オモテ男子とウラ彼女

葉之和駆刃

第六十八話 『野心』

 二人の間に流れる沈黙。
 いつもなら気まずい空気に耐えかねてヒカルの方から何か話すのだが、その日ばかりは彼女の返答を待つことにした。

 数分後、ようやくヒカリが口を開いた。

「私は……ずっとヒカ君の側にいたい」

 それは、ヒカルの予想した通りの返答だった。そして、その答えもヒカルも一緒だった。ヒカルは、彼女を強く抱きしめる。その時、ヒカルは彼女から熱を感じた。ヒカルの肩が、一瞬にしてヒカリの涙によって濡れていく。それを感じ、ヒカルも考えていた。ヒカリと別れたくない。このまま一生を、彼女と過ごせないものかと。それは現実的に不可能だと理解はしていても、どうしても受け入れられない自分がヒカルの中にいるのだ。
 同じ世界線に同じ人間が二人いるということは、本来なら許されないことだとヒカルもわかっていた。以前は、ヒカルもいつかは彼女と別れなければならないと考えていた。しかし、一緒に暮らしていくうちに彼女を大切にしたい、もっと守ってあげたいという気持ちが芽生えてきてしまったのだ。それが日に日にヒカル自身を苦しめていったことは、言うまでもない。

「私……、ずっとこの世界に残りたい……。帰りたくない……。ヒカ君と……もう二度と会えなくなるから……」

 ヒカリは、泣きながらそのように言葉を紡ぐ。ヒカルも彼女の言葉を聞きながら、胸が張り裂けそうな気持ちを味わった。ずっとヒカリと一緒にいたい、二度と離れたくない……そんな気持ちとは裏腹に、黒岩は必ずヒカリを元いた世界に送り帰そうとするだろう。そんな時、一体どうしたら良いのだろうか。
 ヒカルが必死に考え、そして編み出した答えはたった一つであった。

「……逃げよう」

 今までヒカルの胸に顔を埋めていた彼女は、顔を上げてヒカルを見上げる。その目は、まるで兎のように真っ赤に腫れ上がっていた。

「一緒に、誰も追ってこれないような場所に行こう。後のことは、後で考えればいいさ。大丈夫、俺がちゃんと守ってやるから」

 ヒカリも、それを聞いてゆっくりと頷く。どこへ逃げるかはこれから考えなければならないが、出来るだけ早い方が良いとヒカルは考えた。
 すると、ヒカリが急にヒカルの手を握った。とても温かい。彼女の体温を感じながら、ヒカルは何気に目を閉じた。そして、柔らかい「何か」がヒカルの唇に触れる。その時、また時間の止まったような感覚がヒカルを襲った。
 ヒカリが離れると、ヒカルは目を開ける。彼女は、もう泣いていなかった。いつも通りの優しい笑顔で、ヒカルを見つめている。
 そして、

「……愛してる」

 と、小さく言うのだった。初めて異性からそんなことを言われ、ヒカルは恥ずかしくなって赤面したが、彼女を真っ直ぐ見つめて答えた。

「……お、俺もだ」

 顔が強張ってしまい、声も上ずってしまった。しかし、それを聞いてヒカリも微笑を見せると、今度は自分からヒカルに抱きついてきた。初めは少し驚いたが、ヒカルも笑顔でヒカリを受け入れた。いっそのこと、時間がこのまま永遠に止まれば良いのにとさえ思えた。しかしその願いを蹂躙するように、時計の秒針の音がヒカルの耳に入ってきた。それが、ヒカルにはどうも心苦しく感じられるのだった。一方、彼女もヒカルと同じ気持ちであったに違いない。

 その後、ヒカルは何も食べずに帰宅したのをすっかり忘れていたことに気づく。ヒカルは、何か作ろうと冷蔵庫の中を覗く。すると、ヒカリが来て食べきれなかった分があると言うので、ヒカルはそれを食することにした。思えば、ヒカリの料理を食べるのは初めてだった。一緒に作ることは偶にあったが、彼女が一人で作ったものを食べるのは今までに一度も経験がない。それだけに、ヒカルは楽しみで仕方なかったのだ。

 電子レンジで数十秒間温めたのち、ヒカリはテーブルにそれを運んできた。彼女は少し恥ずかしそうにしながら、ヒカルの前に皿を置く。彼女自身も、初めて自分の作った料理をヒカルに食べてもらうので緊張しているのだろう。
 目の前に置かれたのは、卵を使った肉野菜炒めであった。それは不格好で、あまり人に見せられるようなものではなかった。しかし、それを見たヒカルは、水が入ったわけでもないのに、鼻の奥が痛くなるのを覚えた。こんな気持ちになるなど、予想していなかったので少し動揺したが、それでもヒカルは嬉しかった。
 ヒカリは、初めの頃に比べて確実に成長している。ヒカルは箸を取り、ヒカリが作ってくれた料理を食べ始めた。見た目は不格好ではあるが、それは予想を遥かに超えるほどの美味であった。ヒカルは、こんなものを今までに食べたことがないとさえ思った。素材の味だけではない。そこには、彼女の気持ちが確かにあるのを感じた。
 前を向くと、ヒカリが感想を求めるような目でヒカルのことを見ている。

「美味いよ。もしかしたら、俺より料理が上手くなったのかもな」

 ヒカルは、冗談混じりにそんなことを言ってみたが、彼女は謙虚に首を横に振るのだ。

「……そんなことないよ。ヒカ君の作る料理の方が、美味しいもん」
「そうかな……?」
「そうだよ。今度、また教えて? 私も、もっと頑張って練習するから」

 ヒカリは、そう言って微笑んだ。彼女のその笑顔は、確かにヒカルの網膜に焼きついた。そして、ヒカルは箸を持った手とは反対の手で、ヒカリの頭を撫でる。彼女もまた、猫のように甘えた表情で無邪気に笑うのだった。

 食べ終わると、ヒカルは食器を台所に持っていって洗った。ヒカリも来て手伝ってくれたので、思ったよりも早く片付いた。時計を見ると、すでに十時を過ぎている。ヒカルは明日も大学に行かなければならないのを思い出し、早くシャワーを浴びて寝ることにした。

 そして、二人は交替でシャワーを浴び、寝床に着いた。リビングの電気を消すと、街のネオンがカーテンから綺麗に透けて見えた。ヒカリは疲れていたらしく、布団に入って数分後には寝息を立てていた。ヒカルもそれを微笑ましく思いながら、身体を横にして天井を見上げる。
 眠ろうと思って目を閉じるが、何故だか眠れない。そして、先程ヒカリに話したことを思い出していた。「逃げる」ということだけが、ヒカルの脳裏で何度も何度も再生される。そのことについて、ヒカリはどのように思っているのだろうか。

 ヒカルはとにかく遠くへ、誰にも居場所を特定されないような場所へ彼女を連れていきたかった。理由は、黒岩たちから逃げるためだ。あの男は、必ず彼女を元の世界線に帰すと言うだろう。ヒカルは最後まで彼女を守り抜く、そう心に固く誓ったのだ。何があっても、彼女を手渡すわけにはいかなかった。
 しかし、どこに行くかまだ決めていなかった。出来れば外国のような敵の手の届かない場所が望ましいが、金銭的な面で考えると不可能に等しい。今の二人のバイト代だけでは、とても外国になど逃げられそうもない。あとバイトを三つほど増やせば辛うじてどうにかなるかもしれないが、それでは自分の身が持たないとヒカルは思った。近くの人間に相談してみることも考えたが、しかし簡単に他人に話せるような内容ではない。これはヒカルとヒカリ、二人だけの問題なのだから。
 いや、赤の他人には違いないが、相談出来そうな相手が一人だけ思い当たった。いつもヒカルの悩み相談に乗ってくれた人物、良だ。良は、何と言うだろうか。反対するだろう。しかし、もうほぼ決定事項なのだ。己の考えを変える気は、今のヒカルには毛頭なかった。取り敢えず明日、良の意見をきいてみようと思い、ヒカルは目を閉じるのだった。


 ヒカルが目を開けると、眩しい朝陽がリビングに差し込んでいた。身体を起こし、隣を見るとまだ彼女は夢の中にいるようだった。時計を見ると、七時過ぎ。今日もまた、一限目から授業がある。ヒカルは重い瞼を擦りながら、立ち上がった。節約のために寝ている間だけ暖房を消しているが、布団から出るとやはり寒かった。彼女を起こさないよう上手に身体を跨ぎ、ヒカルは脱衣所に行って着替える。そして、いつものように適当に朝食をとる。目玉焼きを作り、それを食パンと一緒に食べた。

 ヒカルは食べ終わるとヒカリの分も作り、ラップをかけてテーブルの上に置き、クローゼットの中からコートを出して着ると部屋を出た。
 ここまでの行動は、いつもとほとんど遜色ない。しかし、ヒカルの心境はいつもと少し違った。頭の中にあるのは、常に彼女のことであった。それも、ただ考えるだけではない。これからの果てしない逃亡生活を頭の中で思い描いては、野心のようなものを抱いているのだった。

 大学に着くと、ヒカルに最初に話しかけてきたのは、やはり良だった。

「よう、昨日はあれからどうなった?」

 ヒカルから話さなくとも、良はヒカリのことについて知りたがっているらしい。流石は大学に入学したばかりの頃からの友人だと、ヒカルはつい感心してしまう。これが、以心伝心というものだろうかと、ヒカルは思うのだった。

「ちょっと、後で話があるんだけど」
「何だよ?」

 ヒカルの発言を聞いて、良は訝しげにヒカルを見つめる。

「今は言えない。後で、部室に寄ってもいいか?」
「お……おう。余程大事な話なんだろ。いいぜ、一緒に行こう」
「ありがとうな」

 それから、二人はそれぞれの教室へと向かった。

 教室に入り、授業を受けたものの内容がほとんど頭に入ってこない。単位のことよりも、やはりヒカリのことが気がかりだったのだ。ヒカルが昨日思いついた逃亡計画を実行するとなると、もうこの大学にも通えなくなるだろう。知らない土地で、地道に働くしかなくなる。勿論、親とも縁を切ることになるだろう。それがどんなに危険かは、今のヒカルには顧みる余裕などなかった。ただただ、彼女と離れたくない。それだけだった。

 授業終わり、ヒカルは良とともに部室に行った。隼はまだ来ておらず、二人は鞄を机に置いた。

「で、その大事な話とやらを聞かせてもらおうか」

 突然、良がいつも通りの偉そうな口調でヒカルに言った。ヒカルも、勇気を出して話すことにした。運良く今は隼がおらず、二人だけだ。おそらく反対するだろうが、とにかく自分の考えを伝えないことにはわかってもらえないと思った。そして、ヒカルが言おうとしたその時……。
 部室のドアが勢いよく開く。

「あ、おはようございます」

 隼が、二人だけの話を邪魔してしまったと思ったのか、申し訳なさそうな顔をして部室の中に入ってきた。

「おう、おはよう!」

 良も、機嫌良く手を挙げながら言う。ヒカルにとって、話し難い状況になってしまった。隼が聞いていても良いように思われるが、やはり良だけに話すべきだろうとヒカルは思うのだった。それ故に仕方なく、ヒカルは良と二人だけの時に改めて話すことにした。
 すると、隼は机に自分の鞄を置きながら、こんなことを話すのだ。

「そう言えば今朝、門の前で怪しい人に声かけられたんすよ」
「怪しい人?」

 良はその話に食いつき、隼に質問する。

「はい。なんか、全身黒い服着てサングラスかけて……ギャングっぽい人。で、その人がこの大学に通ってる、真宮希望って人を知らないかって尋ねてきたんすよ。それって……真宮先輩のことっすよね……?」

 隼は、心配そうな顔でヒカルのことを見る。ヒカルも、何を言われているのか一瞬よくわからなかった。そして、生きた心地が全くせずに頭の中が真っ白になっていった。

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