ラトキア騎士団悲恋譚
三枚の手紙
ゆっくりと――一日、一日。すこしずつ、時間が過ぎていく。
  季節が移り、景色が変わった。
  すこしずつ、すこしずつ。
  アレイニのいない日が増えていく。
 「もう、一年か」
  聞こえてきた、その言葉に、テオは反射的に言い返した。
 「十か月だ」
  呟いた主が怪訝な声を漏らす。そこで初めて、テオはそこにクーガ騎士団長がいたことに気付いた。呟いたのも彼である。クーガは首を傾げ、苦笑した。
 「すまない、主語が抜けた。……地球を出てから、ちょうど一年だと言ったんだ」
 「地球……日本の話ですか」
 「ああ。今度また、日本に行くことになった。今度は外交の件でな。トウキョウという、以前行ったところとは離れた場所にいく。日程も厳しいから、リタには……会えないかな」
  テオは相槌も打たなかった。あまり興味がわかない。
  日本。リタ。懐かしい名前だ。出来ればまた行きたい、会ってみたいと思っていた。
  しかし、
 「俺は無理だが、付き添いならある程度時間が取れる。ティオドール、一緒に行くか? 今度こそ日本の観光をしてもいいし、外交についてきてもいい。……もし、良かったらお前だけでもリタに――伝言を――」
 「いいです」
  きっぱり首を振った。クーガはそれで、すぐにあきらめた。そうかと頷き、席を立つ。
  早朝、騎士団寮の食堂である。
 朝食タイムにしれっと混ざり、短い会話だけで立ち去ってしまったクーガに、そういえば何しに来たのだろうかと疑問がわいた。
  だがそれもすぐに霧散する。追及する気もなく、テオは朝食を再開した。
  クーガも、地球も、リタとやらも――なにもかもどうでもいい。
  食事も、鍛錬も熱が入らない。嫌だという感情すら動かなかった。
  あれだけ熱中したマンガも積んだまま。少しだけ覚えたお茶の作法は忘れた。仕事をさぼることもなく、遊ぶこともなく、ただ淡々と生き続けている。
 (多分、俺は次の任務で死ぬ)
  そんなことを、ふと思う。何の根拠もないがそう思う。それがよくないことだとは思わなかった。
  あれから――十か月。
  さすがに、ティオドールも、気持ちの整理はついていた。当時は舞い上がったままどん底に落とされ、ひたすら混乱していた。時間を置けばいろいろと冷静になって見えてくる。
  相変わらず、彼女が去った理由は何もわからない。
  だが明確に、わかりきっていることがある。
  彼女が、テオのもとを去ったということ。
 (次の女。次の恋。さっさと次に行こう)
  そう決意もした。あれから実際に、バンドラゴラはなにかと世話を焼いてくれた。気さくな貴族娘、テオと同じ赤い髪の少女、目がくらむような美女。バンドラゴラのネットワークに空恐ろしいものを感じつつ、テオはしっかり、その全員とデートをした。
  みんな可愛かった。楽しいと思った。それでもテオは彼女らを、夕方までに家へと帰した。
  次にまた会いたくなったら、そのときは――そう本気で思いながらも、誰にも、二度と会わなかった。
  引きずっているつもりはない。ただ、何の熱もこの胸に燻ぶりはしなかっただけだ。
  齢十八。この感覚はいつまで続くのだろうか――悩むことすら億劫で、テオは黙々とノルマの摂食を終え、立ち上がる。部屋へ戻り、すぐに着替えを始めた。一時間後には就業時刻である。私服の部屋着を脱ぎ、軍服を羽織った。気が付けば、この格好も二年以上になる。後輩もでき、いっぱしの騎士らしくなってきたものだ。
  テオは笑った。
 (いっぱしの騎士? 貴族だと。あほらしい。俺は何も変わってない)
 (いつまでもずっと――髪は赤いまま。肩書きが変わろうと、何年経とうと、下賤なスラムのガキなんだ)
  そんな風に思ったのは初めてだった。そしてその瞬間、なにもかも馬鹿らしくなる。いったい自分は何をやっている。今やっていることに、何の意味がある。
  何年も何年も、命がけで戦い、出世して、金を稼いで、貯めこんで。それでいったいなんになる。
  何も手に入らなかった。
  これからもきっと、どうにもならない。
  何も還ってこない。何も。無駄。無意味。からっぽ。何も無い、何も、何も――!
  拳をクロゼットに叩き込む。戦士の力で、大きく傾いだクロゼットは中身をでたらめに吐き出した。マンガや雑貨、適当に詰め込んだ私物が床に散らばっていく。テオはそれらを、片っ端から蹴り飛ばした。
 紙や布が舞い、部屋を侵す。
 暴れ狂いながら、テオは不思議と冷静であった。馬鹿なことをしている、と自覚する。あと一分、こうして暴れよう。そのあと就業時間まで、黙って片づけに入ればいい。
 「――痛ッ!?」
  突如、足先にやたらと硬いものがあたり、テオはひっくり返って悶絶した。座り込み、悪態をつきながら拾い上げる。
  手のひらよりも少し大きい、金属の一枚板だった。真鍮製でずっしりと重い。これは一体なんだ? 首をかしげながらくるりと反転。そこにある、『アレイニ』の文字に、ギクリを身を強張らせた。
  アレイニ。
 「アレイニ」
  アレイニ。
  懐かしいと言うほど、時が開いたわけではない。だがその名を口にした途端、胸に暖かなものがあふれた。それがとても心地よくて、テオは何度も、ネームプレートを読み上げた。
 「……アレイニ……」
  ――その時。コツコツ、とノックの音。
  テオは飛び上がった。ドアノブに縋り付き、一気に押し開く。予感がしていた――だがそこにいたのは、期待した人物ではなかった。『柔らかそう』と評する部分がどこにもない、貧相な軍服姿の男である。
 「――ティオドール、お前に手紙だ」
 「アレイニか!?」
  封筒を掲げたシェノクに、テオは即座に問うた。一瞬、シェノクが怪訝な顔をする。テオの体越しに、部屋の惨状が見えたかもしれない。しかし彼は追及しなかった。
  封筒を返し、宛名を見せてくる。
  ――アレイニ。その名のサインが、確かにあった。テオは飛びつき、奪い取った。さっそく開こうとするのを、今度はシェノクが待ったをかける。
 「ティオドール、筆跡が違うに気付けよ」
 「へっ? ……ん、ああ」
 「それに、封が開いているのにも。表書きが自分じゃなく、騎士団事務所宛てになっているのもちゃんと見ろ」
  言われて、テオはクルクルと封筒を回した。確かにその通りだった。だがそれは、大きな問題と思わなかった。シェノクはテオ宛てに手紙だと言った。問題はその中身であって、封筒などどうでもいい。
  シェノクの注意を聞き流し、中身を引き出そうとする――その手首を、今度こそ、シェノクはしっかりと捕まえた。
  かすかに汗ばみ、冷えた手だ。顔を上げたティオドールに、シェノクは静かに、低い声で告げた。
 「よく聞けよ。……お前には、これを読む権利がある。
  しかし、騎士団には……その記憶を、お前から奪う義務がある。
  俺は、お前がこの書を読んだ後、お前に記憶消去の投薬を行う。
  お前にはその拒否権はない。……この書の内容を、記憶する権利は、お前にはないんだ」
  ――何を言っているのか、全く分からなかった。
  半ば呆然と、圧倒されながら……シェノクに促されて、テオは手紙を取り出した。
  三枚の紙が入っていた。
 『出生届け写し』
 『DNA鑑定による親子関係証明書』
 『離縁申立て書』
  そのすべてが、理解できなかった。
出生届――
それは、一人のラトキア人がこの世に生まれたという証明書である。ラトキアでは性別の欄は無い。ただ名前と、生まれた家の住所、両親の名前が書かれていた。
  母の欄に、アレイニ。父の欄にティオドール。確かにそう書かれているのを、テオは何度も、目を剥いて確認した。
  震える指で、一枚めくる。二枚目の内容は、さっぱり頭に入ってこなかった。
  DNA鑑定による親子関係証明書。
  それは、一枚目のものと連動して作られた書類であった。
  ――かの児童の母親は、出生時、婚姻関係が無かった。ゆえに新生児のDNA鑑定を行い、国に登録されている全ラトキア国民のデータを洗った。
  結果、最も可能性が高いとされたのがティオドール。
  それを、母アレイニも認めた。
  ゆえに、あなたはかの児童の父親となったことを、ここに報告する。
  そのようなことが、なんとも簡素な文体で書かれている。
 「ラトキアの法律だな。ヤリ逃げや、強姦魔を特定するためのものだ。これでお前は、『妻』が望めば結婚、子供の養育をする義務ができた。逃げれば逮捕される」
  シェノクが親切に解説してくれた。
  それでも、頭に入ってこない。
  どこの、誰の、何の話をしているのかわからなかった。
  呆然としたままのテオを、シェノクは思いやってはくれなかった。硬直したテオの指を掴み、無理矢理、三枚目の用紙を視界に突き付けてくる。
 「――あくまで、妻が望めば。もし望まなければ、こうなる」
  ――離縁申立て書。
  これが、一番理解できなかった。
 「……離縁、すなわち離婚して、父子関係も解消するということだ。もちろん、ラトキア政府と職場を仲介にし養育費だけ給料引き落としには出来るけど、アレイニはそれも拒否すると言っているな」
 「……どう、して? ……なんでだ」
  ようやっと、口をきいたテオ。シェノクは眉をしかめた。
 「当たり前だろ。誰が好き好んで、強姦魔と結婚して一緒に子育てやっていくってんだ」
 「――強姦?」
 「そう書いてあるだろう?」
  テオは再び目を見開き、書類を端から端まで凝視した。強姦、という言葉そのものは無い。しかし、意に介さぬ性交渉からの妊娠により、という一文があった。
 「頭ボケてるみたいだから、簡単に説明してやろうか」
  シェノクの提案に、素直にうなずく。テオは切実に、それを欲した。わけがわからない。助けが欲しかった。
  シェノクはゆっくりと、言葉を並べる。
 「アレイニはお前に強姦された。そして妊娠したが、ラトキアの法律で、堕胎は出来ないので仕方なく生んだ。これからその子を育てるのか、それとも孤児として国に手渡すのかはわからない。だがそこに、お前が口を出す権利はない。なぜならお前は、夫でも父親でもないからだ。――以上」
  ……やはり、わけがわからなかった。
 「なんで?」
  テオは尋ねる。シェノクにではない、その場にいない、妻に対して、テオは問いかけた。
 「……なんでだ? ……俺……俺は、アレイニのことが好きなのに」
  彼女が嫌がることは、何もしなかった。
  彼女が望んだことだけ、愚直に従った。
  彼女の言うとおりにした。
  それは過去だけに限らない。その後も、今からだって、彼女が願った通りにしてやるつもりでいるのに。
  なぜ、言ってくれなかったのだ――テオが嫌いだと。
  そう言ってくれたら、それでよかったのに――
「なんで……黙ってひとりになるんだ」
  さあな、とシェノクは吐き捨てた。
 「お前たちにどんな諍いがあったかなんて俺は知らない。けど、俺にもわかる確実なことが三つ。一つ、その書類はすべて、異議申し立て期日が過ぎている。覆せる要素は無いということ。二つ、もともと釣りあいのとれる相手じゃなかったってこと。出生届の住所欄を見れば一目瞭然だな」
 「……なんだ、それは。俺だって一応、騎士で貴族に――」
  と、言いながら用紙に目を落とす。住所欄、そこに書かれていた文字数はやけに少なかった。通常、区画と通りの名前、番地が並ぶそこに、短文だけが置いてある。
 「光の塔。……なに? これってあれじゃん。冠婚葬祭で金を送るところ。人の生き死にでも連絡するんだよな。出生届の、宛先の間違いじゃないのか」
 「――いや、間違いないよ。そこはアレイニの家だ」
  と、割り込んできたのは、バンドラゴラだった。壁で見えない位置、シェノクの横に、ずっといたらしい。テオが視線をやると、その奥に、ヴァルクスもいた。二人とも奇妙な表情である。
  声だけは、いつものように飄々と柔らかく、バンドラゴラは言葉を続けた。
 「地球に出る前、おれは光の塔へ婚姻の奉納金を送った。その時の当主の名はシルビア。地球から帰った時、その受領書をトロワに渡されたんだ。――当主の名はアレイニ。その代行として受領したと、別人のサインが入っていた」
 「……アレイニって名前は、別に世界でただひとりのもんじゃないだろ。縁起のいい名前だからな」
 「おれもそう思ってたんだよ。偶然だなって、今までは気にしてなかった。――でも、その書類を見たら、ね」
 「光の塔、天皇家は、当主以外は一般人である」
  ヴァルクスが継いだ。
 「第二子や女児ならば、独り立ちして王都に住み、就職してもなにもおかしくない。そしてその時は、無用な厄介ごとを避けるため、身分を隠しても自然である」
  テオはゆっくりと、咀嚼する。先ほどの用紙らと比べれば、それはよほど、納得のいくことだった。アレイニがかなりの高級貴族で、厳しい家督制度の生まれだというのは本人から聞いている。
  なるほど、光の塔。現人神の妹。あの類まれなる美貌と誰よりも鮮やかな青い髪は、それを信じるだけの十分な説得力がある。
  なるほどな、と、テオは素直に呑み込んだ。
  そしてふと、顔を上げた。
 「三つ目ってなんだ、シェノク」
  そう尋ねた瞬間。ヴァルクスとバンドラゴラ、二人の手が、テオの肩を同時につかんだ。自分より大きく熟練の戦士、その膂力に、テオはなすすべもなくひっくり返る。ヴァルクスが腕をねじ上げ、バンドラゴラが足を抑え込んだ。
  悲鳴を上げる間もなく、シェノクが馬乗りになってくる。
  その手には、注射器。
 「な――なんだよ!」
 「大人しくしていろ」
  囁いたのはヴァルクス。テオの三倍ある太い腕が、テオの体を拘束する。
 「障害が残るようなものではない。ただアレイニと、今聞いた内容の記憶だけが切り落とされるだけだ」
 「なっ――なんだと!?」
 「恨まないでくれよ。これは騎士団の決定。おれたちの仕事なんだ」
  膝を両手で抑え、バンドラゴラが体重を乗せる。不思議と痛みはなかったが、跳ねのけようとすると激痛が走った。それでもテオは暴れた。狙いを定めきれず、シェノクは注射針をかばいながら睨んでくる。テオは怒鳴った。
 「ふざけんな! その薬は、不慮の目撃者に使うやつだろ! 俺がアレイニを恨んで、実家まで押しかけると思ってんのか。強姦魔だと? 騎士団は、俺のことそう判断したのかよ。ヴァルクス! バンドラゴラ! お前らも、俺がアレイニを傷つけたと思うのか!!」
 「思ってない」
  答えたのはシェノクだった。
 「思っていない。誰も、お前を疑ってなんかない。もしそうなら婦女暴行容疑で正式に逮捕、尋問してる」
  シェノクの声は冷たかった。赤銅色の目は無慈悲にテオを見下ろしている。
 「――アレイニは、お前の子供を生みたくて生んだ。でなければ、コトラなんて名付けるわけがないんだ」
  テオは目を見開いた。出生届に書かれたそれを、テオは理解していなかった。
  子虎コトラ。虎の子。それは地球の、日本の言葉で、ティオドールの子供だという意味になる。
  ラトキア人にとって意味のない音の羅列だが、日本語を学んだ騎士たちにならすぐにわかった。
  テオを愛していなければ、決して付けることのない名前。そしてそれを、ラトキア人に悟られないようにしているのだと。
 「これを理解したとき、お前はきっと、アレイニを迎えに光の塔へ行く。しかしそれを、騎士団は許すことが出来ないんだよ」
 「――くそったれがっ!」
  テオは思い切りのけぞった。ヴァルクスの顎に頭突きを入れ、バンドラゴラを蹴る。一瞬ゆるんだ隙に、テオは体をねじり、シェノクを跳ね飛ばした。
 「逃げるか! ――捕まえろ!」
  倒れ込みながら叫ぶシェノク。テオは構わず駆け出した。廊下に飛び出してすぐ、バンドラゴラが飛び掛かる。騎士団寮の硬い床に、二人はもみくちゃになって転がった。バンドラゴラに容赦はない。それでも、テオは負けなかった。友人の顔を踏み、何度でもその拘束から逃れ、廊下を進んでいく。
 「お前のためなんだよ!」
  バンドラゴラは叫んだ。
 「光の塔は治外法権だ。天皇の護衛のために武装してる。侵入したら、撃ち殺されたって文句は言えないんだぞ!」
 「なおさらそんな物騒なとこにアレイニを置いておけるかよっ!」
 「アレイニだって自業自得なんだ! いや、初めからそれが狙いだったのかもしれない。光の塔の後継ぎを作るために、お前に近づいた――」
 「そんなはずあるか!」
  テオは即答した。
 「それなら俺以外の、もーちょっと血統のヨサゲな男にいくわい!」
 「なるほどそうだな」
  同意するバンドラゴラ。思わず束縛を緩めた隙に、テオは抜け出した。その眼前を、ゴウと音をたて、ヴァルクスの腕が空振りする。その膂力はテオの数倍に及ぶが、素早さならばテオの圧勝だ。低い体勢から、思い切り体当たりをぶちかます。ヴァルクスはぐらりともしなかった。それを見て取り、テオはすぐに身を翻した。
  バンドラゴラは巧いしヴァルクスは大きい。だが『逃げる』ということに集中すれば、誰もテオを捕まえることなんてできはしない――
少年は脇目も振らず、体力温存など一切考えることなく全力疾走した。むろん、このまま光の塔まで走っていくことなどできない。
  しかし、
 (寮を出ればいい! そうすれば扉口に、バンドラゴラから買ったアレがある!)
  階段が見えた。テオは一瞬だけブレーキをかけた。直角に曲がるため停止する。
  直後、真横から衝撃。
  テオは転倒した。硬い床に転がった、背中の上にどしんと重量。首を巡らせ見上げると、そこには黒髪の美丈夫がいた。
 「団長っ……!」
 「ん。廊下は走るな」
  人の体の上で、素っ頓狂なことを言う。テオは跳ねのけようとしたが、不思議と全く動けない。
  クーガという男は、大男ではない。背丈も体重も、テオと同じくらいだろう。その彼が膝を乗せているだけなのに、テオは全く身を起こせなかった。
  這いつくばったまま、絶叫する。
 「あんたも邪魔をするのか!」
 「……何の話だ」
 「あ!?」
 「団長! ちょうどいいところに! そのまま押さえておいてください!」
  シェノクらが走ってくる。どうやら本当に、この騎士団長は部外者だったらしい。クーガは状況を理解しないまま、素直に言われるとおりにした。失敗した、とテオは舌打ちした。第一声で、どうもすみません離してくださいと言うべきだった。
  きっと彼は、先に命令した人間に従ったのに。
  それでも一応、クーガはテオを抑えたまま、騎士たちを見上げた。
 「イジメ?」
 「ちがいますっ!」
 「アレイニの件ですよ。……記憶喪失の薬を拒否して逃げ出したんです」
  追いついたバンドラゴラが解説し、クーガはすぐに諒解した。こうなるともう、彼は完全に敵となった。
  テオの腕をねじりあげたまま、クーガは囁いた。
 「例の封書は俺も読んだ。俺は騎士たちのプライベートを知らないし、口出しできる立場でもない。状況を知る、親しい連中と相談して、良いようにしてくれと託した。その結論は、俺からの命令と同等だ。従ってもらうぞ、ティオドール」
  ミシリと関節のきしむ音がする。テオは床に爪をたてた。
 「くっそぉっ……!」
  バンドラゴラの巧さ、ヴァルクスの腕力、テオの素早さ、その全てを持っているのがこの男である。密着するとなお、その強さがよくわかる。
  テオは、クーガに勝てない。
  彼が出てきた今、テオの道は完全に断たれたのだ。
  季節が移り、景色が変わった。
  すこしずつ、すこしずつ。
  アレイニのいない日が増えていく。
 「もう、一年か」
  聞こえてきた、その言葉に、テオは反射的に言い返した。
 「十か月だ」
  呟いた主が怪訝な声を漏らす。そこで初めて、テオはそこにクーガ騎士団長がいたことに気付いた。呟いたのも彼である。クーガは首を傾げ、苦笑した。
 「すまない、主語が抜けた。……地球を出てから、ちょうど一年だと言ったんだ」
 「地球……日本の話ですか」
 「ああ。今度また、日本に行くことになった。今度は外交の件でな。トウキョウという、以前行ったところとは離れた場所にいく。日程も厳しいから、リタには……会えないかな」
  テオは相槌も打たなかった。あまり興味がわかない。
  日本。リタ。懐かしい名前だ。出来ればまた行きたい、会ってみたいと思っていた。
  しかし、
 「俺は無理だが、付き添いならある程度時間が取れる。ティオドール、一緒に行くか? 今度こそ日本の観光をしてもいいし、外交についてきてもいい。……もし、良かったらお前だけでもリタに――伝言を――」
 「いいです」
  きっぱり首を振った。クーガはそれで、すぐにあきらめた。そうかと頷き、席を立つ。
  早朝、騎士団寮の食堂である。
 朝食タイムにしれっと混ざり、短い会話だけで立ち去ってしまったクーガに、そういえば何しに来たのだろうかと疑問がわいた。
  だがそれもすぐに霧散する。追及する気もなく、テオは朝食を再開した。
  クーガも、地球も、リタとやらも――なにもかもどうでもいい。
  食事も、鍛錬も熱が入らない。嫌だという感情すら動かなかった。
  あれだけ熱中したマンガも積んだまま。少しだけ覚えたお茶の作法は忘れた。仕事をさぼることもなく、遊ぶこともなく、ただ淡々と生き続けている。
 (多分、俺は次の任務で死ぬ)
  そんなことを、ふと思う。何の根拠もないがそう思う。それがよくないことだとは思わなかった。
  あれから――十か月。
  さすがに、ティオドールも、気持ちの整理はついていた。当時は舞い上がったままどん底に落とされ、ひたすら混乱していた。時間を置けばいろいろと冷静になって見えてくる。
  相変わらず、彼女が去った理由は何もわからない。
  だが明確に、わかりきっていることがある。
  彼女が、テオのもとを去ったということ。
 (次の女。次の恋。さっさと次に行こう)
  そう決意もした。あれから実際に、バンドラゴラはなにかと世話を焼いてくれた。気さくな貴族娘、テオと同じ赤い髪の少女、目がくらむような美女。バンドラゴラのネットワークに空恐ろしいものを感じつつ、テオはしっかり、その全員とデートをした。
  みんな可愛かった。楽しいと思った。それでもテオは彼女らを、夕方までに家へと帰した。
  次にまた会いたくなったら、そのときは――そう本気で思いながらも、誰にも、二度と会わなかった。
  引きずっているつもりはない。ただ、何の熱もこの胸に燻ぶりはしなかっただけだ。
  齢十八。この感覚はいつまで続くのだろうか――悩むことすら億劫で、テオは黙々とノルマの摂食を終え、立ち上がる。部屋へ戻り、すぐに着替えを始めた。一時間後には就業時刻である。私服の部屋着を脱ぎ、軍服を羽織った。気が付けば、この格好も二年以上になる。後輩もでき、いっぱしの騎士らしくなってきたものだ。
  テオは笑った。
 (いっぱしの騎士? 貴族だと。あほらしい。俺は何も変わってない)
 (いつまでもずっと――髪は赤いまま。肩書きが変わろうと、何年経とうと、下賤なスラムのガキなんだ)
  そんな風に思ったのは初めてだった。そしてその瞬間、なにもかも馬鹿らしくなる。いったい自分は何をやっている。今やっていることに、何の意味がある。
  何年も何年も、命がけで戦い、出世して、金を稼いで、貯めこんで。それでいったいなんになる。
  何も手に入らなかった。
  これからもきっと、どうにもならない。
  何も還ってこない。何も。無駄。無意味。からっぽ。何も無い、何も、何も――!
  拳をクロゼットに叩き込む。戦士の力で、大きく傾いだクロゼットは中身をでたらめに吐き出した。マンガや雑貨、適当に詰め込んだ私物が床に散らばっていく。テオはそれらを、片っ端から蹴り飛ばした。
 紙や布が舞い、部屋を侵す。
 暴れ狂いながら、テオは不思議と冷静であった。馬鹿なことをしている、と自覚する。あと一分、こうして暴れよう。そのあと就業時間まで、黙って片づけに入ればいい。
 「――痛ッ!?」
  突如、足先にやたらと硬いものがあたり、テオはひっくり返って悶絶した。座り込み、悪態をつきながら拾い上げる。
  手のひらよりも少し大きい、金属の一枚板だった。真鍮製でずっしりと重い。これは一体なんだ? 首をかしげながらくるりと反転。そこにある、『アレイニ』の文字に、ギクリを身を強張らせた。
  アレイニ。
 「アレイニ」
  アレイニ。
  懐かしいと言うほど、時が開いたわけではない。だがその名を口にした途端、胸に暖かなものがあふれた。それがとても心地よくて、テオは何度も、ネームプレートを読み上げた。
 「……アレイニ……」
  ――その時。コツコツ、とノックの音。
  テオは飛び上がった。ドアノブに縋り付き、一気に押し開く。予感がしていた――だがそこにいたのは、期待した人物ではなかった。『柔らかそう』と評する部分がどこにもない、貧相な軍服姿の男である。
 「――ティオドール、お前に手紙だ」
 「アレイニか!?」
  封筒を掲げたシェノクに、テオは即座に問うた。一瞬、シェノクが怪訝な顔をする。テオの体越しに、部屋の惨状が見えたかもしれない。しかし彼は追及しなかった。
  封筒を返し、宛名を見せてくる。
  ――アレイニ。その名のサインが、確かにあった。テオは飛びつき、奪い取った。さっそく開こうとするのを、今度はシェノクが待ったをかける。
 「ティオドール、筆跡が違うに気付けよ」
 「へっ? ……ん、ああ」
 「それに、封が開いているのにも。表書きが自分じゃなく、騎士団事務所宛てになっているのもちゃんと見ろ」
  言われて、テオはクルクルと封筒を回した。確かにその通りだった。だがそれは、大きな問題と思わなかった。シェノクはテオ宛てに手紙だと言った。問題はその中身であって、封筒などどうでもいい。
  シェノクの注意を聞き流し、中身を引き出そうとする――その手首を、今度こそ、シェノクはしっかりと捕まえた。
  かすかに汗ばみ、冷えた手だ。顔を上げたティオドールに、シェノクは静かに、低い声で告げた。
 「よく聞けよ。……お前には、これを読む権利がある。
  しかし、騎士団には……その記憶を、お前から奪う義務がある。
  俺は、お前がこの書を読んだ後、お前に記憶消去の投薬を行う。
  お前にはその拒否権はない。……この書の内容を、記憶する権利は、お前にはないんだ」
  ――何を言っているのか、全く分からなかった。
  半ば呆然と、圧倒されながら……シェノクに促されて、テオは手紙を取り出した。
  三枚の紙が入っていた。
 『出生届け写し』
 『DNA鑑定による親子関係証明書』
 『離縁申立て書』
  そのすべてが、理解できなかった。
出生届――
それは、一人のラトキア人がこの世に生まれたという証明書である。ラトキアでは性別の欄は無い。ただ名前と、生まれた家の住所、両親の名前が書かれていた。
  母の欄に、アレイニ。父の欄にティオドール。確かにそう書かれているのを、テオは何度も、目を剥いて確認した。
  震える指で、一枚めくる。二枚目の内容は、さっぱり頭に入ってこなかった。
  DNA鑑定による親子関係証明書。
  それは、一枚目のものと連動して作られた書類であった。
  ――かの児童の母親は、出生時、婚姻関係が無かった。ゆえに新生児のDNA鑑定を行い、国に登録されている全ラトキア国民のデータを洗った。
  結果、最も可能性が高いとされたのがティオドール。
  それを、母アレイニも認めた。
  ゆえに、あなたはかの児童の父親となったことを、ここに報告する。
  そのようなことが、なんとも簡素な文体で書かれている。
 「ラトキアの法律だな。ヤリ逃げや、強姦魔を特定するためのものだ。これでお前は、『妻』が望めば結婚、子供の養育をする義務ができた。逃げれば逮捕される」
  シェノクが親切に解説してくれた。
  それでも、頭に入ってこない。
  どこの、誰の、何の話をしているのかわからなかった。
  呆然としたままのテオを、シェノクは思いやってはくれなかった。硬直したテオの指を掴み、無理矢理、三枚目の用紙を視界に突き付けてくる。
 「――あくまで、妻が望めば。もし望まなければ、こうなる」
  ――離縁申立て書。
  これが、一番理解できなかった。
 「……離縁、すなわち離婚して、父子関係も解消するということだ。もちろん、ラトキア政府と職場を仲介にし養育費だけ給料引き落としには出来るけど、アレイニはそれも拒否すると言っているな」
 「……どう、して? ……なんでだ」
  ようやっと、口をきいたテオ。シェノクは眉をしかめた。
 「当たり前だろ。誰が好き好んで、強姦魔と結婚して一緒に子育てやっていくってんだ」
 「――強姦?」
 「そう書いてあるだろう?」
  テオは再び目を見開き、書類を端から端まで凝視した。強姦、という言葉そのものは無い。しかし、意に介さぬ性交渉からの妊娠により、という一文があった。
 「頭ボケてるみたいだから、簡単に説明してやろうか」
  シェノクの提案に、素直にうなずく。テオは切実に、それを欲した。わけがわからない。助けが欲しかった。
  シェノクはゆっくりと、言葉を並べる。
 「アレイニはお前に強姦された。そして妊娠したが、ラトキアの法律で、堕胎は出来ないので仕方なく生んだ。これからその子を育てるのか、それとも孤児として国に手渡すのかはわからない。だがそこに、お前が口を出す権利はない。なぜならお前は、夫でも父親でもないからだ。――以上」
  ……やはり、わけがわからなかった。
 「なんで?」
  テオは尋ねる。シェノクにではない、その場にいない、妻に対して、テオは問いかけた。
 「……なんでだ? ……俺……俺は、アレイニのことが好きなのに」
  彼女が嫌がることは、何もしなかった。
  彼女が望んだことだけ、愚直に従った。
  彼女の言うとおりにした。
  それは過去だけに限らない。その後も、今からだって、彼女が願った通りにしてやるつもりでいるのに。
  なぜ、言ってくれなかったのだ――テオが嫌いだと。
  そう言ってくれたら、それでよかったのに――
「なんで……黙ってひとりになるんだ」
  さあな、とシェノクは吐き捨てた。
 「お前たちにどんな諍いがあったかなんて俺は知らない。けど、俺にもわかる確実なことが三つ。一つ、その書類はすべて、異議申し立て期日が過ぎている。覆せる要素は無いということ。二つ、もともと釣りあいのとれる相手じゃなかったってこと。出生届の住所欄を見れば一目瞭然だな」
 「……なんだ、それは。俺だって一応、騎士で貴族に――」
  と、言いながら用紙に目を落とす。住所欄、そこに書かれていた文字数はやけに少なかった。通常、区画と通りの名前、番地が並ぶそこに、短文だけが置いてある。
 「光の塔。……なに? これってあれじゃん。冠婚葬祭で金を送るところ。人の生き死にでも連絡するんだよな。出生届の、宛先の間違いじゃないのか」
 「――いや、間違いないよ。そこはアレイニの家だ」
  と、割り込んできたのは、バンドラゴラだった。壁で見えない位置、シェノクの横に、ずっといたらしい。テオが視線をやると、その奥に、ヴァルクスもいた。二人とも奇妙な表情である。
  声だけは、いつものように飄々と柔らかく、バンドラゴラは言葉を続けた。
 「地球に出る前、おれは光の塔へ婚姻の奉納金を送った。その時の当主の名はシルビア。地球から帰った時、その受領書をトロワに渡されたんだ。――当主の名はアレイニ。その代行として受領したと、別人のサインが入っていた」
 「……アレイニって名前は、別に世界でただひとりのもんじゃないだろ。縁起のいい名前だからな」
 「おれもそう思ってたんだよ。偶然だなって、今までは気にしてなかった。――でも、その書類を見たら、ね」
 「光の塔、天皇家は、当主以外は一般人である」
  ヴァルクスが継いだ。
 「第二子や女児ならば、独り立ちして王都に住み、就職してもなにもおかしくない。そしてその時は、無用な厄介ごとを避けるため、身分を隠しても自然である」
  テオはゆっくりと、咀嚼する。先ほどの用紙らと比べれば、それはよほど、納得のいくことだった。アレイニがかなりの高級貴族で、厳しい家督制度の生まれだというのは本人から聞いている。
  なるほど、光の塔。現人神の妹。あの類まれなる美貌と誰よりも鮮やかな青い髪は、それを信じるだけの十分な説得力がある。
  なるほどな、と、テオは素直に呑み込んだ。
  そしてふと、顔を上げた。
 「三つ目ってなんだ、シェノク」
  そう尋ねた瞬間。ヴァルクスとバンドラゴラ、二人の手が、テオの肩を同時につかんだ。自分より大きく熟練の戦士、その膂力に、テオはなすすべもなくひっくり返る。ヴァルクスが腕をねじ上げ、バンドラゴラが足を抑え込んだ。
  悲鳴を上げる間もなく、シェノクが馬乗りになってくる。
  その手には、注射器。
 「な――なんだよ!」
 「大人しくしていろ」
  囁いたのはヴァルクス。テオの三倍ある太い腕が、テオの体を拘束する。
 「障害が残るようなものではない。ただアレイニと、今聞いた内容の記憶だけが切り落とされるだけだ」
 「なっ――なんだと!?」
 「恨まないでくれよ。これは騎士団の決定。おれたちの仕事なんだ」
  膝を両手で抑え、バンドラゴラが体重を乗せる。不思議と痛みはなかったが、跳ねのけようとすると激痛が走った。それでもテオは暴れた。狙いを定めきれず、シェノクは注射針をかばいながら睨んでくる。テオは怒鳴った。
 「ふざけんな! その薬は、不慮の目撃者に使うやつだろ! 俺がアレイニを恨んで、実家まで押しかけると思ってんのか。強姦魔だと? 騎士団は、俺のことそう判断したのかよ。ヴァルクス! バンドラゴラ! お前らも、俺がアレイニを傷つけたと思うのか!!」
 「思ってない」
  答えたのはシェノクだった。
 「思っていない。誰も、お前を疑ってなんかない。もしそうなら婦女暴行容疑で正式に逮捕、尋問してる」
  シェノクの声は冷たかった。赤銅色の目は無慈悲にテオを見下ろしている。
 「――アレイニは、お前の子供を生みたくて生んだ。でなければ、コトラなんて名付けるわけがないんだ」
  テオは目を見開いた。出生届に書かれたそれを、テオは理解していなかった。
  子虎コトラ。虎の子。それは地球の、日本の言葉で、ティオドールの子供だという意味になる。
  ラトキア人にとって意味のない音の羅列だが、日本語を学んだ騎士たちにならすぐにわかった。
  テオを愛していなければ、決して付けることのない名前。そしてそれを、ラトキア人に悟られないようにしているのだと。
 「これを理解したとき、お前はきっと、アレイニを迎えに光の塔へ行く。しかしそれを、騎士団は許すことが出来ないんだよ」
 「――くそったれがっ!」
  テオは思い切りのけぞった。ヴァルクスの顎に頭突きを入れ、バンドラゴラを蹴る。一瞬ゆるんだ隙に、テオは体をねじり、シェノクを跳ね飛ばした。
 「逃げるか! ――捕まえろ!」
  倒れ込みながら叫ぶシェノク。テオは構わず駆け出した。廊下に飛び出してすぐ、バンドラゴラが飛び掛かる。騎士団寮の硬い床に、二人はもみくちゃになって転がった。バンドラゴラに容赦はない。それでも、テオは負けなかった。友人の顔を踏み、何度でもその拘束から逃れ、廊下を進んでいく。
 「お前のためなんだよ!」
  バンドラゴラは叫んだ。
 「光の塔は治外法権だ。天皇の護衛のために武装してる。侵入したら、撃ち殺されたって文句は言えないんだぞ!」
 「なおさらそんな物騒なとこにアレイニを置いておけるかよっ!」
 「アレイニだって自業自得なんだ! いや、初めからそれが狙いだったのかもしれない。光の塔の後継ぎを作るために、お前に近づいた――」
 「そんなはずあるか!」
  テオは即答した。
 「それなら俺以外の、もーちょっと血統のヨサゲな男にいくわい!」
 「なるほどそうだな」
  同意するバンドラゴラ。思わず束縛を緩めた隙に、テオは抜け出した。その眼前を、ゴウと音をたて、ヴァルクスの腕が空振りする。その膂力はテオの数倍に及ぶが、素早さならばテオの圧勝だ。低い体勢から、思い切り体当たりをぶちかます。ヴァルクスはぐらりともしなかった。それを見て取り、テオはすぐに身を翻した。
  バンドラゴラは巧いしヴァルクスは大きい。だが『逃げる』ということに集中すれば、誰もテオを捕まえることなんてできはしない――
少年は脇目も振らず、体力温存など一切考えることなく全力疾走した。むろん、このまま光の塔まで走っていくことなどできない。
  しかし、
 (寮を出ればいい! そうすれば扉口に、バンドラゴラから買ったアレがある!)
  階段が見えた。テオは一瞬だけブレーキをかけた。直角に曲がるため停止する。
  直後、真横から衝撃。
  テオは転倒した。硬い床に転がった、背中の上にどしんと重量。首を巡らせ見上げると、そこには黒髪の美丈夫がいた。
 「団長っ……!」
 「ん。廊下は走るな」
  人の体の上で、素っ頓狂なことを言う。テオは跳ねのけようとしたが、不思議と全く動けない。
  クーガという男は、大男ではない。背丈も体重も、テオと同じくらいだろう。その彼が膝を乗せているだけなのに、テオは全く身を起こせなかった。
  這いつくばったまま、絶叫する。
 「あんたも邪魔をするのか!」
 「……何の話だ」
 「あ!?」
 「団長! ちょうどいいところに! そのまま押さえておいてください!」
  シェノクらが走ってくる。どうやら本当に、この騎士団長は部外者だったらしい。クーガは状況を理解しないまま、素直に言われるとおりにした。失敗した、とテオは舌打ちした。第一声で、どうもすみません離してくださいと言うべきだった。
  きっと彼は、先に命令した人間に従ったのに。
  それでも一応、クーガはテオを抑えたまま、騎士たちを見上げた。
 「イジメ?」
 「ちがいますっ!」
 「アレイニの件ですよ。……記憶喪失の薬を拒否して逃げ出したんです」
  追いついたバンドラゴラが解説し、クーガはすぐに諒解した。こうなるともう、彼は完全に敵となった。
  テオの腕をねじりあげたまま、クーガは囁いた。
 「例の封書は俺も読んだ。俺は騎士たちのプライベートを知らないし、口出しできる立場でもない。状況を知る、親しい連中と相談して、良いようにしてくれと託した。その結論は、俺からの命令と同等だ。従ってもらうぞ、ティオドール」
  ミシリと関節のきしむ音がする。テオは床に爪をたてた。
 「くっそぉっ……!」
  バンドラゴラの巧さ、ヴァルクスの腕力、テオの素早さ、その全てを持っているのがこの男である。密着するとなお、その強さがよくわかる。
  テオは、クーガに勝てない。
  彼が出てきた今、テオの道は完全に断たれたのだ。
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