オモテ男子とウラ彼女

葉之和駆刃

第七十二話 『別離』

 朝日が差し込む中、ヒカルは目を覚ました。寝返りを打って隣を見ると、いつものようにヒカリが眠っていた。それを見て安心し、ヒカルは身体を起こした。とは言っても、問題はまだ何も解決していないのだが。彼女を連れて、これから遠い場所に避難しなければならないのだ。
 昨日、良から祖父のところに来ないかと誘われた。良の祖父は熊本にいて、優しい人のようだ。ヒカルは、出来るだけ彼女を優先させたかった。昨晩はやはり迷惑ではないか、と考えてしまっていたが、彼女がそこで幸せに生きられるのだとしたら—行くしかない。
 誰が何と言おうと、ヒカリだけはどうしても守り抜きたい、守らなければならないのだ。そして、ヒカルは立ち上がる。そこに下から声がかかった。

「今日も授業?」

 ヒカリが、横になったままヒカルに尋ねてきていた。ヒカルは再びしゃがみ込むと、

「あぁ、ごめんな。今日は、お前はずっとここにいてくれるか? 一歩も外に出るんじゃないぞ」

 と、彼女の頭を撫でる。彼女も、優しい眼差しで頷いた。ヒカルはその様子を見ると、更に安心出来た気がした。今では、彼女も完全にヒカルを信頼しきっているようだ。

「朝は適当に済ましてくれ。昼飯は冷蔵庫の中に入ってる。夜は……また一緒に作るか?」

 ヒカルが尋ねると、ヒカリはまた嬉しそうに頷く。彼女の表情からは、不安などは一切感じとれない。彼女もそうしているのだろう。しかし、本当のところはどうなのだろうかとヒカルは疑問に思った。毎日毎日、不安の針に刺されながら息苦しく感じているはずだ。ヒカルも、それは十分に理解していた。

 ヒカルは自分の身支度を済ませると、出かける前に彼女に、チャイムが鳴っても絶対に出るなと釘を差しておいた。

 それからマンションを出て駅に向かい、いつも通り大学へ行って授業を受けた。一限目が終わると、良がヒカルに近づいてきた。

「なぁ、今日って二限目ある? なかったら、今から部室行かないか?」

 そう言ってくるので、ヒカルはわかったと返事をする。今日は三限目まで予定が空いているのだ。

 二人はその後、部室を尋ねた。一回生の隼は必修の授業で忙しいのか、部屋にはいなかった。しかし、それは二人にとって好都合だったのは言うまでもない。良は、二人以外に誰もいないのを確認するなり、ドアを閉めて中から鍵をかける。そして、カーテンも閉めた。薄暗い部屋の中で、二人は机に鞄を置いて向かい合った。
 ヒカルも当然、良が何について話す気なのか察しがついていた。

「……で、お前あれからどうなった? 結論、出たのかよ?」

 良から先に切り出した。続いてヒカルも、良に自分の考えを打ち明けた。

「実は、今朝まで迷ってたんだけど……やっぱりお前の言う通りにすることにした。最初はちょっと迷惑だとも思ってたけど、でも、やっぱり俺、あいつと別れるなんて出来ない……出来るわけないんだ。お前も、それで心配してくれてたんだよな? 俺、本当に嬉しかったよ。俺のために、そこまで考えてくれる友達がいるってことがな」
「……何だよ、今更」

 良が少し照れたように、そっぽを向く。それは今まで良が見せた中で、最も滑稽な顔だとヒカルは思った。

「それで、大学は辞めようと思う。金ももったいないし、親にも悪いからさ……」

 ヒカルは続けた。

「両親には何も言わないのか?」

 今度は、良が心配そうにヒカルを見てくる。考えてみれば、母親とは年末にマンションの部屋を訪ねてきて以来、何の連絡も取り合っていなかった。父親に関しては、ヒカルが大学に入学してから一度も会っていなかった。しかし、今のヒカルにとってはそんなことはどうでも良かった。勿論、実家に帰るなど考えていなかった。絶縁覚悟で、この計画を思いついたのだから。

「……いい。俺、もう多分家には帰らない。親不孝だって笑ってくれてもいい。でも……、あいつは絶対に俺が守ってみせる。それだけは、信じてくれ」

 ヒカルが言うと、良も微笑んでくれた。

「わかってるよ。お前が、自分の都合だけで親との縁を切るわけがないもんな」

 それを聞いて、またヒカルは嬉しくなる。

「俺の祖父ちゃん、農家なんだけど、昨日電話したら人手が増えて助かるって言ってた。居候するんだ、手伝いぐらいしなきゃバチが当たるからな!」
「わかってる」

 ヒカルはそのくらい、予想済みだった。あとはヒカリを連れて、黒岩たちの目を盗んで失踪することだった。もしも一生、そこで暮らすことになると、他の仕事も探さなくてはならなくなるだろう。
 帰ってヒカリと相談し、今月末あたりに決行出来れば良いとヒカルは考えた。彼女も、きっと承諾してくれるはずだとヒカルは思った。
 ヒカルは良に礼を言うと、部屋を出た。正直、良がこんなに頼りになる存在になるなど、思いもしなかった。人生、何が起きるかわからない。それだけに、面白みがあるというのはある意味事実なのかもしれない。本来、ヒカルも今頃は何事もなく暮らしていたのだ。あの夜、あの狭い道を通らなければ、これまで通りの生活を送れていたはずだ。しかし、あの男に出会ってしまってからヒカルの人生は大きく変わってしまった。それは、ヒカリも同じだった。あれが、自分の人生の中で最大の過ちであったとヒカルは何度も思った。

 昼が過ぎ、ヒカルは三、四限の授業を受けた。それが終わると、特に用事もなかったので帰ることにした。ヒカリのことが、何より心配だった。すぐに帰って、これからのことを議論しなくてはならない。

 ヒカルは急ぎ足で大学を出て、駅に向かった。途中、ある公園の横を通った。裏の世界線にいた頃、そこで一つ上の男子学生から告白されたのをふと思い出した。崇大とはこの世界に戻ってきてから一度も会っていないが、会ったとしてもヒカルことなど覚えていない—―知らないだろう。この世界の崇大は、あの世界の崇大とは別人なのだから。
 ヒカルはそんなことを考えながら、足を更に早めた。駅では、老若男女問わず様々な人々が忙しなく歩いていた。夕方ということもあり、これから家に帰る人で電車は混んでいた。ヒカルは上手く人混みを掻き分けながら最寄駅で降りた。
 今頃、ヒカリは大丈夫だろうか。誰かが訪ねてきても出ないように言ってはいたものの、やはり心配でならない。駅の改札を通ると、ヒカルは小走りでマンションを目指した。

 下に着くと、ヒカルは自分の部屋の窓を見上げた。やはり、カーテンが閉まっている。昨日から、わざと中が見えないようにしているのだ。黒岩やスミスという男に様子を感知されないためにも、彼女には絶対に開けないようにと強く念を押している。
 ヒカルは安心し、中には入ろうと再び歩き出した時だった。後ろから、聞き覚えのある声がヒカルを立ち止まらせた。

「お帰りなさいませ、今日も学校だったのですね?」

 その低い声は、ヒカルに威圧感という名の恐怖を植えつけた。ヒカルはそっと振り向くと、全身黒尽くめの男――黒岩吉見が立っていた。

「何してんだよ……」
「まあ、そんなに警戒しないでください。いつものことながら、私を不審者を見るような目で見るのはやめてください」

 黒岩は、また不気味な笑みを浮かべながら言う。ヒカルにとっては、反対に黒岩を不審者以外として見る方が無理であった。
 しばらく沈黙が続き、きくことを躊躇われたが、ヒカルは思い切って黒岩にここに来た理由を尋ねてみることにした。

「……ヒカリのことか?」

 それに対し、黒岩はまた笑顔で頷く。まるでお前の考えていることなどすべて筒抜けだと言わんばかりの、洞察的な視線をヒカルに対して送っている。ヒカルは少々怯みそうになったが、顔に出すわけにはいかない。必死に動揺を殺し、心拍数を抑えた。
 黒岩は、もうすでに何かを感知しているのだろうか。そんな不安が、ヒカルを襲った。しかし、次に黒岩から出た言葉はこうだった。

「貴方たちのことが気になりましてね、少し様子を見に来たんですよ。部屋に押しかけていって変な顔をされても困るので、ここでどうしようか迷っていたら、貴方が帰ってくるのが見えたというわけです。彼女は今、部屋におられますか?」

 今の話を聞く限り、ヒカリの中に胎児がいるということはまだ相手には知られていないようだ。それを聞いてヒカルはひとまず安心し、

「ああ、べつに変わりはないよ。あんまり、変な勘繰りすんなよ。俺とあいつで、上手くやってるからさ」

 と、適当に答える。

「そうですか、それを聞いて安心いたしました。ですが、そろそろ決心は着きましたか? 先日、シンジ・スミスに貴方を説得するようにと申し渡したのですが。貴方、最近あの男に会ったのでしょう?」

 そこでまた、ヒカルの心拍数が跳ね上がる。全身が脈を打っているかのように、ヒカルはしばらくそこから動けなかった。

「俺は……あいつとは別れることは出来ない……」
「ほほう、しかしそれは極めて危険な行為です。彼からも聞いたと思いますが、同じ人間が一つの世界線に二人存在すれば、周りの人間にも何らかの影響が出るのです。それ故に、直ちに別れていただきたいのですよ」

 その時、黒岩はそれを言うために自分の目の前に現れたのだと、ヒカルは直感した。これが、黒岩からの最後の忠告なのだとも思った。しかし、ヒカルは自分の信念を貫きたかった。そうしなければ、ヒカリを――彼女を幸せにすることは出来ない。

「誰が何を言っても、俺はあいつと生きていく。そう決めたんだ。――だから、悪いがその頼みは聞けない」

 ヒカルはやっと金縛りが解けたように、マンションの中に入ろうと進み出た。黒岩の横をすり抜けるように通り過ぎた時、黒岩によってまた呼び止められた。

「では、明日の深夜十二時に、彼女と一緒にわたくしの部屋に来てください」

 その言葉に、ヒカルはふり返る。

「……なんでだよ?」
「お伝えしたいことがあります。わたくしからの、最後のお願いです。では、お待ちしておりますね」

 それだけを告げると、黒岩は身を翻して去っていった。ヒカルには、それが何を示しているのかよくわからなかった。ただ、良いことではないということは黒岩の言い様を見ると一目瞭然であった。

 ヒカルは部屋の扉を開けると同時に、中に駆け込んだ。ちゃんとヒカリはいるのだろうか。急いでリビングの戸を開けると、ヒカリはソファーで寝ていた。それを見てヒカルは、安堵の表情を浮かべる。
 ヒカルが帰ってきた音を聞いてか、彼女は瞼を擦りながら身体を起こした。様子から、昼中ずっと寝ていたのだろうとヒカルは推測した。そしてヒカリの隣に座ると、ヒカルはそっと彼女を抱きしめた。彼女は最初、驚いていたが、すぐに腕をヒカルの背中に回した。ヒカルはヒカリを抱きしめたまま、しばらく動けずにいた。恐怖だけが増し、彼女にその振動が伝わらないように息を整えるのに精一杯だったのだ。

コメント

コメントを書く

「恋愛」の人気作品

書籍化作品