ラトキア騎士団悲恋譚

とびらの

終焉

 ビイ、ビイ、ビイ。

  ひどく耳障りな機械音が、アレイニの嗚咽に重なった。

  下男はアレイニを下ろした。すかさず扉に駆け寄っていくのを放置して、胸元から通信機を取り出す。
  『鯨君オットー』の前型である。空中浮遊での追従や、メッセージ印刷や翻訳機能などはついていないが、富裕層には広く定着しているものだった。

 「――なに? 英雄が――いや待て。俺ではわからん。どうすればいいか、ヒルダ様に伺う」

 「騒音うるさい!」

  アレイニは泣き叫んだ。下男だけではない、周りが騒がしすぎて、大事な音が聞こえない。
  白い扉に耳をくっつけて、アレイニはテオの声を探した。ざわめきと大勢の足音で、なにもわからない。
  ふと、扉の下にわずかな隙間があるのに気づく。アレイニは這いつくばった。土に横顔を張り付けて、どうにか向こう側を覗こうと苦心する。
  指一本ほどの隙間から、いくつもの赤色が見える。
  赤い髪――少年が床に倒れ伏したその頭部。うつ伏せになり、床にはじわりじわりと血が広がっている。
  生死はわからなかった。即死に至る急所は人体のそこかしこにあるし、衝撃死、失血死という可能性も脳裏をよぎる。

 「テオ、死んでないよね? 死なないで。お願い。お願い……!」

  アレイニは祈った。
  現人神の庭で、この世界のどこにもいない神に向けて、アレイニはひたすらに祈りをささげた。

  ラトキアに、神はいない。

  この大地、木々、水、風、動物たち、すべてがラトキアを作る神である。民間人が口にする、三人の女神もまた、ただのヒトであった。

  二百年前――ラトキア解放戦争の立役者となった、三人の英雄がいた。その母親を、建国の母と称えているだけなのだ。
  ヒトらしく、寿命通りに死んでいった女たち。
  そんなものに祈りをささげても、ご利益なんてありはしない。奇跡は起きない。

  それでもアレイニは祈った。

  原初のラトキア星人、黒い髪をした女神に助けを乞うた。


  後ろがまた、騒がしい。
  涙にぬれた顔で振り向くと、伯母がいた。階段を下りながら通話していたらしい、通信機を切って、下男に顎をしゃくる。男はうなずき、また別のところへ電話をかけた。すぐに切って、そのまま無言で待機する。

  赤子を抱いた乳母が駆け付けたのは、三分とかからなかった。
  アレイニは声を上げた。

 「コトラ!」
 「取引をしましょう」

  伯母は言った。彼女らしからぬ、やけに早口だった。アレイニが聞き返すよりも早く、やはり性急な様子で言い放つ。

 「取引です、姫様。あなたの愛した男とその子供、二人の処分は今、『光の塔』に一任されている状況です。それは分かりますね」

  アレイニはゆっくりと頷いた。

  光の塔は、ラトキア政府の治外法権。現人神の在処しろは、その住人により統治されている。不法侵入者を射殺しましたと事後報告して、軍が動くことはない。
  相手がよほどの要人で、公的に訪問していたならば話は別だが……テオはしょせん、一介の騎士。しかも独断で侵入してきたのは明らかであった。

  コトラもまた、あまりに幼い。『突発的な事故による死亡』をさせるのは容易である。

  もう一度、アレイニは頷いた。

 「……取引ですね」

  伯母を睨みつける、その視界の隅に、ヨタヨタと階段を下りてくる中年男の姿が見えた。名前をうっかり、忘れてしまった。カエルのような見目をした、出会ったばかりの男に向けて、アレイニは膝を付く。

 「あなたを、我が夫として受け入れます。そしてこの塔に、今度こそ――青い髪の子を生んで……あなたたちにお渡ししましょう」

  おお、と、いくつもの声が上がる。
  夫は感極まったように震え、飛びあがり、アレイニに抱きつこうとした。それを引きはがしたのは伯母だった。アレイニの発言に笑みを浮かべもせず、さっさと立ち上がるよう促してくる。

 「結構。あの男はすみやかに治療し、ラトキア騎士団へ突き返します。光の塔への侵入に関して、無罪にしてやれと書面を付けましょう。ではお部屋のほうへ戻りますよ。ここは冷えます。ご自愛なさいませ」

 「伯母様! 取引には、こちらからも条件が!」

  アレイニが叫ぶと、彼女は明らかにイラついた様子で振り向いた。腕を掴み、塔へ引っ張りながら続きを促す。自愛をしろというわりに、ずいぶん早足で階段を上らせるものである。
  アレイニは言った。

 「ラトキア騎士団長クーガの父、カウル様に連絡を取らせてください。コトラは孤児養護施設ではなく、彼に預けたいと思います」
 「……ええ、わかりました。ではそのように手配いたします」
 「私が直接通信します。電話を貸してください」

  伯母は再び黙り込んだ。
  渋ることはわかっていた。治外法権はあくまでこの塔の敷地内にあり、光の塔の住人にある権利ではない。
  いったんここから出して、他の大貴族の養子にしてしまえば、コトラに手は出せないはずだ。

 (コトラさえ無事に生きてくれたら。外の世界に出てくれたなら――)

  アレイニの考えは、伯母には筒抜けであろう。彼女はしばらく考え、視線でうなずき、首を振った。

 「あそこは騎士や高級軍人を要請するための士官学校。孤児院ではありません。こんな幼子を送りつけられてもご迷惑でしょう」
 「話をしてみます」
 「……よろしい。しかしそれは、コトラ様がもうすこし、成長されてからにしましょう。姫様も少しくらい、我が子とともに過ごしたいでしょう?」

  アレイニを部屋に押し込むと、伯母はすぐ、乳母を呼びつけた。すぐに赤子が運ばれてくる。まるで安食堂の給仕のように、はいはいと乳母は簡単に、赤ん坊を実母へと手渡した。

  今度はコトラは起きていた。小さな顔、その大部分を占めるかのように大きな目。
  まんまるの頭部に申し訳程度に生えた、赤い和毛にこげを撫でてみる。それがなにか、くすぐったかったのだろうか。コトラはアレイニの指を掴んだ。熱く、湿って、やらわかな赤子の指――
 アレイニは脱力した。

 「早く、次の子を孕んでいただくために、乳をやることは許しません」

  伯母が言う。

 「ですが、一日にほんのひととき……夕食時には、この部屋へ、コトラ様をお連れしましょう。そうして子の成長を見届ければよいかと思います」

 「……ええ。……はい。……はい……」

 「今日は、もうしばらくともにいることを許します。引き離すときに駄々をこねませんように。心配せずとも、また明日お連れしますからね」

  はい、とアレイニは頷いた。

 「来月には、ヒューボ殿をこの塔へお迎えします。夕食のあと、この寝室へやに」

  頷く。

 「ヒューボ殿がどうしても嫌ならば、他の候補者を呼び寄せます。どのみち一年間、子供が出来なければ、ヒューボ殿になにかしら機能障害があったとして、次の方を迎えます。また一年間を期限として」

  頷く。

 「アレイニ様が、子を孕むまで、永遠に続けます。次期天皇の父になりたいというものは、このラトキアにいくらでもいるのですから」

 「はい、わかりました」

  アレイニは頷いた。

  そこで、伯母はふと不安になったらしかった。細い眉をしかめ、穏やかに囁いてくる。

 「天皇を生みさえすれば、あなたは自由ですよ」

  わかっています、と、アレイニは大きく頷いた。


  正直なところ――アレイニは、伯母の話などろくに聞いていなかった。ただ言葉の内容は理解していた。
  そしてそれを喜んだ。 

  これからしばらく、コトラを抱いていられる。
  明日もまた会える。明後日も。アレイニが生きている限り、コトラの成長を見届けることが出来るのだと。

  アレイニは笑った。

  それは、とても、幸福なことのように思えたのだ。



  熱くて寒い。
  肩のあたりが焼けるほどに熱く、全身は凍えるほどに寒かった。
  力の入らない腕で、どうにかテオは、あおむけに体を転がした。べちゃり、と濡れた音。どうやら血らしい。撃たれたのか、と客観的に理解した。だからといって、さほど感情は動かなかった。

  頭が痛い。体も動かないが、それ以上に思考が働かない。かすむ視界を巡らせて、テオはなんとなく、耳に心地の良い声のほうへ、首を傾けた。

  そこに黒髪の男がいた。年のころは二十歳ほど、長身に、細身だが理想的な戦士の体躯。床から見上げた面差しは、彫刻のように整った美丈夫である。
  ラトキア騎士団の軍服に、旅のマントを重ねた青年は、テオのほうへと目をやった。群青色の目が細められる。
  うっすら桃色がかった唇が、なんとも心地のいい、穏やかな声をぼそりとこぼす――

「あほまぬけ。なにをやっている。自業自得だぞほんとばか」

  言葉もなく突っ伏すティオドール。そこに、今度は優しく熱量のある声が掛けられた。赤い髪をした、愛嬌のある顔面の男が覗き込んできた。

 「大丈夫かティオドール! 意識はあるな? すぐ止血する。そのままじっとしてろよ」
 「……ぁ……シェノク?」
 「動くなっつってんだろ馬鹿野郎!」

  結局、こちらからも罵られた。シェノクの処置は手早く的確であった。テオは自分が、命をつないだことを実感した。だからって回復するわけではない。ぼんやりとした意識の隅っこで、なにやら上官が、ムズカシイ話をしているようだった。

 「ティオドールを撃ったことは別に、咎めない。ただ生きたまま戦闘不能になっているのを追って射殺するのは、正当防衛を越えている。こちらで引き取らせていただく」
 「……で、ですから、その、塔は、光の塔は、治外法権で、いくら騎士団長さまでも……」
 「治外法権は、現人神の在処しろ、『光の塔』だけだ。法律上この館は敷地外、その白い扉の向こうからが塔の領地。この場は騎士団が取り仕切らせてもらうぞ」
 「ええっ? そ、そんな……だからっ、あのちょっと待ってっ、ぼくではちょっとそんな――ヒ、ヒルダ様あ」

  事務員かなにかだろう、ひょろ長いだけの男は、英雄の前で完全に委縮していた。
  そのとき、白い扉が開かれた。あれだけ頑なに閉ざされていたものが、今になって解放される。緑の庭園を背景に、やってきたのは老婆だった。急いで駆け付けたらしい、彼女は息を乱しながら、唾を飲みこむ。
  そして胸を張った。

 「ようこそ、初めまして。わたくしはこの光の塔で天皇皇后両陛下および皇太子様の世話役のようなことをやってます、ヒルダと申します。誉あるラトキア騎士団、団長のクーガ様。……突然の訪問に、いささか驚いておりますよ」
 「ティオドールの不在を知ってから、慌てて軍用車で追いかけたので、連絡の間が無かった。許してほしい」
 「……仕方がありませんね。公務なのですから。それで、ご用向きは」
 「若手騎士が、こちらにお邪魔しているのを迎えに来た。ラトキアの法のもと、ティオドール、アレイニ、そしてその子供コトラ。三名の身柄引き渡しを命じる」
 「……ここは、治外法権うんぬんを抜きにしても、私どもの私有地です。なにか……正式に、誘拐監禁容疑の捜査令状でもなければ、私邸に踏み込み、探して回る権限はないかと存じますが」
 「民間人ならばな。だが騎士は、所属している騎士団のもとにある。長である俺は保護者と同等の権限で騎士の身柄を確保、受け渡しを請求できる。……はずだよな?」
 「不安にならないでください、合ってます、大丈夫です」

  テオの血圧を測りながら、シェノク。
  援護射撃を得て、クーガは再び、ヒルダに向き直った。

 「三名を渡せ。連れて帰るぞ」
 「……アレイニ様は、すでに、退団願いを出しております。もうラトキアの騎士ではないはずです」
 「ああ。受理した。ティオドールとの婚姻破棄届けも」

  クーガは頷く。穏やかな声のままで、静かに。

 「同時に、ティオドールの待遇に対しての訴状も。『意に沿わぬ妊娠であり、この者は母子に今後害を及ぼす可能性が高いため、軍管理のもと、記憶の消去刑を願います』。こういった文面を、確かに受け取ったぞ」
 「……それがなにか」
 「強姦は重罪だ。そこに親告で刑罰を求めるなら、正式な訴訟ってことになる。簡易裁判には、被告であるティオドールはもちろん、原告である妻子からも調書を取らなくてはならない。上官である俺は騎士団の名誉を守るため、アレイニ、コトラ両名を召喚する」

  ヒルダはあんぐりと口を開けた。
  目的は予想していても、この手管は完全に想定外だったのだろう。数秒間、間抜け面をさらしたあと、額まで紅潮させ激昂。なにか言い返そうと思案して――
 しかし、胸を張った。

 「なるほど。では、その訴訟を取り下げます。その者、ティオドールは無罪です。妊娠は合意のもと起きた結果。記憶の消去などは行わなくて結構。この離婚騒動は妻の独断、ということで」
 「――とっ、ということで、じゃねえだろっ!」

  ヒルダは一切、シェノクの相手をしない。あくまでクーガに向かって、鼻を鳴らした。

 「これで、手詰まりですよね?」
 「――いや。そうなると、離婚はともかく、実子であるコトラに対しティオドールは面会の権利を持つ。まずはコトラを預からせてもらおう。実母であるアレイニは、乳幼児を二十四時間以上離すのは児童保護法で禁止だ。ともに来てもらう」
 「では乳母を同伴させます。正当な理由があれば代理でも」
 「正当な理由? 容疑もはれ無罪放免、なんら危険のない、誉あるラトキア騎士団のひとりであるティオドールとの面会に、顔を出せない理由を述べよ」

  ヒルダは喉を鳴らした。クーガは声を上げた。

 「ティオドール、アレイニ、コトラ。三名を渡せ。全員、ラトキア騎士団で預かる!」


  沈黙は、ほんの短い間だった。

  廊下のはしっこで取り巻いていた、館の住人達も息を飲む。静まり返った光の塔、そのほんのわずか、手前の土地で――
 ヒルダは答えた。

 「アレイニ様は、先ほど、新たな夫を迎え、婚約をなさいました」

  クーガ、シェノクが息を飲む。テオはただぼんやりと聞き流していた。
  止血帯がちょっと痛いなあと、そんなことを考えていた。

 「婚約だと?」

 「ええ、そうです。王都第七用水路監理官であり宿場通りを領とする、ヒューボ殿の、正式な妻となりました。書類での婚姻届けはまだですが、人前式はこの塔で執り行い済みです」
 「嘘だ! アレイニはほんの半月前まで、このティオドールと!」

  シェノクが叫ぶ。だがその絶叫に何の力もなかった。このラトキアでは、離婚後、新たに婚姻するのに年月を置く必要はない。ヒルダはまだ息が荒れているのを飲みこんで、口元に笑みを浮かべて見せる。

 「それにより、アレイニ様とその子供、コトラの第一保護権利者は夫であり養父となるヒューボ殿にあり、彼の許可がなくては、妻子を連れだすことは許されません。まして彼らは今、この庭の向こう、光の塔におられる。そこに踏み込むことは、英雄にだって出来ませんわ!」
 「こっ――! この、ババア、だいきらいだっ!」

  毒づくシェノクの消毒が痛い。

  やつあたりで消毒液ぶっかけないでいただきたい。とろりとした瞬きでもって、テオは抗議を行った。

  もう一度沈黙が降りた。やはり長い時間ではない。
  騎士団長は静かに、あくまで穏やかに、心底不愉快だという口調でもって、吐き捨てた。

 「……わかった。アレイニとその子供は……たしかに、そちらに権利があるようだ。我々は、ティオドールだけを連れて帰ることにしよう。
  ……急な訪問、たいへん失礼いたしました。いずれまた、改めてご挨拶に伺いましょう」

  ヒルダは大きく息を吐いた。
  ずっと長く、苦しくなるまで溜めこんでいたものを解き、彼女はこれまでになく穏やかに笑う。
  そうすると、老婆は可愛らしくすら見えた。

 「ええ。美味しいお菓子を用意して、お待ちしております」

  両者は深々と頭を下げた。



  軍用車の中で、シェノクはずっと呟いていた。

 「ちくしょう。馬鹿野郎が。くそっ――馬鹿が。馬鹿野郎ども」

  銃弾の処置は終わっていた。簡易的ではあるが、軍用車には医療道具があり、軍人らはその使い方を知っている。縫合のあと、シェノクはすぐテオの左胸を治療し始めた。アレイニの名を焼き付けた痕である。鏡文字であるが、シェノクはすぐに理解した。
  以来、ずっとそうして文句を言っている。

  時折嗚咽を交えて、シェノクは呟き続けていた。

  テオはぼんやりと、それを聞いていた。


  運転をしていたのはクーガだった。王都への道を急ぎながら、前方の空を眺める。
  夕焼けが、彼の青い瞳を焦がす。
  クーガは目を細めた。

  整った顔を、ほんのわずかに歪めて苦笑する。

 「……やっぱり駄目だな、俺は。頭脳戦には向いてない」

  呟きが聞きとがめられ、シェノクが顔を上げる。それに構わず、彼はまた唇を尖らせた。

 「…………まだやり方があった? ……あいつだったら……きっと……」


  夕焼けが荒野を染める。クーガの視界を、琥珀色が占めている。
  色だけは暖かなラトキアの大地は、ただ無言のままに、彼らの前に広がっていた。


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