わがまま娘はやんごとない!~年下の天才少女と謎を解いてたら、いつの間にか囲われてたんですけど~
十一話「己を奮い立たせましょう」中
平間が熊に視線を移すと、その目はギラリと輝き、四肢には野性の力が満ちていた。
まさに駆け出そうとしているところだ。
やはり好奇心で付いてきているのではなかった、機会を狙っていたのだと平間は確信する。
「沙和さん、後ろです!」
平間がそう叫ぶのと、熊が走り出すのは同時だった。
沙和は今、丸腰だ。
そのことに気付いた平間は、とっさに懐の短刀を沙和に放り投げる。
「これで、鼻を狙ってください!」
「なんで鼻なのよ!? ああもう、こうなったら気合だ!!」
短刀を受け取った沙和は素早い動作でそれを一気に抜くと、でたらめに振り回した。
平間の「鼻を狙え」という注進は、完全に無視されている。
しかし幸い、熊は沙和の不利回す短刀に怯み、速度を落とした。
そこへ、それはほんの偶然に、繰り返される沙和の無秩序な斬撃の一つが、熊の鼻先をかすめた。
その深さは、一寸(三センチメートル)の半分にも満たない程度だろう。
だが、それで十分だった。
一般に熊の鼻先の触覚は、犬の嗅覚や兎の聴覚などのように、特に鋭敏だとされる。
そして、かの若い熊も他の個体同様に、野生の世界では圧倒的に強い。
それゆえ、今まで鼻先に傷を負ったことなど無かったのだろう。きっと沙和のつけた刀傷は、この熊にとっては初めての顔面への傷だ。
生まれ持った感覚の鋭さと、未知の痛覚への恐怖感。
その二つが合わさって、一瞬だが熊をたじろがせ、後退を誘った。
結果、この熊の至った場所は、これも偶然にも、平間のいる位置の真下だった。
「今だ、今しかない」
平間はそう自分に言い聞かせると、カレヤギを下に向け、竹棒に括り付けておいたタスキに片足をかける。
そして意を決し、跳んだ。
内臓をふわりと浮かすこそばゆい感覚が、平間を襲う。
そんな浮遊感を楽しむ間もなく、眼下の枯茶色の獣がぐんぐん近付いてくる。が、平間の頭は意外にも冷静だった。
熊の背にカレヤギの鉄球部分が触れるところで、平間はタスキにかけた方の足に、思いっきり力を込める。
短いながらも太く、鋭い五本の鋼が、大型獣特有の硬い体毛を抜け、分厚い表皮と、その下の真皮を切り裂いた。先端は背筋に達したあたりか。
「やったか……?」
平間の呟きの後、しばしの静寂が勝未の森に訪れる。
その静粛を、猛烈な咆哮が吹き飛ばした。
カレヤギを背中に突き立てられた熊がうねるように震える。
周囲の木々を軒並みざわつかせるように猛々(たけだけ)しく吼えるその姿は、この巨躯の獣が森の王者であることを知らしめるに十分なものだった。
「やっぱりダメだ! 壱子、全然効いてなさそうに見えるんだけど!?」
叫ぶように言う平間を振り落とさんとするように、熊はその身を大きく揺らした。
やはりカレヤギは、熊には効かないのか。
そもそも、あの歯が短すぎる。あの長さでは熊の分厚い皮を破って内臓を傷つけることが出来ないし、それゆえ五本も付いている意味など無い。
頭に刺されば脳にまで至ることが出来たかもしれないが、今となってはもう遅い。
完全に失敗だ。
平間は、自分の顔から血の気が引くのを感じた。
こんな感覚が、こうもハッキリと分かるものなのか。
「早まるな平間!」
そう言うのは、ようやく立ち上がれたらしい壱子だった。
傍らには、抜き身の短刀を持ってオロオロする沙和の姿もある。
何やら小さな紙片を手にしている壱子が、さらに声を張り上げた。
「良いか、そのままじゃ! そのままカレヤギの柄を絶対に離してはならぬ!」
「離すなって言われても、どうして!」
「どうしてもじゃ!」
壱子がそういう一方で、熊はなおも平間を振り落とさんと二足で立ち上がり、一層激しく身体をゆする。
その遠心力で飛ばされそうになりながらも、平間は壱子の言うとおり、なんとかカレヤギの柄にしがみ付いていた。
返しの付いた刃の構造ゆえか、カレヤギが抜けることは無さそうだったが、それでも平間には手を離さずにいるのが精一杯だ。
平間が延々と振り回される、そんな状態がしばらく続いたが、その均衡もついに破れた。
熊が一層強く身をよじったその時、柄の接合部から粗いヤスリの削れるような音が響いたかと思うと、平間が必死で掴んでいたカレヤギの柄は、根元からスッポリ抜けてしまったのだ。
「うっそだろ!?」
さっきは「よく出来ている」と言ったが、前言撤回だ。
と内心で毒づいた瞬間、平間は背中から木の幹に叩きつけられる。
肺腑から空気が無理やり押し出され、その一瞬後に、後頭部に衝撃が走る。
彼の脳の間に火花が弾けた。
「痛つつ……」
うずくまる平間の顔に、森の冷気に混ざって、暖かく湿った風が当たった。
まさか、と思い、平間が霞む目を恐る恐る開くと、目の前には低く唸り声をあげる熊の、大きな顔があった。
平間に覆いかぶさった熊は、背の傷の恨みを晴らそうとしているのか、その目を爛々とした怒りの色で輝かせていた。
「あー、こりゃ詰んだかな」
そう呟くと、平間は諦観じみた笑いを浮かべる。
「いや、詰んでおらぬ。それで良い」
平間の緊迫した状況とは対照的に、鷹揚に言う声の主は壱子だ。
良いわけ無いだろ、どう見ても詰んでいるじゃないか。
そう言い返そうとしたとき、平間にのしかかる熊の身体の中で、何かが爆ぜた。
何かの焦げた臭いが、あたりに漂う。
熊は口から焦げた煙を吐くと、平間の上にバッタリと崩れ落ち、そして動かなくなった。
「……え?」
突然の出来事に、平間は熊の下敷きになりながら絶句する。
何が起きた? この臭いは一体……あと重い。
様々に乱雑な思考が平間の頭を交錯する。
「怪我は無いか、平間!」
いつの間にか近くにいた壱子が平間の顔を覗き込み、心配そうに言った。
「無いと思う。頭をぶつけたけど……それより重い。こいつをどけてくれ」
「分かった、すぐにどけるから待っておれ。沙和、手伝ってくれ」
「了解!」
平間の体重の三倍はあろうかという巨体を、壱子と沙和で押しのけて、ようやく平間は解放された。
しばらくぶりの新鮮な空気を堪能した平間は、熊の身体に耳を当てている壱子に、脳裏で渦巻く疑問をぶつけた。
「なあ壱子、あの熊は……死んでいるのか?」
「うむ、心音が聞こえぬから、おそらくは」
「でも、どうして急に……」
「それは、ほれ、あの鉄球のおかげじゃな」
「鉄球?」
平間が壱子の指す方に視線をやると、その先には熊の背に突き刺さったままの半球が見えた。
抜けてしまったカレヤギの先端部。鉄で出来ていて、爪のような刃が付いていた、あの半球だ。
「どうしてこれが……あっつ!」
不思議に思った平間が鉄球に手を触れると、その予想外の熱さに悲鳴を上げる。
焼け石のように熱された鉄球は、柄の挿さっていた穴から白煙を上げていた。
まさに駆け出そうとしているところだ。
やはり好奇心で付いてきているのではなかった、機会を狙っていたのだと平間は確信する。
「沙和さん、後ろです!」
平間がそう叫ぶのと、熊が走り出すのは同時だった。
沙和は今、丸腰だ。
そのことに気付いた平間は、とっさに懐の短刀を沙和に放り投げる。
「これで、鼻を狙ってください!」
「なんで鼻なのよ!? ああもう、こうなったら気合だ!!」
短刀を受け取った沙和は素早い動作でそれを一気に抜くと、でたらめに振り回した。
平間の「鼻を狙え」という注進は、完全に無視されている。
しかし幸い、熊は沙和の不利回す短刀に怯み、速度を落とした。
そこへ、それはほんの偶然に、繰り返される沙和の無秩序な斬撃の一つが、熊の鼻先をかすめた。
その深さは、一寸(三センチメートル)の半分にも満たない程度だろう。
だが、それで十分だった。
一般に熊の鼻先の触覚は、犬の嗅覚や兎の聴覚などのように、特に鋭敏だとされる。
そして、かの若い熊も他の個体同様に、野生の世界では圧倒的に強い。
それゆえ、今まで鼻先に傷を負ったことなど無かったのだろう。きっと沙和のつけた刀傷は、この熊にとっては初めての顔面への傷だ。
生まれ持った感覚の鋭さと、未知の痛覚への恐怖感。
その二つが合わさって、一瞬だが熊をたじろがせ、後退を誘った。
結果、この熊の至った場所は、これも偶然にも、平間のいる位置の真下だった。
「今だ、今しかない」
平間はそう自分に言い聞かせると、カレヤギを下に向け、竹棒に括り付けておいたタスキに片足をかける。
そして意を決し、跳んだ。
内臓をふわりと浮かすこそばゆい感覚が、平間を襲う。
そんな浮遊感を楽しむ間もなく、眼下の枯茶色の獣がぐんぐん近付いてくる。が、平間の頭は意外にも冷静だった。
熊の背にカレヤギの鉄球部分が触れるところで、平間はタスキにかけた方の足に、思いっきり力を込める。
短いながらも太く、鋭い五本の鋼が、大型獣特有の硬い体毛を抜け、分厚い表皮と、その下の真皮を切り裂いた。先端は背筋に達したあたりか。
「やったか……?」
平間の呟きの後、しばしの静寂が勝未の森に訪れる。
その静粛を、猛烈な咆哮が吹き飛ばした。
カレヤギを背中に突き立てられた熊がうねるように震える。
周囲の木々を軒並みざわつかせるように猛々(たけだけ)しく吼えるその姿は、この巨躯の獣が森の王者であることを知らしめるに十分なものだった。
「やっぱりダメだ! 壱子、全然効いてなさそうに見えるんだけど!?」
叫ぶように言う平間を振り落とさんとするように、熊はその身を大きく揺らした。
やはりカレヤギは、熊には効かないのか。
そもそも、あの歯が短すぎる。あの長さでは熊の分厚い皮を破って内臓を傷つけることが出来ないし、それゆえ五本も付いている意味など無い。
頭に刺されば脳にまで至ることが出来たかもしれないが、今となってはもう遅い。
完全に失敗だ。
平間は、自分の顔から血の気が引くのを感じた。
こんな感覚が、こうもハッキリと分かるものなのか。
「早まるな平間!」
そう言うのは、ようやく立ち上がれたらしい壱子だった。
傍らには、抜き身の短刀を持ってオロオロする沙和の姿もある。
何やら小さな紙片を手にしている壱子が、さらに声を張り上げた。
「良いか、そのままじゃ! そのままカレヤギの柄を絶対に離してはならぬ!」
「離すなって言われても、どうして!」
「どうしてもじゃ!」
壱子がそういう一方で、熊はなおも平間を振り落とさんと二足で立ち上がり、一層激しく身体をゆする。
その遠心力で飛ばされそうになりながらも、平間は壱子の言うとおり、なんとかカレヤギの柄にしがみ付いていた。
返しの付いた刃の構造ゆえか、カレヤギが抜けることは無さそうだったが、それでも平間には手を離さずにいるのが精一杯だ。
平間が延々と振り回される、そんな状態がしばらく続いたが、その均衡もついに破れた。
熊が一層強く身をよじったその時、柄の接合部から粗いヤスリの削れるような音が響いたかと思うと、平間が必死で掴んでいたカレヤギの柄は、根元からスッポリ抜けてしまったのだ。
「うっそだろ!?」
さっきは「よく出来ている」と言ったが、前言撤回だ。
と内心で毒づいた瞬間、平間は背中から木の幹に叩きつけられる。
肺腑から空気が無理やり押し出され、その一瞬後に、後頭部に衝撃が走る。
彼の脳の間に火花が弾けた。
「痛つつ……」
うずくまる平間の顔に、森の冷気に混ざって、暖かく湿った風が当たった。
まさか、と思い、平間が霞む目を恐る恐る開くと、目の前には低く唸り声をあげる熊の、大きな顔があった。
平間に覆いかぶさった熊は、背の傷の恨みを晴らそうとしているのか、その目を爛々とした怒りの色で輝かせていた。
「あー、こりゃ詰んだかな」
そう呟くと、平間は諦観じみた笑いを浮かべる。
「いや、詰んでおらぬ。それで良い」
平間の緊迫した状況とは対照的に、鷹揚に言う声の主は壱子だ。
良いわけ無いだろ、どう見ても詰んでいるじゃないか。
そう言い返そうとしたとき、平間にのしかかる熊の身体の中で、何かが爆ぜた。
何かの焦げた臭いが、あたりに漂う。
熊は口から焦げた煙を吐くと、平間の上にバッタリと崩れ落ち、そして動かなくなった。
「……え?」
突然の出来事に、平間は熊の下敷きになりながら絶句する。
何が起きた? この臭いは一体……あと重い。
様々に乱雑な思考が平間の頭を交錯する。
「怪我は無いか、平間!」
いつの間にか近くにいた壱子が平間の顔を覗き込み、心配そうに言った。
「無いと思う。頭をぶつけたけど……それより重い。こいつをどけてくれ」
「分かった、すぐにどけるから待っておれ。沙和、手伝ってくれ」
「了解!」
平間の体重の三倍はあろうかという巨体を、壱子と沙和で押しのけて、ようやく平間は解放された。
しばらくぶりの新鮮な空気を堪能した平間は、熊の身体に耳を当てている壱子に、脳裏で渦巻く疑問をぶつけた。
「なあ壱子、あの熊は……死んでいるのか?」
「うむ、心音が聞こえぬから、おそらくは」
「でも、どうして急に……」
「それは、ほれ、あの鉄球のおかげじゃな」
「鉄球?」
平間が壱子の指す方に視線をやると、その先には熊の背に突き刺さったままの半球が見えた。
抜けてしまったカレヤギの先端部。鉄で出来ていて、爪のような刃が付いていた、あの半球だ。
「どうしてこれが……あっつ!」
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