ラトキア騎士団悲恋譚

とびらの

出産

 初めて、違和感を覚えたのは、塔へ入り二週間目のことだった。

 「……?」

  ドレスの上から腹を抑える。なにかチクリと痛みのようなものを感じた気がしたのだ。
  なんだかわからないが、悪いものを食べた覚えはない。アレイニは気にせず、いつもの通り髪を結いあげた。


  一つ、大きな転機となったのは、三か月後。自室にあつらえたキッチンで、アレイニは何度も吐き戻した。吐き、咳き込むと下腹部に力が入る。
  どうすればいいか、通いの産医に聞いてみると、一日三食と肩ひじ張らず、食べられるときに少しずつ摘まんでいくのがいいらしい。

 「どうして吐き気がするんですか? まだ胃を圧迫するほど膨れてなどいないのに」

  尋ねると、医者は首をかしげた。そのあたりのメカニズムはまだはっきりしていないらしい。

  アレイニもざっくり、知識だけはあったものの、実際にわが身に起こると奇妙なものである。まだウエストラインは全く変わっていない。身体に何の変化も見えないのに、吐き気とそれに対処することで、自分の体の変化を悟るのだ。

 「……なんにせよ、あなた一人の身体じゃないですからな。これからはいろいろ気を遣っていかなきゃならんので、大変でしょうが、病気じゃありません。産んでしまうまでの辛抱ですからな」

  医者が帰った後、ナッツをかじっていてふと、気になった。塩分と脂肪分が多い気がするが、これは食べてもいいものだろうか。どこで、誰が、どのように作ったものだろう。これを食べることで、腹の子に悪い影響が出たりはしないだろうか。

  アレイニは慌てて、書棚に飛びついた。


  さらに二カ月後――
 医学書しかなかった書棚には、民間人向けの雑誌がいくつも並べられていた。
  下男に頼んで取り寄せたその本は、医学書とは違い、抽象的な描写がやけに目立つ。Q&Aで、アレは食べてもいいのですかという問いに、「適量であれば問題ありませんが、気になってストレスになるようなら避けておいた方が無難でしょう」など、いったいどうすればいいのかわからない。
  アレイニは結局、週に一度の検診のたびに、医者を質問責めにした。
  医者は丁寧に答えた後、にっこり笑って言った。

 「どのお母さんも同じですね」

 「……そういうものですか」

 「ええ。女は腹に子が宿った時点で母になるなどといいますが、ありゃぁ風評被害というものです。己の胎の中で、なにがどうなってるかなどわからないし、十か月不安と闘い続けて、覚悟を決めるだけなのです」

 「覚悟……そう、出産はとても痛いんですよね」

  アレイニはうつむいた。その覚悟はしているつもりだが、想像するとやはり血の気が引く。だが、医者は首を振った。

 「陣痛のことではありません。子育ての苦労や責任に対してでもありません」

 「……では、何の覚悟ですか」

  医者は笑った。とても嬉しそうに。

 「こんなに可愛い子をこの世に放り出すという覚悟。それはとても恐ろしいことだと、もう少しすれば、あなたにも感じられることでしょう」



  それから少しずつ、体に変化がやってきた。
  二か月続いた吐き気が治まったと思ったら、腹部が膨れ上がってきた。それでもまだ、中の子は一キログラムにも満たないという。それで体重が八キロ増えているのはどういうことだろう。

  相変わらず、わからないことだらけ。しかしアレイニは、あまり気にならなくなっていた。そんな雑学的なことよりも、今の子の状態の方が知りたかった。

  元気でいるのだろうか。ちゃんとした体をしているのだろうか。目、鼻、口、耳、指、すべてがきれいについているのだろうか。

  ……生きているだろうか?

  ふと湧いた疑問に、アレイニはぞっとした。腹を撫でても返事はない。
  医者から、順調であると太鼓判を押されても、不安で仕方が無かった。
  明日この腹が、へこんでいたらどうしよう。トイレに行くたび、恐ろしいものを想像した。
  毎日、メジャーで腹囲をはかる。
  少しずつ大きくなっていく、記録を見て、ようやっと鼓動を落ち着けるのだった。

  ――二カ月後。どん、と、腹に衝撃があったとき、アレイニは歓喜した。
  中にいる生き物が大きく動いたのである。その動きは、日ごと大きく、強くなった。
  時には腹の外から凹凸がわかるほど。調べてみると、それは胎児の手足がそこにあるらしい。

  アレイニはそっと、突き出た皮膚に触れてみた。

 「これは……あかちゃんの手? いや、足……かかと、かしら」

  そう思うと、そうとしか思えない。アレイニはそこを、こちょこちょ、とくすぐってみた。
  まさかそれがくすぐったかったのだろうか、子は足を引っ込めた。出っ張っていた腹部がなだらかな丘に戻る。
  アレイニは吹き出した。

 「くすぐったがりなの? そんなところが父親に似るなんて。フフッ――」

  アレイニは初めて、生まれてくる子の姿を想像した。
  整って美しいに越したことはないが、自分たちに似てくれても楽しいだろう。
  アレイニは、テオの八重歯が好きだった。自分自身の細い鼻が好きだった。継いでくれたらとてもうれしい。

  明るく気丈で、聡明な子であるといい。両親のイイトコドリをして、自分たちよりも素敵な人生を歩んでほしい。
  幸せな生活を与えたい。


  扉が激しくノックされた。

 「アレイニ様、アレイニ様! 紹介したい者がおります。入ってもよろしいでしょうか?」

 「――は、はい。今、開けますので」

  冷や水をかけられたような気持ちで、アレイニは立ち上がった。もうずいぶん体も重くなってきた。
  ローブをまとって、表に出る。

  ――叔母と会うのは、六か月ぶりであった。相変わらず険しい顔をした老婆、その後ろに、見知らぬ中年女がいた。

 「こちらは古くから、この光の塔で神子の教育係をやっていた家の子です」

 「教育係……?」

 「彼女は乳母になります。新生児の世話、助産師としてお産の取り上げから入っていくことになるので、アレイニ様はお見知りおきを」

  矢継ぎ早の紹介に、中年女は頭を下げて見せた。ふくよかで、母性を感じるからだに、笑みを張り付けて。

 「お生まれになった御子様に、誠心誠意おつとめさせていただきます。アレイニ様の代わりに、看護師として、教師として、母として」

  ピクリとも動かぬ鉄壁の笑顔。

  よろしくお願いします、という言葉は出てこなかった。アレイニは一礼だけすると、またすぐ部屋に戻った。

  ベッドに直行し、毛布にくるまって震える。

  恐ろしかった。何が恐ろしいのかはわからなかった。


  何もかも、うまくいっていた。
  子は順調に育ち、検診でも異常なし。
  アレイニの願いは受け入れられて、乳母の用意まで出来ている。
  なにもかも望んだとおりだった。

  だが――

 どくん、と腹部が脈動し、アレイニは両手で腹を抱えた。優しく撫で、抱きしめる。

  いつくしむように、縋るようにして、アレイニは泣いた。
  何故だろう、涙が止まらなかった。


  アレイニが、天皇家の娘という立場を隠し、塔を出てから十年余りになる。

  ――どうせ天皇になれない雌体。
  ならば、普通の町娘のように、普通のことを楽しめるようになりたいと言って出てきた。
  社会人になり、騎士団に入り、多くのことを学んだ。
  学業の成績だけじゃない、さまざまな分野のエキスパートたち。その中に揉まれていると、自分の卑小さが身に染みた。

  アレイニは、決して要領のいい子ではなかった。
  性別など関係なく、天皇の器ではないのだと、自分で思う。

  普通の女。普通の人間。そこらへんの町娘と、何にも変わらない価値。

  だったら――普通に恋をして、好きなように生きることだってできるはずである。

  そう確信して、アレイニは騎士団を後にした。

  それからおよそ、十か月――


 気が狂うほどの激痛のなか、アレイニは絶叫していた。

 「触らないで!!」

  医者は相手にしなかった。助手たちが数人がかりで、アレイニの手足を抑えにかかる。彼らを殴り、蹴り飛ばし、アレイニは叫び続けていた。

 「触らないで! やめて! 離せ――」

 「……手におえない、少しだけ鎮静剤を。いや、鎮痛剤じゃない、精神安定のガスを吸わせればいい。お産はこのまま自然分娩でいく」

 「やめろ!!」

  泣き叫ぶアレイニ。

 「産むものか。お前たちのためになど!
  渡すものか。私の子を、お前たちの手になどと!」

  開いた足が固定される。どれだけ汚してもいいように、大量の布が敷かれたベッドで、アレイニは暴れ続けた。
  顔面を装置に覆われても諦めない。

 「私の子! 嫌よ。渡さない。許さないわ。絶対に嫌。私の子よ。わたしの――!」

 「ガスの濃度を上げて。大丈夫、もう、生まれる。子供に影響はない」

 「たすけて。おねがいやめて。この子を天皇になんてさせない。おねがい、テオ! テオ!」

  アレイニは普通の子供だった。
  普通の娘だった。
  普通の女だった。
  ごく普通の母であった。

  それが何よりの誤算だった。予見することが出来なかった。それもそのはず、アレイニは神ではない、普通の人間なのだから――
 この時、この瞬間まで、それがわからなかった。

  私が馬鹿だった、と、アレイニは思った。
  馬鹿が一人で考えて、勝手に動いてもろくなことになどならない。

  朦朧としていくなか、アレイニは泣いた。幼子のように泣きじゃくる。

 「ごめんなさい。私が悪かった。ごめんなさい。ごめんなさい……」

  激しい後悔に支配される。

  それでも――

 薄れゆく意識の向こう、遠くの方で、赤ん坊の声が聞こえた。
  驚くほど大きく、けたたましい、元気な声。


 (ああ。――生きて、生まれた)


  アレイニは笑った。

  そして目を閉じ、そのまま眠りに落ちて行った。


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