時計屋 ~あなたの人生をやり直してみませんか?~

とびらの

独立したての美容師

 女は頭を抱えていた。

 小さな店舗であった。10坪程度だろう。たった一つのシャンプー台、二つのロッキングチェアがその面積のほとんどを占め、店内は特殊な薬品臭と甘い香料、まだ新築の木の香りで満ちていた。
 くすみのない更木の床に、人の髪がちらばっている。
 通常、すぐに片づけられるものもそのままに、若きオーナーは客用ソファにうなだれていた。

「ああ……もうダメ。終わりだわ……」

 ぢゃりん。

「ご注文ありがとうございます」

 声は、耳障りな金属音とともに現れた。
 女が顔を上げる。

 小さな我が城に、いつの間にか佇んでいた侵入者は、白い髭をたくわえていた。
 丁寧になでつけた髪は完全に白髪で、白い髭と同化している。年は60を超えているだろうか。老いた男というよりは老紳士と呼びたい、細身の身体をゆったりとした黒いローブで覆っている。若いころはハンサムだったかもしれない。温和に垂れた瞼から、かすかに青い瞳が見えた。

 女はつぶやいた。

「……ええと……男の人のメイドって、なんていうんだっけ」

「バトラーでございます。ワタクシは時計屋でございますが」

 老紳士はそう言った。

「さて。このサロンの、若きオーナー様とお見受けいたします。改めまして、ワタクシは時計屋の職人兼営業、ガレオンと申します。ワタクシは自作した時計を、それを必要とされる方にご案内しております」

「時計……のセールス? でもウチは昨日オープンしたばかりで、壁掛け時計もあそこにちゃんと」

「いいえ。ワタクシどもがご案内しています時計は、大変特殊なものでございまして」

 老紳士はローブの前を解き、鳥の翼のように両腕を持ち上げた。腕から垂れる黒いローブの内側に、びっしりと、小さな金属盤が貼りついていた。

「これは、あなたの時間を巻き戻す時計でございます。正式な名称はございません。時計とだけお呼びください。これを使えば、あなたの人生を巻き戻し、過ぎた過去をやり直すことが可能になります」

「な……なんですって?」

「時計は一つ一つ手作りで、それぞれに特徴がございます。たとえばこちら。三十年の時を戻しますが、その分ご自身は老いてしまいます。それからこちらは五分間、ただし一人のお客様であれば何度でも使用することが出来ます。たとえば一人の人間を果てしなく拷問を繰り返したいときなどにお喜びいただけるかと思います」

 それからこれは――などと、老紳士はいくつかの実例を挙げて説明してくれた。代金がかからないことも補足して、続けて一礼する。

「と、こういう商売をしております。もしあなたが購入を検討していただけるのであれば……先ほど激怒して飛び出していった方のヘアカットを、何度でもリトライすることが可能です」

「! どうしてそれを」

「どういたしますか? あれだけひどく罵倒されたのだから、あなたのプライドはズタズタでしょう。さぞお辛かったでしょう。悔しいでしょう。オーナー様」

「…………」

「ワタクシは観ておりました。飛び込みでやってきて、ロクに希望を伝えもせず、お任せするわと投げておいて、あとになってココはこうしてほしかったこの長さが良かったとヒステリックに喚きたてる。挙句にネットで晒してやるわとまで吐き捨てる。酷い客だ。あれじゃあ美容師はお手上げでございましょう。あなたは何も悪くない」

 ぢゃりん。
 老紳士の身体に鈴生りになった時計が、重なり合って音を立てる。ざらりとした金属音は、彼女の耳から心臓までを不気味に舐めた。

「さあ。やり直しましょう。あなたの人生を――」

 老紳士の言葉に、女はうなずいた。

 現時刻を確認し、記憶をたどって、時計屋から賞品を受け取る。
 そして、女の意識が一瞬、遠のいて――

 ふと目を開ける。店の掛け時計を確認すると、たしかに時間は三時間、巻き戻っているようだった。
 女はすぐさま行動を起こした。印刷用の白紙に黒マジックを走らせ、店のドアへ駆け寄る。外側に向かってテープを止めた。


 『臨時休業』 ~お急ぎの方は東に2キロ・本店Amefeeまで~


「リトライ……しないのですか?」

 まだ居たらしい、老紳士が、軽く呆けた声で女に尋ねた。ちょうどガラスの向こうに現れた髪の長い婦人に向かってニッコリと一礼しながら、女は笑った。

「独り立ちなんて、ラクして儲けたいからするものよ。面倒事はサラリーマンにお任せしましょ」

 婦人の背中が見えなくなって、女経営者は張り紙を外した。

  

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