オモテ男子とウラ彼女

葉之和駆刃

第七十話 『曲者』

 男が喫茶店の戸を開け、中に入るとヒカルもその後に続いた。そこは大学の裏側に位置する、地味で小さな喫茶店だった。客足は少なく、どこか以前ヒカルの働いていたメイド喫茶の面影がある。面影があるものの、いたって普通の喫茶だった。

 奥の片隅にある席まで来ると、スミスはヒカルに座るよう椅子を右手で指した。ヒカルは言われた通りに腰かけると、スミスも向かいの席に座った。次に店員が来てテーブルに水を置き、一礼してから離れていった。また、気まずい空気が流れた。スミスはポケットから煙草を取り出し、吸い始めている。よく見れば、ここは喫煙席だった。ヒカルは煙草が苦手だったが、何とか我慢した。
 そして、まずはこの沈黙を打破しなければと考えた。

「あの……、話って何ですか?」
「そう言えば、確か君は二年生だったよね?」

 突然のスミスの反問に、ヒカルはたじろぐ。

「は、はぁ……。そうですけど」
「何を勉強してるんだっけ」
「法律のこととか……ですかね……」

 ヒカルは適当に答えた。するとスミスは灰皿に煙草を置き、真っ直ぐヒカルを見つめてくる。サングラスをしているせいか、目は良く見えないが、なかなか整った顔をしているということは読み取れる。しかし、ヒカルはこの男が何を考えているのか、今ひとつ理解出来ない。何故、こんなところに自分を呼び寄せたのだろうか。そう考えると、少し恐怖を覚え始めていた。
 そして、スミスが話し始めるのだった。

「私は、夢現法人ハピネスに雇われていてね。正規社員ではなく、非常勤なんだけどね」

 やっぱりそうか、とヒカルは心中で納得した。更にスミスはこう続ける。

「何をしているかって言うと、各プロジェクトの被験者たちを見張っているんだよ」

 それを聞いた瞬間、ヒカルの身体をまるで電気のように戦慄が走った。今までの自分の行動も、この男に見られていたのだろうかと思うと、気が気はでなかった。するとヒカルの様子を察したのか、スミスが微笑を浮かべる。

「大丈夫ですよ。べつに私は、貴方のことをつけていたわけではありません。あくまでも、お話が聞きたかっただけです。黒岩さんから、貴方のことを頼まれてね」

 そして、また煙草を口に銜えてライターで火を点ける。見るからに、怪しい風貌をしている。全身黒い服にサングラスをかけ、傍から見るとヤクザのようにも見える。ヒカルは、ふと疑問に思った。この男は、どこまで知っているのだろうか。黒岩と通じているということは、恐らく異世界線の自分、ヒカリと同居していることも知っているのだろう。そうであれば、少し厄介だと思った。いずれにしても、一筋縄ではいかないということは判然としている。

「それでききたいことというのは、貴方は今、もう一つの世界線のご自分と一緒に暮らしていますね?」

 ヒカルの予感した通りの質問を、スミスは投げかけてきた。こればかりは誤魔化せないと察したヒカルは、スミスを見つめて正直に頷いた。それを見たスミスも、フッと笑ったような顔になる。

「では、可能な限りでいいので、彼女とこれまでどのようにして過ごしたか、教えてくれませんか?」

 次にそんな質問をされたので、ヒカルは困惑した。

(一体何が知りたいんだ、こいつ……?)

 ヒカルは、ますますこの男が何者なのかわからなくなってきた。

「そんなに警戒なさらないでください。では、質問を変えましょう。貴方は最近、彼女をどこかへ連れていきましたか?」
「あ、はい……」
「では、どこに行ったのです?」
「一緒に……映画を見に……。その後は、レストランで食事をとって……、最後は綺麗な夜景スポットがあったから、そこで彼女と一緒に景色を見てから帰りました」
「それはそれは、良いデートになりましたね」

 スミスが笑って言うので、ヒカルは急に恥ずかしくなる。こんなことを他人に話すことになるなど、予想もしていなかったのだ。しかし、この男が自分に何を求めているのかという、ヒカルの疑問は強まるばかりであった。

「しかし、今日は大事な話をしに来たのですが……、少々言い難くなってしまいましたね」
「大事な話?」

 スミスの言葉に、ヒカルは素で返した。するとスミスは頷き、またヒカルに真っ直ぐな視線を送ってくる。それは時に、不気味に感じられた。これから、何を話そうというのか。ヒカルはまた不安になる。そして、スミスは再び口を開いた。

「では、単刀直入に申しますね。彼女と、別れてくれませんか?」

 ヒカルは一瞬、何を言われているのかわからずにキョトンとしてしまう。それは、ヒカルが聞くのを一番恐れていた言葉だった。いつかは訪れるとわかっていたが、心がそれを拒んでいるのだ。だから、なかなか受け入れられずにいた。いや、認めたくなかったのだ。

「それって……、もしかしてあいつを元の世界線に帰す手段が見つかったってことか?」

 ヒカルがきき返すと、スミスは首を横に振った。

「……いえ。ただ、これ以上、別々の世界線で生まれたとはいえ、同じ人間が同じところにいては困るのです」
「どうして困るんだよ!」
「いいですか? 性別が違うというだけで、貴方と彼女は同じ真宮希望という人間なのです。言わば、同じDNAを持っているというわけです。同じ遺伝子を持った人間は、同じ世界線には同時に存在出来ない。もしもこのまま、同時に存在してしまうと……周りの人々にも影響を与え兼ねないかもしれないのです!」
「あんた……何言ってんだよ……」

 ヒカルの声は、次第に震えていった。しかし、スミスの顔を見ると冗談を言っている風には見えない。

「これは、残念ですが事実なのです。なので、たいへん申し訳ないのですが、どうか彼女をこちら側に引き渡してもらえませんか。そうすれば、きっと周りの人間に影響を与えることなく、時間は進んでいくことでしょう」

 ヒカルは俯きながら、ただスミスの話に耳を傾けていた。その時、ふと脳裏に浮かんだのはヒカリの笑顔だった。彼女のために、ここまで努力してきたのだ。これまで以上に、異性の気持ちがわかるようにもなった。だから、彼女とずっと幸せに生きたかったのだ。誰にも邪魔はさせない、ヒカルはそう考えていた。
 すると、またスミスの声が耳に入ってくる。

「もちろん、すぐでなくともいいですよ。ただ、近いうちにそうしていただきたいのです。お辛いかもしれませんが、貴方のために申し上げているわけで、そこのところ、どうかご理解いただきたい」

 スミスは帽子を脱ぎ、テーブルに額がつくくらいに深々頭を下げる。しかし何度頼まれようと、ヒカルの思いが変わることはなかった。

「俺は……、あいつと約束したんだよ。俺が必ず守るって……。だから、悪いがその願いは聞けない」

 スミスは顔を上げ、じっとまたヒカルのことを見つめた。そして、更にヒカルは続ける。

「俺も最初の頃は、いつかこうなるんじゃないかって思ってた。だけど、彼女と暮らしてるうちに、ずっとこの時間が続けばいいのにって思うようになってさ……。あいつの笑顔を見ると、俺も嬉しくなるんだよ。一緒にどこかに行ったり、料理したりしてさ。こんなことになるなら、最初から一緒に住むんじゃなかったよ」
「ですが、お二人が離れないと大変なことになってしまうのです」
「だから何だよ、大変なことって」

 ヒカルが尋ねると、スミスは少し間をおいてから話し出した。

「今、貴方の中で、表と裏の世界線は一つに収束しております。つまり貴方と彼女、この世界線においてどちらも貴方なのです。もしもこのまま時間が進めば、同じ世界にいる人はどちらが本当の貴方なのかわからなくなってしまいます。どうやら、これは間違いないようです」
「それでもいい。俺は、もう他の人間とは関わらないようにして生きていく」
「いえ、そういう意味ではなくて……」
「とにかく、俺はあいつと別れる気はない」

 ヒカルは立ち上がった。これ以上、何を話して無駄だと悟ったからだ。スミスに一礼し、ヒカルは店を出ていこうとした。すると背後から、またスミスの声が聞こえる。

「それでは、貴方の幸せは望めませんよ!」

 しかし、ヒカルは無視して店を出た。今は彼女といられることが、ヒカルにとって一番の幸せだった。これ以上の幸せはいらない。早く家に帰り、一刻も早く例の計画について進めなくてはならない。あの男や黒岩に捕まる前に、この街から、あわよくばこの国から出ていきたかった。ヒカルは足早に駅へ行き、そこから電車に乗ってマンションの最寄駅で降車した。

 ヒカルが自分のマンションに向けて歩いていると、鞄の中から携帯の着信音が聞こえた。まさかと思い、それを取り出すとヒカルは電話に出た。

『おう、ヒカルか? 良かった良かった、今どこにいるんだ?』

 その声は、間違いなく良だった。ヒカルも、何事だろうと良にきき返す。

「何だよ、何かあったのか?」

『今さ、お前の部屋からかけてるんだけど、重大な問題が発生しててさ』
「はぁ? なんでお前が俺の部屋にいるんだよ!」

 ヒカルは状況がよく掴めず、良に尋ねた。すると、良はこう言うのだ。

『今、彼女も一緒なんだけど、すぐに帰って来られるか?』

 良の話し方を聞く限り、焦っているようだった。重大な問題とは、何のことなのだろう。ヒカルは良にきいたが、「帰ってきてから話す」と良が言うので、仕方なく急いで帰宅することにした。
 もしやヒカリに何かあったのだろうかと、ヒカルはまた不安に襲われた。そしてヒカルは良に一言言って電話を切ると、マンションに向けて走り出した。次から次へと、ヒカルのところに問題が降ってくる。まるで、神が故意的に仕組んでいるように。しかし、今は何よりも彼女を優先させなければならない。そう思いながら、ヒカルは更に足を速めた。

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