時計屋 ~あなたの人生をやり直してみませんか?~
三人の男・C
男は泣いていた。
  年のころは四十前後か。申し訳程度に体を覆う、ボロ雑巾のような衣服。不潔というよりは、ただ単に「汚れている」。血にまみれた前髪の隙間から、白くにごった眼球がほんの少しだけ盛り上がってのぞいている。抉られた頬にはもはや肉が無い。
  舌はしばらく前にどこかへ飛んでしまった。言葉はおろか嗚咽にすらならない、男はこのようなことを思っていた。
 「瑞穂……。俺が悪かった。俺が悪かったんだ」
  陸地ははるか崖の上。男の身体は、海水の混じった泥にすこしずつ浸食され、 ゆっくりと腐敗していった。
 「俺が悪かったんだ……」
  その手元には、一枚の写真があった。
  若い男女ふたりのスナップである。仲睦まじくどちらも幸せそうに微笑んでいた。
  観ているほうが照れくさく、幸せな気持ちになってしまうような写真を手に、男は死んでいた。
 「あのぅ。ご注文、でしょうか?」
  声はすぐ近くで聞こえた。
  意識をそちらへやる。
  まだ若い女だ。といっても、十二だか三十路だかわかりはしない。そもそも闇夜で、男の眼球はすでに半分埋まり、腐っている。髪を頭の高い位置で二つに分けるという、奇抜なうえに全然似合っていない髪型のシルエットだけは認識できた。黒髪には艶もなく、痩せた白い顔に黒装束。死神かと思った。
  女は言った。
 「わたしは時計屋です」
  女は、その死神の衣装から、銀色の円盤を差し出す。
 手のひらより少し小さい円盤に、歯車のようなものが四つついている。それはなにかの計器になっており、それぞれがまったく別の方向へ針が向いていた。
ひとによりそれは特殊な仕事で使う懐中時計などに思えたことだろう。
だが男にはもう見えなかった。
  女は淡々と続けた。
「これで、時を巻き戻す――あなたの過去をさかのぼることが出来ます。あなたの人生をやり直し、過ちを償い、愛する人をいつくしみ、幸福になることが出来うるのです」
  男は答えることが出来ない。女は少し、焦ったようだった。
  男の肉体が朽ち、魂がそこを去るよりも早く、告げなくてはならないことがあるらしい。あまり得意でなさそうな早口でまくしたてられる。
 「いかがです?この時計を買いませんか。代金などはいりません。ただ、買う、と。肯定していただければそれでいいのです。それだけで契約は成立し、わたしは職人として、雇用主から報酬をもらえるのです。
  あなたにはなんらデメリットはありません。なにも奪いません。
わたしどもは、嘘をつくことが許されていません。信じられないのも無理はないですが――それでも、あなたが過去に戻りたい、やり直したいと願うのならば――」
  男は伝えた。
 「いりません」
  女は少し、驚いたようだった。
  男は女に伝えた。
 「すばらしい機械ですね。死の淵に、あなたと会えた私はきっとずいぶん幸運なのだろう。
  そりゃね。この若さで飛び降り自殺なんぞしてしまったくらいだから、私の人生はろくなもんじゃない。好きになった女を娶り、ひどく傷つけて、捨てられた。後悔してもしきれないよ。それをどうにかできるっていうんなら、何をささげてでもあなたに縋りますとも」
 「では……」
 「だけどね、残念なことに……私は、ろくでなしなんだ。十年ばかり時間をさかのぼっても、私自身が変わらなければ、大抵似たような展開にしかならんだろう。
  何度やりなおしたって、同じことの繰り返しさ。
  どうしようもなく出来損ないの技師がなんど時計をつくりなおしたって、ガラクタを量産するだけだろう?
  もう疲れた。これでいいんだ。
  私はもう二度と、愛する妻を不幸にしたくないんだよ」
  沼を闇がつつんだ。
  女は、夜闇の空をふわりと渡り、遠く小さな星に向かって真っすぐに飛んでいく。
  途中、頬に当たるちいさな衝撃。
  そして、女は星屑の海についた。
  広大な空間だ。地面には水が揺蕩っている。さほど深そうにないのに、その色は深海のように暗く、昴のようにきらめいていた。水辺を囲うように痩せた木が群生している。見上げても木の先端は決して見えない。
  その木々に隠されるように、一軒のちいさなログハウスが建っていた。
  扉を開ける。丸太がそのまま見える、あたたかな色味のリビング。真ん中に置かれた木製の簡素なテーブルは、とても大きい。
  カウンターキッチンのように見える張出の向こうには、複雑そうな機械や部品、工具が整然、それでも目がくらむほど大量に並べて吊られていた。
 「戻りました」
  女がそういうと、
 「おかえりなさい、亜郷」
  と、いくつもの声が上がった。
 「今日の首尾はどうだった?」
  男の声に、彼女はその恐ろしく愛想のないまなざしをジロリと向けた。
  明らかに機嫌が悪い彼女に仲間たちは肩をすくめる。もっとも、この女が機嫌がよかったことなどない――
ベンチシートに深く腰掛け、テーブルに顎を乗せ、女は頬を膨らませた。
  残念ながら、そんな姿をしてみてもちっとも可愛くはなかったが。
 「カシコいひとが一人いて、取りこぼしたわ。あーあ」
  ぼやく彼女に、仲間たちは笑った。
  年のころは四十前後か。申し訳程度に体を覆う、ボロ雑巾のような衣服。不潔というよりは、ただ単に「汚れている」。血にまみれた前髪の隙間から、白くにごった眼球がほんの少しだけ盛り上がってのぞいている。抉られた頬にはもはや肉が無い。
  舌はしばらく前にどこかへ飛んでしまった。言葉はおろか嗚咽にすらならない、男はこのようなことを思っていた。
 「瑞穂……。俺が悪かった。俺が悪かったんだ」
  陸地ははるか崖の上。男の身体は、海水の混じった泥にすこしずつ浸食され、 ゆっくりと腐敗していった。
 「俺が悪かったんだ……」
  その手元には、一枚の写真があった。
  若い男女ふたりのスナップである。仲睦まじくどちらも幸せそうに微笑んでいた。
  観ているほうが照れくさく、幸せな気持ちになってしまうような写真を手に、男は死んでいた。
 「あのぅ。ご注文、でしょうか?」
  声はすぐ近くで聞こえた。
  意識をそちらへやる。
  まだ若い女だ。といっても、十二だか三十路だかわかりはしない。そもそも闇夜で、男の眼球はすでに半分埋まり、腐っている。髪を頭の高い位置で二つに分けるという、奇抜なうえに全然似合っていない髪型のシルエットだけは認識できた。黒髪には艶もなく、痩せた白い顔に黒装束。死神かと思った。
  女は言った。
 「わたしは時計屋です」
  女は、その死神の衣装から、銀色の円盤を差し出す。
 手のひらより少し小さい円盤に、歯車のようなものが四つついている。それはなにかの計器になっており、それぞれがまったく別の方向へ針が向いていた。
ひとによりそれは特殊な仕事で使う懐中時計などに思えたことだろう。
だが男にはもう見えなかった。
  女は淡々と続けた。
「これで、時を巻き戻す――あなたの過去をさかのぼることが出来ます。あなたの人生をやり直し、過ちを償い、愛する人をいつくしみ、幸福になることが出来うるのです」
  男は答えることが出来ない。女は少し、焦ったようだった。
  男の肉体が朽ち、魂がそこを去るよりも早く、告げなくてはならないことがあるらしい。あまり得意でなさそうな早口でまくしたてられる。
 「いかがです?この時計を買いませんか。代金などはいりません。ただ、買う、と。肯定していただければそれでいいのです。それだけで契約は成立し、わたしは職人として、雇用主から報酬をもらえるのです。
  あなたにはなんらデメリットはありません。なにも奪いません。
わたしどもは、嘘をつくことが許されていません。信じられないのも無理はないですが――それでも、あなたが過去に戻りたい、やり直したいと願うのならば――」
  男は伝えた。
 「いりません」
  女は少し、驚いたようだった。
  男は女に伝えた。
 「すばらしい機械ですね。死の淵に、あなたと会えた私はきっとずいぶん幸運なのだろう。
  そりゃね。この若さで飛び降り自殺なんぞしてしまったくらいだから、私の人生はろくなもんじゃない。好きになった女を娶り、ひどく傷つけて、捨てられた。後悔してもしきれないよ。それをどうにかできるっていうんなら、何をささげてでもあなたに縋りますとも」
 「では……」
 「だけどね、残念なことに……私は、ろくでなしなんだ。十年ばかり時間をさかのぼっても、私自身が変わらなければ、大抵似たような展開にしかならんだろう。
  何度やりなおしたって、同じことの繰り返しさ。
  どうしようもなく出来損ないの技師がなんど時計をつくりなおしたって、ガラクタを量産するだけだろう?
  もう疲れた。これでいいんだ。
  私はもう二度と、愛する妻を不幸にしたくないんだよ」
  沼を闇がつつんだ。
  女は、夜闇の空をふわりと渡り、遠く小さな星に向かって真っすぐに飛んでいく。
  途中、頬に当たるちいさな衝撃。
  そして、女は星屑の海についた。
  広大な空間だ。地面には水が揺蕩っている。さほど深そうにないのに、その色は深海のように暗く、昴のようにきらめいていた。水辺を囲うように痩せた木が群生している。見上げても木の先端は決して見えない。
  その木々に隠されるように、一軒のちいさなログハウスが建っていた。
  扉を開ける。丸太がそのまま見える、あたたかな色味のリビング。真ん中に置かれた木製の簡素なテーブルは、とても大きい。
  カウンターキッチンのように見える張出の向こうには、複雑そうな機械や部品、工具が整然、それでも目がくらむほど大量に並べて吊られていた。
 「戻りました」
  女がそういうと、
 「おかえりなさい、亜郷」
  と、いくつもの声が上がった。
 「今日の首尾はどうだった?」
  男の声に、彼女はその恐ろしく愛想のないまなざしをジロリと向けた。
  明らかに機嫌が悪い彼女に仲間たちは肩をすくめる。もっとも、この女が機嫌がよかったことなどない――
ベンチシートに深く腰掛け、テーブルに顎を乗せ、女は頬を膨らませた。
  残念ながら、そんな姿をしてみてもちっとも可愛くはなかったが。
 「カシコいひとが一人いて、取りこぼしたわ。あーあ」
  ぼやく彼女に、仲間たちは笑った。
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