ラトキア騎士団悲恋譚

とびらの

アレイニとキリコ②

 
 茫然とするアレイニに構わず、キリコはマイクに向かって身を屈めた。
 被験体に報告を求める。

「私の言葉はすべて聞こえ、すべて理解できる? いまから読み上げる数字を聞き、覚えて復唱しなさい。765123489」
「765123489」

 あちらもマイクに向かって返す。キリコは頷き、さらに問いかける。

「末端四肢の活動を確認する。十指を右親指から順に番号を打ち、私が読み上げる数字に合う指を折り曲げなさい。3。6。9。……続いて足。……では、ベッドから降りて、片手をついたまま二度屈伸を。……平気だね? 何か違和感はあるかい」
「左耳が少し、聞こえづらい気がする」
「耳鳴りはあるかい。鼻の痛み。吐き気。めまい」
「ない。ない。ない。ない」
「では汗が耳穴に入ったかな? シャワーを浴びておいで。このあとまた毒耐性の投薬をするから、翌朝まで眠れるよう、さっぱりしてくるといいよ。シャンプーはこの間君がいい匂いだと言ったものを入れておいた」
「ありがとう」

 なんとも淡々とした会話だ。

 少年は乱れた療養着を合わせ直すと、実験室のさらに奥へと進んでいく。カメラの視野からは外れているが、こういった施設には機材洗浄用の水道がついているはずだ。人が使うこともできなくはないが、断じて風呂ではない。

 彼の姿が消え、キリコは書類を片手にフームと呻く。

「やはり、何度やっても雄体ホルモンは分泌されないなあ……ちゃんとホンモノと同じ電気信号を送り込んでるはずなんだけど、脳が騙されてくれない。興奮するまでで止まってしまう。やっぱり肉体的な刺激が必要なのかな。これでは劇的な雄体化促進は望めない……」

 早口で並べ立て、書類の角をそろえもせずデスクに投げた。そして、今度は冷蔵庫へ向かい、飲み物を取り出す。三つのカップに三種類、黒、黄色、ピンク色の液体が溜まる。

(どれが私のものかしら)

 アレイニはそんなことを考えた。が、キリコは入れたばかりのコーヒーを一瞬で飲み干すと、二つのカップを持って、実験室のほうへ向かっていく。
 二つとも、少年のものだったらしい。

 そこで、アレイニはハッと我に返った。
 扉の前に立ちふさがり、キリコの進路を阻む。

「ちょっと! キリコ博士、なんですか、今のは! あ、あなたはいったい何の実験を……子供相手に、なんということを!」
「うるさいね。私は声の大きい女は嫌いだ」

 きっぱり宣言され、アレイニの喉が痙攣する。キリコの瞳はなんら色を変えていなかった。冷静な口調もそのままに、実に面倒くさそうに、言い聞かせてくる。

「体を壊すようなヘマはしない。毒液だって、ちゃんと死なないように分量を計算し尽くしている。私が信用できないなら追い出すよ」
「毒……毒ですって? あ、あなたのやっていることは、児童への虐待……いや、そもそも、ラトキアでは人体実験は禁止されています。犯罪だわ!」

「おまえは馬鹿なのか? 本人の同意を得ていると言っただろう。十五歳未満の児童は法律上、親の所有物。つまり本人とは彼の実両親と、身近な軍人である姉だ。すなわちラトキア軍総司令間であるオストワルド将軍とその伴侶、ラトキア星帝に許可を受けてるんだよ。『クーガ当人がヨシとする限り』という約束で。それももう、あれが十六になったので関係ないがね。
  ……ああ、そうだ、なにか手伝いがしたいと言っていたね? ひとつ雑用を頼むよ。
  いま、毒耐性をつけるために飲ませているこの薬液、味がずいぶん悪いらしくてね。成分を変えず、かつ彼がおいしく飲めるよう化合したいんだ。王都の売店でジュースを買ってきてくれ。カフェインとペクチンの入っていない奴をお願いね――ええと、おまえ、名前はなんだったかな」

「な……なん……なにを……」
「まあいいや、よろしく頼む。ちなみに彼は桃味が好きだよ」

 アレイニの横をすり抜けて、キリコは実験室へ進んでいった。

 アレイニはしばし、その場に立ち尽くし――キリコの背中越しに、少年の姿を見た。

 美しい少年だった。モニター越しではただ端正だとしか感じなかったが、滴に濡れた白い肌は、輝いてすら見えるほどに艶がある。漆黒の髪に群青の瞳。一見細身の体は驚くほど筋肉質で、全身いたるところすべて、しなやかな丸みを帯びている。
  よく研がれた刃のようだった。

(……なんて、綺麗な男の子……)

 アレイニは雌雄同体だ。男性の体は、自分自身を含め、同級生、そして恋人たちでそれなりに見慣れたものである。
 だがこれほどに美しい男の裸体は、かつて一度も見たことがない――

(……男の裸体?)

 自分の思考に、凍り付く。

「ご、ごめんなさい!」

 大きな声を上げてしまい、またキリコに睨まれるはめになった。

 初対面の異性に全裸を晒した少年は、無言で療養着を羽織る。
 顔色一つ変えないで、水分補給と、そして毒液をどうということもない様子で飲み干した。

 そのまま少年は眠りにつき、キリコはその観察に夢中になる。結局手持ちぶさたになったアレイニは、言われたお使いに出ることにした。もちろんキリコから引き止められることもなく。

 ぶらぶら、建物外周を歩いて回る。はあと嘆息。

「二週間……長いなあ」

 思わず、そんなつぶやきも漏れ出した。

 来月、学校を正式に卒業すれば、正規所員としてラボに入る予定であった。
 いや、予定ではない、決定している。

 ――学院始まって以来の秀才。それでいてあの美しさときたら――才色兼備とはまさにこのこと――

 そうもてはやされて、謙遜に首を振っていた昨日までがひどく虚しい。

 心地よい日陰を求めてふらふら歩き、やがて、兵舎の壁にもたれかかった。そのまましゃがみ込む。抱えた膝に顔を埋めた。
 もう一度嘆息。

「私……ここで働いていけるのかしら」

 意気揚々と乗り込んできたはずなのに、もう、辞めてしまいたい気持ちでいっぱいになる。憧れのキリコ博士との『再会』で、こんなにつれなくされるとは思ってもみなかった。もちろん最初から即戦力になれるなんて、思ってもみなかったけども――

「二十二歳の新卒相手にあの言いぐさはないでしょう。もうちょっと、思いやりのある方だと思っていたわ」

 恨み言は、止めどなくこぼれてきそうだった。


 と――
 ふと、人の気配を感じ、アレイニは顔を上げた。
 いったいいつの間に寄ってきたのだろう、座り込んだ自分の隣に、似たような姿勢をした少年がそこにいた。

(……赤い髪!)

 アレイニは反射的に身構えた。

 年はまだ十二ほどか。やはり薄汚れてはいるが、鮮やかな朱金色の髪をしていた。鋭さのある目は金色。どちらも下町スラムの民――かつては奴隷階級とされ、身分差別の廃止された今なお、劣悪な環境と人間性に生まれ育ったことを表している。

 うっかりしていた。どうやら一般兵棟の方までフラフラと来てしまったらしい。
 研究所は当然、優秀な人材、すなわち青い髪の民で占められている。しかし一般兵には下町からの徴兵もあった。使い捨ての駒となる彼らは当然、傭兵崩れや、ほかの仕事から落ちた人夫が多い。
 そんな連中の巣窟に雌体が入り込んだら最後、あっという間に物陰に引きずり込まれるに違いないと、学部で噂をしていたのに――

 アレイニは座り込んだままたじろいで、少年を見つめた。

 まだ子供――されど男。
 日に焼けた肩はえらく細いが、しっかり筋張った男の腕だった。その、握り込んだ拳が掲げられる。その堅そうなこと! 目の前に突き付けられた拳に、アレイニは目をつぶった。

 鼻先に、なにか、甘ったるいにおいがする。
 アレイニは目を開けた。

「……飴?」

 少年がこちらに手のひらを開いて、差しだしている。

「ん。やる」

 歪めた口元に、八重歯が覗く。金色の目をきらきらさせ、彼はアレイニの顔をのぞき込んで、笑っていた。
 おそるおそる――キャンディと少年とを見比べる。少年は案外辛抱強く、そのままの姿勢でアレイニがキャンディを取るのを待っていた。

「ティオドール! 列から離れるな!」

 遠くから怒号が飛んだ。兵舎の中庭で訓練中だったらしい。やはり彼は少年兵なのだろう、教官に怒鳴られても首をすくめることもなく、怒鳴って返した。

「でも、きょーかん、女が泣いてるんだよ」

 えっ、と声が出る。

 ティオドール――密林の王と呼ばれる猛獣の名を持つ痩せっぽちの少年は、態度の横柄さだけは一人前だった。さらに呼ばれても動かない。アレイニは慌てて立ち上がった。

「大丈夫、泣いてませんから。ボクも訓練に戻りなさい」

 少年は、上官の怒号よりも『ボク』と呼ばれたことに気を損ねたらしかった。口をへの字に歪めて胸を張った。

「なめんなよ。今はまだ、母ちゃんからもテオって呼ばれてるけど、俺は将来騎士にまでなるんだからな」
「『テオ(虎ちゃん)』?」

 思わず笑い声が出る。そのように名前を略して呼ぶのは、通常十歳以下の子供に限ったことである。
 幼名で可愛がられている分際で、ラトキア国家の誉れである騎士になるという少年。それは、赤い髪であることよりもずっと身分不相応の、夢物語であるように思えた。

 くすくす笑うアレイニに、少年は何か、満足したらしい。底抜けに明るい笑顔を見せると、隊へと駆け戻っていく。
 肩越しにポイとキャンディを投げよこして。

「じゃーなおねーちゃん! おっぱいが重すぎてつらいからって泣いてんじゃねーぞ」
「なっ――そんな理由で泣いてたんじゃないわ!」

 絶叫するアレイニに、遠くからワハハと笑い声。そして教官に殴り倒され、はいつくばったまま説教をされていた。

 変な子、と口の中で呟いて、アレイニは背を向けた。手のひらを開いて見やる。
 思わず受け取ってしまったキャンディは包み紙が乱れ、中身が少し露出していた。少年の汚れた衣服と、砂だらけの手を思い出す。

 ずいぶん大切にポケットに忍ばせていたのだろう。子供の体温で表面がすこし、溶けていた。

(……慰めようとしてくれたのね。いろいろ誤解されたみたいだけど、優しい子)


「ありがとう、ごめんね」

 アレイニは道中のゴミ箱に、キャンディを落とした。

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