれたのは僥倖であった。ぼやけ、暗くなりつつある千火の視界だが、それでも千火は翼竜の表情をジッと見つめーー青い瞳から感情を読み取る事が出来た。

 憎悪だった。

 戦場や狩り場で散々見てきた、肉親や親友の仇を見るかのようなどす黒い感情の籠もった青い瞳だった。最初に見た時は快晴の青に思えたそれも、今では血の赤にいつ染まってもおかしくない不気味な物に見えた。

(……悪くはないな……)

 千火は少しだけ安堵した。
 殺される理由としては、前の世界のそれに比べてまだ納得のいくものだったからだ。
 どういう経緯でそうなったかは分からないものの、人間という存在そのものを憎んでいるのは間違いない。そして、その膨れ上がった憎しみの炎に身を焦がしなら、誰彼かまわず人間を殺して回っているのだろう。
 惜しむらくは、この翼竜が人を憎むようになった経緯を知る事が出来ず、無差別攻撃の被害者として死ぬ事になる、という事くらいだろうか。

(……可哀想にな……)

 この翼竜は、自らが死ぬか、この世界から人間が居なくなるその瞬間まで、永遠に戦い続けるのだろう。傷だらけになろうと、仲間を失おうと、たった一人になろうと、自分が死ぬその瞬間まで。
 そう考えると、千火はこの翼竜が哀れに思えた。
 そんな千火に対して、翼竜は唸り声を上げながら人一人簡単に丸呑みに出来そうな大きな口を開いた。ズラリと並んだ白銀の牙は、まるで大業物の剣のような獰猛な輝きを放っている。……その口を開く瞬間も、ズラリと並んだ牙も、千火には見えていなかったが。
 ここまで早く二度目の死に対面するとは思わなかったが、一度死んだ為か不思議と恐怖は無い。幸あれと願いながら、千火は殆ど見えない瞳を閉じた。……その時だった。
 突如、大海が爆発したかのような轟音が鳴り響いた。ついで、翼竜の物と思われる落雷のように腹の底にまで響き渡る、しかし驚愕、怒り、苦しみの三色の感情が入り混じった絶叫が、千火の耳に入り込んでくる。
 思わず耳を塞ぎたくなるような大絶叫。しかし、意識が薄れて殆ど自我を保てていない千火にとっては、遠くで起きているようにしか聞こえなかった。
 何が起きているのか分からぬまま、千火は意識を手放した。

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