ラトキア騎士団悲恋譚

とびらの

最期の夜③

 テオはしばらく、彼女が言った言葉を理解できなかった。

  理解した後、まず疑ったのは聞き間違い、言い間違い。あるいは夢遊病。

 「な……なんだお前、やっぱり寝てたのか。寝ぼけて――」

  かまわず、彼女はうつむいたまま、ボタンを開く。
  重いジャケットが床に落ちた。日中、ティオドールが貸した軍服。その下には桃色がかった白地の貫頭衣を着ている。
  その腰帯までもほどく。

 「抱いて、テオ。いますぐ。あなたが欲しいの」

 「……アレイニ、どうしたんだよ」

  何者かに操られている――などと、疑うことはなかった。アレイニの眼差しは強く、明確な意志を持っていたし、動作に迷いがない。
  それに、求められること自体は初めてではなかった。絶対に口にはしなかったが、アレイニはちょっとした所作、回りくどい台詞を使って、テオをあおってきたのだ。
  きっとこれも、本心から言っているのだろう。
  だがあまりにも、異常だった。

  落とされたジャケットを拾い、テオは彼女にかぶせた。

 「やめろよ。どうした? 何かあったか。やけくそみたいになってんじゃねえのか」

 「……いいから」

 「よくねえって。いや、言葉はすげぇ嬉しいけど、これでマジっすかやったーで飛びかかるほど単純じゃねえぞ俺は」

  アレイニは黙ってうつむいている。震える指でテオのジャケットを握りしめ、かみしめた唇の横を、涙が一筋流れ落ちた。

  何かがあったのは明白だ。頬の雫を指で拭って、テオは穏やかに、彼女から真相を聞き出そうとした。

  しかし、ふさがれる。アレイニは両腕をテオに巻き付け、拘束した。

 「ええ。とても嫌なことがあったの。悲しいことが」

  テオは驚いた。意地っ張りで天の邪鬼な彼女は、いつもテオに弱みを見せるのをいやがる。珍しい――

 彼女の体重が胸に寄りかかってくる。

 「だから抱いて。慰めてちょうだい。そうして欲しいの、お願い――」

  テオの胸で、小刻みに震えるアレイニ。彼女が泣くのをみるのは、もう何度めだっただろうか。そのたびに慰め、ご機嫌をとり、笑わせようとしてきた。だがそれを喜ばれたことは一度もない。いつだって邪険に手を払い、泣き顔を見せまいと、背中を向けられ続けた。

  アレイニの恋人になりたいと願ったのは、何度めの時だっただろう。

  もしも彼女の恋人になれば、その涙を止める権利が自分にも与えられるのではないかと思った、あれは、いつのことだったろうか。

  アレイニはささやく。

  とても短い言葉で。

 「好きよ」

  テオは彼女を抱きしめた。 


  もう何も聞かなかった。
  テオはもとより、他人が苦しんでいる理由に興味を持たない。ただその苦しみを、取り除いてあげられたらそれでよかった。

  なぜ、どうして、なにがあった――それを聞き出そうとはしなかった。
  ただ自分の腕の中で、アレイニの嗚咽が鳴き声に変わったことが嬉しかった。

  アレイニも何も話さなかった。

 「テオ。テオ。もっと――」

  ただテオの名を呼び続けた。甘い嬌声で、同じ言葉を繰り返す。

 「テオ。好きよ。好き。愛してるわ。テオ」

  同じだけの回数、テオは答えた。

  揺さぶるたび、アレイニの目から涙がこぼれた。それをすべて唇で取り除く。瞼を吸い、頬を食はみ、涎よだれで濡れた唇に重ねる。
  アレイニは目を見開いた。
  また雫が落ちてくる。手のひらで拭い取り、テオは伝えた。

 「結婚しようか」

  アレイニは目を丸くして、そのまま固まっていた。構わずささやく。

 「その――あんまり、贅沢はできなくなるかもしれないけど……今よりずっと、楽な気持ちにさせてやる。お前の抱えてるつらいこととか、悲しみとか面倒事とか。全部俺が背負うから」

 「テ……オ」
 「お前の仕事は全部俺がやる。だから」

  結婚しよう。その言葉の代わりに、テオは唇を寄せた。

  ――キス、という行為を行うのは、惑星ラトキアの全生物で、人類だけと言われている。
  ラトキア星だけではない。有史以前から、多くの星、あらゆる人種が、口づけを恋人と行ってきた。
  なかでもラトキア人は特に、それを重んじていた。

  婚約の誓い。生涯を共にする決意をした相手とだけ。
  どれだけの遊び人でも娼婦でも、それは概念として根付き、守られている。
  ラトキア人の常識だった。たとえ無学なスラム育ちの少年であったとしても。

  アレイニの戸惑いはさほど長い時間ではなかった。顎の角度を合わせ、テオのキスを受け入れる。二度、三度柔らかく合わせて、やがて深く重ねた。

  アレイニの唾液を啜り、熱い吐息を共有する。
  全く初めての感覚が訪れた。
  テオは理解した。

  ――彼女は、自分の子供を生むひとだと。

 「アレイニ……!」

  濡れた体を抱きしめる。力の加減ができなかった。思い切り抱きすくめて、全力をそのままぶつける。結婚しよう、と、テオは二度口にした。アレイニは返答をしなかった。

  ただ手足をテオに絡め、彼の全身を拘束した。
  彼のすべてを受け入れ、取り込もうとする。それが答えであった。

  言葉が出なくなったテオに、アレイニは言う。なんの迷いもない声で。

 「私を孕ませてちょうだい」

  テオは彼女に従った。



  騎士の仕事は、意外と自由がきく。任務は騎士それぞれで全く違うし、結果さえ出せば――あるいは取り急ぎ求められるものがなければ、どこで昼寝をしていても不問だ。
  だが出勤時間は遵守が絶対。

  夜勤の出勤時間を盛大に遅刻してやってきたテオは、とりあえずシェノクにどやされて、騎士団長執務室に突き出された。

  仮眠明けで歯を磨きながら、クーガはぼんやり報告を聞く。歯を磨きながらでも、ちゃんと聞いている。
  鉄面皮の騎士団長は、決して物のわからぬ冷血漢ではなかった。

 「……処罰をどうするかは、理由によるな。情状酌量はするぞ。どうして遅れた。なにをやっていた?」

  テオは即答した。

 「結婚してました」

 「……ティオドール、ヒストリア星への出向は来週だったかな」

 「はい」

 「それまで毎日、勤務のあと騎士団寮中の便所掃除で」

 「了解ですっ!」

  快活すぎる返事に、シェノクが背中を肘で突いてくる。それでもテオは笑顔のまま、嘘でも顔つきを強張らせることが出来なかった。


  眠い目をこすりながら、王都の見回りに従事する。

  時間を忘れ、仮眠すら取らずにいたのはさすがに失敗だったと反省はした。だがなにも後悔はなかった。気だるい眠気が幸福感となって全身を纏って離れない。

  それは今夜だけで終わらない。
  残業と、そして出向とでしばらくは離ればなれになってしまうが、その先には最高の未来が広がっている。

  それが正解だと確信していた。これが己の結論。二人の行く末。
  ティオドールとアレイニの、幸福な結末だと信じられた。



  ――それにしても、やけに冷える夜だった。
  眠っているところを置いて出てきてしまった、近い日の妻を思いやる。風邪などひかぬよう、いますぐ毛布でくるみにいきたくなる。

  テオは一度、夜空を見上げ、また視線を戻して――ん? と小さく声を漏らした。

  王都を取り囲む高い壁、その外の世界へつながる門のそばである。ガラガラ、と、耳慣れない音がしたのだ。

  夜闇にむかって目を凝らす。

 「おお? 珍しい。馬車か」

  思わず楽しげな声を上げた。馬、と呼ばれるその生き物は、王都ではめったに見れるものではない。星帝と修道院だけが所有し、年に数えるほどの儀式に見られるだけだ。
  ガラガラ、という音は、舗装道路を木製の車輪で走っているからだろう。人が歩くより少し速いほどの速度で、黒塗りの馬車は穏やかに、王都を縦断していた。

  テオは見回りという業務上、その馬車を呼びとめようとし、すぐにやめた。馬車を手に入れられるのは、このラトキア有数の権力者だけである。真夜中という時間帯はともかくとして、大通りを堂々と進んでいるのだから不法なものではないだろう。

  それになにか、気が進まない。

  夜の王都を進む闇色の馬車。それは厳かで、死神を彷彿とさせるほど不気味でもあった。

  テオは道の端に避けた。
  礼のつもりだろうか。馬の頭上に掲げられたランタンが、一度やけに大きく揺れる。
  そうして馬車はテオの前を横切って、大通りをまっすぐ進んでいった。
  教会ならば別方向だ。この通りは帝都にしか行きつかない。

  ――きっと宮殿か、でなければ騎士団長の客だろう。

  そのように考えて、テオは馬車を見送った。

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